第1話

文字数 21,317文字

僕が風間と出会ったのは、大学に入学したての頃だった。

一年生は強制的に、基礎数学を一限に組み込まれるため、当時の僕には苦痛だった。僕の家は、大学から電車で一時間半だったから、サラリーマンと共に、満員電車に耐えなければならなかった。僕はお腹が弱かったので、登戸から下北沢までの十数分間が特に地獄だった。永遠に思える時間の中、お腹はぐるぐるで、手や額からは尋常ならざる汗が出る。僕は何度も願った。
(神様、助けてください。これからは良い行いを率先して行います。だから、どうか、ご慈悲を)
僕は特定の宗教を信仰しているわけでは無いが、お腹が痛くなれば(毎日だが)こうして神に祈った。祈りの対象は、仏ではなく神だった。
幸いなことに、人生で一度も漏らしたことは無い。僕のお腹の緩さを考慮すれば、奇跡としか思えない。だから、神様がいるのだとすれば、僕は大分好かれているはずだ。
どのみち、大半は下北沢か代々木上原で途中下車した。
あなたは、男子トイレの個室トイレに、朝並んだことがあるだろうか。そこには、お腹の弱い人が列を成している。当然一人当たりの所有時間も、昼や夜の比では無い。自分の番を待っている人の中には、苦悶の表情を浮かべている人や、諦めの境地に陥っている人がいる。僕はいつも無表情でいる様に心掛けている。辛い顔やしかめ面は、余計体調を悪化させるからだ。この日は十分、二十分ほど経ち、自分の番が来て用をたす。もうこの時点で、一限の開始時間には間に合わない。
下北沢か代々木上原で再度、急行か快速急行新宿行きに乗車する。代々木上原では、多くのサラリーマンが下車してくれるので、そこから先は楽だった。だんだんとビルが高くなってくる。
ビルの大きさは、都市の大きさと言っても過言では無い。故に、僕は大きいビルが嫌いだった。
太陽から隠れる様に、電車は地下へと潜る。自動ドアが開くと同時に、乗客が芋づる式に、降車する。僕はその流れに逆らわず、無気力で階段へと向かう。朝だから、誰も喋る人がいない。ハイヒールだけが快活に音を鳴らす。
パスモをぽっけから取り出して、改札口を通る。何百回とした作業は、何も考えずとも、体が動いてくれる。
15番線山手線の階段を上る。ふと斜め上に女子高校生と思しき人を確認した。穿いているスカートは短く、無いに等しかった。そういう時、僕がすることは一つ。自分の靴を睨みながら階段を上ることだ。もしその方の下着を見てしまったら、僕は自身に対する失望感と、その方への罪悪感で、身を滅ぼしてしまうと思う。これは紳士的とは最もかけ離れているだろう。
地下から出ると、朝陽が眩しい。目を細めながら、いつもの乗車場所へと移動する。
スマホで時間を確認すると八時五十分。ここから大学に着くまでは、四十分ほどだから、一限が始まって三十分が経過していることだろう。
はぁ、誰にも見られない様に、こっそりとため息を吐く。
アナウンスが流れた後に、電車はやって来る。電車は僕とは違って、遅刻をしないから偉いと思う。まあ、たまにとんでもない遅刻をするけれど、それは往々にして、電車側に非はない。
プシューッ、の音と共に多くの人が車両から降りて、同様に僕を含めた多くの人が乗車する。閉まる直前に、四十代ほどの男性が駆け込んで来た。
山手線から見る景色は、小田急線と全く違う。当たり前だが、興行施設や会社の建造物が圧倒的に多くなる。
高田馬場駅に近づくと、ドン・キホーテが見えて来る。青いペンギンのキャラクターが無機質に笑っている。
新大久保駅に比べて、この駅では多くの人が降りる。自分もそのうちの一人だ。新たに乗車しようとして来る人を巧みに避けながら、これまた長―いエスカレーター待ちの行列に並ぶ。次から次へと割り込みをされて、なかなか前へ進めない。
駅のホームに設置されている、お仏壇の広告をぼうっと眺めて、時間を潰す。
牛歩みたいに進み、やっとの事でエスカレーターに乗る。前と後ろに圧迫感を覚える。
立ち食い蕎麦店、コンビニを横目に、また改札口を抜ける。
大学までは、高田馬場駅から徒歩で三十分かかる。時間に余裕のある日は、ゆったりと散歩をするのだが、とにかく時間が無い。
階段を駆け下りて、地下鉄東西線の改札口に入る。ホーム内、車両の先頭側方面は、尋常で無いほど混んでいる。人混みを避けて、ひたすら後方方面へと向かう。
朝の東西線は数分に一本という、超高頻度で車両がやって来る。それにも関わらず、駅のホーム内は常に人で一杯だ。
暗闇の向こうから、轟音が響く。徐々に輪郭がはっきりとして、普通妙典行きが到着する。既に車内はぎゅうぎゅうである。
自分の体を押し込む感じで、突入する。車内は殺伐としていて、全員険しい顔つきとなっている。後ろから乗車して来る人に押し潰された。前に掛けたリュックが胸を圧迫する。自動ドアが二回ほどつっかえた後に、閉まる。僕は、この地獄の空間から逃れられる様に、目を瞑ってお願いした。
電車が発する音と、乗客の鼻息しか聞こえない闇。一秒、一秒がゆっくりと刻み込まれていく。ありえないが、もしかしたら一生この中に閉じ込められてしまうのではないか、そう思わせる怖さがこの空間には漂っている。
幸いにも、電車の揺れが小さくなっていく。解放されるまで数十秒ということだ。うっすらと目を開けると、流れていく駅名標が見えた。
最後のブレーキがかかり、ドアが開いた。誰も降りようとはしない。必死にすいません、を連呼して、追い出される形で下車した。
もう一限はとっくに始まっている時刻なので、改札口に向かう途中、学生らしき人はほとんどいなかった。
小走りで最後の改札を抜けて、階段を駆け上がる。外へ出ると、涼しい風が吹いてきた。都市の汚れた空気でも、電車内の空気よりかは美味しいと感じた。
細い道を真っ直ぐに進む。左側では新しい大学施設の建築作業が、いつも通り進行している。僕が卒業するまでに、この施設は完成するのだろうか、早足で移動しながら、そんなどうでも良いことを考えていた。
五十メートルほど直進して、角を左へ曲がる。そうすると大学の校門が見えて来る。横断歩道を渡って、門衛さんの横をすり抜ける。大隈重信像の前を急ぎ足で通り過ぎて、所属する商学部棟へと入る。
