第1話

文字数 953文字

「いつまで寝てるんですか。」
 後輩の男は言う。
「早く起きてください。」

 関係を絶ちたくても、絶つことのできない人がいる。友達ならざっくりと切れるが、仕事が絡むと途端に難しくなる。露骨に対象を嫌えば、私と対象の雰囲気、引いては部署全体の雰囲気が悪くなる。そして、仮にその状態になった時、過失は私にある。どうしようもないくらいに屑で、礼儀も品も知らない人でも、関わっていかなくてはならない。笑ってから顔を上げる。

「今、休み時間。別に寝ててもいいよね。」
「だめですよ。寝ると頭働かなくなりますよ。」

 私は硬直する。
「うん。そうだね、確かに。分かった、ありがとね。」
 そうだとしても、言う必要はない。結局人の体質によるだろう。それに、私は顔を机にうずめていただけで、寝ていたかどうかは、この男に分かるはずがない。

「起きてのんびりするよ。ありがとね。」
「それで、聞いてくださいよ、この話なんですけど。」
 男は続けて言う。「この前、友達の家に遊びに行ったんですけど、そいつが絵を描いてたらしくて、俺にも描かせてって言ったんですよ。そしたら、嫌、って真面目な顔で言うんですよ。おかしくないですかね、これ。別に減るもんじゃないですよね。」

 絵の具は減るし、鉛筆は削られるし、脳のリソースも割かれる。普通、分からないだろうか。分かるはずだ。私なら気付くし野暮なことも言わない。この男には常識が欠如しているように思える。きっと、この男は世間から取り残されている。

 無理だった。限界だった。心は、男を陥れてやりたい、と何度も訴えかけていた。数えきれないほど迷惑を掛けられた。現在も迷惑極まりない。この男以外の、数十人の仕事仲間とはうまくやれる。だから、仕方なくこの男にも愛想を振りまいてきた。どんなときだってそうだ。男が失敗しても慰めてやった。男は明日になってけろっとしていた。男が物を壊しても仕方ないと言ってあげた。男は仕事に手が付かなかった。男は挨拶が小生意気だった。男は、男は。

「こっち向いて。」

 私は言う。振り返る男に、勢いよく、グーで殴打した。
 悲鳴が上がる。
 私の中の、保っていた何らかの糸がぽつりと切れた。馬乗りになり、とにかく顔を狙って、血を吐き出させた。飛び散る血が酷く生臭かった。この時も愛想笑いをしていた。





ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み