第1話

文字数 3,509文字

「あ、おまえ……ここにいたのか」

 暗闇からゆっくりと近づいてきた白い猫に僕は話しかけた。そして、猫がかすれた声で答えるのを聞いて「会話ができるんだ」と驚いた。公園の入り口の古ぼけた街灯がともり始める時刻だった。
 ここは高層マンションとオフィスビルに挟まれた小さな公園。そのブランコに座る僕の足元に猫は体をすり寄せてきた。
 ふと、「彼女が近くにいるんじゃないか」と期待した。いやそんなわけはない。彼女はこの猫も、僕も、置いて行ってしまったのだ。
 公園には、彼女の気配が今も息づいている。ベンチで語り合った、ブランコに並んで腰かけ夜を過ごしたこともあった。今足元にいる白猫に出会ったのもこの公園だった。
都会の真ん中に小さな綻びのように公園はある。通りから死角となり、子どもの姿を見たことがないが、看板には「こどもゆうえんち」とあった。


 僕と彼女が出会ったのは一年前。新入社員の僕は会社から歩いて数分のところにあるカレー屋によく行った。そこに彼女はいた。オーナーから任されているらしく、メニューにひと工夫あって、僕は気に入ってランチタイムにたびたび訪れた。五席のカウンターとテーブル席が三つ、いつもちょうど良い込み具合だった。店は、彼女とアルバイトの女性の二人で回していた。
ある日、会社帰りに駅と反対方向のその店へふらっと行ってみた。彼女が店の窓ガラスを拭いていたので、軽く会釈をすると、彼女も首を傾げて笑顔になった。

「夕方からも、やってるんですか」
「ええ、ちょっと実験的に。ワインも少し出してみようかなって」
「へえ、いいですね。何時からですか」
「ぼちぼち開店です。一番乗りですよ」
 実験的にと言うとおり、店は彼女一人で切り盛りしていた。特に宣伝もしていないらしく、子ども連れの若い夫婦が入ってくるまでの一時間、僕が独り占めをすることになった。
 ランチタイムの慌ただしさと違い、ゆったりとカウンターの椅子に座り、ワイングラスを傾けた。白ワインとカレーがこんなに合うのかと感動した。
 ふとカウンターの向こうの壁を見ると、見たことのある絵画が飾ってあった。教科書に載っていたあれだ。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。額に入れられたその複製画は、教科書より何倍も魅力的だった。

「フェルメールが、お好きなんですか」
 ちょっぴりぎこちない敬語で聞いてみた。
「ええ。これはオーナーが飾ったんですけど。フェルメールって、左からふわっと光がさしこんでいるでしょ。この光を見ていると、気持ちが落ち着くんです」
「これって真珠なんですか。やけに大きいけど」
「ふふふ、真珠じゃないというのが定説ですよね。そもそも私は、錫とか金属製じゃないかと思っているんです」
「だとしたら、このタイトルをつけた人って、かなりいい加減な人ですね」
僕は笑った。つられて彼女が笑いながら髪を耳にかけた時、イヤリングに気づいた。ちょうど「耳飾り」の話をしていたからだろう。
「それって……真珠、ですか」
 彼女は、自分に話題を振られて、少し戸惑った様子だった。
「あ、そう、です。これ……、天然真珠なんですよ」
「へえ、天然、なんですか」
「ええ。自然に貝の中から見つかる真珠って、希少価値なんですよね」
「じゃあ、とても貴重なものですね」
「母の形見なんです。遺品から見つけたんですけど、鑑定書も何もないから……ちょっと、怪しいかしらね」
 直径一センチ近くはあるだろうか、半分にカットされた大粒の真珠は繊細な金属の爪で固定され、優雅な輝きを放っていた。
「身内がいなくなったからかしら……身につけていると安心するんです。真珠はもともと大好きだし」
 そう言いながら彼女はカウンターで食後の珈琲を淹れはじめた。僕は、誰かの耳元をこんなに見つめることなどなかったことに気づき、目を伏せた。


