第1話
文字数 6,026文字
” ひまだよー。何してるの?”
書いて、一瞬考えてから、削除した。
ついたままのTVの情報番組では、相方がコロナに感染して療養中というお笑い芸人が、スタジオに設置された別画面からコメントしている。スタジオとのやり取りに、若干時間差があり、面白いことを言っているつもりらしいが、今ひとつ伝わらない。本人もやりにくそうだ。
ここまでして番組をやることに、意味はあるのかしらとユキは思う。でも、こういうのが無くなったら、家で一人で過ごす自分のような人間は、狂ってしまうかもしれない。
スマホの画面に目を戻し、もう一度、書く。
” ひまだからTVばっかりみちゃう。今日は遠くのスーパーまで走ってこようかと思います。コンビニ食ばかりでさすがに辛くなってきたらから、今日は何か作ろうかな”
送信。
これならいいだろう。
質問を投げかけると、返事を要求しているみたいだけど、これならただの近況報告だし、なんとなく前向きな感じも伝わるし。
ユキがサエキさんに送るメールは、いつも短い。言いたいことがたくさんあって、何度も書き足してメールしても、返ってくるのはせいぜい3行程度だ。徐々にこちらが書くメールも短くなった。
こんな風に、メールするタイミングを考えたりするなんて、毎日が週末みたいだ。
平日は週に2〜3回、会社帰りの電車の中からメールをする。週末はできるだけしないようにしているが、どうしても我慢できなくて、時々メールしてしまう。
今、食事中かな、子供と遊んでいるかな、それとも、家族で買い物とか行っているのかな。
ユキは色々な想像をする。想像の中で、家族といる時のサエキさんはいつも笑顔だ。でも会議とかで見る、ちょっと退屈している時の作り笑顔。ユキといる時の、心からくつろいだ笑顔はそこにはない。
平日も週末も、メールの返信が来るのは、きまって夜10時過ぎだ。短くても、返信は必ずしてくれる。そういう律儀さが好きだった。家でサエキさんが一人になれる時間が、その辺りなのかもしれない。
会社がリモートワークになってもう3週間だ。同じ期間、サエキさんとも顔を合わせていない。とりあえず5月の連休まではこの体制でと、上司からは聞いているが、ネットニュースとかで見る限り、コロナによる影響は長期戦らしい。
中堅の広告代理店の営業であるユキは、入社6年目。社内ではまあまあのベテランの域に入ってきた。クライアントとの信頼関係もあり、電話やメール、Zoomやらを駆使すれば、仕事は意外とスムーズだった。
クライアントによっては、今回のコロナの影響でプランを変更したり、予定を後ろ倒しにせざるを得なくなったりと、調整業務も頻繁に発生した。が、それもなんとなくこなせるようになってくると、徐々に時間を持て余してきた。
平日の午後は特にヒマだ。社内メールを見ていても、今頑張っても仕方ないよね、という空気が流れているような気がする。
だから最近の午後は気がつくとずっと、サエキさんのことを考えている。
あー、次にサエキさんと会えるのはいつだろう。
ユキは、寝そべったままソファに顔を突っ伏した。
*
ユキが、制作部のサエキさんと付き合うようになったきっかけは、2年前のあるプロジェクトだった。
それまでほとんど話をしたことはなかったが、サエキさんの噂は時々聞いていた。うちの会社に転職してくる前は、大手の代理店に長く勤めていて、英語も上手いらしい、口数は少ないけど仕事は正確で無駄がない、とか。実際、一緒に仕事をすると、その通りだった。
クライアント先で外国人の担当者と打ち合わせ中、ユキの話した辿々しい英語がわかりづらかったようで相手方が怪訝な表情をした時、サエキさんは、そこから受け取って流暢な英語でもう一度相手に説明してくれた。その時、” Yamamoto says (ヤマモトさんが言うには)" と、あくまでもユキがその発話の主体者であることを踏まえた上で、ユキが話した内容に、専門家としての深い洞察を加えてくれた。何度かのやり取りの後、相手は最後に笑顔で ” I see, let's go with that plan. (なるほど、そのプランでいきましょう)” と、サエキさんとユキ二人の顔を見て言った。
