第1話

文字数 1,996文字

 スクラップをかき集めて造りあげた、辛うじて軽飛行機と呼べる代物が、本当に飛んでくれるとは。狭苦しい操縦席に座る少年は、プロペラのやかましい音と、太鼓のように脈打つ鼓動を、全身に感じていた。ひしゃげるような金属音がする。いつ墜落してもおかしくない。
 操縦桿を握りつつ、少年はゴーグル越しに地上を見下ろした。眼下の景色――荒廃した灰色の街並みが、みるみる遠ざかる。
 資源の枯渇やら疫病やら戦争やらで、廃れきった世界から離れていく。その実感が少年の強張った身体をほぐしてくれた。
 少年は顔を上げ、前方の空に目を向けた。漂う雲に交じって、丸い物体が浮かんでいる。まだ拳くらいのサイズにしか見えないが、近づくにつれ、大きさを増していく。それは直径が5キロメートルもあるらしい。
 少年が目指すのは、その丸い物体。
『ウエの楽園』と呼ばれているそれは、この世界に存在する、ユートピア。この星の周囲を優雅に浮遊している。壊れた地上を、悠々と見下すようにして。
『ウエの楽園』は具体的にどのような場所なのか、だれも知らない。永久機関が生み出され、その恩恵を受けて、選ばれたわずかな人々だけが、幸福に過ごしているという。
 少年はその楽園で暮らすのを夢見ている――わけではない。乗り込もうとすると、一瞬で焼かれてしまう。そういう前例がある。
 ただ、近づくことは許されている。そして、写真を撮ることも問題ない。

 巨大な球体まで数キロの位置まできた。『ウエの楽園』は、底の部分、全体の三分の一くらいが黒い鉄のようなものでできている。それ以外の箇所は、淡く白色に輝く透明な膜で包まれている。いつか見た、スノウドームという玩具に似ていた。
 少年は首から提げた、ポラロイドカメラを確かめる。骨董品だが、露天商のジジイにとんでもなく吹っかけられて、一週間の食料が消えた。
 それでも、ちゃんと使えるカメラが必要だったのだ。
『ウエの楽園』に接近し、そこに住む人々の姿を写真におさめる。その写真が、地上では異様な価値を持つ。写真一枚でも、数年暮らせるだけのカネで買い取ってもらえる。十枚もあれば、一生平穏に暮らせるだけの財産を得られる……らしい。
 一握りの豆をめぐって人が死ぬこともある地上で、楽園の住人を写しただけの写真が、なぜそれだけの価値を持つのか。遥か上空に浮かぶ楽園に、ガラクタしかない地上から近づくこと自体が無謀であるから、という理由もあるだろう。
 それにしたって、いい暮らしをしている人々の姿を写しただけの、たかが写真だ。
 周りの大人たちは、そんな少年の言葉を聞いて、憐れむような、羨むような、なんとも微妙な表情を浮かべる。「まだ子供だ」「鈍感なんだ」「幸せなんだ」
 鈍感ってどういう意味だ? 幸せなもんか。
『ウエの楽園』には、なにがあるっていうんだ?
 少年は高度を上げる。軽飛行機の至るところから悲痛な音が鳴り響く。少年の瘦せ細った身体が震えている。気を失いそうになり、意識を保つために唇を噛んだ。
 舌に生暖かさと、鉄の味を感じながら、少年はようやく『ウエの楽園』を見渡せる位置まで上昇した。まだ死ぬな。ここまで来たんだ。
 震える両手でカメラを構えた。
 そして、楽園で暮らす人々の写真を撮った。
 ファインダー越しに捉えたのは、異様で、理解しがたい光景だった。
 なにもないところに倒れて地面をなめている女性がいる。
 簡素な服を着たふたりの男性が、殴り合ってだらだらと血を流している。
 緑の豊かな巨木の枝で、全裸の男が首を吊ってジタバタしている。
 その他、何百人。
 だれもが楽園にふさわしい笑顔で、同時に、楽園にふさわしくない涙を流していた。

 少年は十数枚の写真を撮り、地上に不時着した。朦朧としていると、遠くから近づいてくる人影が目に入った。ひとり、ふたり――大勢の大人たちが、走り寄ってくる。
 写真を奪われるのではないかと、少年は警戒した。が、彼らはそんなことはせず、「よく還ってきた」「怪我はない?」と気遣ってくれた。そして、物欲しそうにカメラを見た。
 噂どおり、写真は高額で引き取られた。大人たちは、我先にと争うことなく、写真を譲り合っていた。どうやら協力して資金を集めたらしい。普段の殺伐とした空気は、ない。
 なぜ、『ウエの楽園』のあんな写真に、そのような力があるのか。
 写真を目にした地上の人々は、まるで、楽園にいるかのような笑顔を浮かべた。皆、頬がほんのりと赤らんでいた。胸に手を当てて、ほう、と安堵していた。幸福そうだった。
 どうしてその写真に価値があるのか、少年はいまだに理解できていない。というのは、嘘だ。自覚したくないだけだ。本当は、ファインダーを覗いた瞬間に、苦境を忘れて、安心したということを。あんな酷い光景を目にしたのに。
 楽園で苦しむ人々を見て、喜んでいた自分は、まだ鈍感でいられるだろうか。
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