第3話

文字数 6,694文字

 安物のカーテンは朝日をよく通す。光が瞼の裏にまで侵入して、真幸の意識をしつこく刺激した。外の明るさは増すばかりだ。ついに耐えきれなくなり、渋々目を開けるのが真幸の日常であった。

「う……」

 畳に直で寝ていたせいか、体中が軋む。幽霊のくせに、こんなところだけは妙にリアルで不便だ。

「——おはよう」

 寝ぼけ眼をこすっていると、不意に声をかけられた。驚いて顔を上げれば、天使兄弟の弟・天宮啓が眼鏡の奥から真幸を見下ろしていた。

「急に声かけんなよ……。って、あれ? 確か昨日の夜、ここにいたのって」
「あぁ、柴兄とは夜中に交代したよ。今頃、まだの上で寝てると思う」
「たいてん?」
「バイクの名前」
「あ、そ……」

 よく似た顔立ちをした弟と向かい合っているせいか、ふと昨夜の柴乎の話が脳裏をよぎった。
 背筋を軽く伸ばしながら、真幸は何の気もない風に啓へ尋ねる。

「なぁ、天使は死んでも生き返れるってマジかよ」
「もしかして柴兄に聞いたの? 珍しいな、そんなことまで話すなんて……」

 怪訝そうに眉根を寄せる啓を見て、そうなのか、と思う。

「確かに、僕らの目標だけどね。でもまともに『生き返る』ことを目指してる天使なんていないから、公言してる僕らは変わり者扱いだよ。歳だって取るし」
「他の天使は歳取らねえのか」
「そ。『生き返る』権利を放棄すれば、体はその時点の年齢のままでいられる。放棄しなければ万が一『生き返った』時に精神と肉体の間で齟齬を生まないために、歳を重ねる。僕らも天使になったばかりの頃は小さかったけど、順調に成長してるしね」
「あぁ、そういや、柴乎がビービー泣くお前の手を引いてたとか……」

 瞬間、眼鏡の端がぎらりと光る。真幸は自分が完全に口を滑らせたことを知った。

「——は? 何それ? そんなわけないし。泣いてないし」
「ま、まぁ、とにかく。そうまでして、お前は生き返りたいんだろ」

 昨夜の兄のように、はっきりとした返事がくるかと思いきや、啓は考え巡らせるように俯いた。

「僕自身はどうかな……天使になった時も、あんまりよく覚えてないし。でもまぁ、柴兄がやるって言うんなら、やるまでだ」
「そ、そんなんでいいのかよ」
「他に何かある?」

 小首を傾げて尋ねてくる啓に、真幸は思わず言葉を失う。
 一見、滅茶苦茶に見えるこの兄弟は、互いが互いのために目標へ邁進している。
 叶うかどうかも分からない願いのために。
 真幸の動揺を悟ったように、啓は口元に微笑を浮かべた。

「記憶が曖昧なのはある意味便利だよ。余計なものが少ないからね」
「んだよ、それ……」

 考えるのが嫌になって投げやりな相づちを打っていると、リビングから香しい匂いが漂ってきた。母が朝食を作っているらしい。
 おかしい、いつもなら出勤している時間帯だ——と思ったが、カレンダーを見てすぐ今日は休日だったかと合点がいった。
 じゅうじゅうと目玉焼きが焼かれ、トースターが小気味のいい音を立てる。それに混じって、母の軽やかな鼻歌が聞こえてきた。

「柴兄から聞いてたけど、確かに——」

 と、そこで啓は口ごもった。兄とは違い、一定の気遣いはできるらしい。だがそれがうっとうしく思う人間もいる。真幸はのそのそと起き上がり、和室から出た。

 ローテーブルにはすでに朝食が並んでいた。バターをたっぷり塗ったトーストに半熟の目玉焼き、瑞々しいレタスとトマトのサラダ——真幸自身、幾度となく食べた定番メニューだ。

