第1話

文字数 6,007文字

「あ、雪だ」
「やっぱり。こないだの休みにタイヤ履き替えておけばよかった」

パート仲間が店の外を見ながら言葉を交わしている。私は結婚以来この町に暮らし、子どもが高校生になった春から自転車で通えるこのスーパーでパート勤めを始めている。

朝の天気予報ではたしかに夜に雪が降ると言っていたけれど、帰るまでは持つだろうと洗濯物を干してきてしまったことが悔やまれた。

そして……洗濯物の次に頭をかすめたのは、通勤途中にある桜が丘公園にいる、あの人のことだった。この半月ほど大木の根元に腰をおろし背中を丸めてじっとしている。よれよれの黒っぽい服を着ぶくれするほど重ね着し、上着のフードをすっぽりとかぶって顔も見えず、年齢も定かではない。いわゆる家をなくした人のようだけれど、この町ではホームレスを一度も見かけたことがないので、気になっていた。

そのうちカイロか食糧でも持って行こうかと迷っていた。でも、中途半端な同情は、かえって迷惑かもしれないし、一度や二度食料を調達したとて、その人の人生を好転させる力にならないことは理解していたけれど……。

 その日、帰り際に菓子パンと牛乳、それから何か温かいものをとお好み焼きを買ってエコバッグに詰め、自転車のかごに入れた。

その公園は子どもが小さなころよく遊び来た場所だった。遊具も充実していて遠方から車で来る親子連れもあった。わが子もここで公園デビューしたけれど、子どもが成長してからは素通りするばかりだった。

そこに、二週間ほど前突然ホームレスが現れた。どこからやって来たのだろう。寒い冬もずっといるのだろうか。いつしかパート先との往復の際に必ず目で追うようになっていた。

 冬の風は冷たい。まして今日は雪がちらついている。切れるような痛みを指先に感じながらハンドルを握り、ペダルを踏みこんだ。公園の前の自転車置き場に自転車を止め、カゴに入れたエコバッグを手に大木までの十数メートルを歩く。

やはりその人は木の根元に座ってうつむいていた。

私は近づくうちに怖くなってきた。こんなことをして気分を害されるかもしれない。危害を加えられても自己責任か。自問自答はどんどんこの場から逃げるほうに加算されていった。
が、踵を返そうと思って、足を踏みかえたはずが逆に彼へ向かって勢いが増すことになった。どういうことか、心と身体が一致しないまま自分でも不思議な力に引き寄せられるように大木めがけて歩いていた。

「あの」

聞き取れないほどの小声で、囁くように呼びかけた。彼は反応せず、そのままの姿勢を保ち、うずくまっている。
「あの……お腹空いてませんか?少しだけど、食べてもらえたらと思って」
やはり聞こえないのか彼は動かない。私は少し考えてから、エコバッグをそっと彼の傍らに置いた。やはり彼は微動だにせず、うずくまったままだった。私はむしろ反応がないことにホッとしてその場を去った。そう、反応されても慌てるだけだっただろうから。これでいいんだ。

翌朝は雪が積もっていた。パート先へはバスで行くことにした。雪に降られたあの人のことが気になった。ささやかな食料を少しは食べてくれただろうか。

なかなか雪はやまず、3日目にようやく晴天となった。

朝、自転車で通りかかるとあの人の姿はなかった。木の根元にはあのときのエコバッグが、そのまま少しも動かされずに置いてあった。3日間、雪の中に置かれたままだったようだ。このまま放置しておくわけにもいかず、雪をはらってバッグを自転車のかごに入れて帰った。

勝手に何かを期待していた自分の心が、音もなく押しつぶされたように感じた。家に帰りつき、玄関にエコバッグを置くと、胸の奥がちくっと痛くなった。
遠い昔こんな気持ちになったことがあった。それがいつのことだか思い出せなかった。



翌日、公園の木の根元にまたその人がいた。下にシートが敷かれ、ボストンバッグが横にあった。そして彼は文庫本を読んでいた。

ボランティアの人たちが彼の近くに3人いた。おにぎりを支給していたのだ。彼は頭を下げて受け取っている。少し言葉も交わしている様子だった。私のなかで悔しさが無性にこみ上げた。

いつしか私の心は名前も知らぬその人に占有されていた。

「ホームレスの支援ですか?」公園の入り口にいたボランティアの人に近づいて問いかけた。
「ええ、いつもは大鳥駅前で活動しているんですけど、ここに一人いると聞いて来たんですよ」
「私も気になっていたんです、あの人」
「ここは多目的トイレもないし雨露しのげる屋根がないから暮らすには過酷なんですけどね」
「それでもここがいいんですか」
「どうやらほかのホームレスとはあまり接触したくないようでね」
「へえ」
「最近のホームレスはね、高学歴の人や大企業に務めていた人なんかもいるんですよ」
「へえ」
「中にはね、自由のために家も家族も捨てて、ああいう人生を選ぶ人もいるようですから」
「あの人は……?」
「ずいぶん昔から身寄りがなくて、あちこち点々としながら肉体労働で生きていたようです。でもねえ、そういう仕事はケガをしたら最後、寮を追い出されてあっという間にホームレスですよ」
「公的な機関に相談とかできないんですか」
「僕たちもそれを勧めているんですよ。まあね、行政からの情報なんて……必要な人に届かないんですよね」

