第2話
文字数 2,582文字
財布の中の一万二千円。
これが俺に残された最後の財産。
……なんだが、さっき切符を買ったから、今は一万九千円と数百円か。
思えば冴えない人生だった。
子どものころからぽっちゃり体型なうえ、名前は只野 太志。タダノ、フトシだ。
こんなん子供にとったら格好の餌食になる。小中高と体型と名前のことで嘲笑を浴び、女子には避けられ、友だちも少なかった。
部活にも入らず友だちもいない俺の唯一の取り柄は勉強。人を嘲笑って愉しんでいるような、低俗な連中のいないところに行く。俺を嘲笑った連中、全員見返してやる。血の滲む努力の甲斐あって念願のR大学に入学し、二年からずっと希望だった都市工学部に進学した――これは俺のアイデンティティ、唯一の誇りだった――のだが、俺は今から、そのR大学に退学届を提出しに行くのだ。
なぜか?
金がないからだ。生活用の通帳も、学費用の通帳も、ゼロの字を叩き出している。今月の家賃も光熱費も携帯代も払えない。
そう、俺は無一文だ。
Side:Tadano
ああ、なんかもう、何もかもどうでもいい。
後ろでいちゃついてるカップルも、隣のやつのイヤホンから漏れてる雑音も、駅のアナウンスも、ガキの喚き声も、雲一つない晴天も、ホームに出入りする電車も、電光掲示板も、なんだか俺と違う世界のものみたいだ。
明日からどう生活しよう。つーか親には何て言おう。正直に言うか? 女に貢げるだけ貢がされて、あっさり逃げられましたって? 言えるかそんなもん。絶対言えねーよ。
学校辞めたら、親父怒るだろうな。オカン、泣くだろうな。合格通知が届いたとき、ケーキ買ってきてくれたっけ。お祝いだって。親戚にも電話で自慢してたな。じいちゃんばあちゃんから入学祝いも貰ったな。焼肉も連れて行ってもらったっけ。一族あげてのお祝いみたいになってたよな。でもしょうがねえじゃん。お金ないんだもん。通帳に入れて貰った学費、全部あの女に吸い取られたんだもん。学費払えねーのに在籍できないじゃん。だけどこんなこと誰にも言えねえ。
ああああああああああああああああ。
どうしろってんだよクソ。あああ、クソ。クソクソクソクソクソ。
せっかく頑張ったのに。俺のすべてなのに。R大学の学生証、返したくない。俺からR大取ったら、何もかもなくなっちまうじゃねえか。俺の人生全部おわっちゃうじゃねえか。ただデブで根暗で惨めなだけの俺になっちまう。何もない俺に戻っちまう。
やだよう。こわいよう。またみんなに馬鹿にされて、嘲笑されて、そんなの無理だ。そんなクソみたいな人生、終わったも同然だ。そんなの、そんなの……考えたくもない。
あの蛆虫みたいな頃に戻るくらいなら、いっそ……。
いっそ……。
「電車が来るんで、あまり前に出ると危ないですよ」
服の裾を引かれる。
振り返ると、女がいた。
すっげークルクルのショートヘア。そばかす。Tシャツとジーンズにスニーカー。
「……は?」
「足、ホームからはみ出てる」
言われて、片足の半分がホームから出ていることに気が付いた。
ピーッ。笛の音。新快速が目と鼻の先を掠めていく。
ぞっとした。
俺、今、なにを……。
「なにか考え事ですか?」
「べ、べつに……」
ああ、変だ。俺、頭が変になってる。もう家帰ろう。家帰って寝よう。退学届けは明日だ。とにかく、ここから離れるんだ。
浅く頭を下げて、ホームの階段を降りようとしたその時だった。
「飛び込むつもりだった?」
「は?」
女が、いつの間にか俺の前方に回り込んでいる。
「あなた今、死ぬつもりだったんでしょ」
ニイッと女の口角がつり上がる。
「あたし、天使なんです。だから分かるんです」
「はあ??」
何だコイツ。何言ってんだコイツ。変な女だ。関わっちゃいけない類のやつだ。
「俺、シューキョーとか興味ないんで。別の人当たってもらえます?」
女を避けて階段を降りようとしたとき、ケツポッケから財布が抜かれる気配がした。
「あら。これっぽっちしか持ってないの?」
女が俺の財布を開いている。
「おい! 返せよ、駅員呼ぶぞ!」
「返すわよ。でも、そのかわりご飯奢って」
「ハぁ???」
「じゃなけりゃ、『チカーン』って叫ぶわよ」
「なんでだよ!?」
こいつ何がしたいんだ?