 思わず、ぐうっと腹を鳴らす。
 すると、母が不意に苦笑を漏らした。
 どきりとするがしかし、母は何事もなかったかのように食卓へついた。

「いただきます」

 偶然、タイミングが合っただけらしい。ほっと胸を撫で下ろす真幸に、横から声がかかる。

「ねえ、君のお母さんだけど——」

 啓が言い終わる前に、玄関のインターホンが鳴った。
 食事を中断した母は、受話器を取った。

「はい——えっ……あぁ、その、はい……玄関先、でなら——」

 最初こそ愛想良く応答したものの、急に眉を曇らせる。受話器を置いた母は浮かない顔で玄関に向かった。

「なんだろう」

 啓の呟きに聞こえない振りをしつつも、真幸は横目で玄関を探った。何せ狭い家だ、ここからでも十分見える。

「お待たせしました……」

 母が扉を開けると、そこには見覚えのある男が立っていた。
 休みだというのに、かっちりしたジャケットにスラックスといった出で立ちをしている。濃くはっきりした眉や、筋の通った鼻、フレームレスの眼鏡の奥にある理知的な光——どれをとっても、真面目で律儀な好青年という印象を受ける。
 そしてそのどれもが——真幸は気に入らなかった。

「悟さん……」
「おはよう、幸子さん。突然、すみません」

 悟と名乗った男は深々と頭を下げた。

「お葬式……以来ですね。体調はどうですか」
「あの、昨日も言いましたけど、私は大丈夫なので」

 真幸は怪訝に思った。母は終始、男と顔を合わさなかった。口調も沈んでおり、むしろ早く帰って欲しいと言外に訴えている。
 拒絶の意思を感じ取ったのか、男は急くように持っていた紙袋を差し出した。

「あ、そうだ、もし良かったらこれ。レトルトとか缶詰とか、簡単に食べられそうなものを見繕ってきました」
「そんな、困ります」
「気にしないでください、弊社商品のサンプルなので。今は……その、料理する余裕もないかと思いますし、そんな時は」
「もう、結構です……!」

 突然、強い語気で押し切られ、男が口を噤む。
 母は彼をきっと睨み付け、言葉を続けた。

「私、言いましたよね。あなたとは一緒になれませんって。それを……それを、真幸がいなくなったからって……。もう、放っておいていただけませんか」

 男はしばらく足下を見て、黙り込んでいた。
 しかし少しすると、毅然と顔を上げ、母にこう言った。

「迷惑と感じられているなら、申し訳なく思います。けど、それでも……今のあなたを放っておくことはできません」

 その真っ直ぐな視線に、母はもとより、当事者ではない真幸ですらたじろぐ。

「真幸くんのことは……残念です。お母さんに似て、とてもいい子だったから」
「何、言ってるんですか。一度しか会ったことないのに」
「いえ、間違いなくいい子です。だって普通、母親の恋人との食事会なんて、出たがらないでしょう。でもあなたが誘ったら、真幸くんは来てくれた。だから僕は彼とも家族になりたいと思っていた……。結局、その席は僕が壊してしまいましたが」

 真幸の胸に苦々しい記憶が去来する。

 あれは半年前だった。例の不良グループに出会う直前だったと思う。
 母に請われ、真幸は渋々ながら彼に会った。その日もきちんとした身なりで、物腰穏やかなこの男を、真幸は反射的に苦手だと思った。真幸は覚えていないが、母に暴力を振るい続けたらしい父とは対極にいる人間なのだろうと思ったし、何より、話すときにまっすぐ見つめてくる視線に慣れなかった。

 途中、母が一時席を外し、二人きりなってしまった。男は学校の様子や勉強の進み具合など、当たり障りのないことを話題にしていたが、やがて思い直したように一口水を煽った。

「真幸くんは偉いな。僕はその頃、そんなに真面目じゃなかった。よくお袋を泣かせてね。今でも申し訳なく思っているよ」

 心の中で興味ねえよと毒づいた。まだちゃんと学校に通っている頃だったが、それを嘲られたような気もしていた。
 すると、男は急に真摯な表情を浮かべ、真幸にこう言った。

「——真幸くん、どうかお母さんを大切にして欲しい」

 瞬間、頭に血が上った。

 その頃、ちょうど母の小言が多くなり、真幸は真幸で反抗心が強くなっていた。この交際相手に、母はいろいろと相談していたに違いない。母へ対する裏切られたという気持ちと、自分の中に流れる血には備わっていない物を持っているこの男への反発心で、頭の中がぐちゃぐちゃになり、気づけば席を蹴るように立ち上がっていた。

「うるせえ、知った風なこと言うんじゃねえよ!」

 男の制止を振り切り、真幸は出口へ向かった。途中、立ち尽くす母とすれ違ったが、そのまま店を出た。そして真幸は生まれて初めて、屋根のないところで夜を明かした。

 ——その真幸がここにいることを知らない男は、言葉少なに告げた。


「長話が過ぎました。今日はこれで失礼します」

 そうして来たときと同じように深々と頭を下げ、玄関から出て行く。
 母はきっと眉をつり上げて、男の背中に何か言おうとしたが——しかし気をなくしたように、俯いてしまった。