基礎数学は大教室、501号室だ。エスカレーターを一段飛ばしで駆け上る。
501号室の大扉に到着した時、僕は息を切らしていた。時刻は九時四十五分。もう講義の半分は終わったということだ。
そっと、扉を開けると教授はマイク片手に講義を進めていた。一年生が全員受講していることもあって、空いているスペースはほとんどない。一番真後ろの限られた席を見つけ、音を立てない様に着席した。
もうこの時点でへとへとである。瞼は重く、体はだるい。いつものことだ。満員電車は戦争時に次いで、多大なストレスを受けると言われている。僕はそれに加えて、お腹との戦いもあるので、尚更疲れる。
授業はあっという間に過ぎて、受講生は友達とワイワイ話しながら、次の講義へと向かって行った。僕は友達がいなかったので、全員が立ち去るのを待ってから、行動に移そうとしていた。大学はぼっちに厳しい。
「君、もう今日は授業無いの?」
突如、意識に入り込んだその声は、明るく、愉快なものだった。まさか、僕に話しかけた訳では無いだろうと、最初は気にしなかった。
「ねえ、君だよ」
顔をぐいっと近づけ、目をじっと見てきた。正直に驚きを隠せなかった。大学生にもなって、その様なアプローチを仕掛けて来る人が居るとは。
「あ、僕ですか?」
「そう、名前なんていうの?」
「神田です」
「お、そうか。俺は風間。よろしくな神田」
風間は口角を高く上げて、友好の意を示してきた。
「それで、神田。今日の授業はもう終わったの?」
「いや、次の授業は基礎経済」
風間は手を叩いた。
「お、一緒じゃん。602?」
「そうだよ」
「よかったぁ。知り合いが全然出来なくて、困っていたんだよ。良ければ、一緒に行こうぜ!」
後に分かることだが、彼は誰とでも仲良くなれる、いわゆる社交的なやつで、何故そんな彼が僕に話しかけたのかは今でも謎だ。

風間は大学の様々なサークルへ出入りしていて、期末テストの情報や、楽単(出席などをあまりしなくても、簡単に単位がもらえる教科)の情報を僕に教えてくれていた。僕はというと、フットサルサークルや、軽音サークルなどの歓迎会に行くものの、そのあまりの賑やかさに面を食らって、どのサークルにも所属していなかった。
だから、昼ごはんを一緒に食べる相手は風間しかいなかった。彼は友達がたくさん居たのに、僕が誘えばいつでも、一緒に過ごしてくれた。
その時に話す内容は本当にくだらなくて、書かなくても良いのだが、風間という人間を知ってもらうために、ここに書き留めておく。
「なあ、神田。人間、ホモ・サピエンス理論って、知っている?」
「何それ?どこかの学者が唱えた説?」
「いんや。俺独自の理論。お前、小、中、高でモテたことあるか?」
「ないよ」
聞くまでもない。僕の様な地味な人間が持てるはずない。
「だろうな」
「だと思うなら、聞かないでよ。少しは傷つく」
「悪い、悪い。小中高でモテる奴って、どんな特徴があったか覚えているか」
バレンタインにチョコを二十個もらっていた勇気君のことを思い出す。サッカーをやっていて、足がとてつもなく速かった。毎年リレーの選手に選ばれては、アンカーを務めていた。
「運動神経が良い子」
「ザッツ・ライト」
風間は指を鳴らした。彼は日本語訛りの外国語や、大袈裟なジェスチャーを多用した。風間は続けた。
「特に小学校、中学校では足の速いやつがモテる。でも大人になったら、足の速さで恋人を選ぶ人なんて居ないよな?」
確かに。運動神経の良さを結婚条件に求める女性はいないだろう。
「俺はな。ホモ・サピエンスとしての本能が、運動神経の良さを魅力的に感じ取っていると仮説を立てた」
「僕にはさっぱりだよ。丁寧に説明して」
風間はごほん、とわざとらしく咳をした。
「人類の祖先であるホモ・サピエンスは、今では考えられないくらい、数多くの天敵がいた。だから、天敵に打ち勝てる、より強く、より速い男の遺伝子を、女は必要とした筈だ。その本能が今でも子孫の人間に受け継がれている、そういう理論」
「ちょっと待って。じゃあなんで大人の女性は、足の速さや運動神経に魅力を覚えないの。その理論で言えば、おかしいでしょ?」
風間はちっちっ、と指を振った。彼は何から何まで芝居臭い男だった。
「ホモ・サピエンスと人間には異なる点がある。前者に無くて、後者にあるもの、それは社会だ。義務教育である学校を通して、この社会で生き残るには、運動能力では無く、頭脳や、コミュニケーション能力が大切だと学習する。あ、それと小学生は泣きたい時泣くだろ。あれは本能のまま生きていて、ホモ・サピエンスに近い生き方だと思うんだよ。でも、この人間社会では、本能的に動く人は嫌われる節があるだろ。そういう部分も含めて、大人になったらホモ・サピエンス的側面がすり減らされているんだと思う。どう、この理論?」
自信満々に語る風間は、生き生きとしていた。言いたいことは分からなくもないが、旗を振り回して、賛成は出来ない。
「風間は、いつもそんなこと考えているの?」
「いんや。電車に乗っている時間とか…通学の時間にスマホを触るの嫌いなんだよ。無駄な時間を過ごしている感じしない?」
変な理論を考えている時間が有益かどうかは置いといて、僕は自分に無い風間独特の考え方が好きだった。行ったことの無い外国に旅行する、そんな感覚に近かった。

もう一つ、風間の話の中でも、印象深かった物を紹介したい。これも、昼ご飯を一緒に食べている時だ。僕は母に作ってもらったお弁当を、風間は大学内にあるコンビニで購入した焼きそばパンを食べていた気がする。
「今まで隠していたことを話して良い?」
紅生姜の切れ端を、口からはみ出していることに気が付いていない風間は神妙な顔で語り出した。
風間と出会って数ヶ月が経っていたので、彼の特殊性については大分分かってきたところだった。だから、そんな彼の秘密はとんでもない物に違いないと思った。唾を二回飲んだと思う。
「俺、実は左利きなんだよ」
しょぼい内容に、思わず口からファ、という声が漏れ出た。
「そ、それが秘密?」
「驚いたか?」
風間は僕の方をじろりと見つめている。僕がどんな表情をするのか、それを見届けていた。
