刻の彼方より

文字数 10,826文字

 照りつける日差しは剥き出しの肩を背中を灼く。辛うじて水面に出た肌は耐え難く火照り、茫洋とした眼差しを向けた先には、赤く腫れ上がった二本の腕が力なく流木に身を委ねている。
 時折立つ微かな波は身を洗い、ささやかな清涼感を与えてはくれるが、真夏の太陽は容赦なくそれを奪い去り、後に塩の沁みる激痛を置き去りにしていく。
 いっそのこと、和邇(わに)に喰われてしまった方が楽なのではないか。ヒダトキはぼんやりと思った。
 こんなはずではなかったのだ。上手くいけば、今頃は壱岐國(いきこく)あるいは對馬國(つしまこく)に辿り着き、人に紛れて新たな暮らしを始めるべく、準備に取りかかっていたであろうに。
 弁韓(べんかん)で生まれ育った身ではあるが、倭國(わこく)を知らない訳ではない。豊富に産出される鉄鉱石を求めて、海を越えて採掘に来る倭人たちに接する機会も多い。故に倭人の言葉は充分に聞き取れるし、多少なら話すことも出来る。海さえ渡ってしまえば、何れ出自とは関係なく新天地で暮らせる。そのつもりだった。あの季節外れの嵐に、乗り込んだ舟が遭遇しさえしな ければ。
 ヒダトキの口元に力なく皮肉な笑みが浮かぶ。この状況は、舟に潜り込むために倭人を欺いたことに対する、彼らの神の罰なのだろうか。あり得ない話でもない。ヒダトキはそう思った。
 倭人の習俗では渡海の際に自ら崇める神に捧げる贄を舟に乗せる。持衰(じさい)というこの役割の者は、航海に先立ち、何度も月が満ちては欠ける間の長きにわたって生活を縛られる。肉は食してはならず、男女の情交はもとより沐浴を一切禁じられる。海人の苦を一身に背負って航海に臨む持衰は、航海が無事終われば莫大な財物を与えられる反面、舟人に病が生じたり荒天に襲われれば贄として命を捧げるのが定めである。
 髪も梳らず、虱と垢にまみれ人相もすっかり変わり果てた末に、汚れた襤褸一枚を纏わされて舟に乗せられる倭人。辰韓(しんかん)と弁韓の国境にある鉄山で奴婢の苦役から逃亡し何日も食うや食わずで忍び続け、狗邪韓國(くやかんこく)にある港湾を目指したヒダトキにとって、持衰はすり替わって舟で逃げるのには絶好の存在だった。
 船団が泊を離れる時期を見計らって、ヒダトキは倭人たちの集落の外れに佇む持衰の隔離された小屋を密かに襲った。心に決めていた通り一滴の血も流すことはしなかった。深夜寝入っている小屋の主を縛り上げ、着衣を奪って猿轡を噛せて目隠しをすると、急ぎ人目の付かぬ山中を通り、ヒダトキは隣国へと通ずる街道を目指した。目星を付けておいた生口(せいこう)の輸送隊には見張りがいたが、酒に酔っている様子で曲者の存在には気付いてはいなかった。ヒダトキは内陸に運ばれる奴隷の群れに男を置き去りにすると、そのまま泊に戻り持衰の男と成り代わってしまった。
 持衰の住まう小屋には始めかなり閉口したが、程なく馬鹿になった鼻は禽獣の糞便の如き臭いを感じなくなった。粗末な食事は、鉄山での奴婢に対する劣悪な事情に比べれば些かましな方だ。しかし、虱と蚤の不快さには最後まで慣れることはなかった。
 それでもヒダトキは自らを汚濁の中に置きながら待った。制限の厳しい生活を幸いに可能な限り倭人たちに顔は晒さず、他人と接することを避けながら出航を待ち侘びた。生かさず殺さず。落盤に遭えば助け出されることもなく見放され、動けなくなれば芥のように打ち捨てられる。生口として常に死と隣り合わせの鉱夫から逃げ出すにはこの半島を出るしかないのだ。
 小屋に籠もって数日、外の気配が俄に活気づいたのをヒダトキは感じた。小屋の柴垣壁を両手でこじ開けて隙間から覗くと、泊の海人に混じって大勢の見知らぬ男たちが薦にくるまれた荷を運んでいる。恐らく倭に送るための鉄材に違いない。
