第1話

文字数 4,367文字

 どんよりと影を落とす生徒玄関は、ひどく陰鬱な雰囲気だった。6月ももう後半、中庭では紫陽花が見事な花を咲かせ、連日雨に濡れている。
風情といえば聞こえが良いが、しがない高校生の貴矢(たかや)にとってこの時期ほど迷惑極まりないものはない。

濡れたアスファルトの独特の生臭さ、癖のつく髪の毛、濡れる制服や鞄。そうしたあらゆることが鬱陶しい。
そもそも、貴矢は昔から傘を持つこと自体大嫌いなのだ。荷物が増えるうえ、片手がふさがるので行動範囲が狭まる。
かといっていちいちずぶ濡れになるわけにもいかず、そのジレンマにはいつもイライラさせられた。
そんなくだらないことを梅雨明けまでの数週間、繰り返さなければならない。仕方がないことだとわかっているが、ため息を溢さずにはいられなかった。

 そんなことをかれこれ一週間ほど繰り返しただろうか。いまだ梅雨は明けない。下校しようと生徒玄関に向かった貴矢だが、相変わらずの雨空に外へ出る気力が失せる。
小さく息を吐きながら、数人の生徒が外へ出ていく姿を見送った。天気予報によれば、夕方には雨足が遠ざかるらしい。
現在、時刻は午後4時。今日は部活動が休みなので、日が暮れるまで時間を潰す手立てがない。友人は別の部活で忙しいし、図書館に行こうにも本を読むのは苦手だ。勉強はこれといって分からない部分もない。

 ここは素直に諦めて徒歩20分、駅までの道のりを行くべきか。貴矢は棒立ちのままあれこれ考えを巡らせた。

「何してんだ、貴矢」

 ふと背後から聞こえた声に振り向く。すると教室棟へ向かう階段の方から、男子生徒が一人歩いてきていた。
貴矢を不思議そうに見上げるのは、同じクラスの典敬(のりたか)だ。

「雨が降ってるから外に出たくない」

「梅雨時期に何言ってんだ。学校に住む気か?」

 ふてくされて言う貴矢に典敬が即答する。
もっともなことを言われてしまっては返す言葉がないので、貴矢はただ笑った。
典敬は小柄で大人しそうな容姿だが、発する言葉や態度は至って堂々としており気が強い。

「もっと日が落ちたら少しは止むって。典敬、しばらく遊んで」

貴矢は下駄箱にもたれ、脱力しながら典敬に語りかけた。典敬は彼を一瞥すると、あからさまなため息をついて言う。

「お前が美少女だったら、俺も相手してやるのに」

イケメンだからいいじゃん、とおどけて見せると、典敬は「うざっ」と一言、自分の下駄箱から取り出した外履きを地面に落とした。
雨水で濡れたコンクリートの床からは、晴れた日のような砂埃は立たない。貴矢もそれに倣って外履きを引き出した。

「お前も、少しは良い傘持てばいいのに」

靴を履き終えた貴矢が顔を上げると、典敬がクラス別に分けられた傘立てに並んでこちらを見ている。
その手には濡羽色の背の高い傘を携えていた。

「傘なんてなんでもいいよ」

 典敬は傘に強いこだわりを持っている。高校からの付き合いである貴矢には、彼がいつからそうなのかわからない。
一般的な学生の経済力の範疇に留まるとはいえ、典敬が傘一本にかける額は多くの高校生が別の用途で使用したいと考えるものだった。
洋服、アクセサリー、雑誌や化粧品・・・。しかし彼にとって優先すべきは傘らしい。
雨も傘も大嫌いな貴矢にとって、現代人の自分が古典の勉強をしなければならないこと以上に理解しがたいことだ。

