第1話

文字数 12,186文字

 「鎌倉よ何故 夢のような虹を遠ざける
  誰の心も悲しみで 闇に溶けてゆく」
   サザンオールスターズ『鎌倉物語』


 辻本先輩の彼女と鎌倉に行った時の話をしよう。
 大学1年生の8月のある日曜日のこと。よく晴れた日だった。
 この話は、その前日に僕の携帯電話が鳴った時から始まり、最後に僕が歌を口ずさんで終わる。
 ちなみに僕が歌うのはこの作品のタイトルの『鎌倉物語』ではない。『鎌倉物語』は辻本先輩の彼女が歌うことになる。そして僕は違う歌を口ずさむ。何の歌かは今は内緒。どうぞ、お楽しみに。

 さあ、それでは始めよう。
 最初に説明をしておくと、辻本先輩は当時僕が所属していた大学の演劇研究会の一つ上の先輩だ。
 土曜日の夜、21時頃。僕の携帯電話が鳴る。
 僕は携帯電話の通話ボタンを押した。
 
 「悪いんだけど、明日、俺の彼女を鎌倉に連れて行ってくれないかな。」
 挨拶もそこそこに、電話の向こうの辻本先輩は僕にこう依頼をしてきた。
 「はあ、どういうことですか。」
 「いや、俺の彼女が、今、東京に遊びに来ているんだけど、地元に帰る前に鎌倉に行きたいっていうんだよね。」
 「じゃあ、先輩が連れて行けばいいじゃないですか。」
 「その予定だったんだけど、明日のバイト、どうしても抜けられなくなっちゃったんだよ。」
 「いや、それは知らないですよ。」
 「明日は何か予定あるの?」
 「いや、無いと言えばないですが。映画でも観に行こうかと思っていたので。」
 「じゃあ、いいじゃん。」
 「彼女さんがよくないでしょ。」
 「いや、お前のことはよく電話で話をしているので、大丈夫。」
 「え、何を話してるんですか。」
 「その、あれだよ。高校時代から今までずっと片思いしてる相手がいるとか。」
 「なんで、そんな話をするんですか。」
 「いや、君がそういう真面目で純粋な男だからこそ、お願いするわけなんですよ。彼女もお前に会ってみたいって言ってるし。」
 ずっと渋っていたのだが、俺がお前にいくら使ったと思ってるんだと言われると、断りきることもできない。何しろ、二人で食事をする時はほとんどおごってもらっているのだ。結局、無理やり了解させられてしまった。

 と、いうわけで、翌日の朝、僕は待ち合わせのため、辻本先輩に指定された京王線新宿駅の改札口の前に立つことになった。
 僕は手に女性雑誌のnon-noを持って待っていた。
「目印に女性雑誌のnon-noの最新号を持って、京王線新宿駅の改札出たところで待ってるように。それを持った男を目印に行くように彼女に言っておくから。」というのが、辻本先輩の指示だった
 若い女性が一人、non-noを手に持った僕を見て、クスクス笑いながら通り過ぎていった。
 いや、これ辻本先輩に言われたから持っているだけだから。僕の趣味じゃないから。
 僕は辻本先輩のせいでとんでもない辱めを受けていた。何の罰ゲームだ、これは。

 約束の午前9時少し前のこと。
 背中をつつかれたのでで振り向くと、そこに黒髪ショートボブの、色が白くて、とてもとても可愛らしい女の子が笑顔で立っていた。いやいや嘘だろと思った。こんな可愛らしい女の子があのやさぐれてだらしのない辻本先輩の彼女のわけがない。
「おはよう。」とその女の子は明るく無邪気に僕に挨拶をして、僕の名前を尋ねた。
「おはようございます。」と僕は言って、名前を名乗り、彼女の名前を尋ねた。恐ろしいことに確かに辻本先輩の彼女だった。なんてことだ。
「急なお願いでごめんね。今日はよろしく。」と彼女は言ってペコリと頭を下げた。
 僕は「どうもどうも。」と言って同じように頭を下げた。
「でも何で、non-noを持っているの」
「え。」僕は全てを理解した。頭の中で辻本先輩がにやにや笑う姿が浮かんだ。単純に面白いので僕に持たせたかっただけだな。僕は彼女に、「いや、あなたの彼氏に言われたからですよ」と言いたかったが、何も言わずに彼女にnon-noをプレゼントした。彼女はとても喜んだ。

