第1話

文字数 13,851文字

雪が降り積もり、目の前を白い霧が覆い尽くす。私は迷い込んだこの森の魔法にかけられ、自分が今、どこにいるのかさえわからなくなっていた。足を上げ、雪を踏みつけて進む。サクサクと音を立て、一歩一歩、前に進む。息を吐けば、それは寒空へと消えていった。

いくらか歩いた時、目の前に山小屋が現れた。辺りが薄暗くなってきたせいで、その山小屋から漏れる光が私には眩しかった。最後の力を振り絞り、山小屋の玄関までたどり着くと、寒さで硬直した腕を力いっぱい上げ、二回ノックした。中から反応は無かったが、確かに人の気配がする。小さな煙突から煙が舞い上がり、ほんの少し、いい香りがして私のお腹を刺激した。

私は再度、ノックをして「誰かいないか!」と叫んだ。

返事は無かった。諦めてその場を立ち去ろうとした時、足音がこちらへ近付いて来るのがわかった。足音はドアの前で消え、木で作られたドアがギィーッという耳障りな音を立てて開いた。目の前に現れたのは、ブロンドの髪の毛が肩にかかり、グリーンの大きな瞳をこちらに向けた少女だった。私が呆然と立ち尽くしていると、少女は私の顔から足までをゆっくりと見渡し、ニコリと笑った。

「どなた?」少女の言葉に私はすぐ反応できず、一呼吸おいて口を開いた。

「すまない、雪で車が止まってしまったんだ。少し休ませてくれないか?」

自分の手の感覚が無くなっていくのがわかった。早く暖かい場所へ行きたくてたまらなかった。
少女はふたたび、私の体を見渡して、最後に目をじっと見つめると、怪しい者じゃないと判断したのか、後ろを振り返り、誰かの名を呼んだ。

「ウォルター!お客さんだよ!」

家の奥からまた、先ほどとは違う靴音が聞こえた。コツコツと、こちらに近づいてきた。

「どなたかな?」中からでてきたのは白い髪に白い髭を蓄えた老人だった。私は会釈をし、その老人に状況を説明した。老人は怪しむこともせず、私を家の中へと招いた。

家の中に入ると暖炉のある部屋に案内された。私は火にあたり、凍えた体を温めた。

「すごい雪だったろう。大変だったな」老人は温かいお茶を手渡してくれた。ステンレスのコップを握りしめ、寒さで固まった手を溶かした。お茶をゆっくりと喉に流し込み、体中に染み渡らせた。

老人はイスに座り、パイプをくわえた。私は老人に礼を言った。

「こんな大雪の日に車が止まるとは災難だったな。どれ、車はどこに置いてきたんだ?」

「ここから1キロほど行ったところだ」私は車の方角を指差した。

「そうか。まぁ、せっかくだからゆっくりしていくといい」老人は立ち上がり、私のコップを手に取ってお茶を入れた。

着ていたコートを脱ぎ、壁にかけると、雪で湿った靴とソックスを暖炉の前で乾かした。老人に借りた青いブランケットを肩から羽織り、老人の座るイスの向かいのイスに腰掛けた。

「私の名前はロイド」私は老人に手を差し出した。

「ウォルターじゃ」老人は私の手を握った。老人の手は分厚く、何か物作りをしてる人間だとわかった。

「ここで暮らしてるのかい?」私は家の中を見渡した。壁に掛けられた何枚もの絵は、子供が書いたものだとすぐにわかる絵だった。

ふと、私は先ほどの少女を探した。家に入った途端、姿を消したことに今更ながら気がついた。私はウォルターに聞いた。

「さっきの彼女は?」ウォルターは質問に答えなかった。私の目を見ず、立ち上がり、暖炉に薪をくべた。聞こえていたはずだが、返答が無かった。私はもう一度、彼に違う質問をしてみた。

「娘さんかい?」

「メアリーは娘ではない」

彼女はメアリーという名前らしい。娘じゃないことはわかっていた。いくらなんでも無理がある。せいぜい孫だろうと思った。

「あの子はワシの作品じゃ」ウォルターは振り返り、私に言った。「作品?」私はすぐに聞き返した。

「そうだ。ワシは人形を作って生活しておる。彼女はワシが作った最高傑作だ」老人の発する言葉を理解するのに、時間がかかった。いや、結局、私は理解できないまま、老人は喋り続けた。