「ビニール傘なんて、すぐ壊れるだろ」

「安いし、どこでも買えるでしょ。毎日使うものでもないし」

「いやいや、だからこそさ」

貴矢は自分の傘を手に取った。この時期、どれが自分のものなのか無数のビニール傘に紛れてしまう、やわで安価な大量生産品。

「たまに雨が降って、憂鬱で、けどお気に入りのものを持っていけたら楽しくなるだろ」

「俺は雨ってだけで立ち直れないもん」

「はあ、お前はせっかく平均以上のスタイルと顔面と頭脳を神様から授かったのに、そんなしょぼい傘なんてもったいねーな」

典敬が心底呆れた声で玄関扉を振り返る。俺は無神論者だよと貴矢は笑ったが、同時に開いた扉からなだれ込む雨音にその言葉はかき消された。

 奇妙なリズムの女性ボーカルの曲が店内に流れている。これが最近の流行りなのかな、とぼんやり聴き流しながら、貴矢はこれまたぼんやりと目の前に並んだ無数の傘を眺めていた。

 駅で典敬と別れたあと、貴矢は本来乗るはずだった電車を見逃した。
だってなんだかすべてが面倒になってしまった。学校から駅まで徒歩20分、それから同じくらい電車に乗り、最寄り駅から自宅までは15分歩く。
そこまで時間のかかる道のりではないが、学校からの移動で貴矢は疲弊してしまった。玄関を出てすぐに雨が強まり、おまけに風も出てくるものだから制服と鞄は湿っぽくなっている。幸い風はすぐに収まったが、雨が止むことはなかった。
典敬はげんなりした貴矢の様子を見てひどく愉快そうにしていたが、笑われるほど酷い顔をしていた自覚は確かにある。

 そんなわけで電車を見送り、しばらく駅内の休憩所で休んでいた。しかしそれも飽きたので今度は辺りをうろつくことにした。もちろん、場所は駅内に限る。
貴矢は2、3か所の候補をあげ、どこへ向かおうか考えを巡らせた。そこで典敬の言葉をふと思い出したのだ。少しは良い傘を持ったらどうか、と。
そうして訪れたのはある雑貨店だった。
暇つぶしの候補にもなっていたこの店には傘も売っていた記憶があったが、どうやら正解らしい。
というか時期も時期なので、店の一角に大々的に雨具のコーナーが設けられている。
しかし、貴矢は正直なところもうこの店を出てしまおうかと考えた。目の前に行儀よく整列した傘たちが、普段コンビニなどで購入しているビニール傘4、5本分にも及ぶ金額だったからだ。
傘にワンコイン以上使う考えがない貴矢の脳はそれだけで軽いフリーズ状態に陥った。ぐるぐると、置いてある商品が変わるわけもない陳列棚を往復する。
ここで傘を買うなら新しいイヤホンが欲しい。それか読んでいる漫画の新刊とか、好きな雑誌とか。
貴矢の脳裏には他の暇つぶし候補の店が浮かんでは消えた。否、意識的に消していたのだ。これは貴矢なりの意地だった。
せっかく普段なら思いもしない傘を目当てにここまで来たのだ。背中を見せて逃げ帰ってはプライドが傷つく。
なにより気になるのは口を滑らせて典敬に話してしまったときの反応だ。
思ったより高くて驚いて帰ったなどと聞かされれば、彼は貴矢に腑抜けを見るような目を向けて言うだろう。「だせえ・・・」と。 
それだけは絶対に避けたい。典敬のあの目と吐き捨てるような一言は、どんなに強靭な心を持った人間でも心を痛める最強兵器なのだ。

 貴矢は深呼吸の後、もう一度ゆっくりと陳列棚を見る。
傘は上下2段構成の陳列になっており、ざっと30本は並んでいる。派手な模様のついているものから、一色に塗りつぶされたものまで様々だ。
また、デザイン同様サイズにも多くの種類がある。ビニール傘では得られない膨大な情報に目を瞑りたい思いだったが、貴矢は必死で食らいつく。
時間をかけて選ぶのはこちらが不利だ。好きな色や必要なサイズをある程度検討し、あとは直観に任せよう。
下段の右から3番目、紺色の傘を引き抜くと貴矢はそのままレジカウンターへ向かった。