 僕たちは彼女の念願の鎌倉に行くためにJRの新宿駅から湘南新宿ラインに乗った。
 電車の中で、彼女は僕に色々なことを教えてくれた。彼女は辻本先輩の地元の国立大学の教育学部の2年生だということ、将来は小学校の教師を目指しているということ、鎌倉は昔から行きたい場所だったこと、以前から辻本先輩に連れて行って欲しいと言っていたのに急にバイトに行くと言い出してケンカになったこと、などなど。本当によく話す人で、僕はすっかり圧倒されていた。ちなみに辻本先輩とは高校3年生からの付き合いということだった。蓼食う虫も好き好きという昔ながらの素敵なことわざが湘南新宿ラインの窓の外の景色に合わせて頭の中を凄いスピードで通り抜けていった。

 一通り自己紹介が終わると、彼女は躊躇なくズバッと僕に切りこんできた。
 「ずっと片思いの女の子がいるんだって?」
 いや、いきなり訊くの早いって、と僕は思ったが、先輩の彼女に無礼な口を利くわけにもいかない。「ええ、まあ。」と僕は観念して答えた。
 彼女とのやりとりをいちいち書くのも恥ずかしいので、彼女に話をしたことを簡単にまとめるとこういうことになる。

 僕の片思いの女の子というのは高校2年生の時の同級生で、黒髪ロングヘアのとても綺麗な顔立ちの演劇部の女の子だった。普段は物静かで一人でいることを好むようなタイプだったが、クラスの女子とは誰でも仲良く話が出来る賢い女の子で、男子生徒の何人かは僕と同じように彼女に惹かれていたと思う。
 その彼女の人気が爆上がりしたのは高校2年生の文化祭で、演劇部の彼女が出演した舞台でだった。彼女はその舞台でヒロインを演じて、僕の周りで彼女の話題が頻繁にでるようになった。
 そんな彼女に最初に告白したのは、クラスが別々になった高校3年生の4月のことだった。僕が告白すると、彼女は「ごめんなさい、好きな人がいるの。」と言って丁寧に断った。今思うと、彼女はきっと何度も告白されていて、断ることに慣れていたのだろう。同じ高校で付き合っている人はいなかったので、好きな人というのは他校の生徒だという噂だった。本当は好きな人がいるというのは断るための口実ではないかという者もいた。結局、真相は今でも藪の中だが。
 とにかく僕が振られたというのは事実だ。しかも2回。高校3年の4月と翌年の3月の2回。1年の内に同じ人に2回振られてしまった。2回とも振られた理由は同じだった。「ごめんなさい、好きな人がいるの。」結局僕は1年の内に同じ言葉を彼女に2度繰り返させただけだった。

「なるほどね。」と彼女は言って、左手の人差し指をこめかみに当てて、手首を捻った。これは彼女の考える時の癖らしく、この日、僕は何度かこの仕草を見ることになった。
「話を聞くと、君の好きなタイプは私みたいな運動系ガサツ女タイプとは違うわけね。」
「いえ、そんなことは。」僕は返答に困った。彼女は楽しそうに笑って「無理しなくていいよ。」と言った。でも僕は彼女のことをその時から今まで運動系ガサツ女と思ったことは一度もない。

