第1話

文字数 1,409文字

 午後の遅い時間。空は暗さを増し、ガラス越しに見降ろす通りがかりの人たちの手元がぼんやり光りはじめる。少し空間を置いた向こう側に、ガラス張りの壁とカウンターが見える。いくつか席は空いているようだ。
 少し、座ろうか。

 向こう側とこちら側の建物をつなぐ幅広の通路に入っている小さなテナントのいくつかは、店から店へとシームレスに移動できる。仕切りは無く、ドアもない。一分ほどでガラス張りの壁の内側に着いた。入口に三段のステップがあり、ここからが「店舗」の空間のようだ。
 そうか、フリー空間ではないのか。あと八分くらい、微妙なタイミングだな。

 オフホワイトに薄いグレーが混じったような色合いで統一された内装に、明るい色の木製のカウンターとガラスの壁。天井が高く、ああこの空間は好きだなと思う。
 ステップを上がってすぐの棚に目が留まった。ずっと探していたアイテムに似ている、とりあえず値段を確認しておこう、仕切りが無いから近づくのは自由だ。

「落ち着くねー。ていうか、とりあえず座れてよかった」
「いいでしょ、ここ好きなんだよ。まあレジはビックリしたけど」
 すぐ近くのカウンターから声が聞こえる。
「飲めないのにコーヒー専門店で働くってさぁ。よく雇ってもらえたよね」
「香りは好きって言ってたからな、昔から。部活終わりにスポドリ飲みながらうんちく大会。先輩後輩巻き込んで、だんだん専門用語が増えてきたりして。その知識が生きてんだろうなー」

 好きこそものの……といったところか。好きが高じてしまう気持ちは分かる。瞬間的にがっつり知識が増えることって、ある。というか、そうか、ここはコーヒー専門店だったのか。空間が広いせいか、空調なのか、コーヒー豆の香りはほとんどしない。その代わりにコーヒー目的でない客も引き寄せることには成功しているのだけれど。

 コーヒーか。いつ頃から飲んでいたんだろう。最初はおそらくコーヒー牛乳だろう。今も変わらずミルク入りが好きだけど。ダークローストの渋みが苦手で、浅煎りの酸味が苦手で、北米のデカフェのすっきり感は好きだったけど日本のデカフェは苦めが多いし、最近はようやく軽めの中煎りで落ち着いているか。でもこういう感覚を香りだけで説明するのって難しいだろうな。いや、コレだとなったら何とでもなるものか。解説本も小説も、関連するものや引用できるものは溢れるほどあるし。味覚ではない新しい視点からの解釈が注目されることもあるかもしれない。

 そういえば友人と一緒に参加したハンドドリップ講座で、それまで聞いていたお湯の注ぎ方と正反対の方法を伝授されて混乱したことがあったっけ。おやつにコーヒーゼリーを作ったら、日本ではこどものおやつにコーヒーを出すのかとホストマザーに真剣に聞かれて説明に迷ったこともあった。それぞれの思うところは、実際に(あい)対してみないと分からないものだ。

 棚に置かれていたアイテムは、探していた種類ではあったが、少し値段がつり合わなかったので諦めた。ゆっくりレジに近づいてそっと様子をうかがってみる。ちょうど客足が途絶えたタイミングで誰もいない。踵を返し、そのままもと来た三段のステップを降りた。ほんの数分、何年分の記憶を振り返ったのだろう。

 建物の外に出た。いくつか並んだ建物が作り出す、奥まった角度に吹き込んでくる風が顔にあたる。風を避けて数メートル移動した。あと一分。今日は時間通りだろうか。
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