 翌日も予報通りの雨だった。雨音で起きた典敬は暗い室内で支度を済ませ、朝食もそこそこに家を出た。
雨の日は嫌いではないが、いつまでも暗いのでつい寝坊してしまう。ほんの少しだるい身体に鞄と傘を携えて、駅までの道のりを小走りで進んだ。

 10分程で到着する最寄り駅の利用者は少ないが、一人ひとりの手に提げられた傘のせいで小さな駅ホームがより窮屈に思える。
とはいえ寝坊したせいでいつも乗るはずの電車を逃したので、連日よりマシに思えた。
典敬は雨粒を弾いた濡羽色の傘を静かにたたみ、次に来た電車に乗り込む。冷房の効いた車内で濡れた身体は寒さを訴えるが、到着する頃には乾いてしまう。
それよりも、学校に着くのがギリギリになってしまう事実の方が典敬を冷や冷やさせた。

「おはよー、典敬」

 急ぎ足でホームを駆け下りると、和やかな様子で貴矢がこちらに手を振っていた。

「お前、今8時10分だぞ」

左腕に着けた腕時計を指すと貴矢はきょとんとした顔で言う。

「今日、先生出張だから点呼ないよ。一限も自習だし」

「・・・本当、そういうことは覚えてんのな」

そうだった。今日は担任の教師が出張なので、ホームルームがないのだ。
代わって学級委員が点呼を取り後日報告するようだが、頼めばいくらでも改ざんしてくれるだろう。
一限の授業も同じ教師の担当科目でプリントこそ出ているものの、誰が見回りに来るでもない。典敬はそのことをすっかり忘れていたのだ。
途端に急いでいたのが馬鹿らしくなり、脱力して溜息をつく。忘れてたでしょ、と横から微笑む貴矢の笑顔が憎らしい。

「それでね、見てよこれ」

ゆっくり出入り口に向かっていた足を貴矢が唐突に止めて言った。それと同時に、彼の美しく伸びた長い脚の影から一本の傘が差しだされる。

「新しい傘、買ったよ」

真新しい匂いが漂ってきそうな新品の傘に典敬は目を丸くした。
その傘は上品な紺色で、自身の濡羽色の傘とは異なる美しさを持っている。それを見るなり、典敬の心臓が強く脈打った。
しかしそれは、美しいものに胸を打たれるような高揚感からではない。体内を何か鋭いものが走る、腹の底が冷える緊張感だ。

「これね、内側に青空がプリントされてるんだって。ちょっと子供っぽいかな」

照れくさそうに貴矢が笑う。普段の様子からは想像できない子供のような無邪気な笑顔。
傘の石突きを地面に当てると、彼は意見を求めるように首を傾げた。
とうの典敬は呆然と立ち尽くしていた。互いの傘を交互に見つめ、何を言うでもなく。
ただ、この傘は貴矢に似て美しいと思った。
大人びた凛々しい濡羽色の傘と、平凡な自分の釣り合わない姿とは違う。

 突然、人気のなくなってきた駅のホームに乾いた音が響く。それは典敬が自分の傘を地面に倒した音だった。
貴矢は傘を拾うこともせず突っ立っている彼に「まだ寝てるの」と微笑みかける。
地面に伏した濡羽色に手をかけた瞬間、典敬は低く押し殺したような声で言った。

「似合うじゃん、それ」

貴矢が身体を起こすより早く、典敬は走り出す。

「典敬」

唐突に駆け出した典敬を追いかけることもできず、ただ名前を叫ぶが彼は止まらなかった。バタバタと足音を立てて、鞄を振り乱して改札を通っていく。
貴矢は訳も分からず、先ほど典敬がそうしていたようにぼうっとその場に立ち尽くした。

 何故、彼はあんなに苦しそうな声だったんだろう。
お気に入りの傘をこんなところに捨て置くのだろう。
貴矢は典敬の濡羽色の傘を携えたまま登校したが、その日一日彼は欠席した。
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