 鎌倉駅に着くと、僕らは駅の近くのスターバックスコーヒーに入った。彼女はアイススターバックスラテを、僕はアイスコーヒーを注文した。席に着くと彼女は「それでは、今日の予定を発表します。」と言って、バッグから、表紙のカバーにサンリオのキャラクターのポムポムプリンのシールが貼られたほぼ日手帳を取り出して、テーブルに乗せ、ページをめくって僕に見せた。今日の日付のページに丁寧な文字で本日の予定が書かれていた。
 まずは、ページの一番上に大きな赤い文字で「鎌倉大作戦」と書かれていた。その下には本日のミッションが3つ書かれていた。
 1.鎌倉の江ノ電に乗る。
 2.鎌倉の『スラムダンク』の場所で写真を撮る。
 3.鎌倉の海を見ながら、『鎌倉物語』を歌う。
「ねえ、この計画、どう?」と彼女は僕に尋ねた。
 
 僕たちは、この計画をひとつづつ検証することにした。
 まず1番目、「鎌倉の江ノ電に乗る。」
 江ノ電は分かる。僕もちゃんと昨日調べている。鎌倉から江の島まで走る電車だ。これに乗るのは分かる。
「ぜひ、乗りましょう。」と僕は彼女に言った。彼女は嬉しそうに頷いた。
 続いて2番目。「鎌倉の『スラムダンク』の場所で写真を撮る。」
「『スラムダンク』の場所があるんですか?」と僕は尋ねた。『スラムダンク』が昔の少年ジャンプに連載されていた人気のあるバスケットボールのマンガだということは勿論知っていた。僕も高校生の頃、友達の家で単行本を途中まで読んだことがある。
「そう。『スラムダンク』に載っているのと同じシーンがあるっていう有名な場所があるの。」
 と彼女が言った。そこは江ノ電の鎌倉高校前駅で降りるのだという。
「『スラムダンク』好きなんですか。」
「好き。とっても好き。漫画は全巻持ってるし。」と彼女は言った。僕も『スラムダンク』は読んだことがあることを伝えると、彼女は「すごく面白いよね。」と言って嬉しそうに笑った。とてもじゃないが、途中までしか読んでいないと告白できる雰囲気ではなかった。よし、その辺はぼかして最後まで突き進むぞと僕は心に誓った。
「好きなキャラって誰?」と訊かれ、一瞬ひやっとしたが、主人公の名前は覚えていたので「花道です。」と答えた。名字はあやふやだったので省いて答えた。
「好きなキャラは誰ですか?」と僕は彼女に尋ねた。
「いっぱいいるけど…。うーん。」彼女は右手の人差し指をこめかみに当てて考え込んで、しばらくして、「強いて言うなら、リョータかなあ。」と言った。
「リョータって「要チェックや。」っていう人でしたっけ。」
「違うよお、それは彦一だよ。」そう言って彼女は笑った。「リョータは湘北の2年生のポイントガードで、マネージャーのアヤコさんのことが好きな人だよ。」
 ああ、それで僕は理解した。なるほど、謹慎していて、途中から出てきた人だ。
 バスケがしたいです、って言う人だなとその時は思っていたが、それは間違いだと後に気づいた。それは三井君だった。余計なことを言わなくて良かったと思う。
 しばらく、彼女は『スラムダンク』の話をしていたが、そのうち、彼女は一番好きなシーンについて語り始めた。
「『スラムダンク』で凄い好きなシーンがあるの。」と彼女が言った。「小暮君が陵南戦でスリーポイントシュートを決めたシーン。」
「小暮君ってメガネの人ですか。」
「そう。全国大会の出場権を賭けて、湘北は陵南と試合を行うんだけど、その最後に小暮君がスリーポイントシュートを決めるの。」と彼女はそのシーンを思い出すように少し上を向いて熱く語った。
「小暮君は途中出場だったので、ちょっと相手になめられているんだけど、最後にスリーポイントシュートを決めて試合を決定づけるの。その時、相手の監督が言うの。「あの男も3年間頑張ってきた男なんだ。侮ってはいけなかった。」って。」
 彼女は僕の方を真っ直ぐに向いて、「そこで観客席の赤木キャプテンの妹の晴子ちゃんが涙を流すんだけれど、そのシーンで晴子ちゃんと一緒に私も泣くの。」
 嘘でしょ、と僕は彼女の顔を見て思った。彼女の眼には涙がたまっていた。純粋な人だなあ、と僕は感心した。ただ、その後、僕も『スラムダンク』を全巻通して読み、そのシーンを読んで不覚にも涙を流すことになるのだが。きっと全部彼女のせいだ。
 そして最後の3番目。「鎌倉の海を見ながら、『鎌倉物語』を歌う。」
 その歌は知らなかったので、僕は彼女に「『鎌倉物語』ってどんな歌ですか?」と尋ねた。
「『鎌倉物語』はサザンオールスターズの原由子さんがボーカルの歌。」と彼女は教えてくれた。
「この歌が大好きだから、東京の方に来ることがあったら、鎌倉に一度行ってみたいなってずっと思ってたの。」
 僕はとても興味をひかれたが、はっきり言って、その歌は分からなかった。
 彼女の歌声は海に着いた時のお楽しみとしよう。