 ふと、背後に人の気配を感じてヒダトキは振り向いた。戸口に豊かな黒髭を蓄え、煌びやかな玉を首から下げた逞しい男が立っていた。海人の長である。長は入り口の外に立ち、中に入ろうとはしない。禁忌を課せられた持衰との過度の接触を避けているのだ。
「明日出航だ」
 鋭い眼光でヒダトキを睨め付けながら、黒髭の間から倭人の言葉が発せられる。
「腹を――」
 それだけ告げると、海人の長はヒダトキの返答など意に介さずといった風で踵を返すと、大股で立ち去った。
 あの時、長は何と告げたのだろう。ヒダトキは流木に預けた頭を返し、左頬を下にすると赤く木肌の跡の残る右頬を天に向けた。腹を――。茫とした頭では、何度思い起こしてもその先が浮かんでこない。
 満たしておけ、だったろうか。航海の間中は絶食を強いられる。自分はあの後最後の粗食を摂っただろうか。それとも、括っておけ、だっただろうか。括るも何も、端からそのつもりで危ない橋を渡っていたのだ。今更何を言うのか。そもそも――。
 渡海は物の見事に失敗したのだ。
 船団は港を離れ水行半日、季節外れの嵐に見舞われた。漕ぎ手の体力を鑑み、なおかつ貴重な鉄材を無事輸送するために嵐のない時期を選んでの出航だったはずだ。にも拘わらず、暴風雨と大時化は容赦なく船団に襲いかかってきた。ヒダトキにとっては全く予想だにしない出来事だった。それは海人たちにとっても同じことだっただろう。
 うねりに逆らい漕いで漕いで、漕ぎながら倭人たちは天を仰いで大声を上げた。倭人の奉じる神に向けられた祈りの声は宙に響き渡ることはなく、雷鳴と大風にただ虚しく掻き消され続けた。
 海人たちは懸命に櫓を漕ぎ、船体に溜まる一方の水を必死に掻き出すが、沈没の危機は刻一刻と迫っているように思われた。
 海人の長を乗せた舟の艫で小汚い麻布を頭から被り、膝を抱えてただ震えるばかりのヒダトキの眼前で、ふいに紫電の光を受けた何かが煌めいた。
「待たせたなっ。お前の出番だっ」
 野太い声とともに、青銅の儀礼短剣が鋭く金色の光を放った。
 咄嗟に身を引いて一閃を避けたヒダトキの頭上から、覆いの麻布がずり落ちる。短剣を構えた海人の長は、生贄を天と海の神に捧げるため、首筋への狙いを定めようとヒダトキの髪を鷲掴みにして、ぐいと引き上げた。
 ヒダトキは叫んで狭い艫で抵抗を試みるが、海で鍛え上げた長の太い腕に容易く押さえ込まれてしまう。
――やめろ。
 ヒダトキの口から母国の言葉が迸る。
 その一声に長の動きが止まり、目がすうっと細められた。叩き付ける雨の中、豪雷が二人の間に流れる時を止めた。
「お前は何者だ」
 長は探るように言うと、ヒダトキの腰回りまで落ちた襤褸布を引き剥がすと、垢で汚れきったヒダトキの顔を乱暴に擦り上げた。髪を鷲掴みにされては為す術もない。やがて雨に洗われてヒダトキの素顔が露わになった。
「お前は……」
 海人の長は怒気を孕んだ唸りを上げると、容赦なくヒダトキの体を舟底に打ち捨てた。
「この舟は倭人の舟だ。何故お前のような者が乗っているっ」
 ヒダトキは応えなかった。咄嗟のこととは言え、倭人の言葉ではなく母国語で叫んでしまった。人というものは、予期せぬ場面に遭遇したとき、いくら他人を偽っていたとしても本質が漏れ出てしまう。海の猛者とてそれを知らぬ訳ではあるまい。既に自分の素性は知られてしまった。これ以上倭人の言葉を重ねてみたとしても、虚しいばかりだろう。
 舟の上は騒然となった。この嵐を乗り切るには神に捧げる贄が必要だ。だが、その役割を担う者はどこの誰とも知れぬ異国人にすり替わってしまっている。一体どうすればいいというのか。
