成長した孔子、孔子の歩んだ道
文字数 2,839文字
孔子の説いた儒教が、もし個人の人格の陶冶を目的とするものだったなら、どのように人格は成長するのでしょうか?またその成長のステップを踏むにはどのような順番を踏めば良いのでしょう?孔子が自分の人格の成長について述べた有名な箇所がありますので、ここでそれを見てみましょう。
子 曰 はく、吾 十有五 (十五)にして學 に志 す。三十にして立 つ。四十にして惑 はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ,七十にして心の欲する所に従へども矩 を踰 えず。
これは『論語』の第二の篇、為政篇にある文章で、四十歳を「不惑」と読んだりする根拠となっている有名な文章です。
孔子は自らが成長した過程をほぼ十年単位くらいで区切り、それぞれの己の心境の変化、成長を記しています。
未だ四十過ぎの若造の自分が孔子の六十、七十歳の心境を語るとは烏滸 がましい面もあるのですが、興味を持っていただきたい面から、講談社学術文庫の宇野哲人先生の『論語新釈』を開きながら語ってみたいと思います。
まず孔子は十五歳で学問に志します。宇野先生の訳では、「人格完成の学に志した」と書かれています。
昔は十五歳で大學という教育機関に入学したということで、心の目指すところ、これを志といいますが、一つのことに心を絞って、一心に勉強に励むことを決めたわけです。
学問の道を目指そう、そう心に孔子は決められたわけですが、それが十五歳、今なら中学3年生くらいだったわけです。早いか遅いかはともかく、若き日の孔子のことに想いを馳せていただければと思います。誰でも、志を立てなければ門をくぐれません、ここに孔子は歩みはじめます。
次に孔子は、三十歳で「而立」、「立つ」という状態になられます。単純に「自立した」とのみとると、そうか三十で一人前になられたのだな、そうとってしまいますが、宇野訳では「内 は慾 に揺 かされず、外は誘惑に侵 されず、固く自ら守って動かないようになった。」とあります。
立つ、とフラフラしなくなります。揺らがなくなった、という事です。
人間には欲があります。色欲もそうですし、立身などの欲もあります。怒りや、不安などの心理状況に揺らぐ事もあるでしょう。しかし内は自らの心理状態、外は誘惑や友人の誘いなどに、孔子は揺らがなくなった、と宇野先生は考えられているようです。
三十歳というと、まだ人生、中堅に入りかけた頃のことではないでしょうか。孔子もこの頃、下級の官吏を経験していたのではないかと思われます。しかし揺らがなくなった。
三十すぎて社会人として走り出した頃、このように自分の感情をコントロールできるようになる。それは、学問の修行を積んだ結果なのですが、そのようなことはなかなかできにくいことだと思います。
ただ孔子はここに止まりません。次の段階に進みます。
四十になると、今度は孔子は「不惑」、惑わなくなられます。宇野訳では「道理が明らかに知られて、いかなる事変に出遇 っても惑うことがないようになった。」とあります。
これはいわゆる「知行」というものではないでしょうか。まず事物について「知る」、そしてそのことを知って、さらに自分の理論に従って明らかに判断ができるから、どんな事変に出遇っても惑わずに「行動できる」ようになったわけです。惑わない、「知る」という能力を進めて、「行動できる」ようになった。
三十歳では揺らいだりせずに済むようになった。四十歳では、それをさらに進めて、惑わず行動に移せるようになった。微妙ですが、前者は受け身であるが身を固く守ることであり、後者は身を固く守りつつ周りに行動で影響を示していくことになります。
四十歳頃、中堅になって部下もつく頃ですが、孔子は人を教育し、自らの影響力を高めていきます。
そして孔子はまだ学問を進めていきます。
五十歳となり、「天命を知る」、という心境に孔子はなります。宇野訳では、「天が与えた最善の原理を知るようになった。」とあります。
孔子のいう「天命」とは己の運命のことではなく、この世の中にある全てのものに天の道理が働いていることがわかった、ということではないでしょうか。自分だけではなく、周りのものの運命や、この世の中を支配している秩序、おそらく仁や礼、命というものがあることを孔子はわかるようになったわけです。