「さあ、それではまず江ノ電に乗ろう。」と彼女は言った。
 僕たちは江ノ電の鎌倉駅に入り、江ノ電が来るのを待った。日曜日の江ノ電の鎌倉駅のホームはひどく込み合っていた。
 ぼんやりと駅構内を眺めているといつの間にか隣にいた彼女がいなくなっていた。あれ、僕は慌てて、彼女を探した。うちの黒髪ショートボブの女の子、誰か知りませんか。勿論、そんなことを周りの人に訊けるわけもなく、僕はおろおろと辺りを見回すことしか出来ないのだった。
 そのうち、僕は不思議な感覚におちいった。ひょっとして今までのことは全部僕の妄想なのではないか。女の子と鎌倉に来たのは全て僕の妄想で、僕は今日偶々どういう訳だか知らないが、鎌倉に一人で遊びに来ているのではないだろうか。何しに来たんだ。そうだ、僕は江ノ電に乗り、『スラムダンク』の漫画の場所で写真を撮ったり、鎌倉の海を見ながら『鎌倉物語』を歌ったりするために来たのだ。
 そんなことをぼんやりと考えていると、急に首筋に冷たいものがあたった。驚いて声を上げて振り返ると、彼女が両手にお茶のペットボトルを2本持ち、その内の1本を僕の首筋に当てたのだった。
「どう、買ってきたよ。」と彼女は僕に自慢げに言った。いや、どうと言われても。僕は素直に彼女からペットボトルを受け取りお礼を言った。「さっき、non-noをもらったからそのお礼。」ということだった。ありがとうございます。

 そうこうしているうちに、江ノ電がホームに入ってきた。僕たちは江ノ電に乗った。はい、まずはミッションの一つ目をクリア。

 江ノ電に揺られ、僕たちは鎌倉高校前駅に着いた。驚いたことに僕ら以外にも写真を撮る人が多くいた。完全に観光地化しているのだった。中には外国人もいた。
 それはただの坂道から見た踏切を通した海の風景だったが、多くの人にとって特別な風景になったのだった。勿論、彼女にとっても。
 彼女は携帯で海の方を向けて嬉しそうに何枚も写真を撮った。
「一緒に撮ろうよ。」と彼女が言ったので、彼女のその何枚かの写真には僕も写っている。
 僕は1枚だけ僕の携帯で彼女と一緒の写真を撮ってもらった。
 僕が持っている彼女の写真はこれだけだった。過去形で書いたのは、もうその写真を僕は持っていないからだ。僕の携帯はその数か月後の雨の日にバイトへ向かっていた時に、落としてしまい、更に蹴ってしまって、通りかかった車に轢かれ粉々になった上に、水たまりに水没してご臨終してしまったからだ。
 雨に打たれながら、僕は道路から壊れた携帯を拾い上げ、しばらくぼんやりとみつめていたと記憶している。
 