「ドキドキして、損したよ!そんなのどうだって良い!」
大きな声にびっくりしたのか、通りすがりの人が全員振り返った。僕は注目されるのが苦手だから、耳を真っ赤にして、俯いた。
対照的に風間の声が大きくなった。
「どうだって良いとはなんだ!俺が左利きというだけで、これまでどれほどの弊害を被っていたか!」
唾が顔に飛んできて、うえ、と思いながら手で拭った。それは微妙に生温かったので、余計気持ち悪かった。
「まず!ノート。何故右に書いていく。鉛筆で書いていたら、手の底が真っ黒になるじゃないか!学校関連で言うと、教室の日差しも常に左から入るだろ?影で文字が見え辛いんだよ!改札口に入る時だって、クロスさせなければいけないし。後、大人数でご飯を食べる時、左利きは嫌がられる!俺は、こんな理不尽に耐え続けてきたんだ!」
瞳孔が開いていて、可愛そう、というよりかは、僕は若干引いていた。ふざけて、左利きの不便さをネタにする人は見たことがあったが、真剣に怒っている人は見たことが無かった。
「大変だったね」
当たり障りの無いコメントで応じると、風間は不服そうに眉を潜めた。
「で、でも。左利きの人って、凄い人多いよね。ほら、アインシュタイン、ダ・ヴィンチ、ダーウィン、ピカソとか」
機嫌を直してもらおうと、分かりやすく左利きの人が喜びそうなことを言う。
「確かに。昔から左利きには天才が多いって聞く。右脳が発達しているから、どうちゃらこうちゃら」
「そうそう。それにスポーツでも、左利きは重宝されているよ。メッシ、大谷翔平、スター選手には左利きが多いでしょ!」
風間の鼻がプクぅ、と開いた。
「メッシや大谷さんも、鉛筆で手の平を汚していたかな?」
素っ頓狂な質問だ。
「きっと、そうだよ。ダーウィンも、進化論を書きながら、手をインクまみれにしていたと思う!」
風間は左利きで、本人はそれを隠したがっていた。字面だけで面白い。

風間の話から僕の話へ一旦戻りたい。風間に比べると、エピソードは弱いしつまらないけれど、勘弁して欲しい。
僕は女の子が苦手だ。嫌いでは無い、むしろその反対大好きだ。いや、大好きは気持ち悪いだろうか。
小学校までは、なんとも無かった。クラスの女子全員と仲良かった。お互い名前で呼びあっていたし、頻繁に遊んでいた。
異変が起きたのは、中学生の頃だ。仲の良かった女友達が、サッカー部の三年生と一緒に帰って行くのを見てしまった。
その子に対して、全く恋愛感情を抱いていなかった。ただ僕の胸は強く握り締められた様に、辛かった。
どうやって子供が出来るのか、とか女の子と男の子は成長に従って、身体つきが変わることは知識として把握していた。
いつかはこんな日が来ることも、覚悟していた。でも、そのいつかがこんなにも早く来てしまった事に、僕は絶望した。
その日を境に、その子を友達では無く、一人の女性として僕は認識し始めた。どこかよそよそしい態度で、その子を傷つけてしまったかもしれない。
中学卒業間際には、もう僕は普通に女の子と話せなくなっていた。男友達といる時は、リラックス出来るのに、女の子を前にすると、顔が真っ赤になって、吃ってしまう。
情けなかった。周りの友達が女の子と楽しそうにしているのを見て、心底嫉妬した。どうして僕は駄目なんだろう、と自身をなじった。枕を涙で濡らすこともあった。
これは卒業式の日に起こった出来事だ。式が終わって、僕達卒業生は校庭に集まった。卒業証書片手に団欒していた。
仲の良いグループで話している時だった。バレーボール部に所属していた女の子数人が、もじもじしながら近づいて来た。
当然、僕は心臓をばくばくさせていた。その頃は、女子が近くにいるだけで、満足に呼吸が出来ない体となっていた。
「俊。写真撮影しよう」
俊君は野球をしていて、背が高く、イケメンで、頭も良く、優しい、最高の男だった。当然僕も好きだった。
俊君は慣れた様子で撮影に応じる。周囲の友達が「ひゅー、ひゅー」とからかうので、真似をした。口を動かしながらも、目は死んでいたと思う。
写真撮影は、グループショットの後にツーショットが行われた。恥ずかしそうにしている子も居たが、結局その子も、はにかんだ笑顔で撮られた。
俊君と女の子達の顔は途轍もなく近く、自分なら気を失ってしまうな、と感じた。被写体である彼らは、青春漫画や映画に出てくる様な神々しさを放っていた。
その後、代わる代わる女の子がやって来ては、所謂人気の男子に写真撮影を頼んでいた。残された友達と話しているのだが、意識はそっちにしか行かなかった。
帰るという選択肢もあった。実際に、卒業式が終わると同時に、そそくさと帰宅する生徒も居た。僕は、その人達の気持ちが痛いほど分かった。自分もそちら側の人間だからだ。
それでも、帰らなかったのは、恐らく淡い期待を抱いていたのだと思う。あまり喋ったことの無い女子から写真撮影を求められる、という幻想を。
端的に述べると、そのような奇跡は起こらなかった。
分かり切っていたことだ。運動神経も並、頭脳も並、平凡な顔、どれを取っても、僕が女の子から好かれる条件は無い。
自分が女性でも、僕の様な異性は選ばない。絶対俊君派だ。
中学で拗らせた女性への思いは改善することないまま大学へ突入する。
何故か?
男子校に通ったからである。
女性に対して苦手意識を抱いたまま、僕は高校生活を過ごした。
びっくりするくらい、楽しかった。共学は華やかかもしれないが、自分には男子校の雰囲気が合っていた。
クラスメートは全員優しく、運動部、文化部関係なく、仲が良かった。球技大会は一丸となって、取り組んだ。あれは青春と呼ぶに相応しい。
とりわけ、僕が男子校を気に入っていた理由は、カップルを見なくて済んだことだった。当たり前だが、クラスに女子はいないので、同級生の大半は、彼女がいなかった。
ほんの一握りのモテ男だけは、彼女がいたけれども、教室内で、そんな話はしない。
恐らく、僕は子供過ぎて、複雑すぎる男女の関係を嫌っていたのかもしれない。
とにかく、僕は高校生活を満喫した。さて、ここからが問題だ。その間異性と全く関わることが無いまま、大学へ入学する事になった。
そうすると、どうなるか?