帰り際にもう一度その人のところに戻った。

少し離れたところから声をかけようとしてハッとした。彼が読んでいたのは、私が中学生のころに夢中になった作家の、中でも一番好きな一冊だったのだ。
「あ、私もその作家、好きです。中学生のころによく読みました」
ふいに話しかけた瞬間、強い風が吹き落葉が渦巻いた。

 動かなかったその人が、風の急変に不安げに目を上げた。その視線が私の視線と交わった瞬間、私は彼を見つめて固まった。

 そこにいたのは、遥か記憶の奥底で古傷のように痛みを伴う人だった。姿は違えど瞳は嘘をつかない、それは片方にブルーの光をたたえた紛れもない彼の瞳だったのだ。

時が止まった。

うそでしょ。どうして……。

お互いに息をのみ、視線が動かせなくなった。数秒のことだったか貼り付けられた呪縛から抜け出た瞬間、私は彼から目をそらし、離れ、懸命に駆けた。

何をどうしたらいいのかわからないまま自転車に乗り、ふらつきながら帰宅した。


  ***


あの人と会えなくなってから30年が過ぎていた。

あれは中学2年生の春、下校時に自転車がなくなったことがあった。買ってもらったばかりの自転車だったので必死で探し回った。
「どうしたんすか」
私の必死の形相に一年下の男子生徒たちに声をかけられた。バスケットボールの部員だ。
「自転車を盗られちゃったみたいで」
「え、校則違反の自転車に乗ってきたんすか?やば……」
年下の男子たちはふざけ合いながらしばらくいっしょに探してくれて、見つからなかったので帰って行った。私もあちこち見回しながら家に帰り着いてしまった。
そこへさっきの男子グループの一人が通りかかった。彼は軽く会釈をしたあと問いかけてきた。
「自転車、まだ見つかりませんか?」

彼と目が合った瞬間、私はハッとした。それはオッドアイと呼ばれる左右の瞳の色が異なる人で、彼の左目は澄んだ青色をしていたのだ。
「ええ。見つからないの」
「もしかしたら、日の出川の河原あたりに乗り捨てられてるんじゃないかな。僕の家、そっちの方だから帰り道に見てみますね」

その夜は、ぼんやりと彼の瞳を思いながら、眠りについた。

翌朝、家を出て驚いた。昨日失くしたはずの自転車が門の外に置かれていたのだ。パンクの修理の跡まであった。きっと彼だ。彼以外には、いない。

放課後、体育館をのぞくとバスケ部が練習していた。オッドアイの彼もいた。「自転車、見つかったんすか?」
一人がランニングしながら声をかけてきた。
「見つかったわ。ありがとう」私も答えた。
オッドアイの彼とも目が合ったけれど、大きなリアクションもなく彼は走って行った。

その日の夕方、家の前で私は彼を待っていた。彼は夕闇の中をゆっくりと歩いてきた。
「昨日はどうも」
「あ」
「自転車、見つけてくれたのよね。ありがとう」
「やっぱり河原に捨てられてた」
「わざわざ持って来てくれたのよね。本当にありがとう」
「遠くないから、ぜんぜん」
「家はどこなの」
「市営住宅」
「ああ、あそこね」

そんな会話で別れた。

それから数日後の日曜日に、また家の前で偶然会った。休日ということもあって、彼はスポーツタイプの自転車に乗っていた。

軽く会釈で済ませようと思ったけれど、私は彼と言葉を交わしたかった。
「こんにちは」
「あ、ども」小さな声で答えてくれた。
「素敵な自転車ね」
「うん。あ、好きだから」
「そういえば、私の自転車も修理してくれたわよね」
「あのままじゃ乗れないでしょ」
「ありがとう」
「ま、趣味っていうか」
「自転車、好きなんだね」
「うん」
「日の出川のサイクリングロード、走ってる?」
「え?」
「あれ、知らないの?」
「うん。引っ越してきたばかりだから」
「そうだったの。じゃあ、すごく気持ちいいから走ってみて。橋から見える夕陽もきれいよ」
「うん」
 一瞬の沈黙ののち彼が口を開いた。
「サイクリングロード、一緒に走れないかな」
「え」
「無理ならいいけど」
「ううん。無理じゃないよ。でも誰かに見られたら、嫌じゃない?」
「別に、ぜんぜん気にしないよ」
「そう。それなら私も平気よ」

5月の連休に約束をした。

その日はまさに五月晴れだった。青空はどこまでも澄み、空に浮かぶ雲も、ほほをなぜる風も、川面のきらめきも、ひばりのさえずりも、堤防で一緒に食べたほろ苦いチョコも、この世で一番素晴らしいと思えた。