 時を戻そう。
 それから、彼女のミッションの3番目をクリアするために、僕らは海沿いに江の島へ向かって歩くことになった。
 海は静かで穏やかだった。
 さあ、いよいよ本日のハイライト、『鎌倉物語』を本日、彼女が初披露することになる。彼女の歌声をとうとう聞けるときがきたのだ。
 海沿いに歩きながら、「それでは、『鎌倉物語』を歌います。」と彼女は言って、綺麗な澄んだ声で歌を歌った。とても上手で、僕は聞きほれた。
「どう、聞いたことある?」と彼女は僕に尋ねた。「夏になると聴きたくなるの。」
 知らないと思っていたが、どこかで聞いたことがある歌だなと思ったので、僕はそのことを伝えた。そして彼女の歌声がとても綺麗な澄んだ声であることも。彼女はちょっと照れながら「ありがとう。嬉しい。」と言った。
 そして、彼女は僕に夏になると聴きたくなる歌は何かと尋ねた。
 僕は大分考えた末に最近タワーレコードで買ったアルバムの中の一曲、細野晴臣の『はらいそ』だと答えた。その当時から僕は細野晴臣のファンだった。
 彼女は右手の人差し指をこめかみにあててしばらく考えた後、知らないなあと言った後、歌ってみて、お願いと言った。
 恥ずかしかったが、お願いといわれてしまうとしょうがない。緊張しながら、僕は『はらいそ』の好きな部分を小声で歌った。そして「どうですか、聞いたことあります?」と彼女に言った。
 彼女は笑いながら、「ないなあ。」と答えた。そうだろうなあとは思っていた。だからこそ歌えたのだけれど。でも、僕の歌声を聞けるというのは結構レアなのですよ。

 それから、しばらく歩いていると、また隣に彼女がいないので、慌てて見回した。僕はさっきからよく彼女を見失う。しかし、今回は彼女が存在しないのではないかという妄想を抱く前にすぐ彼女を見つけることができた。
 僕が振り返ると、少し離れたところで彼女はなぜか制服を着た二人の女子高生と話をしていた。彼女は驚いたように目を見開き、右手で口を覆って、左手を横に激しく振って女子高生たちに何かを説明しているようだった。
 僕が戻って彼女に近寄ると、女子高生たちは僕を見て慌てて離れて行ってしまった。あれ、なんだか気分が悪いんですけど、君たち。
 彼女は小走りに離れていく女子高生たちの後ろを姿を見ながらクスクス笑っている。
「どうしたんですか。何か変なことでも言われました?」と僕は心配して彼女に尋ねた。
「ううん。違うの。」と彼女は笑いながら僕に説明をした。
「間違われたの。」
「間違われた?」
 詳しく聞くと、先ほどの女子高生たちは彼女を当時人気のあったあるアイドルグループのメンバーの一人と間違えて声をかけてきたらしいということだった。人違いだということを説明していると、僕が近づいてきたのだった。
「いきなり、女子高生に声をかけられてびっくりしちゃった。」と彼女は笑った。
「慌てて、違います、違います、って言っちゃった。ねえ、私、そのアイドルのこと知らないんだけれど、知ってる?似てるのかなあ。」
 そう言って、彼女は僕の顔を覗き込んだ。
 僕はそのアイドルをテレビで数度見たことがあるだけで、詳しく知らなかったが、髪型や雰囲気は似ているかもしれないと思った。そのことを伝えると、彼女はへえ、そうなんだと感心したように言って笑った。彼女の方がそのアイドルより可愛らしいと僕は思ったが、それを言葉に出すことはなかった。
 その時、ひょっとしたら、彼女がアイドルになっていたかもしれない世界について考えた。例えば彼女がそのアイドルグループのオーディションに応募して、合格し、今テレビに出ているアイドルが彼女だった可能性もあるのだな。そう思うと不思議な気がした。

 そんなこんなあって、僕たちは江の島についた。江の島の海岸はひどく混んでいた。
 彼女は海岸で靴を脱ぎ、手に持って裸足になって波打ち際を歩いた。「気持ちいいな。」と彼女は言った。その時の彼女の可愛らしさはその日一番だと思った。
 それから僕たちは海の家に行った。そこで、僕は忘れられないある出来事に遭遇することになった。