ここまでくると、自分には想像するのがやっとの世界になってきます。
五十歳を過ぎて、孔子は魯の国の国政をとります。しばらくして官を辞して仕官の旅に出ることにはなるのですが、これはこの頃のことかもしれません。
孔子は揺らぎません、まだ向上を続けます。さらに新たな境地を探します。止まるということがなく、さらに向上を続けました。
これ以上は自分には感覚的にわかりにくいのですが、みてみると、六十歳で「耳順う」という境地に孔子は到達します。
宇野訳では「人のいうことを聞けば直ちにその理を了解するようになった。」とあります。ここまでくると、神格化され、信じがたい、大袈裟じゃないかとも思います。しかし孔子はたくさんの人物のことを批評しています。そのように人のことを天命を通じて知ることができるようになった、と考えると、現実に近いのかもしれません。
そして七十歳となり、宇野訳によれば、「心のままに行動しても礼儀や規則などに外れることがないようになった。」とあります。天命を知るだけではなく、天命と一体化したのでしょうか、この頃は、孔子により『詩経』や『春秋』などの書物が編まれた、と言い伝えではありますが、ともかく、変幻自在の境地で、これも自分にはよくわかりません。ただ修練の結果ではあるでしょう。
孔子が八十まで生きていたらさらに成長を続けたのかもしれませんが、孔子はこの七十歳ののち亡くなっています。
孔子は聖人と言われます。しかしそのような孔子が七十歳でこのような境地に至るまでに、十五歳で志を立て、而立、不惑、天命、耳順…と、順々に成長を遂げてきたことをこの文は示しています。
努力して一つのことに集中し、極めた結果、段階を踏んで孔子は成長していったのです。
人格成長の学と、これはいうべきではないでしょうか。
全てが個人の心境の変化、成長の過程にこの文はなっています。
この心境を信じるも信じないも自由ですが、個人の人格の陶冶として、このような順序が想定されているということを知っておいていただくと一つの『論語』の理解が深まる、『論語』の奥を覗くようで、面白いのではないかと感じます。
人として、この道を辿るもよしです、孔子は後進の人たちに、自分と同じ道を進めるよう、この成長過程を記したとされているのですから。
ただ孔子の前に孔子はなかったわけで、孔子が歩んだ道がこのように学問の道になりました。あなたの歩んでいる道が誰かの歩む道になるかもしれません、学問に励むもよし、考えるもよし、感じるもよし、人間の営為とは、奥の深いものだと感じます。
これは『論語』の第二の篇、為政篇にある文章で、四十歳を「不惑」と読んだりする根拠となっている有名な文章です。
孔子は自らが成長した過程をほぼ十年単位くらいで区切り、それぞれの己の心境の変化、成長を記しています。
未だ四十過ぎの若造の自分が孔子の六十、七十歳の心境を語るとは
まず孔子は十五歳で学問に志します。宇野先生の訳では、「人格完成の学に志した」と書かれています。
昔は十五歳で大學という教育機関に入学したということで、心の目指すところ、これを志といいますが、一つのことに心を絞って、一心に勉強に励むことを決めたわけです。
学問の道を目指そう、そう心に孔子は決められたわけですが、それが十五歳、今なら中学3年生くらいだったわけです。早いか遅いかはともかく、若き日の孔子のことに想いを馳せていただければと思います。誰でも、志を立てなければ門をくぐれません、ここに孔子は歩みはじめます。
次に孔子は、三十歳で「而立」、「立つ」という状態になられます。単純に「自立した」とのみとると、そうか三十で一人前になられたのだな、そうとってしまいますが、宇野訳では「
立つ、とフラフラしなくなります。揺らがなくなった、という事です。
人間には欲があります。色欲もそうですし、立身などの欲もあります。怒りや、不安などの心理状況に揺らぐ事もあるでしょう。しかし内は自らの心理状態、外は誘惑や友人の誘いなどに、孔子は揺らがなくなった、と宇野先生は考えられているようです。
三十歳というと、まだ人生、中堅に入りかけた頃のことではないでしょうか。孔子もこの頃、下級の官吏を経験していたのではないかと思われます。しかし揺らがなくなった。
