第1話

文字数 1,937文字

 中国が唐と呼ばれたその時代(ころ)、長安の都に葛思遠(かつしおん)という絵描きがいた。
 別段、大した男ではない。志を立てて一旗揚げようと田舎を飛び出したまでは良かったが、世渡りに疎く、あっという間に食い詰めて、路傍で物乞いをするまでに落ちぶれ果てた。
 着物も絵筆も失くし、故郷へ帰ろうにも路銀すらない。薄い(さん)(単衣)に(むしろ)を巻きつけて雨露をしのぐこと数年、もはや「人間到処有青山(どこでしんでもかまうものか)」と開き直るほかないところまで来た、ある日のこと。
「もし。此方(こなた)は葛思遠どのではございませんか」目の前に見知らぬ老人が立っていた。商家の(しもべ)のような目立たない身なりをした老爺は、曲がった腰をさらに(かが)めて慇懃(いんぎん)に礼をとった。「あなた様をお探し申しておりました」
 小便臭い土壁にもたれたまま、葛はひだるく目を(しばたた)いた。
「いかにも(おれ)は葛思遠だが」そういえばそんな名であったかと思い返す。名を呼ばれるのは勿論のこと、自分がまだ

誰かの目に映るとは思わなかった。そのことに少しく驚きながら、葛はもごもごと口を動かした。
「すまないが、どちら様だろうか。とうに借金取りからも見放されたと思っていたが」
 深い皺の刻まれた相貌にゆったりと、だが得体の知れない笑みが浮かぶ。老人は懐から一枚の画紙を取り出すと、恭しい手つきで広げて見せた。
 半分眠っていた葛の眼が紙の白さに吸い寄せられる。
「これは二年前、あなた様がお描きになられた、私の娘の姿絵です。そしてこの絵のために、あなた様は画壇を追われた。描いてはならぬものを描いたが故に」
 葛は老人の手から紙をひったくった。体が震え、垢にまみれた頬を涙が伝う。紙の手触りも筆の運びも、息遣いも、ありありと思い出せる。
「己の絵だ……己が描いた」
 歳月の糸が一瞬で繰り戻された。
 二年前の春の宵。百花が咲き誇る妓楼の窓から、ものも言わず笑みも浮かべず外を見ていた妓女。静謐で透き通るような佇まいは、自分がそこに存在していることすら失念しているように見えた。
 刹那、「描きたい」という稲妻のような思いが葛の全身を突き抜けた。この女が何者なのか知りたい――感じたい。()()も介さずに拒む女の手をつかみ、一晩かけて口説(くど)いた。女は、己の名前を教えないことを条件に、葛の欲望を受け入れた。
 だが。
 何度描き直しても、角度を変え、灯りを変えても、これだという線が描けない。女の輪郭をとらえたと思った傍から線は揺らぎ、(ほつ)れ、枯れていく。儚い(かんばせ)(たお)やかな姿態も目を凝らすほどに見えなくなる。無色の風、無形の水――この世にある森羅万象、描けないものはないという絵師の自負が削り取られていく。
 やがて夜が白む頃、葛の手から力なく筆が落ちた。絵師として完璧な敗北だった。
 女を見たのはその一夜限り。名前も知らない、悪夢のような女。それで終わる筈だった。
 同じころ『鬼残(きざん)』と呼ばれる兇手(ころしや)が都を騒がせていた。高官や王族は言うに及ばず、女子供までも容赦なく手にかける。近衛府(このえふ)御史台(ぎょしだい)は血眼になって姿なき暗殺者を追い、わずかな報奨金目当ての密告や讒言(ざんげん)巷間(こうかん)にあふれた。
 葛思遠もまた、役人の取り調べを受ける羽目になった。いつぞやの女が鬼残の一味であるという。
 ふんぞり返った吏卒(りそつ)は、王府画院への推薦をエサに葛に女の似顔絵を描けと命じた。
「鬼の絵を描けとは、酔狂な」
 葛は苦く笑うと、筆にたっぷりと筆洗の水を含ませた――。

「そうしてあなた様はこの絵をお描きになった」可笑しそうに口元をほころばせる老人の声で、葛は(うつつ)に引き戻された。「鬼とは目に見えぬ亡魂。水の絵姿こそ似つかわしい」
「そんな大層なもんじゃない。己は……」描けなかったのだ、と葛は(うつむ)く。
「なれど、娘はあなた様に救われました。鬼として生きてきた娘に、あなた様は眼差しを注いで下さった」
 己を捨て、世の中から捨てられ、そうして人は鬼となる。葛思遠という名が忘れられ、路傍の物乞いが誰の目にも映らなくなったように。
 老人は再び頭を垂れた。何も描かれていない古びた画紙を丁寧にたたんで懐に戻す。
 ふと葛が顔を上げると、いつの間にか手の中に小さな銭袋があった。
「今となっては娘の形見となってしまいましたが、それはこの絵のお代でございます。お陰様をもちまして娘は人として死ぬことが叶いました」
 ただ一度、斬り結ぶような視線を全身に浴びた。生まれて始めて人として人の目に映った。その存在の痛みと恐れ、そして法悦を抱いて鬼の娘は逝ったのだ。
 葛の右の手が、失くした物を探すように乾いた地を這う。指先が筆の感触を探している。凍りついていた血が流れる音がする。
「ならば己は、鬼を描かねばならん」

 昔、諸国を流離い、鬼を描いた絵描きがいた。
 姿なきものたちは、その絵に慟哭の涙を流したという。
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