わけわかんねえ。だけど財布は取り戻したい。ここはやっぱ、駅員に頼るしかない。
「駅員さ「グウ~~」
……は??
何の音だよと思ったら、女が眉を潜めて腹を摩っていた。心なしか、顔が赤い様な……。
今のって、もしかして……。
「あたしお腹減ってんの。時間は有限なんだから、早く行くわよ!」
そう言って、女は強引に俺の腕を取った。がっちり掴まれて、振りほどこうにもほどけない。どんだけ腕力強いんだよ! つーか、胸、当たってるし……!
これは新手のタカリか? 飯か。飯を食わせれば、こいつは満足してどっか行くんだな??
「飯だけだ!」
もう(、、)二度と、絵画もネックレスも壺も買わねえ。女なんかろくでもないんだ。ハンバーガーか何かテイクアウトして、財布取り戻して、とっとと帰る。しつこいなら警察に行ってやる。駅前交番は、駅の真ん前、目と鼻の先だ。
「飯は奢ってやる! だから、財布返せよ!」
「いちいち怒鳴んなくたって、分かってるわよ。それに、服装だけじゃなくて言葉遣まで汚いなんて、モテない典型って感じ」
「うるせぇよ!」
こいつ、タカリのくせになんでこんな偉そうなんだよ。
女はおもむろに、財布から俺の免許証を抜いた。目を皿のようにして、カードを見つめている。
何してんだよ。もしかして住所暗記してるとかじゃ……。
「ふ~ん。O市のK葉台っていえば、高級住宅地じゃない」
こいつ、俺の住所を確認して何をする気なんだ。何が目的なんだ。やっぱ、やばい団体の勧誘員とか……美人局とか……怖い人たちがあとから家に乗り込んでくるとかじゃないだろうな……!?
「只野 太志……。まさに名は体を表すって典型よね。あたしジンジャー。よろしくね、只野くん」
女は快活な笑みを浮かべて、俺の手を引いた。
俺は眩暈がした。
これが俺に残された最後の財産。
……なんだが、さっき切符を買ったから、今は一万九千円と数百円か。
思えば冴えない人生だった。
子どものころからぽっちゃり体型なうえ、名前は只野 太志。タダノ、フトシだ。
こんなん子供にとったら格好の餌食になる。小中高と体型と名前のことで嘲笑を浴び、女子には避けられ、友だちも少なかった。
部活にも入らず友だちもいない俺の唯一の取り柄は勉強。人を嘲笑って愉しんでいるような、低俗な連中のいないところに行く。俺を嘲笑った連中、全員見返してやる。血の滲む努力の甲斐あって念願のR大学に入学し、二年からずっと希望だった都市工学部に進学した――これは俺のアイデンティティ、唯一の誇りだった――のだが、俺は今から、そのR大学に退学届を提出しに行くのだ。
なぜか?