 海の家でのんびりと二人で少し遅めの昼食のカレーライスを食べ、その後ガリガリ君を食べながら休んでいると、急に海の家の中がざわざわと騒がしくなった。
 「ねえ、あの人誰だっけ。」と彼女が指さした先には、マイクを持って、イヤホンをした男性が周りのスタッフらしき人たちと話をしていた。
 それは、どこかの局のアナウンサーだったが、僕も彼女も名前を憶えていなかった。
 すると、そのアナウンサーが僕たちの所に近づいてきて、声をかけた。
 「今、ラジオの生中継中なんですけれど、インタビューいいですか。」とそのアナウンサーはニコニコ笑いながら、元気よく僕たちに言った。
 僕が断ろうとすると、彼女がそれよりも前に口を開いた。「いいですよ。」
 彼女はとても楽しそうだった。僕は眉間に皺をよせて彼女を見た。本気ですか。
 「はい、それでは今週のベストカップルクイズはこの二人に参加してもらいます。」とそのアナウンサーは手元のマイクに声をかけた。おそらくどこかのスタジオとつながっているのだろう。
 「それじゃあ、名前を教えてもらえるかな。」とそのアナウンサーは言って、僕たちにマイクを向けた。
 「アヤコです。」と彼女は突然嘘の名前を言った。そして僕の方を向いて、「彼氏のリョータです。」と僕を紹介した。勿論、それも嘘の名前だった。
 どういうことだ。そういうことか。僕は理解した。
 それは先ほど話をした『スラムダンク』に出てくる登場人物の名前だった。しょうがないので、僕は彼女の「恋人ごっこ遊び」に付き合うことにした。
 「リョータです。」と僕はそのアナウンサーに言って、軽く頭を下げた。彼女をちらっと見ると、嬉しそうにクスクス笑っていた。
 「アヤコちゃんとリョータ君は付き合ってるの?恋人かな?」
 「はい。」と彼女がまた嘘をついた。僕は更に深く眉間に皺をよせて彼女を見た。どういうつもりですか。
 「付き合ってどれくらい?」とそのアナウンサーは今度は僕に尋ねた。
 僕が答えるのに困っていると、彼女が「1年半です。」と割って入って答えた。
 「二人はどこで出会ったの?」とそのアナウンサーは彼女に尋ねた。どうやら、彼女の方が主導権を握っているのが分かったようだ。やれやれ。僕はほっとした。
 「高校の同級生です。」と彼女はまた嘘をついた。
 「彼氏からアプローチしたの?」
 「そうです。」と彼女は答えた。「3回告白されて、3回目に告白された時に付き合うことになりました。」
 「お、彼氏、やるねえ。粘り勝ちだ。」とそのアナウンサーは僕の方に目を向け、感心したように言った。しょうがないので、僕は頭をかきながら「頑張りました。」と言ってみた。彼女はまたクスクスと笑った。そしてこう言った。
 「私は地元の大学に通っていて、リョータ君は東京の大学なんです。だから、今、遠距離恋愛中なんですけど、今日は、夏休みなのでこっちに遊びに来ちゃいました。」
 「そうか、ごめんね、久しぶりのデートなのに邪魔しちゃって。それじゃあ、ぜひこのベストカップルクイズに正解してクオカードをもらっていってください。」とそのアナウンサーは彼女に言った。
 そしてそのアナウンサーは僕たちにベストカップルクイズの説明をした。
 「彼氏がどれくらい彼女のことを知っているか、クイズを出すので、彼氏はこのフリップに答えを書いてね。正解ならベストカップル賞のトロフィーとクオカード3,000円分を差し上げます。」
