第1話

文字数 1,998文字

風呂場に立ち込めた蒸気と入浴剤の爽やかな香りが混ざり合って、桃源郷にいるような夢心地にさせた。
郁美にとって、バスタイムは一日のうちで最も楽しいひと時だった。
母親と一緒のお風呂は、母との時間を日常を見下ろす雲の上に築き上げた。郁美の背中や髪を洗う母の手は、女神のように優しく神々しかった。
「気持ちいい!」
それは、生まれた時、赤ん坊の時から続く、母親の庇護と依存の時間だった。
その至福の時が終わりに近付いていることに、小学2年の郁美はまだ気付かなかった。
彼女はシャンプーして濡れた髪の自分を見ようと、鏡の曇りを手で拭いた。そして、そこに映った自分の背後に、湯船に入ろうとする母の姿を見た。
その時……、郁美を襲った違和感は、彼女を思わず母の方に振り向かせた。
「そ、それ何!?」
「え?」
母親は突然の質問に、湯船に両足をつけたまま棒立ちになった。
自分に向けた娘の凝視を母親は冷静に受け止めて、波紋のように笑みを浮かべると、ゆっくりお湯に体を浸して答えた。
「ああ、これね。郁美にはないものね。……実はお母さん、宇宙人なの」

その母親の言葉は、郁美の中に彼女自身とともに育っていく種のようなな謎として植え付けられた。
宇宙人というものは、映画やドラマなど現実とは一線を画した世界に登場する存在としてしか考えられなかった。いわば、虚構の世界の架空の存在。
それが現実の要に位置する母親と結びつくというのは、本質的にあり得ないことだった。
しかし、郁美の世界に君臨する女神である母親の言葉は、軽々しく冗談の類として退けられない。結局、謎は8歳の少女である郁美の手にあまり、棚上げされた。

「わかる。うちのお母さんも変なんだよ。私が幼稚園の頃、吸血鬼みたいな牙があったの」
「それ、犬歯っていうんじゃないの」
「ううん、すごく尖ってた。絶対牙よ。今はもうないんだけど、きっと歯医者で抜いたのよ」
「私はね、物心ついてから、お母さんと一緒にお風呂に入ったことないんだ。小さい頃は、上のお姉ちゃんと。これって変?」
「えっ、お母さんとお風呂に入ったことがないっていう事?それも怪しいね」
「俺、男だからあんまりわからないけどさ、俺の母さん、髪が不自然なんだ」
「カツラなの?」
「そうじゃなくて、髪のボリュームがすごいんだ。風の強い日は必ず帽子をかぶるしさ。髪の下に何か隠してるみたいなんだ。角とか」
「角!? じゃあ、内山君のお母さん鬼なの?」
「鬼の名残かな」

郁美と数名の級友は、母親が実は人間以外の者ではないかという話題で盛り上がっていた。
小学5年になった郁美は、もう母親とお風呂に入っていなかった。4年生になった時、新しい担任の女の先生がクラス全体に「一人でお風呂に入っている人」と手を上げさせたところ、半数以上が挙手した。
その時まだ母親と入浴していた郁美は自分が幼稚なようで恥ずかしくなり、その夜「今日から一人でお風呂に入る」と宣言した。

郁美らの話をそばで聞いていた物知りの倉山恵太が、話の輪の中に入ってきた。
「母親が人間じゃないっていう話、面白いね。親って一番身近な他人だから、その謎の部分がすごく奇妙に思えるんだよ。
僕の母親は仕事してるんだけど、家にいる時と外で仕事している時とで変わるんじゃないかって気がするよ。スーパーマンみたいに。
昔話に鶴や狐が人間に化ける話があるけど、それって女のほうが多いんだよ。女のほうが魔性を感じさせるからかな。狐が女に化けて人間と結婚したり。
狐は日本では元々、神の使いとして崇められていたけど、中国の神話の影響で妖怪にされてしまって、鬼火とか謎の現象は狐のせいにして、狐火と呼ばれたりする。
で、僕は思うんだけど、狐を宇宙人に置き換えられるのではないかと。現代じゃUFOとか謎の物体と宇宙人を結びつけてるよね。だから、昔の伝承で人間に化けたのは狐ではなくて、実は宇宙人だったんじゃないかな」

郁美が母親が宇宙人だと言ったと他人に話したのは、その時が最後だった。
中学生になるともはやそれは子供の無邪気な妄想として片付けられなくなり、郁美は自分の胸にしまい込んで一人でこっそり宇宙人について調べたりした。
一方、日々の生活の中で母親は普通の人間の女性から逸脱することはなく、「尻尾を出す」ことはなかった。
高校に入ると勉強や部活で忙しくなり、小さい頃感じた母親の謎や違和感は影が薄くなっていった。

年月が経ち、郁美は結婚して一児の母親になった。
忙しい毎日の中、ふと過去からこだまのように母親の「私は実は宇宙人」という言葉が蘇った。そんな時、彼女は本棚に目をやり、一冊の本を取り出してみる。
「民話に見る狐と宇宙人の謎」
それは、民俗学者になった倉山恵太が著した著書だった。

ある夜、小学2年の娘とお風呂にはいっている時、突然娘が叫び声を上げた。
「ママ、それ何!?」
郁美は鷹揚に微笑んで答えた。
「ママは実は宇宙人なの」

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み