みんなのうわごと。

文字数 1,855文字

仕事を終えた俺は、居酒屋のカウンターで遅めの夕食を食べていた。
大型連休前の金曜日なので、居酒屋はいつもより賑やかだった。
店内は客たちのはずんだ声にあふれ、店員はせまい店内を忙しなく走りまわる。
まるで、長かった一週間の終わりをみんなで労いあっているように思えた。
俺は安堵して、タバコに火をつけた。
すると突然、隣席に座っていた初老の男が、遠くを見つめる目で誰に言うわけでなくつぶやいた。
「明日100人死ぬんだなあ…」

やぶから棒に何を言い出すのか…。俺は露骨に怪訝な顔をした。
それが真実か否かは別として、少なくともこの雰囲気の中で口に出すべき言葉ではない。
初老の男は酒の入ったコップを片手にがっくしとうつむくと、眠ってしまったのかうごかなくなった。
別に、俺が明日死ぬと言われたわけではないし、男はひどく泥酔しているのかもしれない。
所詮は他人の戯言だ。俺は気にせず、うまそうにタバコの煙をくゆらせた。

すると、カウンター内で食器を洗っていた店員の女の子が、ぽつりとつぶやいた。
「明日200人死ぬらしいよ。こわいね」
どういうことかと問いかけようとしたが、なぜだか怖さが先に立ち、やめておいた。
初老の男の発言と幾らか共通項はあるものの、俺個人とは無関係の問題かもしれない。
さわらぬ神にたたりなし。俺は灰皿のふちでタバコをもみ消した。

そこで、ちょうどおれの後ろの座敷で宴会をしていた会社員の中のひとりが言った。
「知ってる?明日300人死ぬらしいぜ」
何を?…という話だ。不謹慎にも程があるな、と思った。
それとも最近巷では、伝言ゲームが流行っているのだろうか。そうであるならこの状況の異様さにも納得がいくというものだ。
流行というのはいつの時代もくだらないものだ。俺はレジ横に置かれたテレビの画面に視線をうつした。

テレビでは討論番組が放送されていて、ゲストの一人であるタレント文化人が言った。
「明日400人死ぬみたいです。僕としてはご冥福を祈るばかりですよ」
…何だ、こいつまでこんな低劣なお遊びに興じているんだな。
以前から薄っぺらで調子のいい男だなあ…と出るたびに苛立ちをおぼえ、チャンネルを替えていた。
俺の目に狂いはなかったのだ。

夕食を食べ終えた後は、いつも通り甘いものが食べたくなった。
メニューを広げ、デザートの頁を開くと、ページの隅っこに(明日500人死にます)と、印字されていた。
何だ…こんなところにもこの流行は普及してるのか…。どいつもこいつもつまらないことに夢中だな…。

それから、小便をしたくなった俺はトイレに行った。
小便器の目線上の壁に某詩人の作品がたくさん貼られている。
その中の一つに同じ自体で(明日600人死ぬんだなあ)と、印字されていた。
ここまでくると、悪ふざけのレベルでしかないので、何となく緊張から解放された気がした。

トイレから出ると、店内の賑やかさはいっそうに増していた。
そろそろ出るか…。そこで違和感を感じた。賑やかでもこれは会話ではない。
耳をそばたてると、みな口々に「明日~人死ぬ」と、言い合っている。
900人死ぬってさ…1800人死ぬらしい…8000人死ぬんだよ…絶対に15000人死ぬ…いや、40000人だ…80000人…
みな口々に誰に言うわけでなく、何もない虚空を見つめながら、そんな妄言を吐き続けている…。
ここにきて、俺の中にあった怖さがまた、ぶり返してきた。
この店はおかしい。この店にいる連中は狂っている。

急いでレジで会計を済ますと、レシートを受け取る。小さな用紙の一番下に(明日10万人死にます)と、印字されていた。
のれんを見ると、白字に毛筆体で(いや明日20万人死にますよ)と、印字されていた。
俺は息も絶え絶えに店を出た。店の前の景色は、雑踏の行き交う、いつも通りの夜の街だった。

心中はこの居酒屋で耳にした伝言を反芻し、奇妙な危機感を感じていた。
このままでは明日死ぬ予定の人数は増え続け、明日までに日本の人口を超えてしまうのではないか。
そして、その中には当の俺自身も入っているのだろう。それだけは勘弁ならない。
全身が恐怖で縮こまるのを感じた。

矢も盾もたまらず、俺は通りすがりの若者を呼び止めると―
「あの…明日50万人死ぬって本当かな?」と訊いてみた。

若者は眉を顰めて「はあ…何すかそれ?」と言うと、鬱陶しそうに都会の雑踏に消えていった。

俺はなぜか自分だけが救われた気がして、ホッと胸をなでおろした。
きっとあの若者も、家に帰って、誰かにこう言うことだろう。
「明日100万人死ぬらしいよ」と。
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