突然、大人に変化した同級生の女性にびびる、が正解だ。
薄茶色の髪の毛、ばっちし決めているメイク、ヒール靴、マニキュア、可愛らしい服、口紅、全てが刺激的だった。
僕は良くも悪くも、純粋でうぶだった。キャンパス内を歩く、女子大生の絢爛さに怯えてしまった。

長々と女性苦手エピソードを語ってしまったが、そんな僕が飲み会に行った時の話をしたい。二年生に上がった、夏の頃だ。
前述した様に、サークルや同好会には入っていなかった。しかし、一年生から継続して受講しているフランス語クラスの九人で、居酒屋に行くこととなった。
そういう席は苦手だったが、場の雰囲気を壊すことは、最も恐れていることなので、笑顔で参加の旨を伝えた。
午後六時集合であったが、一時間前の五時には到着していた。別に楽しみだから、という理由では無い。電車の遅延や、予期せぬ事態に備えて家を早く出たのだ。
十分前になると、ぱらぱらと集まり始めた。普段の授業に来る順番だ。遅刻が当たり前の岡田君は、やはり五分遅刻した。
「おう、みんな集まってるな!」
岡田君は悪びれる様子も無く、率先して店に入って行く。イケている順にぞろぞろと続き、最後尾は僕が務める。一番最初に着いて、店に入るのは最後、これも僕らしかった。
予約していた場所には、四人用テーブルが二台置かれて、木の簡易椅子が九個用意されていた。
岡田君が我一番に端の席に座り、他の人達も次々と自分の席に座る。
座席はこの店に入る前から決まっていた。岡田君のテーブルには、親友でフットサルサークルに所属している新田君、ダンス部、おしゃれでシュッとしている本田さん、広告サークルのメンバーで、男女問わず人気で美人の玉川さんが必ず座る。
もう片方のテーブルには、言い方は悪いが余り物が座る。
「飲み物何にする〜」
本田さんが、快活な声で場を仕切る。僕を除く男子陣はビール、女性陣はレモンサワーだった。僕はお茶をお願いした。
「え!神田君、飲めないのー?」
「うん。弱くてね…はは」
「勿体無いね!私、これがなきゃやってられないよ」
「出た!優香の酒豪キャラ」
新田君が、すかさずツッコミを入れて、本田さんと戯れる。もう、関心は僕には向いていなかった。
別に、お酒が飲めない訳では無い。両親共に飲めるので、体質的には問題無かった。けれど、飲みたく無かった。お酒を飲んで意味が分からないことを話している人や、性格が変わる親族を、幼い頃から見て来たので、飲みたいと思えなかった。
だから、勿体無い、人生を損している、という人間には、無性に腹が立つ。放っておいてくれよ。心から、そう思う。
「かんぱ〜い」
岡田君の音頭で、全員のジョッキが挨拶をする。からん、からん、こん。僕だけ、湯呑み茶碗なので、音が鈍い。
一口入れると、ほっとした。お茶のあったかさは、心に沁みる。僕の遺伝子は茶に反応していると思う。
「神田君、お茶好きなの?」
山本さんが、ゆったりとした口調で話しかけて来た。彼女はおっとりとした子で、この中では一番話しやすい。
「うん。祖父母と一緒に暮らしているからか、毎日飲んでいるよ」
「へ〜、そうなんだ。私も次頼もうかなぁ?」
「なになに?二人で、ご隠居トーク?」
割り込む様に、川田君が話に入って来た。僕の見立てでは、彼は山本さんのことが好きだ。
「まあ、そんな感じかな?」
山本さんが僕に目線を送りながら、同意を求めて来た。
同じテーブルの川田君、川上君から鋭い視線が向けられた。どうやら川上君も山本さんを気になっているらしい。
当たり障りのない様に、乾いた笑いで返答した。
昔から人の機嫌を伺いながら、生きて来た為か、何と無く人物相関図を頭の中に描ける様になった。
岡田君と玉川さんは、最近距離が特に縮まった気がする。玉川さんは、岡田君のビールの減りを確認しては、注文している。恐らく、二人は付き合っている。オープンにしていない辺り、初期段階だろう。
前述した様に、川田君と川上君は、山本さんを狙っている。
一番厄介なのが、新田君だ。彼は本田さんに度々アプローチしている癖に、山本さんを見る目が完全に男のそれだ。いつか、それが問題を起こさない様に、僕は祈るしかない。新田君がどうなろうが、知ったことではないが、自分の生活スペースはいつまでも平穏であって欲しい。
軽音サークルの星さんと僕だけが、人物相関図から除外されている。星さんの名誉?を守る為、言及すると、彼女は軽音サークル内に彼氏がいる。だから、そういう意味では、真のはぐれ者は僕一人ということだ。
お酒が入って来て、次第にみんなの声が大きくなってくる。岡田君と玉川さんは、二人だけの空間に酔い痴れって、時折目線を合わせては、幸せそうに笑っている。心の奥底から、どす黒い感情が湧き出てくる。人が幸福なのがムカつくって、僕も性格が悪い。
新田君は本田さんを口説きにかかっている。
「優香って、顔可愛いよな」
「ほんと!嬉しい」
「高校とかモテたでしょ?」
「それなりかな。優一は、やばかったでしょ」
「否定はしない」
「しろよ〜」
「だって、毎月の様に告白されていたからね。同級生からだけじゃなく、先輩や後輩からも」
「うわ、やば!」
「サッカー部のエースだったからね。俺のファンクラブとか出来ちゃって、それに他校の女子生徒も入っているの。試合の差し入れが多すぎて、困ったよ」
「生意気〜!」
本田さんが新田君の脇を小指で突いて、彼が仰け反る。お返しに、と新田君が本田さんのお腹をくすぐる。事故を装って、たまに胸辺りを触っているのが遠くから見てもバレバレだ。
こちらのテーブルでは、川田君と川上君が山本さんと会話をしようと必死だ。二人とも、一度僕や星さんをクッションにしてから、山本さんに振る。
「星さんって、好きな食べ物ある?」
「オムライス」
「お、いいね。山本さんは?」
「神田君は、好きなアニメとかある?」
「スポンジ・ボブ、ベン10とか、アメリカのアニメは結構好きだよ」
「スポンジ・ボブかぁ。山本さんは」
流れ作業みたいに、僕と星さんをあしらってから、本命に行く。都合の良い道具にされている。
「スポンジ・ボブ!」
山本さんの目が光り輝いた。川上君と川田君は、自分達には見せなかった、山本さんの興奮ぶりに、唖然としている。
「私も好きなの!今でも見ている。友達からは、大学生にもなって幼児アニメ?って、苦言を呈されるの」
「おんなじだ。僕は親から」
「辛いよね。お気に入りのキャラは?」
「サンディが好きだな。あの世界で、唯一の陸上生物でしょ」
「確かに!私はプランクトン」
「え!珍しいね」
「悪役だけど、憎めないでしょ?」
「そうだね。たまに協力もするし」
アニメ談義は段々と過熱して行った。すっかり他の人々を置き去っている。川上君と川田君が、あからさまに嫌な顔をしている。
「もうアニメの話はここら辺にしておこうよ」
山本さんは、まだプランクトンについて語り足らなそうであったが、了承してくれた。
「神田君も山本さんも、本当にアニメが好きなんだね」
川田君は、引き攣った笑顔を浮かべている。
「話題は変わるけどさ、神田君は彼女居たことある?」
急な舵取りだ。現在形ではなくて、過去形な所に若干の悪意を感じる。
「無いよ。全く」
「まじ!」
川上君が目を見開いている。
「そんなに驚くことかな?」
「ことだよ!中、高、一度も居なかったって、ことでしょ。そんな人生楽しく無いよ」
随分な物言いだ。酒が入っていることもあって、川上君は刺々しい。自分の価値観を疑わない人は苦手だ。そういう人は、他人にまでそれを押し付けてくるから。