 混乱は瞬く間に伝播し、恐怖へ、そしてヒダトキに対する怒りへと変わっていった。
「この異人のせいだ」
「この時期に海が荒れる訳がない」
 海人たちの怒りは全てヒダトキに向けられていた。
「奴を海に放り出せ」
「和邇に喰わせてしまえ」
「身包み剥がして放りだしてしまえっ」
 海人の長と傍らにいた舟人がヒダトキに組み付く。瞬く間にヒダトキは一糸纏わぬ姿にされ、筋骨隆々たる腕に抱え上げられて荒波の中へと真っ逆さまに落とされた。
 その後の記憶は定かではない。
 次第に遠ざかる船団を半ば溺れつつ見送ったのかも知れないし、「嵐が我が責ならば騙されたお前たちが愚かなのだ」と叫んだのかも知れない。ただ気が付けばこうして流木にしがみつき、穏やかな波間を漂っていた。
 あつい。暑い。熱い。身が灼ける。乾く。ひどく痛む。食い物は要らない。水が欲しい。欲しい。ほしい。
 その願いが聞き届けられたのだろうか。一瞬後にヒダトキを大量の水が覆った。天地が引っ繰り返り、背面から海に没したヒダトキはしこたま海水を飲み込んだ。
 何が起こったのか分からぬまま、溺れまいと足掻くヒダトキの視界が、何やら黒い影を捕らえる。和邇だろうか。喰われてしまえば楽になるとは思ったが、弱っているとは言え生きながらにして食いちぎられるのは御免だ。ヒダトキは恐慌しながらも必死に水面を目指し手足をばたつかせた。
 這々の体で流木にしがみつき、改めて水面下を見る。依然として黒い影はヒダトキの下にある。弱り切った得物を吟味するかのようである。最早これまでか。そう諦めかけたヒダトキの足先が眼下の黒い影に当たり、和邇の体表とは異なる硬質な感触を伝えてきた。
 ヒダトキは両腕の間から顔を水に漬け、足下を覗いた。見る限りでは動く気配は全くない。やがてヒダトキは、それが海底の砂から突出している一枚の岩であることに気が付いた。恐らくヒダトキは潮の流れに押されている最中に、岩に足を掬われて転倒してしまったのだ。
 ヒダトキは流木を伝ってこれまで眺めてきた方向を背にして、辺りを伺った。遠く目に入ってきたのは常磐(ときわ)海松(みる)木賊(とくさ)の様々な緑色の色彩、そしてなだらかな弧を描く練色の砂浜とそこに打ち寄せる白い波頭。
 徐々にヒダトキの体が流木とともに幅のある上下動を繰り返すようになってきた。浜へ打ち寄せる波がヒダトキを持ち上げ陸へと押しやる。反対に水中ではヒダトキの両足を引き潮が沖へと引っ張る。ヒダトキは可能な限り流木の上へと体を乗せ、波に乗ろうと試みた。
 波は流木を岸へと押し、返す手で沖へと引く。それを幾たびか繰り返した頃、漸くヒダトキの爪先が水底の砂を捕らえた。岸に押されるときは逆らわず、沖に戻されそうになるときには砂を掻き、ヒダトキは残された力を振り絞って陸を目指した。一歩、また一歩とヒダトキは上体を流木に預けたまま歩を進めるが、ついに水底に膝が付いたとき、身動きがとれなくなった。
 波が岸へと押す力と下半身全体を沖へと引き戻す力が拮抗している。体力の限界はもうすぐそこまで迫っていた。あと少し。立ち上がることさえ出来れば、すぐにでも白い砂浜に寝転がることが出来る距離だというのに。
 ヒダトキは唸った。唸り声を上げて下半身に最後の力を込め、上体を前に押しやった。体全体が前のめりに倒れ、寄せ波が背中を推した拍子に顔面が水底の砂にめり込む。そのまま息も出来ずヒダトキの意識は暗闇へと落ちていった。

 シカリたち一行は海沿いの林を注意深く進んでいた。