「ワシには子供がおらん」老人はふたたびイスに座り語り出した。

「何年も一人で森にこもって人形を作っておる。子供が遊ぶ操り人形じゃ。それで生計を立てている」

私はお茶を飲み、一息ついた。

「歳をとるたびに一人が寂しくてな。少しでも寂しさを紛らわすためにメアリーを作った。でも彼女は喋らない。人形だからな」

私はコートの中から煙草を取り出した。ウォルターはそれに気づき、マッチを私に差し出した。さっきまで冷え切っていた体は暖炉とお茶とブランケットのおかげで、だいぶ暖まっていた。

「ある晩、ワシは星に願った。メアリーが本当の人間になるように」

「まさか…それで?」私は冗談半分で話を聞いた。

「次の日の朝、ワシが目を覚ますと、目の前にメアリーは立っていた。自分の意思で、自分の言葉でワシに話しかけてきたんじゃ」

私はウォルターの目に光るものが見えたことで、その話を冗談半分で聞くのをやめた。彼の願いは星に届き、星は妖精となってメアリーに命を与えた。

「今、彼女はどこに?」

「奥の部屋におる」

「話しても?」

「かまわんよ」

ウォルターは立ち上がり、奥の部屋に案内してくれた。部屋の扉にはクレヨンで書かれた星空を飛ぶ魚の絵が掛けられていた。私は扉をノックした。

「メアリー、お客さんがおまえと話したいそうじゃ」私の後ろからウォルターが呼びかけた。と、同時に部屋の扉が開いた。メアリーは白いチェニックワンピースを着て、扉の前に立っていた。

「やぁ、メアリー、私はロイド」

「はじめましてロイド、メアリーよ」彼女は満面の笑みで私に握手を求めた。彼女の手を握ると、とても人形とは思えないほど、細く柔らかかった。

「入っても?」

「もちろん」

私はウォルターの方を見た。ウォルターは小さく頷いて、暖炉のある部屋へ戻っていった。

部屋の中にはベッドと小さな勉強机が置かれていた。天井から裸電球がぶら下げられており、その小さな灯りで、彼女のグリーンアイズが美しく輝いていた。メアリーはベッドに腰掛け、私にイスに座るよう言った。

「ロイドはどこから来たの?」

「ノッティンガムの街だよ」

「それってどこ?」メアリーは首をかしげた。彼女のひとつひとつの動作はやはり、普通の少女にしか見えなかった。

「この森を抜けて少し車で走れば見えてくる」

「そうなんだぁ」

「君は…この森を出たことがないのかい?」

「ないわ。私は生まれた時からずっとここで暮らしてるの」

先ほどまでの吹雪の音は、いつの間にか静まり、窓の外は暗闇と静寂が支配していた。私は自分の車のことが気にかかったが、明日になれば太陽が照りつけ、この森を抜けることができるだろうと思った。

「ねえ、ロイド。街にはなにがあるの?」

「なんでもあるさ。車や列車、美味しい食べ物、街の中心を流れる美しい川、動物、植物、映画、音楽、書物、あらゆるエンターテイメント、そしていろんな人間たちがいる」

なぜウォルターは彼女を連れて街へ出ないのか。彼女が人間に近づくためには、もっといろんな世界を見せるべきだ。私はそう思った。しかし、本当にメアリーはウォルターが作った人形だったのか。確かにこの森は“妖精の住む森”として、私の街でも伝説として語り継がれている。私は思いきってメアリーに聞いてみることにした。

「なあ、メアリー。君はどこから来たんだい?」

「どこからって…私はここで生まれたのよ」

「そうか。いや、つまりその…君の親は誰だい?」

メアリーは私の質問に答えず、うつむいた。まさか彼女は、自分が人形だったってことは知らないのではないか。私は質問したことを後悔した。

「ロイド…この森の伝説って知ってる?」メアリーは顔を上げ、私に問いかけた。私は彼女に微笑みかけてうなずいた。

「ああ、知ってるよ」

空、森、海。この国に伝えられる3つの伝説がある。空と宇宙の間にある世界、そこには人間の言葉を話す怪獣がいる。海の底には帝国があり、人間と魚類が何千年にもわたり戦争をしている。森には妖精が眠り、不幸な人々の願いを叶えるという。私が子供の頃に散々、聞かされたお伽話だ。