打ち合わせが終わったのが昼時だったので、近くの蕎麦屋で一緒にランチをした。
「さっきはありがとうございました。サエキさん、英語本当にお上手なんですね」
「いやぁ、学生時代に1年くらい語学留学していたけど、その後はずっと独学だよ。最近あまりにひどいなって思って、海外ドラマ見たりしているよ」
「えー。こんなに上手なのに、まだ勉強してるんですか。私もちゃんとやらなきゃな」
「ヤマモトさんこそえらいよ。自分で英語でちゃんとコミュニケーション取るから。うちの部署の若いやつらなんか、一緒に打ち合わせに行ってもだんまりだよ。」
サエキさんが時々聴くという英語のPod cast番組に、ユキが興味を示すと、その日のうちにすぐメールが来た。いくつかのおすすめ番組のURLと共に、"向こうのエンタメに興味あればこれ"とか、"アメリカ人の考え方がわかって面白い"とか、軽く解説も書いてあった。仕事と同様の、速くて正確なレスポンスだった。
半年間のプロジェクトが終盤に差し掛かった頃、お礼がしたいからと食事に誘ったのはユキだ。実際、経験値が豊富なサエキさんにかなり助けられた。
店はサエキさんが選んでくれた。刺身が新鮮で美味しいという居酒屋のカウンターに、並んで座った。「若い女性と二人なんて初めてだから、緊張するな」と笑いながら、サエキさんはビール2杯で顔を赤くした。酒は強くないようだったが、飲むと普段より饒舌になった。
学生時代の留学の話や、前職の大手代理店での苦労話は、ユキの知らない世界だった。ユキの直属の上司のように、一方的に自分の話をするのではなく、「ヤマモトさんはどうやって英語の勉強したの?」と、時々こちらに話を振ってくれた。共通の趣味が海外旅行だという事がわかり、ユキがインドでアーユルヴェーダを体験した話をすると、サエキさんは興味深そうに耳を傾けてくれた。
次回はインドカレーを食べようと約束をして、その日は別れた。1週間後の食事の後、ホテルへ行った。
連絡には、互いにプライベートのメールアドレスを使う事になった。ユキはLineにしたかったが、40歳のサエキさんはLineはあまり使わないと言っていた。本当かどうかわからないけど、ここはユキが妥協する事にした。
一人で寂しい夜、サエキさんの顔を思い浮かべると、あの時のスパイスの効いたカレー味のキスを思い出す。
*
ずっとゴロゴロしていたら、太っちゃうな。
サエキさんは私のスレンダーな身体をいつも褒めてくれる。普段は、ネット通販で買った安い下着だが、サエキさんと会う時は、デパートで買ったものを身につけた。繊細なレース使いのそれを、サエキさんは、珍しそうに、愛しそうに、触れてくれた。
会えない間に、もっとキレイになってやるんだ。
スポーツウェアに着替えて、買い物がてらランニングに出た。外は、春らしい穏やかな陽気だった。アパートから10分ほど歩いて、川沿いの道に出ると、走っている人が普段より多い気がする。
皆、家でじっとしてるのは、しんどいんだな。ソーシャルディスタンスって、2メートルだっけ。
久々のランニングはさすがにこたえて、15分位で息が切れてきた。立ち止まって、ステンレスボトルの水を飲んでいると、向かい側から親子と思われる3人組がやってきた。横並びにゆっくり走っている。真ん中にいる小学生3年生位の女の子は、両隣の両親に似て整った顔立ちに、ピンクのウェアが可愛らしい。
サエキさんの所の子供も、確か、小学生の女の子だった。生意気ざかりで最近口答えばかりすると言っていたから、きっと高学年だ。
サエキさんの家はどのように毎日過ごしているんだろう。一緒に走ったりするんだろうか。いや、運動は苦手だと言っていた。せいぜいウォーキングだろうな。
そんなことを考えながら、もう一度ゆっくりと走り出した。5分位すると、少し身体が慣れてきたようだった。
以前、サエキさんのことを唯一打ち明けた親友のアカリが、「家庭が不幸みたいに言っているやつに限って、家では幸せな家族をやっているんだよ」と、したり顔で言っていた。