「……なんなんだよ」

 真幸は目撃した一部始終を、信じられない気持ちで反芻する。
 邪魔者がいなくなって、晴れてアイツと一緒になるんじゃねえのか。
 ——俺が死んで、万々歳じゃねえのかよ。
 とぼとぼとリビングに戻った母は、すっかり冷めた朝食を前にして、しばらくぼうっとしていた。しかし気を取り直したように、再び箸を動かし始める。

「大丈夫」

 熱いコーヒーを飲み下しながら、母は自分に言い聞かせている。

「大丈夫、私は一人じゃない」

 嘘だ。頼るべき親戚もいない。あの男を遠ざけてしまえば、母はこの世で一人きりだ。そのはずだ——

「そうだよね……」

 母は空のマグカップを置き、小さく微笑みを浮かべる。


「——ね、真幸……」


「え……?」

 ぎくりと肩を強張らせる真幸をよそに、母は椅子から立ち上がるとリビングをやおら見回した。中空を見つめたまま穏やかな笑顔を浮かべ、先ほどの動揺をどこかへ忘れてきたように、またあの明るい様子に戻った。

「さてと、食器洗わなきゃ」

 流しから、水の落ちる音が聞こえてくる。白い蛍光灯に照らされた母の横顔
を、真幸は瞬きもせず眺めていた。

「まさか、な……」

 とっさに思い浮かんだ考えに、自分で首を振る。
 そんなバカな、幽霊だぞ。もう死んでんだ。
 誰にも見えなかったのに、母にだけ見えるなんてことがあるものか。
 期待しない。そう、決めたんだ。

「——ちょっと、柴兄呼んでくる」

 一連のやり取りを無言で見守っていた啓が、不意にそう言い出した。

「は? 突然なんだよ」
「まだ、僕だけじゃなんとも。君はここで待ってて」

 啓はリビングの窓を開け、躊躇いもなく窓枠に足をかける。兄弟ともにここを出入り口と勘違いしているらしい。
 四階だぞと言おうとした矢先、啓は振り返って、釘を刺してきた。

「ちなみに、もし逃げたら——分かってるよね」
「逃げねえよ……」

 昨日一日で、その気はとうに失せていた。どのみち行くところもない。

 窓から身を躍らせた啓を見送った後、真幸は台所へ首を巡らせた。
 母は食器洗いを終え、リビングに戻ってきた。二杯目のコーヒーの香りとともに、再びテーブルへつく。そしてテレビの脇に置いてあるカラーボックスに手を伸ばした。

 母がおもむろに開き始めたのは、真幸の小さい頃の写真が入ったアルバムだった。
 青地に電車や車のイラストが描かれた固い表紙に見覚えがある。手持ち無沙汰になった真幸は、なんとはなしに母の後ろからアルバムを覗き込んだ。
 生まれたばかりの赤ん坊の頃から中学校入学に至るまで、様々な年代の写真が丁寧に仕舞い込まれていた。

「あんたってほんと夜泣きがひどくてね。抱っこしてようやく寝かしつけても、布団に置いたらすぐ起きて、泣き出すの。母ちゃん、眠たくて眠たくてたまらなかったわ」

 泣きはらした赤子を指でなぞる母は、至極穏やかな表情を浮かべている。真幸が何度目かの違和感を覚えたのも束の間、母は「あっ」と声を上げた。

「ほら見て、これ……母の日のカーネーションだ。懐かしー」

 ページの間に挟まっていたのは、折り紙で出来た赤い花だった。確か保育園のイベントで作らされたのだったか。折り目が合わず、途中で放り出しそうになったのを思い出していると、母が堪えきれないと言わんばかりに笑い出した。