「私は妖精に命をもらったのよ」メアリーは立ち上がり、窓の外を眺めた。

「ただの操り人形だった私は人間になった。心を持った。だからもっといろんなことを知りたいの」

そう話す彼女の目は純粋で、嘘偽りは微塵も感じられなかった。

「ウォルターと街へは行かないのかい?」

「彼はいろんなことを私に教えてくれるわ。でも、この森を出ることは禁止されてるの」

「なぜ?」

「それは…わからない」

屋根に積もった雪が大きな音を立て、地面に落ちた。それと同時に、部屋の扉をウォルターがノックした。

「メアリー、そろそろ寝る時間だぞ」ウォルターは扉を半分ほど開け、顔を出した。

「ごめんなさい。ロイド、またお話しましょうね」メアリーは布団に潜り込み、目を閉じた。彼女が目を閉じた瞬間、彼女の心臓も止まったかのように、安らかに眠った。私はその寝顔をいつまでも見守っていたい気持ちになった。それを遮るように、ウォルターが私に話しかけた。

「客人、君は2階の部屋で寝るといい。布団は出しておいた」

「ああ、ありがとう」私は立ち上がり、部屋を出た。

私はベッドに入り毛布に包まった。外はまた雪が降り始め、風と共に夜の森を駆け巡った。天井を見上げ、人差し指を突き出し、メアリーの顔を描いた。彼女のことが頭から離れなかった。


その昔、刑事だった時の自分を思い出した。ある日、上司から花屋の娘を守るよう命じられた。彼女の名はガーベラといい、マフィアのボスと愛人関係だった。マフィア同士の抗争の際に、彼女は敵対する組織から狙われ、私がその護衛役となったのだ。まだ若かった自分は張り切っていた。彼女が住むマンションの向かいに身を潜め、四六時中、彼女を護衛した。最初こそは私に嫌悪感を抱いていた彼女も、次第に心を開いてくれた。そして、私とガーベラはいつしか恋に落ち、愛し合った。ガーベラはとても無邪気で、天真爛漫な女だった。歳も20歳になったばかりで、世間のことは何も知らなかった。母親のいない彼女は幼い頃から父親にレイプされ続け、心を病んでいた。18歳の時、父親は金を借りていたマフィアに殺され、独りになったところをそのマフィアのボスが引き取り、愛人として迎え入れた。
私とガーベラは抗争が終わるのを見計らって、街を出た。愛車のジャガーに荷物を乗せ、数千キロ離れたノッティンガムの街へ逃げてきたのだ。私たちはここで新しい生活を始めた。

気付くと、私は眠りに就いていた。昔のことを思い出したのはたぶん、メアリーとガーベラが重なって見えたからだろう。



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天窓から太陽の光が差し込み、私の眠るベッドを照らした。私は目を覚まし、大きなあくびをした。上体を起こし、部屋の中を見渡した。この部屋にはベッドとその正面にある大きな鏡しかない。頭を搔きむしり、ベッドから出た。窓の外を見ると、一面が雪景色だった。おそらく、私の車がすべて覆い尽くされるくらいは積もっているだろう。ドアを開け、階段で下まで降りると、暖炉の前でイスに座り、メアリーが本を読んでいた。彼女は私を見つけると大きな瞳を細め、ニッコリ笑った。

「おはよう、ロイド」

「おはよう、メアリー」私はイスに座り彼女の持っていた本を指差した。

「それはなんだい?」

「これは''スカイラー”という本よ」メアリーは本の表紙を私に見せた。この本はイギリスでベストセラーになった本だ。詳しい内容は知らないが、スラム出身の男が銀行員の女と恋をする話だ。作者は日本人とイギリス人のハーフで、私も一度だけテレビで見たことがある。

「その本が好きなのかい?」

「そうよ。誕生日にウォルターがプレゼントしてくれたの」

「そういえば、ウォルターは?」私はタバコに火をつけた。

「たぶん、裏庭で雪かきしてるわ」

私はタバコをくわえながら外に出た。外の気温は思っていたより暖かく、これならば今日中にすべての雪が溶けるのではないかと思えた。山小屋の裏に周ると、ウォルターはスコップで雪かきをしていた。私に気づき、ウォルターはその手を止めた。

「昨晩は眠れたか?」

「ああ、おかげさまで」私は積まれていた薪の上に腰かけた。ウォルターもスコップを雪に突き刺し、ポケットからパイプを取り出し、それを吸った。

「メアリーは起きてたか?」

「暖炉の前で本を読んでたよ。彼女の愛読書らしいな」

タバコを雪で消し、近くにあった焼却炉に投げ入れた。私はあくびをし、大きく伸びをした。ふと、頭に浮かんだ言葉を無意識に発してしまった。

「なぁ、ウォルター。彼女をなぜこの場所から出さない?」私の言葉に表情ひとつ変えず、ウォルターはふたたび雪かきを始めた。質問に答えなかったウォルターに腹が立ったのか、私は言葉を続けた。

