第1話

文字数 1,979文字

それは梅雨入りの日の事でございます。

独りの男が、
いつも通り外出の支度をしまして昼前、
自分のアパートから自転車に乗り、
見慣れたやや古い住宅地の町を行こうとしまして、
道を数十メートル走りましたところ。

一羽の白鷺が真ん中に横たわっているのでありました。

男の住む町には、
白鷺を見かけることは珍しいことではありませんでした。

町の道沿いに真っすぐ低空飛行することもありますし、
川の浅瀬で細長い脚をちゃぷちゃぷと
歩ませる姿もよく見かける風景でありました。

あるいは、
神社にある森に大勢の白鷺の集まる姿も、
町の多くの人には知れておりました。

その男にとりまして。

白鷺に出会いますと、
その大きさに少々おののくものの、
優雅に飛ぶ姿を晴れ晴れとした気分で眺めること、
親しみと憧憬を覚えている次第でありました。

ところがです。

道の真ん中に横たわる白鷺を見かけるのは
男にとって初めてのことでした。

「やや、これは一体。」

白鷺は動かず横たわっています。

男は自転車に乗ったまま近寄りましたが、
逃げる素振りなど見せません。

「死んでいるのだろうか。」

真ん丸とした目は、しかし生きているような
心持ちにもされました。

「何か事故にでも遭ったのか。」

男は悩みました。

このまま放っておくと、
車に轢かれかねない。
しかし野生の白鷺に触れるなど、
衛生的に自分の身が心配だ。

男は、
暫くその場に居ましたけれども、
やるかたなしと諦めて、
その場を立ち去ることにしました。

5,6メートル自転車を漕いで、
再び男は自転車を止めました。

「いやいや、このままほうって
 おく訳にもゆかぬ。
 生きていようが死んでいようが、
 せめて道路脇にでも寄せておきたい。」

男は決心をして、
道路脇に自転車を止めて
白鷺の所へ歩み寄りました。

そうして目の前で見ますと、
体躯がわずかに膨らんだり萎んだりしているのが
分かりました。

「呼吸をしている。生きているのだ。」

よくよく見ますと、
目もしっかり何かを見据えているようにも
感じられたのでした。

そして、
これは男にとって意外な事だったのですが、
白鷺は思っていたより小さかったのでした。

あるいは、まだ大人に満たないこと
だったのかも知れません。

ともかくも、
道の脇に電信柱があるから、そこまで持ち運べないか。

男はやや恐れながらも、
両手で白鷺の大きな羽の辺りを優しく持ってみました。

白鷺は騒ぐことはありませんでしたが、
男は、
その白い羽の柔らかいこと、
羽を通じて、その鳥の体と体温を
感じたことに驚きました。

「なんて華奢なことだろう。なんて柔らかいことなのだろう。」

と思いきや、
白鷺はおもむろに立ち上がったのでした。

然しながら、
歩くことはままならず、
その体を自身で支えるのにやっとです。

片足がやや傾いており、
今にも倒れそうな体を必死に支える白鷺。

そうしますと、
お腹の辺りでしょうか、
血がぽつりぽつりと落ちているではありませんか。

「ああ!やはり何かに遭われたのだな。」

一度手を離した男でしたが、
これはいよいよいかんと思い、
少々無理を圧してでも避難させなければと、
今一度白鷺を優しく掴みました。

持ち上げると、血が多く出てしまいそうだ。

男は、白鷺を持つだけにして、
無理強いとは思いつつ、
そのまま横へ横へと少しずつ
ずらして移動させ始めました。

白鷺は辛そう、痛そうでした。

私も心苦しいが我慢してくれ。

少しずつ道脇の電信柱に近づけてゆきます。

白鷺は脚で踏ん張ろうとするのか、
スムーズには事は運びませんでした。

ちょっとずつ。ちょっとずつ。

時間を掛けて、
その白鷺を
何とか電信柱の麓まで移すことが
できましたら、
白鷺は今一度、横たわるのでした。

男は一度、安堵しました。

いやしかし、これ以上は私には
どうすればよいか皆目分からん。

男は、自分に出来るだけのことはした、
そう思うことにして、

「(車に)轢かれたりするなよ。」

と、
その白鷺に呼び掛けて、
その場を今度こそ立ち去ったのでありました。

男は2時間ほどの外出の用事がありました。

そうして昼過ぎになりまして、
また元来た道を戻り、
白鷺の様子がどうなっているかを
確かめに来たのでした。

そうしますと、
電信柱に移しておいた白鷺は
すでにおりませんでした。

「誰かが、どうにかしたのだろうか。」

男は気になりましたが、
当の白鷺が居ない以上、
やるかたなし、家に帰りました。

私にできることはやった。
満足、安心している訳ではないが、
これ以上はできぬ。
勘弁しておくれ。

男は自分の部屋の中で
気持ちの落ち着いた頃に、
こういう場面に出くわした時は、
警察に一報入れておくのが賢明と
思ったのでした。

今度からはそうしよう。
然しながら。

傷ついた野生の白鷺が
道の真ん中で倒れている場面に
再び遭遇することは、
あり得ない事とも
思ったのでありました。

しばらくは、
男の手に、
あの白鷺の羽の触感と体温とが残っていることを、
感じている有様なのでした。

(了)
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