あなたに触れる、手前の手前

文字数 4,968文字

「まさかあたしたちの歳で先にウエディングドレス着ちゃう子がでるとはね」
 ハタチ。
 美弥子は一足先に大人になった。
 亜里沙は彼女のドレスの裾を踏まぬよう注意しながら、鏡の中の美弥子をまじまじと見つめる。女子中時代からの「親友」という名の元に、美弥子の鶴の一声でなつみは5畳ほどのシンプルな新婦部屋へ人前式前に入れてもらえたのだ。
 サテンのグローブが白く細い肌の上を滑べっていく。蛍光灯のように青みを帯びているビスチェタイプの純白カラーを纏う、美弥子の華奢な体。清楚感が際立っている。カラーリングとは無縁の艶ある黒い巻き髪が揺れて美弥子が振り向くと、黒い瞳がシャンデリアの下で揺れた。きれいだった。昔と変わらず。
「式の前に1つ、亜里沙に報告があるの。いい報告よ。これぞ幸せのおすそ分け」
 幸せのおすそ分け。たぶん、いや、美弥子はあっけらかんと言葉通りのおすそ分けをしようとしてくれているのだ。その言葉通りに受け取れないあたしの小さな器はどうしたものかと亜里沙は気持ちを押し殺して、なぁに?と笑顔で答えた。
 化粧など纏わなくても見た目の素材良き美弥子がいま、世の中すべてのかわいいやきれいを凝縮したようにキラキラしている。一般人だとしても元からきらめきのある人は、人の手が少し加わるだけで強い光を放つ。
 内面よりも大事なのは見た目。そして目に見える能力。笑えば人が集まるし、分からないことを聞けば的確にアドバイスしてくれる。一度話せばどこまでもつっかからない彼女から発せられる前向きな言葉。クラスで最上級の女子。
 眩しい人の横にいれば自分も恩恵にあずかれるかと思っていた亜里沙だったが、光のそばに寄れば影は強まるばかりだった。中学の頃から変わらない。
 黒いスポットライトのふち、そこから脱却するための亜里沙の努力はこの5年の間に確実に実ってきていた。
 インスタグラマー、プロデューサー、アクセサリークリエイター、女優。なんでもいい、有名になりたかった。そしていつのまにか亜里沙自身が思うよりも急速に【原亜里沙】の名は広まっていった。
 なのに。

 十代の終わりに思ってもいなかった

を親友からもらった亜里沙は、美弥子とおなじハタチを迎える今日、こうして渋谷の美容室の前で花を咲かせられるだろうかと胸に手を当てた。
-山下先生、渋谷の美容室で働いてたよ。
 なんで神様はひとつの再会の機会でさえも美弥子に譲ってしまったのだろう?美弥子は髪を切りに美容室へ足を運んだ。特にスタイリストを指定するまでもなく。それが吉継(よしつぐ)だったのだ。美弥子の表情から読み取るにそれはまったく予定調和ではないことは分かった。亜里沙のことは特に名前を出して話していないという。きっとなんだかんだで亜里沙を気遣ってくれた流れであることも理解できた。
 109にほど近いその美容室はそこに存在することは知っていたけれど、足を踏み入れることはなかった場所だった。古いエレベーターの扉が錆びついた音を立てて開き、亜里沙は「美容室Noel」と書かれた紹介カードを片手に三階のボタンを緊張した面持ちで押した。