「私も居たこと無いよ」
山本さんだ。川上君と川田君は、しまった、という感情を露見させている。
「彼氏居たこと無いけれど、充実しているよ」
柔らかな口調だが、確実に山本さんは怒っている。
「そういうことで、人を判断するのは、私嫌いだな」
そう言って、山本さんはぐいっとレモンサワーを飲んだ。
常に穏やかな彼女からの「嫌い」、は結構響いたらしい。川田君と川上君は、愛想笑いを浮かべながら、口数が少なくなった。

「それは散々だったな」
風間はくっ、くっ、笑っている。
「笑い事じゃ無いよ。沈黙は嫌だから、何とか話題を振ろうとしたの。そしたら山本さんは、きちんと応えてくれるけれど、男子二人が意気消沈しちゃって」
「はあ。人には強く当たれる癖に、跳ね返りには弱いのか」
「まさか、山本さんから、「嫌い」が出るとはね」
「よほど、癇に障ったんだろうな。まあ、よく居るよな。自分の価値観が絶対だと思って居る人」
「例えば?」
「うーん、常に友達と一緒に居ないと不安な奴。大学にも居るよな。どこへ行くにも、集団行動。別にそれ自体は、その人達の勝手だけど、大抵そいつらは、一人で過ごす人を可哀想だと決めつける。それとか、文化祭や体育祭は絶対参加だと思っている人。あれ、別に嫌な人は参加しなくても良いじゃん。でも、クラスの輪が乱れるから、とか理由を付けて強制参加させて、結局孤立させる」
「風間って、闇が深いの?」
「別に。ただ、俺の周りにはそういう人が目立っただけ。ほら、論調が強い人は、記憶に残りやすいでしょ。もちろん、友達と居ることが好きな人の大半は、一人が好きな人の気持ちを分かっているだろうよ」
「そうか、極端な意見は力強いもんね」
「そそ、ネットの炎上と同じ。あれも少数の強い意見が、荒れ狂っているだけ。普通の人は、芸能人の不祥事とかに興味ないし」
僕はふと、尋ねてみたくなった。
「なあ、風間。僕って変かな?」
「いきなりどうした」
「サークルにも所属して居ない。風間と過ごしている時以外は、ひとりぼっち。たまに、キャンパス内を歩いていると、思うんだ。ああ、僕は欠陥品だなぁって」
「何、傷心中ですか?」
「そう、なのかな。僕は普通になりたいのかもしれない」
「普通って、何よ?」
「上手く説明できないけど…人に怯えず、自分がしたいことを突き詰めて、人生を全うする、そんな感じ」
「それ普通じゃねえ、超人。神田は求め過ぎだよ」
「求め過ぎ…」
「そう。ほら、人間、ホモ・サピエンス理論。人間なんて、所詮猿なんだから。考えるだけ無駄!な」
風間と話していると、自分の悩みがちっぽけに思える。いや、彼がそう思わせているのかもしれない。今まで会ったことの無いタイプ。それが風間だ。

肌寒くなって来た。木々は紅茶色に変貌して、息を潜める。一度風が吹けばぱらぱら、水分を失った葉が舞い落ちる。人間も同じだと思う。毎年寒くなると、気分が落ち込む。なんでも無いことでも、考え込む。
変化、僕が一番嫌いなもの。
「神田君、私と付き合ってくれませんか?」
「はい?」
それは突然やって来た。思わぬ角度から。
「その。ほら。神田君とは、共通の趣味があるでしょ?私、それがとても嬉しくて。それに話しているうちに、段々貴方自身にも、興味が湧いて来て。気がついたら、いつも神田君のことを考えているの」
長い髪が秋風で靡いている。ふんわり、花の香りが鼻に運び込まれた。山本さんの透き通った肌は、今や熱を帯びている。こちらを掴んで離さない目線に、たじろいでしまう。
「僕は、大した男じゃ無いよ。多分、山本さんなら、もっと良い人が居ると思うけどな」
彼女は、王道のモテる人ではないが、密かに思いを寄せる人が居る、という点では引く手数多だった。そんな人と、僕が釣り合う筈がない。
「うん。神田君が大した人じゃないことは知っている」
自分で言っておきながら、いざ肯定されると傷つく。山本さんは、僕の微妙な表情の変化を感じ取ったらしい。
「ああ、ごめんね。そういうつもりじゃ」
「良いの。僕がそう言ったんだから。山本さんも理解しているなら、どうして?」
「うーん。例えば、神田君。飲みの席とか苦手だよね。いつも、無理して笑っている感じだもん」
「え!ばれていた?!」
「ばればれです」
山本さんは口に手を当てて、笑いを堪えている。誰にもばれていない、自分は名優かもしれない、と思っていたのに。
「それでも、場の雰囲気を壊さない様に、考えているでしょ。だから、終わる頃にはへとへとになっている。そういう姿を見ると、守ってあげたいって、思うんだよね」
「小動物的感じですか?」
「ううん。それとは少し違う。言葉に出来ないことがもどかしいよ。他にも理由なら幾らでも挙げられるけれど、まだ聞きたい?」
「大丈夫!もう結構です!」
もう既に、悶え死にそうだ。恥ずかし過ぎる。女性から告白されることは初めてだ。俊君は、これを何十回と繰り返しているのだろう。一体、何回目で平気になるのか、教えて欲しい。
「今すぐに返事が欲しい訳では無いから。またね」
肩の荷が下りたのか、山本さんは小走りで去って行った。柔い芳香剤の匂いを残して。
一人残されて、深い溜め息を吐いた。これまでの人生で一番の事件が起きてしまった。秋風がくすぐる様に通り過ぎる。手をポケットに突っ込んで、当ても無くキャンパス内を彷徨う。

こういう時、頼れるのは一人だけだった。連絡を取ると、風間はすぐに大学内のカフェテリアに来てくれた。ここでは、パソコンを熱心に打ち込んでいる人や、雑談に明け暮れている人が大勢いる。
「よ。重大な相談って何よ?」
カプチーノ片手に席へ座る。僕は、どう切り出せば良いのか、まだ迷っていた。風間はずずっ、と一口飲んだ後、欠伸をした。
「告白でもされたか?」
店内を見渡しながら、風間が呟いた。
「うん」
小さく頷いた。
「そんな所だと思ったよ。それで相手は?」
「プライバシー保護の為、詳しくは…」
「ま、山本さんだろ?」
ワンテンポ、ツーテンポ、時が止まる。
「…違うよ」
「説得力ねえな。それで、何を相談したいの。まさか、告白を受けるか断るか、俺に相談するとかじゃ、ねえだろうな。それはお前の問題だぞ」
「分かっているよ。ただ、自分でも混乱していて。山…彼女をどう思っているか、あやふやなんだ」
「その彼女のことは好きだろ?」
「好き…だよ。真面目で、芯が通っていて、誰にでも平等に接していて」
「それなら、悩むこと無いだろ。あ、もしや顔か。顔がタイプと違うのか?」
風間が、悪い顔をしている。片方だけ釣り上がった口元に、ねっとりとした目つき。
「真逆。どストライクだ」
「お前、惚気か!自慢話をしたいが為に、俺をここへ呼び寄せたのか。言っておくが、俺もそこまで暇人じゃないからね」
「…違うよ。彼女の優しい所が好き。でも、それは彼女の顔が可愛いから、そう思っているのかもしれない。もし彼女が見目麗しくなかったら、果たして僕は彼女を好きになっていただろうか?」
風間は目を、点々にしている。
「神田、やっぱりお前は面白いな」
「これは真剣な悩みだよ。面白いなんて、酷いよ!」
風間は両手を合わせて、謝罪の意を示した。
「いや、滑稽ではない方。興味深いというか。そこまで考える人は、今時貴重だぜ。胸が大きいから、身長が高いから、やりたいから、そんな動機で恋人を作る奴も居るのに。お前は凄い!」
「それ、褒めているの?」
「ああ、もちろんさ。そういう所も含めて、彼女も神田を好きになった、と思うよ」
こういう所が、女性は守りたくなるのか?