「彼女はもう人間なんだろ?なぜこの場所に閉じ込めておく必要があるんだ?」

私はまるで石に話しかけているかのようだった。私の言葉にウォルターはまったく反応を示さなかった。静かな森の中で鳥の鳴き声が響き渡り、私たちを置き去りにして、季節は表情を変えていった。

「あんたの独りよがりで彼女の可能性を潰すのは良くない。彼女は世界を知りたがってる。少なくとも街へは連れて行くべきだ!」自分でもどうしてこんなに熱くなっていたのかわからない。昨日出会ったばかりの人間にこんなこと言うなんてどうかしてる。もしかしたら何らかの理由があるかも知れない。それでも私はメアリーをこのまま檻の中へ入れておくなんて残酷に思えた。

私の言葉が途切れた瞬間、ウォルターが口を開いた。

「客人、人の家のことに首を突っ込むのは良くないぞ。今日の夜にはほとんどの雪が溶けるだろう。そしたら出て行ってくれ」

ウォルターはスコップを持ったままその場を立ち去った。私は歯を食いしばり、ウォルターの後ろ姿を目で追った。



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二階の部屋に戻り、ベッドに横たわった。見知らぬ私に親切にしてくれた恩人になんてことを。私が後悔をしていると、誰かが階段を登ってくる音が聞こえた。部屋のドアを二回ノックし、ゆっくりとドアが開いた。メアリーが顔だけを出して私に言った。

「入っていい?」私は起き上がり、メアリーにうなずいた。メアリーはゆっくりと部屋のドアを閉め、部屋に入ると、私のベッドに腰かけた。

「ねえ、ロイド。さっきは大きな声を出してどうしたの?」メアリーは心配そうな顔で私に聞いた。「なんでもないよ」と、私は答えた。

メアリーは髪の毛を耳にかけ、立ち上がると、鏡の前に立った。

「ロイド、街にはたくさんのお洋服屋さんがあるんでしょ?」

「…ああ」

「私ね、このお洋服しか持ってないの。これもウォルターがプレゼントしてくれた物よ」そう言うと、彼女は鏡の前でポーズをとった。

私は先ほどの後悔を忘れ、メアリーに問いかけた。

「メアリー、もしよかったら一緒に街へ行かないか?」私の言葉を聞いてメアリーの驚く顔が鏡越しに見えた。

「いいの…?」メアリーは振り返り私の目を見つめた。

「もちろん、君が行きたいなら」

私が微笑むと、メアリーは飛び跳ねて喜んだ。その姿を見て、やはりメアリーは無邪気で純粋な心を持った少女なんだと思った。ふと、メアリーが喜ぶのを止め、悲しそうな顔で私の方を見た。

「でも…ウォルターは許してくれないかも…」

私は立ち上がり、メアリーの頭に手を置いた。

「メアリー、もし君が本気なら今晩こっそりと私の車においで」

メアリーは顔を上げて私を見た。

「でも、ウォルターにはバレちゃいけないよ。うまく抜け出してくるんだ。できるか?」

少しの沈黙の後、メアリーは真っ白な歯を見せて笑った。

「うん!やってみる!」



予想どおり、雪はほとんど太陽の光に溶かされ、神秘の森が息を吹き返した。陽が沈む少し前、私はウォルターに礼を言って山小屋を後にした。ウォルターの後ろにいたメアリーにウインクをして。

雪の無い道を足早に進んで行き、私は車にたどり着いた。色の剥げたジャガー。何年も連れ添う相棒だ。鍵を開け、エンジンをかけた。

「置き去りにして悪かったな」私はハンドルにキスをした。しばらく、その場でエンジンを温めた。

日が暮れ、あたりは闇に包まれた。時計を見ると午後9時だった。メアリーはうまく抜け出して来られるだろうか。ウォルターに見つかり、本当に二度とあの山小屋から、この森から出ることができなくなってしまうんじゃないか。私は不安と戦った。灰皿から何本ものタバコの吸殻が溢れ出ていた。

それから何分か経った頃だろうか、少しだけ開けた窓の隙間からメアリーの声が聞こえた気がした。私はエンジンを切り、急いで車の外に飛び出した。

「メアリー?」私の声に返答は無かった。気のせいかと思った。その時、遠くの方から足音が聞こえた。私は耳をすませ、足音を聞いた。確かにこちらに近づいてくる。いやしかし、もしかしたらメアリーではなくウォルターかもしれない。私は車の影に身を潜めた。足音が止まり、小さな吐息が聞こえた。

