第1話

文字数 1,954文字

「これ、お姉ちゃんのとこの水族館じゃない?」

 妹が指差すテレビ画面には、見慣れたレプリカの氷山とペンギンの姿があった。私が肯定するよりも先にテレビのナレーターが水族館の名前を読み上げたのを聞いて、妹はそうだよね、と興奮気味につぶやいた。
「かわいい動物ムービー100連発」というテロップが流れた後、氷山と水辺のぎりぎりを歩いていたペンギンが、並走していた別のペンギンに押し出され水中へと落ちていった。妹はへらりと眉を下げて笑いながら、

「かわいそ可愛いね」

と、満足そうに言った。
 私がアルバイトとして雇われているその水族館は、それほど展示動物も多くない小さな水族館だ。だからこそ事業継続のためには利益を上げる努力が必要になるようで、上司は険しい顔をしていることも多い。しかし、アルバイトとして売店で客にジュースやソフトクリームを売るだけの私には関係のない話だ。そう、関係のない話だと思っている。今でも。

 スマホに保存したシフト表を開き、明日の勤務時間を確認する。やけに小さい文字で書き連ねられた名簿の中からようやく自分の名前を見つけ出すと、そこには「残業9時〜18時」とあって、つい、深いため息が出てしまう。私の心がズシリと重くなった理由は、いつもよりも勤務時間が長くなることに対してだけでは無い。
 私は変わらずテレビに向かい楽しそうな妹におやすみと声を掛けて部屋に戻った。

 翌日、出勤して制服に着替えていると後ろからおはよう、と挨拶をされた。振り向くと私と同時期にアルバイト入社した同僚が軽く手をあげて笑っていたので、私もお疲れ、と返す。同僚は明るい色の髪を耳に掛けながら「いや、マジ朝イチのシフトはお疲れって思うわ」と言うので、共感の意味を込めて乾いた笑いを返した。同僚は私と同じ制服に着替えながら、話を続ける。

「今日、完全に一緒でしょ?残業も。」

 彼女が動くたびにふわりと香ってくる花の匂いは香水か何かなんだろうか、と頭の端で思いながら、確かにそんなシフトだったと思い頷く。

 「やった、今日は当たりシフトじゃん」

 私たちは並んで更衣室を出て、今日の担当ポジションへ移動する。
昨夜、テレビに映っていたペンギンの展示水槽のすぐ横。関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉を開ける。中は薄暗く狭いが、ゆったりと座れそうな赤いソファが二つ並んでいる。私はここにくるといつも、小さな映画館のようだと思う。
 ソファに座ると、目の前には先ほど横切ったペンギン水槽と来館者の姿がマジックミラー越しに見えている。

「昨日のテレビみた?」と同僚が聞くので、私はまた頷く。
「ああいうので取り上げられると、ちょっと申し訳なく思っちゃうよね」
同僚は髪を指でくるくるしながら話す。

「あのペンギンが落っこっちゃった、っていうの、私たちのヤラセなのにね。」

しょうがないか、と同僚は諦めたように笑った。
 
 私たち"残業"シフトの仕事。世間一般でも使われる言葉を隠れ蓑にした本当の意味は、展示された動物たちを操り、来館者にとって見応えのある展示を意図的に作り出す業務のことを指す。

 ペンギン水槽に目を向けると、担当の飼育員が餌の入ったバケツを持ってきたところだった。館内には来場者の気配も増えている。
 やりますか、と小さくつぶやいた同僚はひとつ深い呼吸をした後にクッと眉を寄せて一羽のペンギンを見た。
すると、そのペンギンはおぼつかない足取りで、飼育員へ寄っていく。そしてまるで自分をアピールするかのように少し跳ねる。その様子を見た来館者は黄色い声援をあげてスマホを構えた。
 
 館長がどこからか調達してきたこの赤いソファに座ると、どんな人間であろうと不思議な力が使えるようになる。初めてその説明を上司から聞いた時は、ついに忙しさに頭がやられてしまったのかと思ったが、私のようなただのアルバイトにもなぜか念力のような力が使えるようになってしまう、気味が悪い物体だった。
 こんな訳のわからないものに動かされたペンギンたちに何か障害が起こるのではとも思ったが、このソファを使って数年経っても何も起きないらしい。

「ねぇ、ちびっこ、来てるよ。」

 同僚に声を掛けられて深く沈みそうになった意識が現実へと戻ってくる。私は慌てて先ほどの同僚のように息を吐いて、子供の近くにいたペンギンを睨みつける。そのペンギンは、私が念じた通り子供のほうを見てこてんと首を傾げた。
その様子を見た子供は不思議そうな顔をした後、昨日の妹のように眉を下げて笑った。

 私にとって、職場の利益はどうでもいいこと。だからこそ、この気味が悪い業務を何度担当しても受け入れることができない。

「ちびっこ笑ってるね。かわいい〜」

そう言う同僚に、私は愛想笑いを返すことしかできなかった。
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