第1話

文字数 873文字

 仕事帰り、残業で定時に帰れないときなどに時々利用する古い食堂がある。駅の近くにあり、遅くまでやっているので、仕事で遅くなったときなどは、そこで遅めの夕食をとって家に帰る。
 家族経営の店で、中年の夫婦とその子供らしい青年、老婆でまわしている。夫と青年が料理を担当し、その妻と老婆が接客を担当している。
 さほどうまいわけではないが、米が多くて、値段も安い。帰り道で、遅くまでやっている店が他にないので、よく利用している。
 残業帰り、いつものように、その店で食事をしていた。店はすいていたので、四人がけのテーブル席に一人座った。老婆はカウンター席の端に座って、テレビを見ている。客が少ないときなどは、よくこうしている。
 ふと、仕事で気になることを思い出したので、鞄から資料を取り出し確認しようとした。
 その時、テーブルの上に置いてあった醤油差しに肘が当たり、倒してしまった。陶器でできたペンギンをかたどった醤油差しである。醤油差しは転がった。
 私は、慌てて手をのばしたが、間に合わず、醤油差しはテーブルから落ちた。
 陶器製の醤油差しが床に落下する音に身構えたが、そのような音はならなかった。テーブルの下をのぞき込むと、床に落ちる手前で、空中で静止している醤油差しを見つけた。


 驚く私を無視して、醤油差しはゆっくりと、浮き上がり、テーブルに戻った。
 一体何が起きたのかと、周りを見渡すと、老婆と目が合った。
 老婆はカウンター席の端で、こちらを振り向き、手のひらを向けていた。
 老婆がやったのだろうか。念力的な何かで床に落ちかけた醤油差しをテーブルに戻した、のか。
「ど、どうも」
 と礼を言うと、老婆はにやりと笑い、再びテレビに目を向けた。
 何だったのだろうと思いながらも、店員も他の客も、何も言わないので、ただ、だまって食事をすませ、お金を払い店を出た。
 不思議な気持ちを抱きながら家に帰った。

 それからしばらくして、その店はつぶれた。シャッターが閉まっており、閉店の張り紙が貼られていた。老婆の念力を持ってしても、傾いた店は建て直せなかったようだ。

 了
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