「結論から言うと、顔を重要視することは悪いことではないよ。情報源は、人間、ホモ・サピエンス理論」
「また始まった…」
「俺は、これを提唱し続ける。良いか、俺たちの先祖はパートナーを性格よりも、顔、体格で選んでいた。だって、そうだろ。マンモスを相手にする時、穏やかな人が有利とか無いからな。どんな顔が好まれるか、これは諸説あるが、一般的には左右のバランスが均一な顔が理想的だそうだ。栄養が偏ったり、感染症にかかったりしている人は、このバランスが崩れるらしい。より強い子孫を残す為に、健康的でバランスの良い顔が求められる。現代では、イケメン、とか美人だな」
風間の熱量に圧倒される。彼は、いつか論文でも発表しそうである。
「要は、俺達の遺伝子の中に、見た目で判断する部分が残っている。神田がいくら悩んだ所で、遺伝子には抗えないよ」
「そっか…」
「何落ち込んでいるんだよ。良いか、神田が山本さんの顔が好きなのも事実。それに、彼女の中身にも惚れている、それも事実。どちらも嘘偽り無い」
「外見と中身、両方…」
「そう!それって、素敵だな。神田、お前は今愛を勉強している。これから、喧嘩もするだろう、恋敵も現れるかもしれない。でも、それを通じて、愛を育むんだ」
風間は絶好調だ。饒舌になって、恥ずかしいセリフを盛り込んでいる。
「風間って、恋愛したことあるの?」
「いんや。無い」
「うそでしょ」
自分は恋愛経験が全く無いのに、友達の恋愛に親身になって、アドバイスをくれる男、それが風間だ。

僕は人生初の彼女が出来た。授業の時間以外は、山本さんと過ごすことが多くなった。祝日も二人で動物園や、水族館などのありきたりなデートスポットへ行った。自然に風間と会う機会は減少した。当の本人は、「やっと神田にも、俺以外で昼飯を一緒に食べる人が出来たか」と寂しがる様子は無かった。
「ねえ、聞いている?」
脳内空間から、現実へと戻される。ベンチの隣には、風間ではなく、山本さんが座って居る。
「ごめんね。考え事していた」
「神田君って、いつの間にか自分の世界へ飛んで行っちゃうよね」
平坦な口調で喋る。怒っているのか、不思議がっているのか、どちらか判別出来ない。
「そうなのかなぁ」
「そうだよ。遠くの一点を見つめてさ、意識があるのか分からない。そのまま吸い込まれて、居なくなってしまいそう」
「面白い考えだね」
風間だったら、どう答えるだろう。
「ほら、また」
慌てて彼女に目線を合わせる。今度は間違いない、怒らせてしまった。形の良い眉がきゅっ、と跳ね上がって、口元が固く結ばれている。
「私と一緒に居ることは、つまらない?」
「滅相もない。楽しいよ」
必死に声を届けようとする。一言、口から発せられる度に、彼女は悲しそうな顔になる。もがけばもがくほど沈んで行く。
「そんな感じには思えないよ」
何か言わなくてはいけない。それは分かっているのに、もう言葉が浮かばなかった。準備をしていた半開きの口は、ただ滑稽に映るだけだ。
山本さんは深い溜め息を吐いた。それは、意図的では無い。そうでもしないと、やっていられない、そんな感じだった。それが余計、僕の心臓を抉り取った。
彼女は腕時計を確認して立ち上がった。
「もう、次の授業だ。じゃあ」
いつもなら「またね」が付随していた。彼女の後ろ姿が他の学生と重なっていく。
「何をやっているんだ」
空を仰ぎ見た。薄暗い曇天、僕を非難している様に感じる。
その日以来、彼女は僕に連絡をしてくれなくなった。二日、三日、経つと不安になって、こちらから連絡をしようと、試みた。でも、どう伝えれば良いのか、困惑した。また同じことの繰り返しになる気がしたからだ。
八方塞がりである。恋愛体験皆無の僕は、どうすれば良いのか、さっぱりだ。いや、これは恋愛以前の問題だ。
何故、彼女と一緒に居る時に、別の事を考えてしまうのだろう。この前は風間のことだったが、他にも色々な事を反芻している。例えば、何故戦争が起きるのだろう、とか。普通の人は考えないのだろうか、僕は気になってしょうがない。
このもやもやを解消したい。それには、風間が必要だった。
久しぶりに会った風間は、髪を茶髪に染めていて、ザ・大学生、といった感じだ。
「よお、長らく会わなかったけど、最近どうよ?」
「…あまり」
「山本さんと、上手くいっていない感じか?」
「そうなんだ。それで、風間に相談したくて」
「彼女とベタベタして、俺を放っておいて、上手くいかなくなったら、俺に相談かぁ?俺は便利やじゃねえぞ」
軽い調子で言うが、中々痛い所を突かれる。
「ごめんよ。ゼミとか、バイトの関係もあって、忙しいの」
「マジに受け取るなよ。それで、どうして上手くいっていないの?」
「山本さんに、僕が時々自分だけの世界に行っちゃうって、言われた」
「自覚は?」
「ある。二人で話している時にも、たまに。それこそ、この前は風間の事を考えていた」
何の気なしに、言ってしまったが、瞬時に後悔した。
「おいおい、彼女と過ごしている時に、俺のことを考えるって、気持ち悪いな」
「いつもではないから!」
意味不明な弁解をして、余計変な空気になる。
「と、とにかく、謝りたいんだけど、どうこの気持ちを表現したら良いのか、困っているんだ」
「それに謝っても、また自分の世界に入っていたら、同じことの繰り返しだしな」
ふーむ、と風間は顎をしゃくった。
「そもそもさ、どうして彼女と一緒に居る時に、他のことを考える訳?」
「僕さ、一人で過ごす時間が多かっただろ?」
「俺以外に友達いないしなぁ」
「そそ。それで、時々寂しくなるの。そう言う気持ちを、空想に浸ることで紛らわしていた訳」
「ははぁ、今でもその慣習が抜け切らないと」
頭を抱え込んで、息を吐く。
「んああ!どうすれば良いんだ!」
「山本さんと過ごす時間を減らせば良いだけだろ」
簡単なことよ、そう続けた。
「一人の時間を増やしたい、そう言うの?」
「どう伝えるかは、自分で考えろよ。でも、そういうこと」
「どうかなぁ…」
「あのな、お前は山本さんに、気を使い過ぎなんだよ。お客様か?違うよな。神田と山本さんは、恋人な訳だろ?もっと、自分を曝け出しなって」
いつになく、風間は熱を帯びている。
「そ、そうだね」
気迫に押される形で、頷く。