 山下吉継は亜里沙が中学3年の時の教育実習生だった。中学生の女子にとって7歳差の異性というのはれっきとした大人で、でも仕事慣れしていないフレッシュさというのは同じ学生の範囲からか親近感を感じていた。
 3週間ほどの実習期間、表向きでは山下先生と呼ばれていても、担任がそばを離れれば「吉継」と四方八方の女子から黄色い声をかけられる若者だった。肌は色白な方で、シャツの上からでも鍛えられているであろう体の線がよく分かった。窓の外で生ぬるい湿気を伴った風が紫陽花を揺らすと、シャツを肘までたくしあげる。そういう一挙手一投足の姿に女子たちはいちいち歓喜し、そのすらりとした背丈に「キスするのにちょうどいい身長差だ」とあちらこちらで呟いていた。肌の白さはあたしも負けないけど、身長は雲泥の差だからきっとキスするときも彼の腕にしがみついて爪先立ちだろうか、と亜里沙は吉継を見つめた。清潔感とエロティシズムの割合が7:3と言ったところか。二重の甘い顔立ちにそぐわない低音ボイスが彼の人気の理由なのだということは分かった。
 ある朝、教室の隅で窓際に立った吉継は教壇に立つ早苗先生の言葉に頷く。彼女はただ今後の文化祭の予定を長い髪をかきあげながらつらつらと喋っているだけだ。いつものように淡々と。でも35歳にしては童顔な顔立ちと小さな背丈が彼女を幼く見せている。そのせいなのか、なぜだか嫌な感じに聞こえない。見た目と雰囲気のなせる技。
 噂によれば、彼女は教壇を下りれば吉継とくだらない話に花を咲かせて信じられないくらいの笑顔を見せるらしい。中学生には太刀打ちできない大人な女性なのだけは分かる。15歳は学校内ではおおっぴろげに化粧も出来ない。
 亜里沙は遠目に頬杖をつきながら、窓を通過する光が吉継の柔らかそうなダークブラウンの髪を照らしているのを見て、きれいだな、触ってみたいと思った。が、その想いを打ち消すように視線を外し、斜め向かいの美弥子を見つめた。美弥子の瞳がまっすぐ吉継に向かっている。どうして見える人には見えてしまうのだろう。いつも見ている同じ顔のはずなのに。3年目にして初めて見た美弥子の女としての横顔は、まるで同じスタートラインに立っている気がしない、と亜里沙は電源をoffするように目を閉じた。

 たった3週間足らずの吉継の実習生生活。その他大勢だった中のあたしを覚えているわけがないよね、と亜里沙は美容室の待合の席で肩を落とした。あの時と変わらない声に呼ばれた【原様】というワードに亜里沙は過去の思い出から一気に引き剥がされた気がした。
 奥まで続く明るい店内には、平日にもかかわらず全ての席に若い女の子が腰掛けて長い髪を濡らしている。夏休みだからだろうか。1つ1つの席に男性や女性のスタイリストがついて、それぞれの話題に花を咲かせているようだった。
 いかがいたしますか?と亜里沙の胸まである髪の毛先をなでる大きな吉継の手。【原亜里沙】の存在はやっぱり彼の中で初期化されているのか、完全に初対面対応だった。
 初めての吉継が目の前にいる。あの頃とは違ったプライベートの吉継は白のインナーに紺のテーラードジャケット、同色のアンクルパンツにキャンバスシューズを合わせて、持ち前の清潔感は相変わらずあった。
 鏡ごしに見つめると、亜里沙の返事を促すように吉継の瞳の二重幅が大きく開く。あのときと同じ目だ。

『告白しちゃえば?』
 吉継が実習後の最後のあいさつをする際に、美弥子は亜里沙に耳打ちした。自分の目が節穴だったと亜里沙はこのとき気づいた。美弥子は特に吉継を特別な存在とも思っていなかったのだ。
「言えないよ!だって」
「大丈夫だよー。なつみかわいいから」
 勝手に思い描いていた亜里沙の先入観はがらがらと崩れ落ちて、美弥子色に上書きされていく。亜里沙の目が「吉継を好きと物語っている」と美弥子に見つめられたとき、NOと言えずにうつむくと、告白するまでの段取りは周囲を巻き込んで着々と進んでいった。
 美弥子を先頭に友人たちに背中を押された午後5時。吉継への告白。彼のまさかという表情はダメに決まっていた。そうだ、始めから決まっていた展開だった。先生と生徒なのだから。友人たちの悪気のない純粋な言葉にはっきり告白なんて出来ないと対抗するべきだったと、亜里沙は自分の弱さに辟易とした。心の準備の整わない告白は最悪以外のなにものでもなかった。