「あはは、ぐちゃぐちゃ。あんたって昔からぶきっちょだったもんねぇ」
「……うるせえよ」

 とっさに言い返すや否や、母はぴくりと顔を上げ、真剣な表情で再び部屋を見回し始めた。そして、

「声——」

 真幸が何も言えないでいると、母は一人立ち上がる。

「ちょっとだけど、声、聞こえた……。やっぱりいるんだね、真幸」

 冷たいものが、背筋を伝う。

「帰ってきてるんだよね、ねえ、真幸……!」

 ——嘘、だろ。

 声が出そうになるのを思わず堪える。
 偶然などではない。
 母は明らかに真幸の声に——存在に、反応している。

「——こりゃ、ヤバいな」

 はっとして振り返ると、天使兄弟の兄・天宮柴乎が立っていた。
 その後ろにいた啓も、母の様子を見て同調する。

「うん。もう相当、引きずられてる」
「は……?」
「真幸クン、とりあえずこっち」

 例のごとく柴乎に首根っこを掴まれ、真幸は和室に連行された。
 昨夜同様、柴乎は我が物顔でどっかと座ると、寝癖だらけの髪を乱暴にかき回す。

「ここなら、まだ声も届かねーだろ」
「な、なんのことだよ」
「しらばっくれんな、分かってんだろ? 魂だけのお前が、なぜか母ちゃんにだけ認識されつつあるって」

 思わず言葉に詰まる。後から追いかけてきた啓が話を継いだ。

「関係が深い魂は引き合うんだ。魂が近くにいればいるほど、ね。もしかして君、死んでからずっと、この家に帰ってきてたんじゃない?」
「だったら、なんだよ……」

 眼鏡の奥の瞳が、すっと眇められる。

「つまり、君のお母さんは君の魂に引きずられて——自分も『死』に近づいている」

 どきり、と——
 もう脈打つはずのない心臓が跳ねた。

「死に……近づく? 俺がこの家にいるだけで? ハッ、何だよそれ——」
「マジな話だよ。誰だって、死んだヤツが傍にいるなら、もっと近づきたいって思うだろ。声が聞きたい、話がしたい、顔が見たい——一緒にいたい、ってな具合にな」
「じ、自殺するってのか」
「そうとは限らないよ。事故に遭うかもしれないし、病気に罹るかもしれない……でも、どのみち『死』を引き寄せてしまうことに変わりはない」

 全身から力が抜けていく。
 様々な感情が渦巻いて、胸の内が濁っていく。
 その汚泥の中でもがき苦しむばかりで、何もできない。

 いつもそうだった。
 自分の居場所が分からなくて、ここにいていいのかも分からなくて、どこに行っていいのか見当もつかなくて——
 最後には、必ずここに帰ってきてしまう。
 けれどやはり自分は、母の傍にいてはいけないらしい。

「オレは……」

 呆然と呟くが、その先が続かない。

「オレ、は——」

 重苦しい沈黙に押し潰されそうになったその時、リビングからか細い声が漏れ聞こえた。

「……アンタは、昔っから、元気が良かったよねえ——」

 途切れ途切れの言葉は僅かに震えていた。どうやら母はアルバムの続きを見ているようだった。

「学校から……帰ってきたらすぐ『いってきます』って、飛び出して……行っちゃってさ……。私の『いってらっしゃい』も聞かずに、さ……。そのうちに、母ちゃん、仕事ばっかりで……あんたも全然家にいなくて、ずーっとすれ違って」

 ぐすぐす、と母はしゃくり上げている。真幸は棒立ちになったまま、襖を眺めることしかできない。

「ねえ、真幸……母ちゃん、おかしくなっちゃったのかな——でもね、分かるんだよ、アンタがここにいるって、分かるの。帰ってきたら真幸がいる。ずっと真幸と一緒にいられる。だから、母ちゃん、今が一番幸せなの」

 涙に曇った声で、母はか細く呟いた。


「真幸、ごめんね。こんな母ちゃんで、ごめんね……」


 途端に、ぱっと道が開けたような気がした。
 胸の中の雲が晴れ、長い光の筋が差す。

 今の真幸は幽霊だ。
 けれど、確かに今、ここに立っている感触が足裏から伝わってくる。
 誰にも見えない、聞こえない自分を——感じてくれる存在がいるから。

「そうだ、オレ……」

 いつも喧嘩をしては、飛び出すように家を出て行った。
 真幸が古いドアを乱暴に閉めると、その音が部屋中に響き渡る。
 やがてその余韻も消え、母は薄暗い団地の一室に取り残されていた。
 いつ帰るとも分からない、真幸の帰りを——きっとずっと、待っていた。

「ただいま、って言ってない」

 目頭が熱くなるのをこらえ、真幸は天使兄弟を振り返る。


「ちゃんと……『いってきます』って言ってないんだ……」


 ついに零れ落ちた涙を袖で拭う。真幸はぐっと顔を上げ、兄弟に尋ねた。

「お前ら、人に見えるようにもなれるんだろ?」
「おう、まぁな」
「——じゃあ、頼みがある」

 黒ずくめの兄弟は視線を交わし合い、即座に頷いた。
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