「あ、勿論その前に謝罪な。ここで大切なこと、それは何でしょう?」
急遽テスト形式になる。恋人への謝罪、一番重要なことは…
「分かった!誠心誠意謝ることだ」
ぶぶー、手を胸の前で、大きくばってんにする。
「それは、当たり前。正解はプレゼントでした。恋人から贈り物をもらって、嫌がる子なんていない」
「何を送れば良いの?」
「どこまでも受動的だな。神田は何をもらったら嬉しいと思う?」
異性どころか、友達にすらプレゼントを、長らく送っていない。全く分からない。
「花とか、チョコ?」
新鮮さの欠片も無い。
「安牌だな。でも、気持ちがこもっていれば良いか」
思わず胸を撫でる。風間に認めてもらうと、率直に嬉しい。これを聞くと、絶対調子に乗るので、本人には言わない。
「後は、愛の言葉だな」
予期せぬ展開に、口から唾が飛んだ。円を書くように、液体は風間の手に付着した。
「うわ、汚ねえ!何すんだよ!」
ハンカチをぽっけから出して、丁寧に風間の手を拭く。
「ごめんよ。まさか、愛の言葉なんて出てくると思わなかったから。冗談だよね?」
「マジ、大マジ」
冗談を言っている顔ではない。顰め面をして、精一杯抗議をしてみる。
「そんな顔したって、無駄だからな。山本さんのこと、好きなんだろ?」
その質問はずるい。
「好きだよ。僕には勿体無いくらい、良い人だ」
「なら、想いを届けないと。迷っていると、他の男に取られるぞ」
脇腹を突いてくる。とてもこそばゆい。
「ちょ、やめて。そこ、敏感だから」
「ほれほれい、宣言しろ。山本さんに、想いを伝えるって」
こういう時、風間のしつこさは半端ない。
「わ、分かった。伝える、伝える。だから、もうそれ以上は」
ようやく解放してくれた時、僕はぜいぜい喘いでいた。
「よし。覚悟は決まったな。おとこになる時だ。男じゃないぞ、漢だ」
風間は空中に漢の文字を書いた。
「今のご時世、そういう気遣いは大切だからな。週刊少年ジャンプも、性別は関係ない。少年の心さえ持っていたら、女性だろうが、おっさんだろうが、ジャンプっ子だ」
どや顔の風間はこの世界で生き生きとしている。

意を決し、山本さんに連絡をした。
「大切なお話があります。お時間頂けないでしょうか?」
返信が来るまで心臓が張り裂けそうだった。長距離走をしている時の苦しさとは違う。原因の判明しない、未知の出来事に戸惑いを隠せない。それは、山本さんの顔を思い浮かべると、特に悪化した。息をするのが苦しい。
「分かりました。日時、場所は?」
返信が来た時、安堵と緊張感が綯い交ぜになった感情が湧き出た。
ちょっと贅沢なチョコレートと、赤い薔薇を一輪購入した。
約束の日、僕は一時間前に約束のカフェに到着した。何とか、山本さんが来るまでに気分を落ち着けたかったからだ。
なので、山本さんが席に座って、コーヒーを手にしているのを確認した時、絶望した。
「あ、神田君。早いね」
「山本さんこそ、何で?」
「久しぶりに貴方に会うから、緊張してね。おかしいでしょ?」
頬が桜色になって、コーヒーをじっと見つめている。子猫を動画で見ている時に、生ずる反応を、僕はしていると思う。
「座ったら?」
立ち尽くしている僕に、山本さんはそう言った。
「お邪魔します」
奇妙な返しに、彼女はくすり、と笑った。ふざけているつもりが無い僕は、恥ずかしさで紅潮した。こんな僕らの姿は、側から見ると、あおはるなのだろうか。
僕はカフェラテを注文した。
「それで、最近どう?」
山本さんが、探りを入れる様に、質問をして来た。まずい、完全に気を遣わせている。
「ぼちぼちかな。そちらは?」
「現状維持ってとこかな」
はは、乾いた笑いが空虚に響く。話題を出さなければ、と一生懸命になるほど、空回りする。
「「あ、あのさ」」
漫才みたいに、二人の息が合った。
「「お先に」」
「大した話じゃ無いから、山本さんどうぞ」
一呼吸置いて、彼女は切り出した。
「私、留学しようと思っているの」
「おあっ!」
衝撃的な球が飛んで来た。それは僕が何度も練習して来た、今日話す内容を吹き飛ばした。頭がチカチカする。
「いつ?」
「二ヶ月後に春休み入るでしょ?そこから卒業まで」
「そっかぁ」
言葉が続かなかった。なんて彼女に伝えれば良いのだろう。
山本さんは僕の反応を見て、小さく息を吐く。
「それで、私達の関係のことだけど…」
言いにくそうに、切り出す。
「時差もあるし、今まで以上に交際は難しくなると思う。神田君にも迷惑をかける。それで…」
「山本さんは、別れたい?」
首を横に思い切り振る。唇を噛み締めていることを見受けられる。
全身が震えた。緊張で心臓が破裂しそうだ。でも、ここで引いたら、一生後悔する。
「僕も別れたく無いよ。そもそも今日は山本さんに、謝りに来たんだ。僕の態度について。僕はどうやら一人の時間が長すぎて、たまに自分だけの世界に行ってしまう時があるみたいだ。ごめんね。勘違いして欲しくない、君と一緒に居る時間は最高だ。でも、一人の時間も少しは欲しいかな。僕は君が好きだ。これだけは確かだ。たとえ、遠くに離れたって、その想いが変わることは無いよ」
血が体全体を暴れまわる様に、波打つ。体が火照って、溶け出してしまいそうだ。
目の前の山本さんは、顔を覆っている。シミュレーションでは、無かった展開だ。
「あれ、ごめん。失望させた?こんな筈じゃ」
「ううん、違うの」
山本さんは顔を上げる。涙が肌を伝っている。手でそれを拭った。
「神田君。初めてだよ」
「初めて?」
何が初めてなのか、僕にはさっぱりだ。
「初めて、あなたが私のことを好きって、言った」
「あ」
間抜けな単語が口から出る。
「僕は彼氏としては、最悪だね…」
「そうかなぁ」
「うん、そうだよ。山本さんのことよりも、自分のことで一杯だった。ごめん」
真っ直ぐと彼女を見つめてから、頭を下げる。
「ちょ、神田君!頭、上げてよ。周りの人に勘違いされる」
「確かに、連絡を取ることも困難になるかもしれない、だけど、僕は君とこれからも付き合っていたい」
言い終えて、また山本さんを見る。次から次へと、涙が溢れる。
「あれ、おかしいなぁ。涙が止まらない。こんなにも嬉しいのに」
山本さんは泣き笑った。顔をくしゃくしゃにして。それは、とても綺麗とは言えなかったが、愛おしかった。