金がないからだ。生活用の通帳も、学費用の通帳も、ゼロの字を叩き出している。今月の家賃も光熱費も携帯代も払えない。
そう、俺は無一文だ。
Side:Tadano
ああ、なんかもう、何もかもどうでもいい。
後ろでいちゃついてるカップルも、隣のやつのイヤホンから漏れてる雑音も、駅のアナウンスも、ガキの喚き声も、雲一つない晴天も、ホームに出入りする電車も、電光掲示板も、なんだか俺と違う世界のものみたいだ。
明日からどう生活しよう。つーか親には何て言おう。正直に言うか? 女に貢げるだけ貢がされて、あっさり逃げられましたって? 言えるかそんなもん。絶対言えねーよ。
学校辞めたら、親父怒るだろうな。オカン、泣くだろうな。合格通知が届いたとき、ケーキ買ってきてくれたっけ。お祝いだって。親戚にも電話で自慢してたな。じいちゃんばあちゃんから入学祝いも貰ったな。焼肉も連れて行ってもらったっけ。一族あげてのお祝いみたいになってたよな。でもしょうがねえじゃん。お金ないんだもん。通帳に入れて貰った学費、全部あの女に吸い取られたんだもん。学費払えねーのに在籍できないじゃん。だけどこんなこと誰にも言えねえ。
ああああああああああああああああ。
どうしろってんだよクソ。あああ、クソ。クソクソクソクソクソ。
せっかく頑張ったのに。俺のすべてなのに。R大学の学生証、返したくない。俺からR大取ったら、何もかもなくなっちまうじゃねえか。俺の人生全部おわっちゃうじゃねえか。ただデブで根暗で惨めなだけの俺になっちまう。何もない俺に戻っちまう。
やだよう。こわいよう。またみんなに馬鹿にされて、嘲笑されて、そんなの無理だ。そんなクソみたいな人生、終わったも同然だ。そんなの、そんなの……考えたくもない。
あの蛆虫みたいな頃に戻るくらいなら、いっそ……。
いっそ……。
「電車が来るんで、あまり前に出ると危ないですよ」
服の裾を引かれる。
振り返ると、女がいた。
すっげークルクルのショートヘア。そばかす。Tシャツとジーンズにスニーカー。
「……は?」
「足、ホームからはみ出てる」
言われて、片足の半分がホームから出ていることに気が付いた。
ピーッ。笛の音。新快速が目と鼻の先を掠めていく。
ぞっとした。
俺、今、なにを……。
「なにか考え事ですか?」
「べ、べつに……」
ああ、変だ。俺、頭が変になってる。もう家帰ろう。家帰って寝よう。退学届けは明日だ。とにかく、ここから離れるんだ。
浅く頭を下げて、ホームの階段を降りようとしたその時だった。
「飛び込むつもりだった?」
「は?」
女が、いつの間にか俺の前方に回り込んでいる。
「あなた今、死ぬつもりだったんでしょ」
ニイッと女の口角がつり上がる。
「あたし、天使なんです。だから分かるんです」
「はあ??」
何だコイツ。何言ってんだコイツ。変な女だ。関わっちゃいけない類のやつだ。
「俺、シューキョーとか興味ないんで。別の人当たってもらえます?」
女を避けて階段を降りようとしたとき、ケツポッケから財布が抜かれる気配がした。
「あら。これっぽっちしか持ってないの?」
女が俺の財布を開いている。
「おい! 返せよ、駅員呼ぶぞ!」
「返すわよ。でも、そのかわりご飯奢って」
「ハぁ???」
「じゃなけりゃ、『チカーン』って叫ぶわよ」
「なんでだよ!?」
こいつ何がしたいんだ?
わけわかんねえ。だけど財布は取り戻したい。ここはやっぱ、駅員に頼るしかない。
「駅員さ「グウ~~」
……は??
何の音だよと思ったら、女が眉を潜めて腹を摩っていた。心なしか、顔が赤い様な……。
今のって、もしかして……。
「あたしお腹減ってんの。時間は有限なんだから、早く行くわよ!」
そう言って、女は強引に俺の腕を取った。がっちり掴まれて、振りほどこうにもほどけない。どんだけ腕力強いんだよ! つーか、胸、当たってるし……!
これは新手のタカリか? 飯か。飯を食わせれば、こいつは満足してどっか行くんだな??
「飯だけだ!」
もう(、、)二度と、絵画もネックレスも壺も買わねえ。女なんかろくでもないんだ。ハンバーガーか何かテイクアウトして、財布取り戻して、とっとと帰る。しつこいなら警察に行ってやる。駅前交番は、駅の真ん前、目と鼻の先だ。
「飯は奢ってやる! だから、財布返せよ!」
「いちいち怒鳴んなくたって、分かってるわよ。それに、服装だけじゃなくて言葉遣まで汚いなんて、モテない典型って感じ」
「うるせぇよ!」
こいつ、タカリのくせになんでこんな偉そうなんだよ。
女はおもむろに、財布から俺の免許証を抜いた。目を皿のようにして、カードを見つめている。
何してんだよ。もしかして住所暗記してるとかじゃ……。
「ふ~ん。O市のK葉台っていえば、高級住宅地じゃない」
こいつ、俺の住所を確認して何をする気なんだ。何が目的なんだ。やっぱ、やばい団体の勧誘員とか……美人局とか……怖い人たちがあとから家に乗り込んでくるとかじゃないだろうな……!?
「只野 太志……。まさに名は体を表すって典型よね。あたしジンジャー。よろしくね、只野くん」
女は快活な笑みを浮かべて、俺の手を引いた。
俺は眩暈がした。