「ロイド…」そこにいたのはメアリーだった。

「メアリー!」私は立ち上がり、メアリーの元に駆け寄った。小さなリュックサックを背負い、ボロボロの茶色いコートを羽織ったメアリーは息を切らしてそこに立っていた。

「大丈夫か?ウォルターには見つからなかったか?」

「それが…」

「まぁいい、外は寒いから車に乗ろう」私は助手席のドアを開けた。メアリーの持っていたリュックサックを後部座席に置き、私は車のエンジンをかけ、車内を暖めた。メアリーは両手をこすり、初めて乗った車に少し興奮気味だった。

「それでどうした?」

「部屋の窓から出る時、ウォルターに見つかったの。でも、彼は怒らなかった。私の気持ちはわかったと、優しく見送ってくれたわ」

私は驚いた。昼間の彼からは想像がつかなかったからだ。あれほど、拒否していたのになぜ。もしかしたら私の思いが通じたのかもしれない。彼だってメアリーを愛しているはずだ。メアリーをこの森に閉じ込めておくなんて、正気じゃない。

「そうか。それは良かったな」私はメアリーの頭を撫でた。

「ロイドによろしくって言ってたわ」

「よし、じゃあ行こうか」

彼女の顔が期待に満ち溢れてるのがわかった。私はアクセルをふかし、車を走らせた。



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一時間ほど車を走らせて、私たちはノッティンガムの街へたどり着いた。車の中で、メアリーにいろんな話をした。彼女は私の言葉を一語一句、聞き逃さまいと、まじまじと私の顔を見てうなずいた。

真夜中の街はほとんど人がおらず、街灯の下に佇む娼婦、道に寝転ぶ酔っ払い、餌を求め彷徨う猫くらいだった。それでもメアリーにはそれが新鮮に映ったのか、食い入るように外を眺めて目を輝かせていた。時折、指を差し「あれはなに?」と興奮しながら私に質問した。

私には家が無く、安いホテルを転々としていた。今現在、宿泊しているホテルの前に車を停め、私たちはホテルの中へ入った。

フロントで鍵を貰い、エレベーターに乗った。案の定、メアリーは私の袖を引っ張って「これはなに?どうなるの?」と聞いた。

「これはエレベーターだよ。我々を上まで運んでくれるんだ」

「これで空まで行ける?」

「ははは。それは無理だよ。でもいつか行けるかもしれないね」

部屋に着くとメアリーはベッドに荷物を置き、部屋を見渡した。私はカウンターテーブルに鍵と財布、タバコを置いて一息ついた。

「ロイドの部屋にはベッドがふたつあるのね!」メアリーは靴を脱いでベッドの上で飛び跳ねた。私はタバコに火をつけ、着ていたコートを脱いでテレビをつけた。テレビには何年も前に公開された映画が流れ、ちょうど男と女のラブシーンが映し出された。私はすぐにチャンネルを変え、テレビの音量を下げた。ふと、メアリーを見ると、やはり目を輝かせ、テレビを眺めていた。
私はメアリーにシャワーを浴びるよう言った。メアリーがシャワーを浴びている間、彼女の服を洗濯機に入れ、フロントに行って子供用のパジャマを貰ってきた。シャワーから出た彼女にパジャマを渡し、着替え終わった彼女はすぐにベッドに入って眠りについた。よほど疲れていたのか、彼女はすぐに眠り、その小さな寝息を聞きながら、私は隣のベッドに寝転びテレビを観た。



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次の日の朝、目を覚ました私は驚いた。いつの間にかメアリーが私の横で眠っていたのだ。彼女を起こさぬよう、そっとベッドから出ると、コートを着て外に出た。ホテルの横にあるマーケットは朝早くから開店しており、私はそこでタバコとバナナを買うのが日課だった。

「よお、ロイド。調子はどうだ?」店主は私が喋り出す前にタバコとバナナをカウンターに置いた。

「ボチボチだ」私はお金をカウンターに置き、店を出た。

部屋に戻るとメアリーはまだ夢の中だった。私はシャワーを浴び、クローゼットから服を取り出して着替えた。ふと彼女の持ってきたリュックサックの中身が気になり、手に取った時、彼女が目を覚ました。私はすぐにリュックサックを元の場所に戻した。

「ふぁぁ。おはようロイド」

「おはようメアリー。よく眠れたか?」

「うん。山小屋のベッドと違ってすごく柔らかいベッドね」彼女は笑いながらベッドから降り、カーテンを開けて外を見た。

「すごい!大きな建物がたくさんある!」

「今日もいい天気だ。着替えて朝食を食べたら街に出よう」私は買ってきたバナナを彼女に差し出した。

洗濯しておいた服を乾燥機から出し、彼女に渡した。彼女は私にお礼を言って浴室で着替えをした。私は彼女のハネた髪の毛をドライヤーで直し、リボンで髪を結んだ。引き出しにあった口紅を彼女の唇に塗り、鏡を彼女に渡した。