 一週間後の夜、再びその店に立ち寄った。最近帰り道にひったくりが出るんだと彼女が不安そうにしているのを聞いて、彼女のアパートまで送ることを申し出た。彼女は少し迷惑そうにも見えたけれど、おかまいなしで実行した。
 そんなことを数回重ねたある夜のことだった。
「いつもありがとうございます。よかったらお茶でも……いかがですか?」
「え、あ、いいんですか」
 遠慮がちに答えた僕は、階段を上る彼女のうしろをついて行った。
 もちろん、「何か」が起こることをかすかに期待していた。でも、部屋に二人きりになったとしても、彼女は僕にとって手の届かない人だとわかっていた。それは、彼女がうんと年上だったからなのか。いや違う。ふとしたときに見せる悲しそうな横顔と、一定の距離以上近づかせない空気のせいだったろう。
 「何か」なんて起こるはずもなかった。起こそうという気持ちも、起こらなかった。その後も部屋を訪ねると、たいてい彼女は紅茶を入れてくれて、どうということもない会話を楽しんだ。本を読んだり、映画の話をしたり、そんな日々だった。


 その日は雨が降っていた。彼女公園の前を通りかかると、雨に煙る街灯の灯りに小さな白い塊がぼんやり見えた。木の根元のそれに無言で近寄ると、生まれたばかりの子猫だとわかった。そして僕たちは、そのまま部屋に戻った。

 部屋に入ってからしばらく黙っていたが、やがて彼女が口火を切った。
「ねぇ、あの子、どうなるかな?」
「うん。死んじゃうよね。親猫もいなかったし」
「私、ダメなの、こういうの」
 そう言うと彼女は立ち上がり部屋を飛び出した。雨の中、僕もあとを追いかけた。

 さっきと同じ場所にうずくまっていた子猫は、彼女が拾いあげると手足を動かし、か細い声で鳴き始めた。



 死の淵にいたその小さな命は、夜中もミルクを与え続けた彼女の力で、日に日に大きく成長した。
 彼女は、よくその白猫を抱いていた。猫も彼女にだけは心を許しているようだった。「私、白い猫と、真珠と、お月さまが好きなの。なんとなく似てるでしょ」そう言っていた。



 あの夜も、彼女は猫を膝に乗せてブランコに座っていた。猫をなでながら、心はどこか遠くに出かけているようだった。声をかけても聞こえないようで振り向きもしなかった。そして、それが最後に見た彼女の姿だった。

 次の日、カレー屋へ行ったら、「本日休業」の貼り紙があった。心がざわついたまま、仕事を終えてアパートへ向かった。二度チャイムを鳴らしたが、それがむなしい行為だとどこかで感じていた。そこへ大家さんらしき初老の女性が階段を上ってきた。
「あの、この部屋の人は……」
「あら、あなたもお知り合い?先ほどもね、お友だちだと言う人から、どこへ行ったんだとしつこく聞かれましたけどね。知らないんですよ。今はほら、個人情報だなんだでしょ」
「引っ越しは、いつ?」
「昨夜ですよ。夜逃げみたい、って笑ってらっしゃいましたけどね。お仕事の事情で時間が取れなかったみたいで。今は、ほら引っ越し屋さんも二十四時間営業なんですよね」
 目の前がぐるぐると回転するような感覚に襲われた。


 ぼんやりブランコに座る僕の足元で白猫がまた話しかけてきた。

「そうか、お前は話せる猫だったな」
 両手を伸ばすと猫が体を預けてきた。彼女以外の誰にも懐かなかった猫が身をゆだねたので、はじめて抱き上げた。彼女がいつもそうしていたように。ぬくもりが心に染みた。
「あれ」
 猫の首輪に小さな袋がついていた。「迷子札かな」そう思いながら開けると、小さな紙切れが入っていた。小さく折りたたんだその紙切れを開くと、そこには、アルファベットとカタカナとひらがなが無秩序に並んでいた。
 僕の心に一筋の光がさしこんだ。文字列は、大好きなサスペンス映画に出てくる暗号だった。いつだったか彼女にその話をした。それを覚えていてくれたんだ。当事者しかわからない法則性で読み解くと、そこにメッセージが浮かび上がる。僕は解読しながら読み進んだ。

 「ジブンガ ワラウ コエヲ ヒサシブリニ キキマシタ タノシカッタ アリガトウ オットノボウリョクカラ ニゲテイマス ゴメンナサイ モシモ ニジュウネン ハヤカッタラ ツタエタイ アナタガ スキ」

 僕は紙切れをポケットに突っ込んだ。
 もしも二十年早かったら?……二十年巻き戻したら、僕は幼稚園児になってしまう。いや、時を巻き戻す必要なんてない。

 僕は、彼女と再び会えると確信した。そして伝えようと決めた。僕もあなたが好きです。今度は、あなたのことをたくさん話してください。再び出会う日まで、どうか、生きて、生き延びてください。
 胸ポケットからボールペンとメモ用紙を出し、僕と彼女にしかわからない暗号を記して、猫の首輪につけた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み