同じ方向を向いているからだろう、ペダルをこぎながら彼はとても饒舌だった。お母さんがおととし病気で亡くなったこと、今はお父さんと二人暮らしだということ、お母さんを亡くしてからお父さんのお酒の量が増えたこと、お父さんが失業して心機一転この町で新しい仕事につき始めたこと、食事の用意はほとんど彼がしていることなど、たくさん話してくれた。
そして、日暮れまで一緒で夕陽も一緒に眺めた。そして別れ際に、私はそのころ好きだった作家の文庫本を渡したのだった。

サイクリングロードでの数時間は私たちの距離を一気に縮ませた。でも、いつまでも慣れないことがあった。それは彼の瞳だった。彼と目が合うと必ずドキドキしてしまうのだ。左目のブルーは、すべてを吸い込んでしまう湖のように思えた。


あの、ブルーの瞳を持つ彼のことを私は好きだったんだろうか。恋をしていたんだろうか。よくわからない感情だった。

それはたぶん、自分の心を確かめる前に彼がいなくなってしまったからだろう。夏休みが終わり学校へ行ったら、彼はいなかった。バスケ部をのぞいても、姿はない。
一年の男子を追いかけ、声をかけた。
「あの、あの彼は……」
男子たちは一瞬静まり、お互いの眼を見合わせてから一人が口を開いた。
「急に家庭の事情というか」
「オヤジやばかったからな。酒癖わるくて、殴られてたみたいだし」
「そう、それで……あそこ……ほら、やばいうちの子を保護する、あの……」
「ああ、児童相談所のことね」私は思わず口を挟んだ。
「そそ、それ。突然その人たちがきて、連れていかれたみたいで」
「仕方ないじゃん。オヤジ夜逃げしちゃったんだし」
「たしかに」
「あいつバスケうまかったのになあ」
男子生徒たちの話はまだ続いていたが、私はそっとその場を離れた。

輝いていたサイクリングロードの風景が、すべて幻のように思えた。

その後も、中学へ通っているあいだは彼のことを思い出してはどうしているんだろう、また戻ってきれくれたら……と気にしていた。しかし卒業してからは彼を思い出すことも少なくなっていった。

そして私は、絵にかいたように平凡な人生を歩んだ。短大を出て、少し会社員をし、結婚をして、子どもを授かり、主婦となり、今はパートで働いている。それなりにいろいろあったはずだけれど、それでも何かに守られて生きてきた気がする。


   ***

「あれ、母さん帰ってたんだ」
息子の声で我に返ると、真っ暗な家のなか、ダイニングの椅子に座ってぼおっとしている自分に気がついた。
「今日のご飯なに?」
「あ、ハヤシライスを作ろうと思ってたんだ。急いでこれから作るね」
「母さん、大丈夫?僕やろうか」息子が怪訝な顔で聞いてきた。
「だいじょうぶよ、……なんでよ」
「いや、大丈夫ならいいんだけど……」


ハヤシライスは、予定より1時間遅れで出来上がった。残業で遅い夫を待たずに息子と一緒に食べた。


翌日、パート勤務はなかったけれど、あの公園へ向かった。彼に話しかける勇気はもうなかった。でも、今はただ会いたかった。


彼はいた。あの本を開き目を落としていた。心臓の高鳴りをおさえながら、私は近づいた。

「こんにちは」
彼は青い目をあげ、一瞬の戸惑いを見せたあと静かに微笑んだ。その表情は、あの日と変わらぬ静かで優しい笑顔だった。
「大変だったのね。食べるものはいらない?本の方がいい?」
彼は微笑みながら、何も語らず静かに首を横に振った。


それ以上の言葉は見つからなかった。私はただ、そのブルーの瞳に吸い込まれそうになるのを制するだけで、精いっぱいだった。
私たちはそれ以上言葉を発することなくただ、見つめ合っていた。やがて彼は目を伏せると文庫本の上に涙がひとしずくこぼれて落ちた。

私は小さく後ずさりしながら遠ざかり、やがて向きを変え早足で歩いた。振り返ることはできなかった。

自転車に乗ってから泣けてきた。中学生のころに泣けなかった分も泣いた。人の目も気にせずに。



翌日の公園に彼なはいなかった。シートも、ボストンバッグもなかった。ふと、木の根の上に一冊の本が目に入った。それはあの5月の夕空の下、別れ際に彼に渡した文庫本だった。拾い上げ、カバーを外して裏返した。

「今日はありがとう。自転車仲間ができてうれしい。
これからもよろしくね。亜紀」

私が30年前に記した文字だった。

そしてその下に見慣れない文字が寄り添うようにあった。

「ぼくがはじめて好きになったひとへ。
いつか、また、会えますように。」



電車で大鳥駅前に向かった。駅前広場には数名のホームレスが住み着いている。炊き出しのボランティアの人に訊ねた。

「すみません。桜ケ丘公園にいたホームレスの人は、どこへ行ったか分かりますか?」

「あ、あの人ね。仕事が見つかってアパートに住むことになったみたいですよ。小さな自転車屋さんに自転車整備の技術を認めてもらったみたいで」

「よかった」

「お身内じゃない人にはお店の名前もお伝えできないんで、ごめんなさい……」

「いえ、ちょっと気になっていただけで」
私はその場を去った。

ポケットの中は、30年の月日で丸みを帯びた文庫本が、掌になじんで温かかった。

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