池の底

文字数 1,370文字

 巨海(こみ)(いけ)の水底には美しい生き物がいる、と聞いた僕は、5歳の夏、息を止めて、深く深くまで会いに行った。大人でも裸のままでは到達出来ないと言われていた暗い池の最奥には、鮮やかな黄緑の水草と、彼岸花と菊の間のような、半透明の、ツツジ色をした花が咲いていた。不思議といつまでも息を止めることが出来た。音がない静かな世界を散歩しているうちに、花がグラデーションのように増えていき、満開の水中花の中に、花と同じ色の美しい髪を持つ生き物に出会った。

 僕がその美しさに見惚れていると、一つしかない目を開き、少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。瞳は金色で、口の中は血のように赤いそれは、僕の名前を呼んだ。返事をしようと口を開けたけれど、その生き物が、しー、と口に指を当てると同時に、まるで接着剤で留めたように口が閉じてしまった。一口分の泡が空高くまでこぽり、と消えていった。僕の頭をなでるその手には、花と同じ色の爪が付いていた。

 生き物の名前は、聞いたことのない発音で、陸に上がってから練習しても上手く呼ぶことが出来なかった。家族は僕に、池に近付かないようにと言ったが、あの生き物に会いたくて、親の目を盗んでは水中へ潜っていった。生き物のそばによると、男とも女ともつかない繊細な声で僕に語りかけた。小魚の群れの騒がしさや花の蜜の集め方、それと、生きた人間に会えて嬉しいということ。生き物が一方的に僕に話しかけ、僕はそれを聴くばかりだったけれど、その時間に飽きることなどなく、秘密の散歩は何年も続いた。

 ある日のこと。いつものように池の中を深く深く潜っていくと、生き物が空を見上げていることに気付いた。僕に気付くと、生き物はいつものように手を振って優しい音色で僕の名前を呼んだ。その日は月明かりが妙に明るく、生き物の美しい肌は差し込む光の中で神々しく輝いて見えた。たゆたう髪は花が咲くように広がり、金の瞳が月に負けじと輝いていた。

 僕は月に愛されたのだ。生き物の身体へ腕を回し、唇を這わせ、一つになった。身をよじって逃げようとする生き物を無理やりに抱いて、思いを遂げた。水の底に沈んでいく生き物の涙は妖しく輝いていた。やがて僕は、どうしてもその生き物を陸に連れて行きたい、行かせてやるべきだ、という思いに取り憑かれ、生き物の両足を縛り付ける水草を引きちぎった。生き物の美しい足から血が出るのも構わず、一本残らず、その足に繋がっている金の根も、肌に咲く花も全てむしり、瞬く間に世界が赤く、黒く濁る。それでも生き物は僕の口を開いて殺すこともせず、泣きながら抵抗をした。叫び声は耳に心地よく、手足は一層僕の心を惑わせた。やがて諦めた生き物は、しなだれるように僕へ身体を預け静かになった。ようやく池の底から生き物を引き剥がした僕は、月明かりに向かって泳いで行った。

 生き物は、水から出てすぐに黒いチリになって消えてしまった。僕は裸のままかき集めたが、チリは池の表面をすっかり覆ってしまった。黒くなった水面を見てようやく正気に帰った僕は、とんでもないことをしてしまったと激しく後悔した。慌てて服を着て、部屋に戻り、ベッドの中で震えながら朝を迎えた。それから僕は池に一度も行っていない。何年か前にすっかり埋め立てられたという。
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