 踏破するのに時間の掛かる山中から離れ、海沿いを進むのはシカリたちにとって一種の賭だった。目的の(むら)は近い。間が悪ければ、誰かと出くわすこともあるかも知れない。邑の性格上、彼らは普段から漁や輸送に舟を出していることだろう。海上に出ている邑人に見つかったならば、足は舟の方が徒よりずっと速い。すぐさま、邑に見知らぬ怪しげな一行が近づいてくる、と報せを寄こすに違いあるまい。そうなれば邑に入り込むのに多少なりとも面倒なことになりかねない。
 しかしながら、シカリたちの雇い主と交わした約定の日には二日程遅れてしまっている。
 ここは急がねばなるまい。ここで判断を誤る訳にはいかない。
 奴らは山に暮らすシカリたちの小集落に突如として現れた。少人数にも拘わらず、奴らは強かった。野盗や流れ者の集団ではないことは、その身なりからも見て取れた。渦巻き模様の描かれた分厚い盾をかざし、矛を構えて隊列を組む男たちは皆、シカリたちとは異なり貫頭衣(かんとうい)ではなく(きぬ)(はかま)を身に纏って、その上に黒光りする短甲(たんこう)を付けていた。シカリたちの放つ矢を弾き、石鏃(せきぞく)を砕いたところから、あれは鉄なのだろうと察せられた。
 奴らは必要以上の暴行も殺戮も略奪も行うことなく黙々と攻め寄せ、シシや山鳥しか相手にしたことのないシカリたちの反撃などものともせず、邑人全員を瞬く間に拘束してしまった。シカリたちが奥山にひっそりと暮らす集団でなく、どこかの國邑(こくゆう)に属していたならば、相当な練度の兵士たちだと悟ったに違いない。
 老人、婦女子たちは一カ所に集められ、矛を構えた兵に一棟の住居へと押し入れられた。それとは別に集められたシカリたち壮年の男たちは縛られ、猟犬とともに集落の中央に陣取った一際身なりのいい男の前へと引き出された。首からは見事な碧玉を下げ、髪を耳の上で美豆良(みずら)に結って、他の者とは異なり、手結(たゆい)足結(あゆい)を曲玉を通した緋色の紐で設えているこの男が、兵団を率いているようだ。
「あなた方に頼みたいことがあるのだ」
 緋紐の男の声は柔らかだった。
「山越えをして是非ともアヲヤの邑まで行って、塩を手に入れては貰えまいか」
 しかしその眼光は鋭く、交渉を持ちかけているような口調でありながら、これは有無を言わさぬ命令である、と語っていた。
 シカリは緋紐の男の言葉を反芻した。山での暮らしは一瞬の判断の狂いが取り返しの付かない命取りとなる。身を拘束され、身の危険を感じながらも、シカリの頭は熊と対峙したと きのように平静に働いた。
 シカリは緋紐の男の言葉には妙な点があることに気が付いた。男は「塩を手に入れろ」とは言ったが、「手に入れてこい」とは言わなかった。つまり男は使いに出てここまで荷を届けろと言っている訳ではないのだ。
 もう一点、わざわざ山越えをしろとはどういうことなのか。シカリたちは山奥に暮らしてはいるが、塩を産する海沿いの邑は、キビの支配域である中津海側の方が近い。山越えをすればわざわざイナバまで足を伸ばすことになる。圧倒的に効率が悪くないだろうか。
 シカリは緋紐の男を見据えて静かに言葉を発した。
「何処の名のある御方かと察しますが、実に異なことをおっしゃいます」
 その言葉を受けて緋紐の男は目を細めて片眉を上げたが、程なくして愉快そうに喉を鳴らして笑った。
 緋紐の男は腰をかがめ、シカリの鼻先に顔を近づけ、
「して。何がおかしい?」
 と問うた。シカリは自らが抱いた疑念を包み隠さず話した。男はそれに一々頷くと、
「お前が適任のようだな」
 と断じ、シカリの前に縄で綴られたあまり縁のない金属の束を投げ出した。
「この貨銭を持って行け。これで手に入るだけの塩を買い取れ。もっとも、それは邑に入るための口実。お前の本当の役割は他にある」
「断ると言ったら」
 緋紐の男は剣を手に取ると、眉一つ動かすことなく、集められた猟犬のうちの一頭の首を瞬時に撥ねた。