サエキさんは以前、「うちはごく普通の家庭だと思うよ」と言っていた。家族の話を敢えて避けることもしないし、変に卑下するわけでもない。自分の立場でこんなことを考えるのは変かもしれないが、サエキさんのそういう所がフェアな気がした。サエキさんの家族に対し、不思議と、嫉妬心のようなものは感じなかった。
サエキさんは、一人暮らしのユキの部屋に来たこともなかった。毎回ホテル代を出してもらうのが悪くて、以前誘った事があるが、やんわり断られた。
「それはありがたいけど、そうすると、それ以外の日に、部屋で一人で過ごすユキが辛くならないか?」
と、もっともな事を言われた。その頃には、ユキはサエキさんのことをかなり好きになっていたので、少し寂しかったが、サエキさんの言う通りだと思った。なんでそんな事まで分かるんだろう、とも思ったが、深く考えない事にした。
メールの返事が、いつもその日の夜になる事に、はじめの頃ユキが不満を言った時も、
「その方がユキもリズムが作りやすいだろう」
と言われた。こちらからメールをした日には、夜10時過ぎには必ず返信がきた。その時間にくるとわかっているから、それまでにお風呂に入って、ソファでくつろいで、10時過ぎからサエキさんと短いメールのやりとりをした後、TVをみたり、サエキさんに勧められた海外ドラマをみたり、時々アカリとLineしたりする、というのが、お決まりの夜の過ごし方になった。
サエキさんは私のことを、ちゃんと考えてくれているのだ。だから、私も彼のためにキレイでいたい。
このままスーパーまで、立ち止まらず、走って行こう。
ユキは速度をあげた。
*
今日はひと月ぶりに、サエキさんに会える。といってもZoom会議でだけど。
仕事なので、シンプルな白のカットソーを着たが、リップは春らしいピンクにした。
時間になってアクセスすると、もうサエキさんは先に入っていて、ユキはちょっと緊張した。参加者は6人だった。ハワイの風景を背景に設定している人が一人いたが、他は皆、自宅のリビングや書斎が、そのまま背景に映し出された。なかなか新鮮だった。
ユキは、余計なものが映り込まないよう、ベッド側の壁が背になるように座り、食事から何から兼用のカフェテーブルの上に、ノートパソコンを置いていた。
サエキさんが座っているのは、恐らくリビングのソファスペースだろう。全体的に真っ白い印象の部屋に見える。光の加減のせいか、サエキさんの顔色が少し悪いような気がする。後で、メールで体調について訊いてみようと思った。
会議が始まって10分ほどした頃、突然、子供の泣き声が聞こえた。「すみません、すみません」と、若手のクリエイターがしきりに謝る。近くで、子供同士がケンカしているらしい。
「大丈夫、うちも似たようなもんだから。」サエキさんがフォローした。
「え、サエキさんの所は、女のお子さん一人だから、静かなんじゃないですか?」
「いやいや、静かなはずないよ。カミさんと娘が、一緒に大笑いしてると思ったら、突然ケンカしたりするし。今も、後ろのテーブルにいるけど、娘の声が入り込むんじゃないかと思って、ヒヤヒヤするよ」
参加者が一斉に笑い、ユキも一緒に笑った。
*
その日は、メールはしなかった。
画面を通して、サエキさんの家の中を垣間見て、サエキさんが家族について同僚に話す姿を見たら、そういう気持ちにならなくなったのだ。
あれが、サエキさんの日常なんだ。私といない時の、いつものサエキさんなんだ。
わかってはいたのに、ユキはちょっとショックを受けていた。
そして、自分がメールを送る行為は、あの真っ白な家族の空間に、土足で割って入ることなのだと、今更ながら理解したのだ。
それまで、サエキさんの家族に対して、申し訳ない、という感情はあまりなかった。29歳のユキには、それなりに恋愛経験もあった。不倫は良くないことだけど、好きになった人にたまたま家庭があっただけなんだから仕方ない、と思っていた。
会うのはひと月に1回だし、家庭を捨てて欲しいとせがむようなダサいことはしない。サエキさんのことが好きだからこそ、困らせるようなことはしたくなかった。
それが、Zoom会議の後、これまで感じた事のない感情が湧いてきたのだ。ショックは時間と共に少しずつうすれたが、心の中に黒っぽい何かが残っている。
罪悪感?
