第1話

文字数 1,430文字

 大学に入学して、ひとり暮らしを始めたときの話。
 生まれ育った町を離れたので、周りに知ってる人は誰もおらず、しばらくはひとりも友だちができなかった。
 六畳一間のアパート。ろくにリフォームもしてないのか、壁がタバコの煙で黄ばんでる。
「うまくやっていけるかな」
 必要最低限の家具だけが並ぶ部屋のなか、ポツリとそんな言葉がもれた。
 
 ひとり暮らしをはじめると、ひとり言も増えるって聞いたことがあるけど、自分も決して例外ではなく。
「あー腹減った」
「課題めんどくせぇ」
「今月もう金ねーし」
「えっマジで?」 
 ふとした一言や、授業や生活のグチ、ネットニュース速報を目にした驚き。いろんな言葉が口をついて出たけれど、耳を傾けているのは部屋の壁だけだった。話し相手が壁だけなんて、自分がとんでもなくみっともなく思えた。
 
 慣れない生活や孤独感で知らず知らずのうちにストレスがたまっていたのだろう。あるとき、どうしようもなくムシャクシャして壁を殴りつけたことがあった。すると、思いのほか力が入り、壁にわずかなヒビが入った。
 あ……。
「ごめんな」
 思わず謝ってしまった。弁償しなければ、という考えよりも、大家さんに謝罪しなければという気持ちよりも、壁への罪悪感がなぜかいちばん先に胸にせまってきた。
 相手は壁なのに。ただの物なのに。
「どうかしてるな、自分」
 ふっ、と自嘲気味に笑った声はすぐに壁に吸いこまれ、自分の拳だけがヒリヒリと痛んだ。
 
 それから、しだいに友だちが増え、部屋には頻繁に遊びに来るようになり、たびたび飲み会が催されるようになった。
「おつかれー、酒とつまみこんなんでいい?」
「マリカーやろーマリカーみんなで」
「わはははは、お前なー!」
「こら、台所で吐くんじゃねーぞ」
「ゴメン、今夜泊まらしてー」
 部屋には常ににぎやかな話し声や笑い声が響きわたり、孤独感にさいなまれていたあの日々は、あっという間に過去のものとなった。
 
 そして、月日は流れ、就職が決まり、大学生活も終わりを迎えた。アパートを明け渡す日のこと。
 住みはじめた当初は居心地の悪かったこの部屋も、この頃にはすっかり愛着がわいてしまっていた。
 結局、壁のヒビのことは、最後に大家さんに打ち明けた。この四年間で、壁にはヒビだけでなく、いろんな物がついていた。
 カレンダーを貼るときに開いた画鋲の穴。友だちがこぼしたビールのしみ。家具を動かすときに誤ってぶつけてできたキズ跡など、数えればキリがない。
 きっちり修理代を取られ、敷金も礼金も返ってこなかったけど、これでタバコや経年劣化で薄汚れたあの壁も、きちんとリフォームしてもらえるだろう。
 はじめてひとりきりで見知らぬ町に住み、慣れない生活に右往左往しながら、壁しか話し相手のいなかったあの頃のことは正直恥ずかしくてもう忘れてしまいたい。
 けれど、社会人となり会社に勤めはじめた今、時おり胸をかすめることがある。
「いやぁ、俺たちが若手の時代は多少厄介なことがあってもそれなりに乗り切ったもんだけどね。今のヤツはダメだね。なんかあるとすぐくじけるっていうか、あきらめが早いよね……」
 居酒屋で幾度となく繰り返される上司の話にウンザリしてチラッと視線をそらすと、長年のタバコの煙ですっかりくすみ、ややはがれ気味のメニュー表と、ご当地タレントの色あせたサインがかかった壁が目に入った。
 そんなときは不思議とそいつに声をかけてやりたくなるのだ。
「ご苦労さん」
 と。
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