「犬を全て失えば猟は難しくなるだろうな。そうなると子供は養えん。ならば気の毒だ。犬たちの元へ送ってやろう」
 男は犬の血の滴る剣先をシカリに向けた。
「猟の出来ぬ猟師などいないも同然。ならばこの世から消してやろう。老人どもは……ああ。何もなくなれば手を下さずともすぐに根の国から迎えが来よう」
元より選択の余地などないのだ。シカリは、
「その話、受けても構わん」
 と男に申し出た。あくまでも対等な取引の体を取った言葉を選んだのは、シカリの精一杯の抵抗の証だった。
 あの緋紐の男に率いられた一団は何者なのだろう。シカリは久しぶりに嗅ぐ潮の臭いを胸に吸い込みながら考えを巡らせた。
 地勢から言ってキビの軍勢というのは一番ありそうなことだが、緋紐の男の言葉にはキビの訛りはなかった。イズモの訛りもない。ではヤマトの尖兵かと言えば、そこまでの確証は得られなかった。真相は全く知れない。
 だがそんな憶測など、一族を人質に取られ、密命を下されたシカリにとって今はどうでもよいのだ。果たさねば邑が滅ぼされる。それは避けねばならない。
 緋紐の男の真の目的は、イナバの邑でも交易の泊として栄えているアヲヤに潜り込み、環濠の防備の裏を掻いて海から来る軍勢を呼び込むこと。塩の買い付けはアヲヤの邑に疑いを抱かれずに入るための手段に過ぎない。
「そなたたち山の民は薬草にも長じていよう」
 あの男はそう言った。つまり薬草に通じていれば、毒草にもまた通じていることを知っているのだ。確かにシカリたちは大型の獲物を狙ったり、根流しで魚を捕るときには痺れる作用を持つ毒草を用いることがある。男は邑の水瓶にそれも仕掛けろと命じていた。
 物思いにふけりながら歩くシカリの足下で、ふいに猟犬が低く唸り始めた。
 シカリたち一行は咄嗟に身をかがめて辺りを伺った。猟の時と同じように互いに背を向け合い、死角を補う。一木一草の揺らぎ、風に混じる臭い、微かな物音にも耳を傾け、気配を探る。その間、猟犬は鼻息を荒げながらも伏せたままの姿勢を保ち、シカリたちの指示を待つ。
 しばらくの間そうして気配を伺っていたシカリたちだったが、何者かが近づく気配は待てども感じられない。人よりも鋭敏な感覚を持つ猟犬が何を感じたのか。獣ならばいいが、不用意な人との接触は今のうちは出来るだけ避けたい。
 一向に変化を見せない雰囲気に、シカリは足下に伏せる犬に短く「行け」と命じてみた。号令を受けて猟犬は海に向かって一直線に走る。シカリたちは藪に潜んだままその足取りを目で追った。
 海に辿り着くと、猟犬は幾分波を避けながら波打ち際で何かを盛んに探り始めた。流木だろうか。いや。流木に頭髪が生えているはずがない。
「あれは……人、なのか……」
 遠方から流れ着いたのだろううか。それとも近隣の邑の者が溺れでもしたか。猟犬の前足で掻かれ、髪を銜えて引っ張られても、ただ波に洗われるだけで動こうともしない。ここからでは生きているのか死んでいるのかすら分からない。
 シカリは小鳥の長鳴きを真似て指笛を鳴らした。猟犬は耳を立てそれを聞くと、いつものようにシカリたちの方へと駆け戻ってきた。生きていればそれでよし。死んでいるのならばそれまでのこと。少なくとも今は面倒を抱え込むことは避けた方が賢明だ。とにかく今は西へ。
 故郷の命運は自分たちの双肩に掛かっているのだ。

 何故この様なことになってしまったのか。環濠(かんごう)の中を逃げ惑いながらもノダカは考えた。
 安全な場所は既にどこにもない。攻め手は環濠とともに巡らせた柵の出入り口に効果的に兵を配して、邑から人が外へ出ることを完全に阻んでいるようだ。賊の主力は交易港として広く開かれた海から舟で大挙して押し寄せ、殺戮と略奪を繰り返している。