 まずいなあ、と僕は思った。僕は彼女のことを全く知らないのだ。誕生日も、星座も、血液型も。僕らが付き合っていないことなんか、すぐにばれてしまう。
 「それでは、問題です。」
 僕は緊張した。
 「彼女が毎年夏になったら聴きたい歌はなんでしょうか?」
 僕は彼女を見た。彼女はクスクス笑いながら僕にウィンクをした。
 「彼女は、彼氏が書くところを見ないでね。」
 「はい、分かりました。」と彼女は自分の両手で目隠しをした。
 僕は渡されたフリップにアーティスト名と曲名を書いた。
 「書き終わりました。」と僕は言って、フリップを裏返して、そのアナウンサーに渡した。
 「はい、それでは、アヤコちゃん、アヤコちゃんが夏になったら聴きたくなる歌はなんですか。」
 「サザンオールスターズの『鎌倉物語』です。」と彼女は嬉しそうに答えた。
 そのアナウンサーは僕が書いたフリップを表に返した。そして、そこに書いてある文字を大声で読んだ。
 「サザンオールスターズの『鎌倉物語』。おお、すごい。大正解。」
 彼女は、わあ、すごーいと言いながら嬉しそうに手を叩いた。なんなんだ、この茶番は。
 「さすが、彼氏、3回も告白したくらいだから、彼女のことをよく知っているんだね。」とそのアナウンサーは感心したように言った。
 「それでは、クイズに参加してくれたラブラブなアヤコちゃんとリョータ君には番組からベストカップル賞のトロフィーとクオカード3,000円分をプレゼントします。」とそのアナウンサーは言って彼女に小さなおもちゃのトロフィーとクオカードを渡した。
 「それでは、スタジオにお返しします。」とそのアナウンサーが言って、ラジオの生放送は終了した。
 そのアナウンサーは僕たちに丁寧に、「参加してくれてありがとう。」とお礼を言った。僕たちは握手をしてもらった。そのアナウンサーは別れ際に「これからも二人仲良くね。」と言った。彼女は嬉しそうに、はーいと答えた。
 そのアナウンサーたちの一行が去り、姿が見えなくなると、彼女は笑いながら、僕に「上手くいったね。」と言った。
 「急にあんなことを言い出すから。ひやひやしましたよ。」と僕は言った。
 「まあまあ、よいではないか。」と彼女は鷹揚に言ったあと、「顔が真っ赤になっちゃって、可愛かったなあ。」と僕をからかった。
 そして、トロフィーとクオカードを僕に渡して、「はい、どうぞ。大変よくできました。」と小学校の先生のように言って、パチパチと手を叩いた。。
 「僕がもらっちゃっていいんですか。」
 「うん、辻本君の家には持ち帰れないし。」
 ああ、そうだ、彼女はこれから、辻本先輩の家に帰るのだ。僕はとても不思議な気持ちになった。それは僕が知っている感情の中では寂しさに一番よく似ていたが、それとも少し違うものだった。
 それから、僕たちはしばらく海の家で黙って海を眺めていた。
 「私の好きな歌を覚えてくれてありがとう。」と彼女は静かに言った。そして僕の方を向いて「これで、きっと忘れないね。」と言ってにっこり笑った。はい、あれから何年も経った今でも僕はあなたの好きな歌を覚えています。
 「それじゃあ、僕の好きな歌は覚えてます?」と僕は尋ねた。
 「覚えてるよ。『ハライチ』でしょ。」
 「いや、それはお笑い芸人です。『はらいそ』です。」と僕は丁寧につっこんだ。
 「あ、間違えた。」と言って彼女は恥ずかしそうに両手で口を覆って笑った。その時の彼女の可愛らしさはその日一番の彼女の可愛らしさを更新した。
  まあ、いいか、それなら『ハライチ』でも。