それとも少し違う。なんだろう。
わからぬまま、気づいたら夜10時をとっくに過ぎていた。その日は、そのままソファで寝てしまった。
*
あれから1週間、ユキはサエキさんにメールをしていない。サエキさんからメールが来ることもなかった。
代わりという訳ではないが、オンラインのマンツーマン英会話レッスンを始めた。1レッスン2,500円という低料金で、海外在住の素人のネイティブスピーカーと雑談のような会話をするだけだったが、それでも、今、この瞬間、外国にいる人と繋がるのは楽しかった。レッスンのスタートは夜10時にした。
サエキさんがいなくても、1日はちゃんと過ぎていく。
サエキさんのいる生活が当たり前だった。でも、あの、真っ白なリビングで、自分からのメールを受け取るサエキさんを想像すると、たまらない気持ちになった。
実を言うと、なんだかちょっと、バカバカしくもなった。
そう。
罪悪感なんかじゃない。
自粛生活に入ってからのこのひと月あまり、サエキさんとのメールのやり取りは、以前の生活以上に、私の1日のリズムを作る、大切な時間になっていた。
だからこそ、先の見えない自粛生活の中で、このリズムに頼りながら生活していくことに、むなしさのようなものを感じた。
他人に生活を作ってもらう自分って、なんだ。
ユキが1日中、サエキさんことを考えていたとしても、サエキさんは、別の時間を別の人たちと生きているのだ。あの真っ白な空間で。
あーあ、なんか損しちゃたのかな、私。
しばらく、英会話を頑張ったら、会社やめて1年位どっか留学しようかな。
スマホを手にし、”語学留学 30歳" と、検索ワードを入れてみた。「30代の留学ならここ!」「大人留学のススメ」多くの情報や体験談が、画面から溢れてきた。
おっ、こんなにたくさんあるじゃん。
思わず、身体の体勢を整えた。そこにある、情報の多さは、ユキの未来の可能性のように思えた。
よし、今日は徹底的に調べてみよう。そして、アカリにLineしよう。
仕事や恋愛の時とは種類の違うエネルギーが、身体の奥からフツフツ湧いてくるのを感じた。
完
書いて、一瞬考えてから、削除した。
ついたままのTVの情報番組では、相方がコロナに感染して療養中というお笑い芸人が、スタジオに設置された別画面からコメントしている。スタジオとのやり取りに、若干時間差があり、面白いことを言っているつもりらしいが、今ひとつ伝わらない。本人もやりにくそうだ。
ここまでして番組をやることに、意味はあるのかしらとユキは思う。でも、こういうのが無くなったら、家で一人で過ごす自分のような人間は、狂ってしまうかもしれない。
スマホの画面に目を戻し、もう一度、書く。
” ひまだからTVばっかりみちゃう。今日は遠くのスーパーまで走ってこようかと思います。コンビニ食ばかりでさすがに辛くなってきたらから、今日は何か作ろうかな”
送信。
これならいいだろう。
質問を投げかけると、返事を要求しているみたいだけど、これならただの近況報告だし、なんとなく前向きな感じも伝わるし。
ユキがサエキさんに送るメールは、いつも短い。言いたいことがたくさんあって、何度も書き足してメールしても、返ってくるのはせいぜい3行程度だ。徐々にこちらが書くメールも短くなった。
こんな風に、メールするタイミングを考えたりするなんて、毎日が週末みたいだ。
平日は週に2〜3回、会社帰りの電車の中からメールをする。週末はできるだけしないようにしているが、どうしても我慢できなくて、時々メールしてしまう。
今、食事中かな、子供と遊んでいるかな、それとも、家族で買い物とか行っているのかな。
ユキは色々な想像をする。想像の中で、家族といる時のサエキさんはいつも笑顔だ。でも会議とかで見る、ちょっと退屈している時の作り笑顔。ユキといる時の、心からくつろいだ笑顔はそこにはない。
平日も週末も、メールの返信が来るのは、きまって夜10時過ぎだ。短くても、返信は必ずしてくれる。そういう律儀さが好きだった。家でサエキさんが一人になれる時間が、その辺りなのかもしれない。