 その様は実に情け容赦がない。防御に当たる壮年の男たちは言うに及ばず、女子供や老人、はたまた嬰児に至るまで徹底的に息の根を止めに掛かる。完全に邑を根絶やしに掛かっている。ノダカはそう理解していた。
 賊とは言ったが、これまで邑を襲ってきたような生半可な野盗の類いではない。上等な(きぬ)(はかま)の上に鉄の伽和羅(かわら)を身につけ倭文布(しずぬの)の帯も煌びやかに纏い、兜を被って矛を縦横無尽に操る集団は、相当の練武を重ねた一國の兵団に違いない。
 一体どこの軍勢なのか。ノダカには見当も付かなかった。これまでこのアヲヤの邑は交易港として、周辺のイヅモ、キビ、ヤマトといった勢力のみならず、中津海を超えたアワ、サヌキなどとも、遠方で言えばノト、遙か海を越えて韓とも上手くやってきた。互いに交易を通じて不足があれば補い、過剰があれば余所に荷を振り分けて財をなす。そうやって相互に繁栄してきたのではなかったか。仮に何処の勢力であったとしても、理由も分からず攻め滅ぼされる道理などはないはずだ。
 確かに昨今ではこれまでにも増して盛んになった物流とともに、焦臭い噂を耳にはしていた。互いに睨みを利かせていたイヅモ、キビ、ヤマトの均衡は破られ勢力争いが激化する。
 何れどこかで火の手が上がる。
 だが、何故その矛先がこのアヲヤの邑なのか。言うなれば諸勢力の緩衝地帯として位置する交易港ではないか。武力を持って支配下に置くならばともかくとして、何故殲滅されねばならないのか。何かがおかしい。
 鉄鏃(てつぞく)の雨を避け、邑の中を逃げ惑いながらノダカは考えた。突然の襲撃に何か予兆めいたものはなかったか。つい最近、何か変わったことはなかっただろうか。
 例えば、漁に出ていた邑人が連れ帰ってきたあの男、気多(けた)の崎に流れ着いた韓人の生口はどうだ。
 弁韓の鉄山で奴婢としての課役から逃亡し、倭人の舟に乗ったはいいが嵐で難破したと言っていたが、韓人にしては倭語が達者すぎではなかったか。舟が難破したと言っていたが、この時期に海に嵐が来る訳がない。邑人の良心につけ込み、遭難者のふりをして邑に入り込み、邑の様子を探りに来た間者だったのではないか。
 だとしたら許しがたい。火傷と言ってもいいくらいのひどい日焼けを幾日も泉で冷やし、
貴重な薬石を与えて介抱してやったというのに。藁の寝床では傷に障るだろうと、本来ならば火口(ほくち)に使う蒲の穂綿を敷き詰めた柔らかい寝床と温かい食事を与えてやったというのに。助けられた恩は一生忘れない、この先は邑の繁栄のために身を捧げると言ったあの言葉も、全ては我々を油断させるための出任せだったというのか。
 他に妙だと言えば、塩を求めて邑を訪れた、あの山民たちはどうだ。
 風体はこれと言って怪しいところはなかったが、言葉の端々にキビの訛りが聞き取れた。もし中津海側から山を超してわざわざイナバ側に来たとすれば不自然ではなかろうか。塩を求めて藻焼きをする邑ならば中津海側の方が近いはずだ。加えて山民たちは貨銭を携えてきた。塩を求めるならば山鳥や兎など獲物と物々交換をするのが普通ではないのか。少なくともあの貨銭の束は、百名を下らないアヲヤの民が一年は暮らせるだけの量の塩と同等の価値がある。銅銭を使い慣れているとは思えない山民が、銭で大量の塩を買うなど、尋常とは思えない。やはり奴らの手先として、この邑に潜り込んだ手引き役ではないのか。
 物陰に隠れていたノダカの足下に数本の矢が同時に突き立つ。ここも直に危なくなる。一旦考えるのを止め、より安全な場所を求めて駆け出したノダカだったが、何かに躓いてもんどり打って倒れてしまった。慌てて立ち上がろうとしたノダカの頭上を唸りを上げて矢が飛ぶ。