 江の島を後にした僕たちは、朝に待ち合わせをした京王線の新宿駅の改札前で別れを告げることになった。
 「それでは、さようなら、リョータ君」と彼女は僕に言った。
 「さようなら、アヤコさん。」と僕は彼女に言った。
 僕たちは一緒に吹き出した。
 「本当に今日はありがとう、とっても楽しかった。」と彼女は真面目にお礼を言った。
 「僕も楽しかったです。」と僕は言った。
 「ほんと、じゃあ、良かった。ほっとした。」と彼女は笑顔で言った
 「それでは、気をつけて。」と僕は言った。
 「うん、それじゃあ。」と彼女は言った。僕が彼女の後姿を見送っていると、彼女はくるっと振り返り、「ちゃんと同級生の彼女に3回目の告白をするのだよ。君ならきっと絶対にうまくいくから。」と言って笑いながら、手を振った。僕は苦笑してうなずきながら彼女に手を振り返した。
 結果から言うと、僕が高校時代に好きだった同級生に3回目の告白をすることはなかったのだが。
 彼女の後姿が人ごみに紛れて消えていった。僕は最後まで彼女を見送ると、JRの新宿駅に向かった。

 鎌倉に行った4か月後の12月に辻本先輩と居酒屋で食事をしている時だった。先輩の携帯が鳴った。彼女からだった。先輩はしばらく電話で話をした後、彼女が僕と話をしたいということで電話を代ってくれた。
 「こんばんは、リョータ君。元気?」と明るい彼女の声が聞こえた。
 僕は「どうも、どうも。」と言った。

 その時に交わした会話が彼女との最後の会話になった。その後、僕が彼女に会うことはなかった。
 それから一年後、彼女と辻本先輩は別れてしまったからだ。その後の彼女のことについては何も知らない。
 先ほど書いたように、あの時使用していた僕の携帯は誤って水没させてしまったので、鎌倉高校前で二人で撮った写真はもう残っていない。
 ただ、あの夏、鎌倉でアヤコとリョータというラブラブなカップルがもらったベストカップル賞のトロフィーは今でも持っている。僕の本棚の、あの後に全巻揃えた『スラムダンク』の横にそっと飾ってある。
 鎌倉にはあれ以来行ったことはない。

 たまに、あの日彼女が女子高生たちに間違われたアイドルを映画やテレビや雑誌(non-noなんかもね)で見ることがある。そんな時、彼女のことを思い出す。
 そのアイドルは既にアイドルグループを離れていて、今は女優として活躍している。今の彼女はこんな風だろうかと想像し、彼女と一緒に行った鎌倉の、夏の日差し、波打ち際の波の感触、そして楽しそうに「鎌倉物語」の歌を口ずさむ彼女の姿を思い出す。
 そしてこんな妄想にとらわれる。
 ひょっとしたら、今テレビに映っているのは、あの日鎌倉に一緒にいった彼女ではないだろうか、と。ほら、彼女はなにしろ歌が上手いから。そして演技も上手いから。
 残念ながら、そんなこと、あるわけはないのだが。
 彼女はあの時に話してくれたように、今では地元の小学校の先生になっていて、子供たちにバスケットボールを教えているのだろう。ひょっとしたら、同僚の素敵な人と出会い、結婚して子供を産んで、幸せに暮らしているのかもしれない。そして、あの時の鎌倉の写真を懐かしく見て、『スラムダンク』を読み返しているかもしれない。
  そして、夏になったらあの歌を口ずさんでいることだろう。
 サザンオールスターズの『鎌倉物語』。
 そう、僕は彼女の好きな歌をまだ覚えている。
 彼女は僕の好きな歌を覚えてくれているだろうか。
 それとも、すっかり僕のことも、僕の好きな歌の『はらいそ』のことも忘れてしまっただろうか。
 もし、覚えていてくれたら、とても嬉しい。
 それとも僕の好きな歌を『ハライチ』と間違えて覚えてしまっているだろうか。それなら、それでもいいなと思う。そして、なんだか急に楽しい気分になって『はらいそ』を口ずさむ。
 
「桟橋から あの異国の船に
 飛び乗って adios farewell
 女の様に 見据える街の灯に
 kissして バイバイ Good-bye」
  細野晴臣『はらいそ』
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