「これは…なに?」メアリーは唇を指でなぞり、指に付いた口紅を舌で舐めた。

「人間の女の子はこうして街に出るんだよ」

「男の人はやらないの?」

「男はこうやって…」私はジェルで髪を後ろへかきあげ、メアリーの方を向いた。

「これでバッチリだ。さあ、行こうか」

ホテルを出て、私たちは街の中心部へ歩き出した。すれ違う人々の目には私たちが親子に見えたに違いない。ましてや、彼女が元は人形だったなんて誰が思うだろうか。私自身もそんなことは未だに信じられなかった。彼女といえば、街を眺め、鎖に繋がれた動物たちに興味津々だった。

「ここは森と違ってうるさいだろ?」

「そうね。でもいろんなものがあって飽きないわ。森の中には木しかないもの」メアリーはスキップしながら私の前を歩いた。途中、服屋に寄り、彼女に服をプレゼントした。彼女はとても喜び、私に飛びついて頬にキスをした。

街の中心部では、人が溢れていた。ビルに設置された大きなモニターには流行りの歌や映画の予告編が流れていた。メアリーはモニターを指差し「ロイドの部屋のテレビより大きいね!」と喜んだ。私はメアリーの手を引っ張り、いろんな店を案内した。昼食を済ませ、私たちはカフェでティータイムを楽しんだ。

「なぁ、メアリー。妖精はどんな姿をしてるんだ?」私はこの店オススメのブレンドコーヒーを飲みながらメアリーに聞いた。

「綺麗な人よ。金色の髪の毛に青いドレスを着てたわ」

「そうか。いつか会ってみたいな…」

私はクリームソーダをすするメアリー越しに外の風景を眺めた。


街の喧騒を抜け、街の真ん中を流れるレーン川沿いを歩いた。何人かの観光客に呼び止められ、写真を撮らされた。メアリーはというと、川を渡る船を見て目を輝かせていた。そして私の方を振り向いて船を指差した。

「ロイド、お願い。私、あれに乗りたい」

「いいよ。乗り場まで行こうか」

私たちは船乗り場まで駆け足で向かった。

乗り場から船に乗り込み、私たちはデッキに設置されているベンチに座り、街から吹き抜ける風を受けた。目をつむり、天を見上げるメアリーの横顔を見ながら私はタバコを吸った。

「ロイド、連れてきてくれてありがとう」メアリーがつぶやいた。私は煙を吐き、メアリーの頭を撫でた。

「メアリー君は…将来どうするんだい?」

「将来?」目を開け、メアリーは私の方を見た。

「これからまた森の中で暮らすのかい?」

メアリーはうつむき、口を閉じた。汽笛を鳴らし、船はゆっくり南下していく。ノッティンガムの景色が私たち2人の横を通り過ぎていった。

「私…もう戻りたくない」ずっと笑顔だった彼女の顔が曇り、目を潤ませてふたたび私の方を見た。

「私、もっともっといろんな場所に行って、いろんなものを見たいの」彼女は唇を噛んで眉間にシワを寄せた。私は彼女にハンカチを差し出した。

「メアリー、君はまだ若い。もっと勉強して、いろんな場所でいろんな世界を見るべきだ。君は人間なんだ。君にはその権利がある」私はメアリーの頬に手をやり、彼女を慰めた。彼女はハンカチで涙を拭い、真っ白な歯を見せて笑った。

「ありがとうロイド」

このまま船に乗って違う国まで行ってもいい。そんな気分にさせてくれるほど、今日の空は青くて、空気は澄んでいた。私たちがそれぞれ、ゆっくりと流れる時間を楽しんでいると、ふと背後に誰かの気配を感じた。

