手作りネコトンネル

文字数 1,990文字

 彼女と初めて喧嘩をしてしまった。僕の家で預かっていた彼女のネコが嘔吐を繰り返し、かなり危険な状態に陥ったからだ。これまでに毛玉を吐くことはあっても、一日に何度も吐くようなことはなかったらしい。

 僕はネコと相性が良い方ではない。昔からネコは苦手で、触ったこともほとんどない。そんな気配をネコも感じ取っていたのだろう。水や餌を与えても、懐こうとはしなかった。それどころか、鋭い爪でひっかいてきたので、ますます苦手になってしまった。

 だけど、そんなことは言い訳にならない。すべての責任は僕にある。在宅ワークが忙しすぎて、余裕がなかったこともあり、ネコにまで気が回らなかったのは確かだ。

 彼女はタクシーを呼んで、行きつけの動物病院に向かった。今はネコが無事回復するように祈るしかない。

 ナーオ。どこかでネコが鳴いた。よそのネコが迷い込んできたのだろうか? 一応、玄関の施錠を確認した。エアコンを使っているので、窓はすべて閉め切っているのだが。

 ナーオ。もう一度、聞こえた。彼女のネコとそっくりの鳴き声である。幻聴でもなさそうだ。かなり低い位置から聞こえたので、ひざまずいてネコの居場所を探ってみる。

 いつのまにか、陽が傾いて、彼女の持ち込んだペットフードや自動給餌器が西日を受けていた。その手前には、昨日つくったばかりのネコトンネルがある。

 古い浮き輪を活用したもので、大きさは直径1mほど。出入り口の切れ込みが一か所ある。ネコの遊具を調べていて、似たような商品を見かけたのだ。ネコは狭い場所が好きなので、トンネルの中を元気に走り回るらしい。もっとも、肝心のネコには気に入ってもらえなかったが。

 ナーオ。いた。トンネルに歩み寄ると、鳴き声の主らしき膨らみが動いている。そいつはトンネルの中を走り回っていた。体調不良のネコには無理なスピードなので、やはり、よそものが紛れ込んだのだろう。

 ネコトンネルの出入り口に手を伸ばし、駆けまわるネコを待ち受けた。二度失敗して、ようやく捕まえられたのだが、にわかには自分の目は信じられなかった。

 ふわふわとした手触り。ナーオという鳴き声。ネコであることは確かなようだが、手の中にいるはずのそれは、なぜか透明だったのだ。

 これは一体何だろう。まさか、幽霊なのか? 動物病院で死んでしまい、この部屋に魂だけ戻ってきたのか? なぜ彼女の家ではなく、仮住まいの僕の部屋なのだ?

 とりあえず、彼女に電話をかけてみた。しかし、応答はない。SNSも既読スルー。おそらく、ネコのことで頭がいっぱいで、僕なんかに関わっている暇はないということだろう。

 抱きかかえていた透明ネコが暴れたので、床に放してやる。すぐにネコトンネルに潜り込み、再び走りまわりはじめた。昨日はそっぽを向いていたのに、心変わりの理由は何なのだろう。

 しばらくしてスマホがメールを着信したが、それは勤務先からの催促だった。ネコ騒動のせいで忘れていたが、すでに資料提出の締め切りを過ぎている。僕はパソコンの前に腰を下ろし、資料をメールで送信した。

 気がつくと、ネコトンネルが静まり返っている。唐突に、ネコは消えていた。透明ネコだから、元から姿はなかったのだけど。

 翌日、彼女が部屋にやってきた。ペット用キャリーバッグを提げていて、中には体調を回復したネコがいた。獣医によると、大き目の昆虫を食べたらしい。僕の家にいる昆虫と言えば、一種類しか思いつけない。信じられないことをするものだ。

 ところで、ネコには妙なことが一つあった。それは僕に対する態度である。昨日までは好戦的だったのに、なぜか身体を摺り寄せて甘えてきたりする。両手で抱きかかえても平気だし、爪を立てたりもしない。

 心変わりの理由はわからない。ネコは気まぐれというし、理屈で動いていない動物なので、まぁ、そういうこともあるのだろう。

 何となく予感があったのだが、やはりネコトンネルに執着している。放っておくと、いつまでもトンネルの中を走り回っている。このようなはしゃぎっぷりは、これまで彼女にも見せたことがないらしい。

 ネコトンネルを作った本人がいうのもなんだが、何がそんなに楽しいのか、まるで理解できない。彼女がトイレに入った隙に、思いついたことを試してみた。懐中電灯を手に、出入り口からトンネルの中を覗き込んでみたのだ。

 唖然とした。そんなはずはないのに、中は明るかった。やわらかな陽射しが降り注いでいて、あたたかささえ感じた。

 そこに広がっていたのは、夢のような情景だった。一言でいえば、天国になるのだろう。あたり一面に花が咲き乱れ、優しい風とともに甘い香りが漂ってくる。

 断言できる。ネコでなくても、走りだしたくなる世界だった。その証拠に僕は、何かに突き動かされるように全力疾走をはじめていた。


                  了


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み