会社がリモートワークになってもう3週間だ。同じ期間、サエキさんとも顔を合わせていない。とりあえず5月の連休まではこの体制でと、上司からは聞いているが、ネットニュースとかで見る限り、コロナによる影響は長期戦らしい。
中堅の広告代理店の営業であるユキは、入社6年目。社内ではまあまあのベテランの域に入ってきた。クライアントとの信頼関係もあり、電話やメール、Zoomやらを駆使すれば、仕事は意外とスムーズだった。
クライアントによっては、今回のコロナの影響でプランを変更したり、予定を後ろ倒しにせざるを得なくなったりと、調整業務も頻繁に発生した。が、それもなんとなくこなせるようになってくると、徐々に時間を持て余してきた。
平日の午後は特にヒマだ。社内メールを見ていても、今頑張っても仕方ないよね、という空気が流れているような気がする。
だから最近の午後は気がつくとずっと、サエキさんのことを考えている。
あー、次にサエキさんと会えるのはいつだろう。
ユキは、寝そべったままソファに顔を突っ伏した。
*
ユキが、制作部のサエキさんと付き合うようになったきっかけは、2年前のあるプロジェクトだった。
それまでほとんど話をしたことはなかったが、サエキさんの噂は時々聞いていた。うちの会社に転職してくる前は、大手の代理店に長く勤めていて、英語も上手いらしい、口数は少ないけど仕事は正確で無駄がない、とか。実際、一緒に仕事をすると、その通りだった。
クライアント先で外国人の担当者と打ち合わせ中、ユキの話した辿々しい英語がわかりづらかったようで相手方が怪訝な表情をした時、サエキさんは、そこから受け取って流暢な英語でもう一度相手に説明してくれた。その時、” Yamamoto says (ヤマモトさんが言うには)" と、あくまでもユキがその発話の主体者であることを踏まえた上で、ユキが話した内容に、専門家としての深い洞察を加えてくれた。何度かのやり取りの後、相手は最後に笑顔で ” I see, let's go with that plan. (なるほど、そのプランでいきましょう)” と、サエキさんとユキ二人の顔を見て言った。
打ち合わせが終わったのが昼時だったので、近くの蕎麦屋で一緒にランチをした。
「さっきはありがとうございました。サエキさん、英語本当にお上手なんですね」
「いやぁ、学生時代に1年くらい語学留学していたけど、その後はずっと独学だよ。最近あまりにひどいなって思って、海外ドラマ見たりしているよ」
「えー。こんなに上手なのに、まだ勉強してるんですか。私もちゃんとやらなきゃな」
「ヤマモトさんこそえらいよ。自分で英語でちゃんとコミュニケーション取るから。うちの部署の若いやつらなんか、一緒に打ち合わせに行ってもだんまりだよ。」
サエキさんが時々聴くという英語のPod cast番組に、ユキが興味を示すと、その日のうちにすぐメールが来た。いくつかのおすすめ番組のURLと共に、"向こうのエンタメに興味あればこれ"とか、"アメリカ人の考え方がわかって面白い"とか、軽く解説も書いてあった。仕事と同様の、速くて正確なレスポンスだった。
半年間のプロジェクトが終盤に差し掛かった頃、お礼がしたいからと食事に誘ったのはユキだ。実際、経験値が豊富なサエキさんにかなり助けられた。
店はサエキさんが選んでくれた。刺身が新鮮で美味しいという居酒屋のカウンターに、並んで座った。「若い女性と二人なんて初めてだから、緊張するな」と笑いながら、サエキさんはビール2杯で顔を赤くした。酒は強くないようだったが、飲むと普段より饒舌になった。
学生時代の留学の話や、前職の大手代理店での苦労話は、ユキの知らない世界だった。ユキの直属の上司のように、一方的に自分の話をするのではなく、「ヤマモトさんはどうやって英語の勉強したの?」と、時々こちらに話を振ってくれた。共通の趣味が海外旅行だという事がわかり、ユキがインドでアーユルヴェーダを体験した話をすると、サエキさんは興味深そうに耳を傾けてくれた。
次回はインドカレーを食べようと約束をして、その日は別れた。1週間後の食事の後、ホテルへ行った。