「前髪は切りたくないのかな?眉毛は出したくないようですね」
「あ、はい……」
 上目遣いで鏡ごしの吉継を見つめる。前髪で出来るだけ表情を隠したいと思ったのは、あのときからだ。吉継の知るよしもない。髪も伸ばし始めたのはあの頃からだった。髪型とメイク、たぶんこの二点が変われば気づかないかもしれないなと亜里沙は目を伏せた。
「きちんとセットされてるし、サイドも長めに丸い感じをずっとキープしてるのかなと」
 前髪をそっと持ち上げる指の腹が眉に触れて、亜里沙は息を飲むと触れられた部分をなぞった。
「はい。前髪はそのままにして、胸まであるのを……何センチ切ろう……」
 切りたいからここに来たわけではないことがバレただろうか?いっそのことバレてもいいと思ったが、亜里沙はこの5年のあまりの距離感を、今日の短時間で埋めることがなんとなくはばかられた。
 シャンプーをしている間に考えましょうと言われ吉継の用意したピアス入れに大ぶりなシルバーのピアスを落とす。
 亜里沙の顔の上にフェイスガーゼがかけられて、吉継の手の中になつみの頭が収まる。かゆいところはないですか?とマニュアル的にうかがう吉継にいいえと流れ出るお湯にかき消されるような声で答えた。吉継の両手に集中してしまっていた。頭の形を誉められながら体を起こされて、また元の席へ着く。
「そういえば今日でハタチって書いてありましたね。おめでとうございます」
 新規ということで顧客カルテに書いた亜里沙の誕生日。ただの話題作りか、実は過去の引き出しに故意に手をかけたのか、その理由は触れられた手のぬくもりからだけではまったくわからない。ただ屈託無いほほえみに浮かび上がったえくぼがあの頃と変わらない吉継を思い起こさせて亜里沙は苦しくなった。
「ありがとうございます」
「ハタチになった感想は?」
「19とハタチってやっぱり違う感じします。永遠の19歳でいたいねって、友達と話してました」
「10代はそれぞれの年で特別でキャッチ―な単語が並びますよね。16で結婚解禁、17は花のセブンティーン、18で18禁解禁、19はラストティーン」
「確かにそうですね。じゃあハタチは?」
 吉継がガラス越しに渋谷の街並みに視線を移し、顎に手をかける。この癖いまも変わらないんだ、と亜里沙は吉継の伸ばされた首のラインを見つめた。
「犯罪起こすと新聞に名前のります」
 意表を突いた回答に思わず声出して笑い、その後は脇腹を抑えて笑いを押し殺す。緊張の糸が溶ける。そんなにおかしいです?と吉継の照れ笑いに亜里沙は頷いた。
「髪、ボブくらいにしちゃいます?そしたらさっきのピアスが相当映えると思いますけど」
「え?」
「すごい、個性的ですよねそのピアス」
 亜里沙の目の前に置かれた、針金が四方八方にいりくんだようなシルバーのピアスに吉継は目配せした。
 フリョウヒン。
 これは原亜里沙プロデュースのブランド名だと打ち明けた。普通の店には絶対に出せない、いびつな形。あたしの心そのもの。きっとあの頃から変わらない。告白を最後にしたあの日から。

-ごめん。
-すみません。
 西日で2人の影が重なると同時に発せられた言葉は同義語なのに、まったく意味の異なるものだった。高い湿度の中で亜里沙はじっとりとした冷や汗だけを背にかいていた。え?と吉継が顔をあげる。
-山下先生、すみません。困らせるようなこと言って。なかったことにしてください。忘れてください。
 深く頭を下げて背を向ける。吉継の声が駆けていく亜里沙の背中に投げかけられても、亜里沙は振り向かなかった。

 鏡に映った自分の姿と吉継の笑顔を交互に見た亜里沙は満足げに頷いた。当時と同じボブスタイルだけれど、そこには違う自分が映る。どうぞと手渡されたピアスをつけて会計を済ませると、下まで送りますと吉継がエレベーターのボタンに手をかけた。
 閉まった狭苦しい箱の中はクーラーが効いていない。夏のむしっとした空気の中に2人きりだったが、3階から1階へはあっという間に到達してしまった。扉が開いて一歩外へ出ると
「忘れてなかったよ」
 聞き覚えのあるセリフが亜里沙の背中をなでた。

-でも忘れないよ!ありがとう!

 前向きな言葉に振り向かなかったあの頃をなぞるようにゆっくりと亜里沙は振り向いた。
「ごめん」
「すみません」
 同じセリフがついで出る。あの時とは確実に違う温度感で。
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