「あれ?ロイドか?」

私が振り返ると、ひとりの男が立っていた。私は最初、それが誰だかわからず、しばらく男の顔を眺めていた。

「やっぱりロイドじゃないか!久しぶりだな!」

私は自分の記憶の中で、必死に男のことを探した。

「忘れたのか?ゲイリーだよ!」

男の記憶を捕まえた。彼は私の元同僚だ。刑事をしていたころ、彼と共によく行動をした。どうしてこんなところに。

「おまえ、女と駆け落ちしてこの街にいたのか!」ゲイリーは高笑いして私の前に立った。ゲイリーは私の後ろでキョトンとしているメアリーを見つけ、笑いかけた。

「その娘は?おまえとガーベラの娘か?」

私は立ち上がり、男に顔を近づけた。

「この娘は違う。この娘は…」

「今の女よ」

私は言葉を失った。と、同時に振り返り、メアリーを見た。彼女は微笑み、目を細め、ゲイリーに言った。

「この人は今、私と駆け落ちしてるのよ」

ゲイリーは何がなんだかわからず呆然としていた。

「メアリー、何を言って…」私が戸惑っていると、メアリーは立ち上がり、私に抱きついた。

「昨日、あんなに激しくしたじゃない…」

「なっ…なにを…」

「そんな事、私に言わせるの…?」

私は頭が真っ白になった。メアリーの雰囲気が先ほどとはうって変わり、大人の女のようだった。私はゲイリーに必死に言い訳しようとしたが、彼は苦笑いしながら私に言った。

「なんだよロイド、おまえ、そんなガキが趣味なのか…」

「誰がガキだって?おっさん」メアリーは私から離れると、ゲイリーに睨みかかった。私はメアリーを抱き上げ、ゲイリーから離した。

「落ち着けメアリー!」

「ロイド、おまえ…やっぱ女の趣味悪いな」ゲイリーは捨てゼリフを吐くようにその場から消えた。まさかこんなところで昔の同僚に会うなんて。今日はついてない。

私は興奮するメアリーをなだめ、船を降りてホテルへと戻った。



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「メアリーどうしたんだ?」ベッドに腰掛け、うつむくメアリーに私は問いかけた。

「ごめんなさい…」彼女は涙を流し、何度も私に謝罪した。先ほどのメアリーは今朝までの彼女とは違った。

「初めて街へ来て疲れちゃったか?」

「ううん。ごめんなさい」

「まあ、いいさ。今日はゆっくり休んで、明日の朝一で山小屋に帰ろう。私はウォルターと話をするから」

メアリーはそのままベッドに横たわり眠った。彼女が眠った後、私はシャワーを浴びた。その間、先ほどのメアリーのことが気になったが、単に疲れてるだけだろうと、自分に言い聞かせた。

部屋に戻ると、メアリーは相変わらず安らかに眠っていた。私はイスに腰掛け、ウイスキーを開けた。普段は飲まない酒を、今日は不思議と飲みたい気分の夜だった。メアリーの寝顔に乾杯し、私はウイスキーを一気に飲んだ。久しぶりの晩酌のせいか、酔いがまわるのが早かった。タバコに火をつけようとしたが、マッチが見当たらず、部屋の中を探した。クローゼットを開けると、メアリーのリュックサックが目に入った。酔っていたからか、好奇心からか、昨日は覗けなかった彼女のリュックサックを開けてみた。中には愛読書の本と、赤いネックレス、ノートが一冊入っていた。私はノートをカバンから出し、ページをめくった。







“彼は突然、私の前に現れた”







おそらく、メアリーの字で書かれたのであろう。その文字の下には男の似顔絵が書いてあった。







“彼は私を救いにきてくれた王子様”







“彼は私をこの場所から連れ出してくれる”







思っていたより酒がまわったみたいだ。文字が少しボヤけてみえる。私はかまわず次のページをめくった。







“あいつをどうにかしないと、彼と一緒にいられない”







そして私は次のページをめくり、自分の目を疑った。ノート一面に書かれた絵は、燃える山小屋とナイフで刺され、血を流し倒れているウォルターの絵が描かれていた。

「なんだこれは…」手が震え、ノートを落としたと同時に、私は背中に人の気配を感じた。

「ロイド…」それはメアリーの声だとわかった。私がゆっくりと振り返ると、ナイフを持ったメアリーが立っていた。

「なっ、なにしてるんだ!!」私はその場に倒れこんだ。メアリーはゆっくりと私に近づき、奇妙な笑顔を見せた。

「なにしてるの?そのノート…見たの?」

「いや、その…すまない」私はノートをリュックサックに戻した。

「ふふ。いいのよ。あなたにだったら見られても」メアリーは私の頬に右手を当て、左手で腹部にナイフを突き付け、ゆっくりとキスをした。私は抵抗することができず、そのまま硬直した。メアリーの唇が私の唇から離れ、次は耳元で彼女は囁いた。

「どう?興奮した?」

「メアリー、どうしたんだ…」

私が口を開くと、彼女は私の頬を引っ叩いた。目を見開き、私に食いかかった。

「興奮したのかって聞いてんだよ!」メアリーの叫び声が部屋中に響いた。アルコールのせいで、私は意識が朦朧としていた。これは夢なのか?もしかしたらそうなのかもしれない。