連絡には、互いにプライベートのメールアドレスを使う事になった。ユキはLineにしたかったが、40歳のサエキさんはLineはあまり使わないと言っていた。本当かどうかわからないけど、ここはユキが妥協する事にした。
一人で寂しい夜、サエキさんの顔を思い浮かべると、あの時のスパイスの効いたカレー味のキスを思い出す。
*
ずっとゴロゴロしていたら、太っちゃうな。
サエキさんは私のスレンダーな身体をいつも褒めてくれる。普段は、ネット通販で買った安い下着だが、サエキさんと会う時は、デパートで買ったものを身につけた。繊細なレース使いのそれを、サエキさんは、珍しそうに、愛しそうに、触れてくれた。
会えない間に、もっとキレイになってやるんだ。
スポーツウェアに着替えて、買い物がてらランニングに出た。外は、春らしい穏やかな陽気だった。アパートから10分ほど歩いて、川沿いの道に出ると、走っている人が普段より多い気がする。
皆、家でじっとしてるのは、しんどいんだな。ソーシャルディスタンスって、2メートルだっけ。
久々のランニングはさすがにこたえて、15分位で息が切れてきた。立ち止まって、ステンレスボトルの水を飲んでいると、向かい側から親子と思われる3人組がやってきた。横並びにゆっくり走っている。真ん中にいる小学生3年生位の女の子は、両隣の両親に似て整った顔立ちに、ピンクのウェアが可愛らしい。
サエキさんの所の子供も、確か、小学生の女の子だった。生意気ざかりで最近口答えばかりすると言っていたから、きっと高学年だ。
サエキさんの家はどのように毎日過ごしているんだろう。一緒に走ったりするんだろうか。いや、運動は苦手だと言っていた。せいぜいウォーキングだろうな。
そんなことを考えながら、もう一度ゆっくりと走り出した。5分位すると、少し身体が慣れてきたようだった。
以前、サエキさんのことを唯一打ち明けた親友のアカリが、「家庭が不幸みたいに言っているやつに限って、家では幸せな家族をやっているんだよ」と、したり顔で言っていた。
サエキさんは以前、「うちはごく普通の家庭だと思うよ」と言っていた。家族の話を敢えて避けることもしないし、変に卑下するわけでもない。自分の立場でこんなことを考えるのは変かもしれないが、サエキさんのそういう所がフェアな気がした。サエキさんの家族に対し、不思議と、嫉妬心のようなものは感じなかった。
サエキさんは、一人暮らしのユキの部屋に来たこともなかった。毎回ホテル代を出してもらうのが悪くて、以前誘った事があるが、やんわり断られた。
「それはありがたいけど、そうすると、それ以外の日に、部屋で一人で過ごすユキが辛くならないか?」
と、もっともな事を言われた。その頃には、ユキはサエキさんのことをかなり好きになっていたので、少し寂しかったが、サエキさんの言う通りだと思った。なんでそんな事まで分かるんだろう、とも思ったが、深く考えない事にした。
メールの返事が、いつもその日の夜になる事に、はじめの頃ユキが不満を言った時も、
「その方がユキもリズムが作りやすいだろう」
と言われた。こちらからメールをした日には、夜10時過ぎには必ず返信がきた。その時間にくるとわかっているから、それまでにお風呂に入って、ソファでくつろいで、10時過ぎからサエキさんと短いメールのやりとりをした後、TVをみたり、サエキさんに勧められた海外ドラマをみたり、時々アカリとLineしたりする、というのが、お決まりの夜の過ごし方になった。
サエキさんは私のことを、ちゃんと考えてくれているのだ。だから、私も彼のためにキレイでいたい。
このままスーパーまで、立ち止まらず、走って行こう。
ユキは速度をあげた。
*
今日はひと月ぶりに、サエキさんに会える。といってもZoom会議でだけど。
仕事なので、シンプルな白のカットソーを着たが、リップは春らしいピンクにした。
時間になってアクセスすると、もうサエキさんは先に入っていて、ユキはちょっと緊張した。参加者は6人だった。ハワイの風景を背景に設定している人が一人いたが、他は皆、自宅のリビングや書斎が、そのまま背景に映し出された。なかなか新鮮だった。
ユキは、余計なものが映り込まないよう、ベッド側の壁が背になるように座り、食事から何から兼用のカフェテーブルの上に、ノートパソコンを置いていた。