 賊は強力な弓で次から次へと矢を射かけてくる。ノダカは立ち上がることもままならず、這い進んだ。鉄鏃の嵐は激しく、的を求めて襲いかかる。為す術もなく土を舐めながら方向も定まらずノダカは逃げ惑った。
 ふいにノダカの前方で怒号が上がった。
「こんな所でまとめて殺されて堪るかっ」
 それとともに一陣の風のように何者かの一団が地に這うノダカを飛び越え、賊の寄せる海側に掛けていった。
 聞き覚えのある声に顔を上げれば、シカリという名だったか、逞しい男に率いられて邑を訪れていた山民の一団が弓を手に兵に向かって突進するのが見えた。
「お前たちの頭はどこにいるっ」
 返答はなかった。代わりにこれでも食らえとばかりに再び鉄の鏃が空を裂く。一人、また一人と山民たちは斃れ、後には芦原のように矢を突き立てた骸が遺った。
 この騒ぎの隙にノダカは身を起こして走った。訳が分からなかった。山民たちは結局、軍勢の手引きをしていたのではなかったのか。邑を訪れたのは偶然だったのか。分からない。もう確かめる術もない。
 どうしてこうなってしまったのか。何も邑に大量の鉄材が蓄えられたこの時期に、何者かに統率された軍が襲ってこようとは。これから交易がより盛んになるだろうという時に、よりにもよって……。
 ノダカの脳裏に一瞬閃くものがあった。
 いや。この時期だからこそ。むしろ山のような鉄材を抱えている今だからこそ、この邑は襲われたのではないか。近々大きな戦乱が起こるという噂が本当ならば、大量の武器が必要だ。それも強力なものが。奴らは鉄を奪った上で、今後他の勢力に物資が行き渡らぬよう邑を殲滅するのが目的だったか。それが理由か。
 思い至ったノダカは、邑の中央に建てられた貨物倉を目指した。何とかせねば。だが一体何が出来ようか。
 焦るばかりのノダカの前に、剣を手にした人影が立ちはだかる。これまでか。 両腕を眼前にかざして身をすくめたノダカであったが、一向に斬りかかられる様子はない。恐る恐る腕の隙間から様子を伺うノダカの肩が、剣を手にした人影によって優しく叩かれた。
「お前は……」
 鉄倉の前でノダカを待っていたのは、気多の崎に流れ着いた、ヒダトキという韓人だった。

「この剣を借りる。いいか」
ヒダトキはノダカに尋ねた。
「一体どうする気だ」
「邑を守る」
そう応えたヒダトキの声は、確たる響きを伴っていた。
「お前一人加わったところで何が出来る」
ノダカは声を震わせて言ったが、余所者の韓人は、
「助けられた恩を今返さずにどうする」
と平然と応え微笑んだ。
 母国である弁韓の言葉で「白い兎」を意味するヒダトキという名を冠した漂着韓人は、剣を振りかざすと、軍勢に向かって雄叫びを上げて駆け出した。
 ノダカは涙で霞む目でしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて倉庫の中に入ると交易品の鉄剣を携えて、鉄材の山の前に陣取った。

 弥生時代に広く交易の場として栄えたであろう、鳥取市青谷(とっとりしあおや)上地寺遺跡(かみちじいせき)。発掘された百体を超える人骨は、その多くが武器による大量殺戮のあった痕跡を留めており、時代的にも「魏志倭人伝」中の倭国大乱の記述との合致が見られる。
 人骨とともに奇跡的な保存状態で見つかった、本邦最古級となる弥生人の脳の化石は、現在はアルゴンガスの封入されたアクリルケースの中で静かに眠っている。
 深い皺に刻まれた往古の記憶が如何なるものであるのかは、誰一人知る由もない。
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