あの子

文字数 1,350文字

 こっちを向いて欲しい、と思った時に、その人が振り向いてくれるような、そんな能力。偶然と言われればその程度の不思議な力が、誤爆して、大好きなあの子に届いてしまった。ばちっ、と音が聞こえるくらいに目が合ってしまった。あっ、と声を出すと、あの子は首を傾げて微笑んだ。私はぎこちなく笑い返して、机の上の書類に視線を落とす。失礼じゃなかったかな、なんてぐるぐると考えてしまう。

 大好きと言っても、恋愛感情のそれではなかった。少なくとも、その時までは。ただロッカールームやエントランスなんかで会うと挨拶する程度。エレベーターを開けておいてくれたり、大量に買い込んだらしいチョコレートをくれたりとか、そんな程度の間柄だったので恋愛感情なんて生まれようがなかったのだ。その時までは!

 優しく微笑まれたあの瞬間。薄赤いアイシャドウが泣いた後のような美しさだった。目病み女に風邪ひき男とはよく言ったものだと思う。私の純粋な、微笑ましい感情は直ちに劣情とも呼べる煮えたぎる感情へと変わってしまった。こうなってはもう、寝ても覚めてもあの子のことを考えている。夢にまで出て来て、遅刻確定の私に、一緒に遊びに行っちゃおうか、なんて話しかけてくる始末。慌てて飛び起きると目覚ましが鳴る3時間前。二度寝して本当に遅刻しそうになる私の感情などあの子は知らないだろうな。そう虚しく思ったり、思わなかったり。煩わしい感情に振り回されて半年ほど経ったある日。あの子が会社に来なくなった。

 始めは出向でも行ったのかな、なんて考えていた。業務委託が主である我が社ではよくある事だった。これで少しは忘れられるかな、なんて思いながら1週間ほど経ったある日。業務時間にも関わらず、あの子がぼんやりと会社の廊下で立ち尽くしているのを見かけた私は、つい話しかけてしまった。チャンスと思ったとかそういう訳ではなく、ごく自然に。会社の知り合い、というていの、他愛もない話の切り出し方だった。

「久しぶりじゃない?出向?」
「あー、いえ、もう辞めるんです。今日は書類を取りにだけ来ました。」
一瞬、言葉に詰まる。あまりに突然の別れだった。彼女は何でも出来るから、色々な会社に出向しては戻ってきてを繰り返していたもので、私はてっきり、また戻ってくると思っていたのだ。
「寂しくなるなぁ」
「そうですね、寂しいです。いつもありがとうございました。たくさんお話ししてくれて」
話した記憶はほとんどなかった。本当に。朝晩の挨拶程度の間柄だったのに、個として認識されていたのだ。それがわかったのが、別れの日だなんて。
「また、どこかで」
「そうだね、またどこかで。もしかしたら私が、出向したところで会ったりなんかして」
この気持ちは悟られることなく、その最期の言葉を交わしてあの子と別れた。

 こんな事なら、もう少し話しておけばよかった。連絡先でも交換しておけば話す機会もあったかもしれない。そんなことを考えながら帰路に着く。ああでも、きっとこれまでと同じように、機会がないと話さないのだろうな。いつの日かあの子がくれたチョコレートをコンビニで買いながら、一人に宛てた気持ちがぽっかりと空いた心の中で少し泣いた。チョコを買うには暑すぎる季節の事だった。
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