お互い落ち着いた後、僕は用意したプレゼントをリュックから取り出した。彼女は目を見開いていた。
「神田君。どうしたの、熱でもある?」
「柄にもないけれど、サプライズプレゼント。大した中身ではないけど」
山本さんは丁重に包装紙を剥いで、中を開けた。真っ赤な一本の薔薇とチョコレート。ありきたりな組み合わせだが、彼女はとても喜んでくれた。
「私を想って、プレゼントを選んでくれた、その事実が嬉しいの」
彼女はそうフォローしてくれた。
カフェを出る時には、僕達の間につっかえていたものは、綺麗さっぱり無くなった。夕陽が落ちかけている空は、オレンジ色に染まっている。
「僕、一日のうちで、この時間が一番好き」
「理由はあるの?」
隣を歩く山本さんが、聞いてくる。
「子供の頃を思い出すからかな。ほら、夕焼小焼が流れてさ、また明日遊ぼうって、友達と約束する。子供時代はアウトドアでね、毎日遊んでいたよ」
「もし戻れるとしたら、戻りたい?」
「どうかなぁ。多分戻らないかな」
「それは、どうして」
「過去は美化されるものでしょ。あの時も小学生なりの悩みがあったと思う。今思えばちっぽけなことでもね。やっぱり、思い出は思い出のままにしておいた方が良いよ」
「大人だね」
「そうか…」
言い終える直前に、僕の口は塞がった。山本さんの柔らかな唇が、僕のものと重なり合う。静かな鼻息が顔をそよぐ。僕は驚いて、目を全開にしていた。僕とは対照的に、山本さんは目を閉じていた。唇を離し、彼女は目を開ける。今や、その頬は林檎みたいに赤い。僕も多分そうだろう。先程の感触を確かめるために、自分の唇を触った。
「この思い出、大切にするね」
山本さんは回れ右をして、走り去っていた。僕はそれを、ただ呆然と眺めていた。
夕焼けチャイムが、タイミングよく流れる。僕の為に用意されたものとしか思えなかった。
僕のファーストキス、それは甘酸っぱい味では無い。コーヒーの味だった。








ここから、僕と風間の最後について書き記す。出会いがあれば別れがある。それは当然のことだ。僕達も例外では無い。
僕は就職が決まって、後は大学卒業を待つだけだった。カナダにいる山本さんとは、今も交際を続けている。彼女はそのまま、現地の企業に就職する。相変わらず遠距離だが、僕達は満足していた。
風間とはちょくちょく会うけれど、将来については話さなかった。特段理由は無いが、話す場面が無かった。僕達がする話と言えば、ここに書くのも躊躇する様な、どうしようも無い話が大半だった。
ある日、風間から「二人で会おう」と連絡が来た。二つ返事をして、場所と時刻を決めた。
待ち合わせ場所に着くと、もう風間はベンチに座っていた。
「おう、神田」
いつもと変わらない笑顔で、僕を迎える。
「風間、調子は?」
「ばりばり元気。お前も元気そうだな」
「まあね」
「彼女さんとは、上手くいっているか?」
「お陰様で」
風間は親指と人差し指を輪っかにして、指笛を吹く。日本人がする指笛はダサいが、風間がやると、格好が付く。
いつものように、風間の隣に座り込む。
「それで、なんか話でもあるの?」
「そう、そう。俺の最後の秘密、大学卒業前、神田に教えたくてな」
風間は満面の笑みでこちらを見た。最後、ごくりと唾を呑んだ。思えば、出会った時から風間には驚かされてばかりだった。自分には無い価値観を持っている、そんな彼が好きだった。風間が居なければ、僕の大学生活は彩りのない四年間だった。
「秘密、何?」
風間はたっぷりと間を置いてから、言った。
「俺、風間って名前じゃない」
ゾワっとした。背筋が凍るとは、こういうことか。本当にあった怖い話、それが眼前で繰り広げられている。
「は?」
多種多様な表現を、頭の中で探した結果、この一文字が妥当な回答だ。
風間はしてやったり、といたずら小僧の表情をしている。
「俺の本名、桜雪月。風間なんて、親戚にも居ないよ」
「え、いや、どういうこと?」
何を言っているのか、さっぱり分からない。
「俺な、一度別人になってみたかった。桜雪月では無い存在。そうするには、どうすれば良いか、整形?いや、それは外身が変わるだけで、本質的には不変だろ。それで、行き着いた先が、名前を変えること。俺さ、名前には人の想いが沢山詰まっていると思うんだよ。この大学で俺は風間という存在になった。風間として、生きて来た。神田や多くの人が、俺のことを風間と呼んでくれた。それによって、俺は自分が風間であることを実感した」
風間は理解出来ない話を淡々と説明する。
「風間、大丈夫か。自分が変なことを言っている自覚はあるか?」
「はは、まぁ常識的とは言えないよな。でも、俺は正常だよ。お前からしたら、異常かもしれないけどな」
風間は肩を竦める。
「神田。俺の名前が桜雪月って聞いてどう思った?」
「違和感しかないよ。俺にとって、風間は風間だから。混乱している」
「だろ!神田にとって、俺は風間なんだよ!この四年間、お前は桜雪月ではなくて、風間と過ごした。これが事実だ」
目を爛々とさせながら、風間は僕の手を握った。
僕はじっと風間の目を見た。それは大人に成りきれていない、純粋なものだった。
「ふ、あは、はは、あはは」
腹の底から笑った。余りにも笑うから、涙が出て来た。おかしくてたまらなかった。
「そんなに面白いか?」
風間は不思議がっている。溜まりに溜まった感情を爆発させた後、僕は彼に言った。
「風間。君は奇想天外だよ。君みたいな人に出会ったことが無かったし、これからも恐らくないだろう。最高だ。風間のお陰で、この四年間楽しく過ごせた。ありがとう」
へへ、風間は人差し指で鼻の下を擦る。照れ隠しにしては、ベタすぎる。でも、それが良かった。

大学を卒業して三年。僕は出版社に勤務している。仕事柄、ユニークな人達と関わりを持つが、風間以上の存在にはまだ出会ったことがない。
風間とは現在も連絡を取っている。彼は今アメリカで伝説と言われる、巨大イカを捕獲しようとしているらしい。どこまでも面白い存在だ。
この手記を作成した理由、それは風間の存在をこの世界に残す為だ。彼の面白い話、変わっている考え、それを人々に伝えたい。
もう、貴方にとって、風間は風間でしょ?
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