一話完結

文字数 2,485文字

 ボウッと小さな音がなったら、マッチの火が一本、暗闇に浮かんでいる。その火はそよ風に触れたら消えてしまうほど脆く、右に左にゆらゆら揺れながら輝いている。その橙色が外の漆黒と溶けあう前に、机に置かれたロウソクに引っ越した。
 机から、ヒノキのような自然の匂いがする。少し湿った匂い。ロウソクの炎の周りは何もない。ただ、メラメラと元気に夜空へ向かって手を伸ばしているような火だけだ。外というものが存在しないのかもしれない。そう思わせるほど、周りを見ても、何も見えない。自分の足元すら真っ暗に覆われて、いったい自分がどこにいるのかすら、おぼつかない。ただ感じるのは、ざわざわと木々の震える声と、元気に駆けまわる風、木で作られた机、そしてロウソクのか弱い炎だけだった。
 月は隠れていた。光は届かなかった。夜空に煌めく星々は、すっかり影に身をすぼめて、天を仰いだところで、やはり待っているのは暗闇だった。一歩、このロウソクの前から姿を消したら、前も後ろも、上も下も存在しない、完全な無の世界へ誘われる。立ち尽くし、その場のロウソクだけに身を委ねた。
 ざわざわ、ざわざわ。また木々が揺れる。今度は楽しそうに踊るような快活さだった。ひらひら、何かが近づいてくる。何も見えない。音だけが、確かに風に乗って泳ぐようにして近づいてくる。ひらひら、ひらひら。やがて、ロウソクの火が捉えたのは、一葉の金色に輝くイチョウだった。
 仰向けになったり、うつ伏したり、回るようにぶらりぶらりと落ちるイチョウの葉は、やがて安息の地にたどり着いたように、ロウソクの炎に触れた。炎は、待っていましたと言わんばかりに、そのイチョウの葉を抱きしめる。暖かいハグは、イチョウの葉に熱を与える。黄金の葉っぱの端が照らされ始めた。橙色からモミジのような紅蓮へと、色を変えた。化粧をしたイチョウの旅は終わらない。ロウソクの炎との抱擁も終え、イチョウの葉はまたくるくる回りながら底へ進んでいく。端から中心へと、燃え広がる炎と共に、机の下にもぐっていった。笑い声が聞こえてくる。木々のざわめきでも、そよ風の慈悲でもない。あの一葉のイチョウから、微かな笑い声が聞こえてくる。イチョウの葉は、燃え尽きたところから少しずつ別れを告げて、火の粉となり暗闇と混ざり合った。どんどん体が蝕まれて、すっかり元の半分も無くなったのに、そのイチョウの葉は笑っていた。楽しそうに、幸せそうに、聞こえてくる喝采の声音も、やがて音が細々と消え行ってくる。燃える速度が増して、業火に包まれるように、最後のひとかけらのイチョウの葉は炎に包まれた。火の粉は線香花火のように、空へ舞ったら夜へ帰る。あっはっは、あっはっは。涙があふれるくらいの笑い方だった。地面へ落ちる、その前にイチョウは最期の体を火の鳥がこぼす鱗粉のようにキラキラと宙に残り、やがて笑い声は止んだ。
 ロウソクの火は依然として燃えている。溶けだしたロウはまだ少ない。風もすっかり止んだのか、木々は揺れることなく、静かにそこに立っていた。
 足音がどこからともなく響きだした。さくさくと、芝生を駆け回るような軽い音。音の出どころを見極めようとしても、右耳から聞こえたと思ったら、すぐに左耳へ渡るように、足音は不確かに聞こえてくる。ロウソクの火だけが唯一の明かり。自分の手のひらすら暗くてよく見えない。そんな中、草を蹴る音だけが、確かに耳に通る。さっさっさ、さくさくざく。そんな音が、一定のリズムでロウソクの元に近づいてくる。どんどん、大きな音になっていく。
 覚悟のような、諦めのような、見えない生き物に対して体を構えた。音は確かに自分の元に近づいてくる。近づけば、近づくほど、足音はより早くなった。それはまるで、獲物を捕らえる距離に詰められたから、最後のギアをあげるチーターのように、そして迷子の子どもが周りを見わたし、自分の親を見つけて嬉しそうに駆けていくように。
 景色が真っ暗で、その一切が見えない以上、自分から動くことはできなかった。たったったと、今までにない速度で近づいてくる音に、抵抗することなど、暗闇の中からだとできるはずもなかった。
 自分の足元にそいつはいた。
 頬を靴に当てて撫でるように、暖かい感触が足から伝わってくる。警戒心を保ちながらも、すぐに殺すような獰猛な生き物でないことに安堵した。がりがり、毛づくろいをするように爪でひっかいてくる。がりがり、がりがり。こそばゆい気持ちよさ。わたしはかがんで、その生き物をすくい取った。不思議と警戒心はなく、安心感だけが自分を覆っていた。
 柔らかい毛が手のひらを包む。すくって、持ち上げたその生き物はリスだった。大きくて真っ黒な目をしばたいて、わたしの顔を覗きこんでいた。するとすぐに、わたしの手から離れ、机の上に立ち、ロウソクの火の元へ、テクテクと歩き始めた。しっぽは丸まって、全身の毛は尖っているようにつんとして見えた。
 リスが炎の前にたどり着くと、くんくんとロウの匂いを嗅いで、何度かくるくると周囲を回ってから、すとんと丸まって寝そべった。暖かそうに目を細めながら、リスは炎を見つめている。それからジッと動くことなく、その場にいつづけた。
 そのリスの姿が瞳に映って、わたしはイチョウが笑った意味を悟ったような気がした。自分の体が燃え尽きて、どんどんボロボロに綻んでいったのに、楽しそうに笑っていたイチョウ。あの清く美しい瞬間。やがて暗闇に跡形もなくなるというのに、くるくると前と後ろを何度も見つめながら最後まで笑顔を絶やさず散っていった心に、わたしは激しい羨望を味わった。
 リスは目を閉じて、すやすやと腹を膨らませたり、縮ませたり、優しい呼吸をしていた。ロウソクはまだ燃えている。わたしは火に近づいた。リスの寝息だけが聞こえてくる。わたしはふぅーっと息を吹きかけた。炎は弓のように体を曲げて、折れるように色を消した。白い煙だけが、微かに目に映る。
 限りなく無に近い暗闇。音もなし。
 やがて、駆け足で遠ざかる足音だけが聞こえてきた。
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