第1話

文字数 1,994文字

 カヨコが、彼の実家に向かうために車を走らせてから、もう三時間は経っていた。先方には九時ごろに行くと伝えてしまった。カーナビによると、到着予定は朝の七時ちょうど。彼女は緩やかに車線を変更し、三キロ先のサービスエリアへ向かった。ずいぶん急いできたものだ、なんて考えた。いまさらだけど、彼の顔が見たくなったのだ。
 バスとトラックしかいない駐車場に着くと、エンジンを切ってすぐに外へ出た。ラジオのいなたい音楽を聴きながら、ぼんやりと景色を眺める気分ではない。なにより、自販機のコーヒーが欲しくなった。わずか一分足らずで、軽快な音楽に乗せて作られる、挽きたてのホットコーヒー。その熱さを掌に感じながら、夜のけはいに触れる時間が好きだった。
 仄暗い闇の中から、吸い寄せられるようにオレンジに光る建物へと入った。自販機を見つけて二百円を投入すると、いつか彼と過ごした夜を思い出した。出来上がるまでに戻ってくるよ、とトイレに駆けていく足音が記憶にこだまする。
 彼の心が壊れたのは、ふたりが別れたあとだった。一緒にいないのだから、できることもなかったと思いたい。もはや十九の時とはすべてが変わっている。かつて彼女は家族や学校に感じた居心地の悪さを吐き捨てるように、短編を書いてはインターネットに投げていた。それを見つけた編集者の彼が、小説家になることを薦めてくれた。
「君は、書かないと生きていけない人だと思います」彼と初めて会った日に、春の公園で言われたことを、彼女は自販機のコーヒーを啜る彼の姿とともに偲んだ。
 点灯したボタンを押すとラテン音楽が流れてくる。そのちゃちな響きが、彼の赤いカブリオレに乗って出かけた日々を思い出させた。
 お付き合いしてください、と先に言い出したのは彼女の方だった。きっと、“人生の先輩”としての敬意と恋愛感情を取り違えたのだ。ひどく幼稚な恋だと思った。それでも彼はなるたけ誠実に接してくれた。十も離れたわがままなガキの、話に耳を澄ませて、欲しかった言葉をくれた。当時の彼と同じ歳になったいま、それが当たり前ではなかったことがわかる。「たとえば君が大人になって、好きな人がいたとして、それは僕じゃない気がするんです」と、いつかの彼が酒に釣られて言葉をこぼした。冗談でもひどい言葉だと彼女は怒ったが、それは彼の本心だったのかもしれない。実際に、出版社を辞めた彼とは疎遠になって、彼女はいま取材先で出会った大学の准教授と付き合っている。「きっと彼と一緒にいる未来もあっただろうな」と蜃気楼が頭をよぎった。「ふたりで編んだ言葉の束が、どこにでもある本屋の平台に並んでいたかもしれない。あのときの小説だって、もしかしたら」浮かんだ光景に、彼女は責められるような気がした。
 ふたりが出会った翌年の暮れには、文芸誌にいくつかの作品が掲載されていた。ひとりで書いていた頃には考えられない出来事だ。彼が丁寧に仕立ててくれるから、生々しい気持ちも隠さず文字に込められた。目標もなく入った地方の公立大学でたゆたう学生が、たちまち期待の新人作家と囃されるようになるなんて、陳腐な映画にありそうな話である。変化した彼女の生活は、高揚と不安が入り混じる不安定さで、しばしば書くことが苦しくなって、締切や契約から逃げるように遠出して、そのたびに彼に迎えに来てもらうような、みっともない具合となった。
 そしてさらに、ある中編が完成したときにごく一部の編集者たちがしかめっ面で、「この作品は雑誌に載せるべきではない」と主張した。子どもの悩みなど文芸にならないと考える人たちが、彼女の作品をけなす。子どもの駄々みたいで、美学はないし、年相応のあどけなさもなく、あざとい。どうせ好きな男でもできたら小説も書かなくなるだろう。彼はそんなことはない、絶対に掲載するべきです、と主張していたが、結局は、年功序列を気にする編集長から「これも作家にとっていい経験だよ」といなされた。彼女はショックを受けて、この先も書いていく自信がないと筆を折ろうとしたが、それを彼は強く引き留めた。あなたの言葉は多くの人に届くべきだ、と珍しく熱を帯びた口ぶりだった。
「そう、その言葉を信じたから、いまも作家でいられるんだ」と思うと、彼女は胸が熱くなった。
 ドリップされたコーヒーが、湯気をたててカップに注がれる様子を画面越しに眺めた。工程も残りわずかだ。取り出し口に移動して、蓋が取り付けられたら完成してしまう。
 彼の父親から電話があったのは、きのうの夜だった。震える声を思い出すと、彼女は泣きたくなる。記憶に残る光景が眩しく煌めいた。
 音楽が鳴り止んで、取出口が開いた。トイレの方からは足音が聞こえない。「今度こそ、ちゃんと彼にさよならを言わなきゃいけないな」彼女はそうひとりごちて、喉まで込み上げた気持ちを熱いコーヒーで飲み込んだ。
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