「ロイド、男と女はこうやって愛し合うんでしょ?」

「メアリー、そんなこと…どこで…」

「昨日、テレビでやってた映画で観たの」

そういうことか。彼女は私が眠った後、テレビを付けて映画を観たのだ。

「ロイド…あなたは王子様なの。私はあなたを愛してるのよ…」

「メアリーすまない。君はまだ少女じゃないか。君とは愛し合えないよ」

右足に鋭い痛みを感じた。メアリーは私の右太ももをナイフで突き刺した。「ぐああ!!」と私は声を上げた。

「なんなのよ!あなたと一緒に暮らすためにあのジジイも殺したのに!」メアリーは立ち上がり、着ていたパジャマを脱いだ。まだ子供の体に付けられたブラジャーを見て、私は違和感を覚えた。

「さぁ、いいのよ?私のこと抱いて」

「メアリー、落ち着け、君は間違ってる」

「いろんな世界を見て、いろんなことを知るべきだと言ったのは誰?あなたでしょ!?」

メアリーはふたたび私に抱きつき、キスをした。彼女の舌が私の口内に侵入し、絡みついた。私は体に寒気を感じた。溢れ出る血と、アルコールがシンクロして、今にも意識を失いそうになった。ここで意識を失ったら確実に死ぬ。

思えば、ウォルターが彼女を森から出さなかったのはこういうことなのか。彼女は純粋すぎるんだ。好奇心、自分の欲求だけで生きている。ただ、彼女に悪意は無い。ウォルターはそれを恐れていたのか。

薄れゆく意識の中、私は最後の力を振り絞って、メアリーの髪の毛を掴み抱き寄せた。そして、足で羽交締めにし、身動きができないようにした。

「ロイド…ぐっ、激しい…」私は弱ったメアリーの首筋を両手で掴み、力いっぱい握った。

「ぐぅっ」とメアリーが苦しんだ。私は残りの力を振り絞り、彼女の細い首を絞め続けた。

「ろっ…ロイ…ド…」

彼女の大きな瞳、緑色の綺麗な瞳だ。君もそうだったなガーベラ。

気がつくと、メアリーは呼吸を止め、口から泡を吹き、ぐったりして私の上に覆いかぶさった。私はすぐ側にあった彼女のパジャマで傷口を縛り、止血をした。

「久しぶりだからといってこんな酔うことはない。メアリー、ウイスキーに何か入れたな…」

傷は幸いにも急所を外れ、血はすぐに止まった。意識も少しずつハッキリしてきた。私はゆっくり立ち上がり、足を引きずりながら、壁をつたってベッドに向かった。ベッドで横になり、大きく深呼吸をして目をつむった。







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君と逃げ込んだこの街は、僕たちには眩しすぎたな。小さなボロアパートを借りて、僕たちはひっそりと暮らした。でも、幸せだった。働き口を探すため、いろんなところに行った。そして見つけたのは街の外れにある錆びれた図書館。ほとんど客の来ないその場所で、僕はひたすら本を読んだ。週末は君と買い物に出掛け、オシャレが好きな君はいつも嬉しそうに服を買った。僕はそれを見てるだけでよかった。レーン川を渡る船に乗り、なにかの映画で観たような真似事をやったりもした。そうやって時間は流れて、お互いに歳を重ねた。



そして授かった命、僕らは涙が出るほど喜んだ。でも、神は残酷で、二人の幸せは少しずつ崩れていった。命は儚く消え去り、君の心を掻き乱していった。君は精神が不安定になり、毎日のように泣きながら僕に吠えた。大好きなオシャレをやめ、何日も同じ服を着て、部屋に引きこもった。僕は辛かった。壊れていく君を見るのが。出会った頃のような純粋で無邪気な笑顔は淀んだ時の流れに足をすくわれてしまった。



そして、僕は、君の首を絞めて殺した。冷たくなっていく君の身体を抱きしめながら、君のまぶたがゆっくりと閉じていくのを見ながら。



ガーベラ、君はもう君じゃないんだ。



君の死体をトランクに乗せ、僕はシャーウッドの森を目指した。この国で昔から伝えられるお伽話。妖精の住む森。馬鹿げてる。わかってる。でも、もう一度、君に会いたいんだ。またその無邪気な笑顔を、ブロンドの髪を、エメラルドグリーンのような瞳を、透き通るような肌を、熱い体温を、優しい言葉を、僕は…




森の中は雪が降り積もり、目の前を白い霧が立ちはだかった。私は車を止めて、歩き出した。








《END》

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