三十すぎて社会人として走り出した頃、このように自分の感情をコントロールできるようになる。それは、学問の修行を積んだ結果なのですが、そのようなことはなかなかできにくいことだと思います。
ただ孔子はここに止まりません。次の段階に進みます。
四十になると、今度は孔子は「不惑」、惑わなくなられます。宇野訳では「道理が明らかに知られて、いかなる事変に
これはいわゆる「知行」というものではないでしょうか。まず事物について「知る」、そしてそのことを知って、さらに自分の理論に従って明らかに判断ができるから、どんな事変に出遇っても惑わずに「行動できる」ようになったわけです。惑わない、「知る」という能力を進めて、「行動できる」ようになった。
三十歳では揺らいだりせずに済むようになった。四十歳では、それをさらに進めて、惑わず行動に移せるようになった。微妙ですが、前者は受け身であるが身を固く守ることであり、後者は身を固く守りつつ周りに行動で影響を示していくことになります。
四十歳頃、中堅になって部下もつく頃ですが、孔子は人を教育し、自らの影響力を高めていきます。
そして孔子はまだ学問を進めていきます。
五十歳となり、「天命を知る」、という心境に孔子はなります。宇野訳では、「天が与えた最善の原理を知るようになった。」とあります。
孔子のいう「天命」とは己の運命のことではなく、この世の中にある全てのものに天の道理が働いていることがわかった、ということではないでしょうか。自分だけではなく、周りのものの運命や、この世の中を支配している秩序、おそらく仁や礼、命というものがあることを孔子はわかるようになったわけです。
ここまでくると、自分には想像するのがやっとの世界になってきます。
五十歳を過ぎて、孔子は魯の国の国政をとります。しばらくして官を辞して仕官の旅に出ることにはなるのですが、これはこの頃のことかもしれません。
孔子は揺らぎません、まだ向上を続けます。さらに新たな境地を探します。止まるということがなく、さらに向上を続けました。
これ以上は自分には感覚的にわかりにくいのですが、みてみると、六十歳で「耳順う」という境地に孔子は到達します。
宇野訳では「人のいうことを聞けば直ちにその理を了解するようになった。」とあります。ここまでくると、神格化され、信じがたい、大袈裟じゃないかとも思います。しかし孔子はたくさんの人物のことを批評しています。そのように人のことを天命を通じて知ることができるようになった、と考えると、現実に近いのかもしれません。
そして七十歳となり、宇野訳によれば、「心のままに行動しても礼儀や規則などに外れることがないようになった。」とあります。天命を知るだけではなく、天命と一体化したのでしょうか、この頃は、孔子により『詩経』や『春秋』などの書物が編まれた、と言い伝えではありますが、ともかく、変幻自在の境地で、これも自分にはよくわかりません。ただ修練の結果ではあるでしょう。
孔子が八十まで生きていたらさらに成長を続けたのかもしれませんが、孔子はこの七十歳ののち亡くなっています。
孔子は聖人と言われます。しかしそのような孔子が七十歳でこのような境地に至るまでに、十五歳で志を立て、而立、不惑、天命、耳順…と、順々に成長を遂げてきたことをこの文は示しています。
努力して一つのことに集中し、極めた結果、段階を踏んで孔子は成長していったのです。
人格成長の学と、これはいうべきではないでしょうか。
全てが個人の心境の変化、成長の過程にこの文はなっています。
この心境を信じるも信じないも自由ですが、個人の人格の陶冶として、このような順序が想定されているということを知っておいていただくと一つの『論語』の理解が深まる、『論語』の奥を覗くようで、面白いのではないかと感じます。
人として、この道を辿るもよしです、孔子は後進の人たちに、自分と同じ道を進めるよう、この成長過程を記したとされているのですから。
ただ孔子の前に孔子はなかったわけで、孔子が歩んだ道がこのように学問の道になりました。あなたの歩んでいる道が誰かの歩む道になるかもしれません、学問に励むもよし、考えるもよし、感じるもよし、人間の営為とは、奥の深いものだと感じます。