サエキさんが座っているのは、恐らくリビングのソファスペースだろう。全体的に真っ白い印象の部屋に見える。光の加減のせいか、サエキさんの顔色が少し悪いような気がする。後で、メールで体調について訊いてみようと思った。
会議が始まって10分ほどした頃、突然、子供の泣き声が聞こえた。「すみません、すみません」と、若手のクリエイターがしきりに謝る。近くで、子供同士がケンカしているらしい。
「大丈夫、うちも似たようなもんだから。」サエキさんがフォローした。
「え、サエキさんの所は、女のお子さん一人だから、静かなんじゃないですか?」
「いやいや、静かなはずないよ。カミさんと娘が、一緒に大笑いしてると思ったら、突然ケンカしたりするし。今も、後ろのテーブルにいるけど、娘の声が入り込むんじゃないかと思って、ヒヤヒヤするよ」
参加者が一斉に笑い、ユキも一緒に笑った。
*
その日は、メールはしなかった。
画面を通して、サエキさんの家の中を垣間見て、サエキさんが家族について同僚に話す姿を見たら、そういう気持ちにならなくなったのだ。
あれが、サエキさんの日常なんだ。私といない時の、いつものサエキさんなんだ。
わかってはいたのに、ユキはちょっとショックを受けていた。
そして、自分がメールを送る行為は、あの真っ白な家族の空間に、土足で割って入ることなのだと、今更ながら理解したのだ。
それまで、サエキさんの家族に対して、申し訳ない、という感情はあまりなかった。29歳のユキには、それなりに恋愛経験もあった。不倫は良くないことだけど、好きになった人にたまたま家庭があっただけなんだから仕方ない、と思っていた。
会うのはひと月に1回だし、家庭を捨てて欲しいとせがむようなダサいことはしない。サエキさんのことが好きだからこそ、困らせるようなことはしたくなかった。
それが、Zoom会議の後、これまで感じた事のない感情が湧いてきたのだ。ショックは時間と共に少しずつうすれたが、心の中に黒っぽい何かが残っている。
罪悪感?
それとも少し違う。なんだろう。
わからぬまま、気づいたら夜10時をとっくに過ぎていた。その日は、そのままソファで寝てしまった。
*
あれから1週間、ユキはサエキさんにメールをしていない。サエキさんからメールが来ることもなかった。
代わりという訳ではないが、オンラインのマンツーマン英会話レッスンを始めた。1レッスン2,500円という低料金で、海外在住の素人のネイティブスピーカーと雑談のような会話をするだけだったが、それでも、今、この瞬間、外国にいる人と繋がるのは楽しかった。レッスンのスタートは夜10時にした。
サエキさんがいなくても、1日はちゃんと過ぎていく。
サエキさんのいる生活が当たり前だった。でも、あの、真っ白なリビングで、自分からのメールを受け取るサエキさんを想像すると、たまらない気持ちになった。
実を言うと、なんだかちょっと、バカバカしくもなった。
そう。
罪悪感なんかじゃない。
自粛生活に入ってからのこのひと月あまり、サエキさんとのメールのやり取りは、以前の生活以上に、私の1日のリズムを作る、大切な時間になっていた。
だからこそ、先の見えない自粛生活の中で、このリズムに頼りながら生活していくことに、むなしさのようなものを感じた。
他人に生活を作ってもらう自分って、なんだ。
ユキが1日中、サエキさんことを考えていたとしても、サエキさんは、別の時間を別の人たちと生きているのだ。あの真っ白な空間で。
あーあ、なんか損しちゃたのかな、私。
しばらく、英会話を頑張ったら、会社やめて1年位どっか留学しようかな。
スマホを手にし、”語学留学 30歳" と、検索ワードを入れてみた。「30代の留学ならここ!」「大人留学のススメ」多くの情報や体験談が、画面から溢れてきた。
おっ、こんなにたくさんあるじゃん。
思わず、身体の体勢を整えた。そこにある、情報の多さは、ユキの未来の可能性のように思えた。
よし、今日は徹底的に調べてみよう。そして、アカリにLineしよう。
仕事や恋愛の時とは種類の違うエネルギーが、身体の奥からフツフツ湧いてくるのを感じた。
完