第1話

文字数 2,000文字

 禁煙拳は、禁煙時のイライラを闘気に変えて戦う拳法だ。恐るべき殺人拳で、達人はロッキー山脈に棲息するグリズリーを指一本で倒すという。もちろん誰もがマスターできるというものではない。まず入門するための条件が厳しい。

 その1、愛煙家であること。これは外せない。煙草を吸わない者が禁煙しても闘志は生まれないので、禁煙拳は使えない。当たり前の話である。
 その2、禁煙を試み、いい所までは行くのだけど、結局もとの木阿弥、という経験を何度も繰り返していること。これも重要なポイントだ。あまり意志薄弱ではいけないし、逆に意志が強過ぎてもダメだ。禁煙時にちょうど良くイライラしていなければならないからだ。
 その3、もちろん強健な身体の持ち主であること。修行はハードで、時に命の危険を伴う。

 山蛙(やまがえる)六郎(ろくろう)(23)は、この三つを兼ね備えた希有な逸材だった。禁煙拳の遣い手たちは同じ匂いを持つ人間を探し当てることに長けているので、六郎は既に何度も誘いを受けていた。彼はその度に断りを入れた。とうに禁煙することをあきらめていたのだ。しかし国際禁煙拳協会日本支部はあきらめなかった。彼をゲットできれば世界を狙うのも夢ではない。スカウトは六郎の勤務先にまでやってきた。会社の喫煙所でスパーと煙を吐きながら、六郎は「あんたがたもしつこいねえ」と言った。禁煙拳の師範代、(ながれ)辰巳(たつみ)(35)は、「そう言わずに、一度稽古場を覗いてよ」と食い下がる。「俺に何の得があるんだい?」と六郎。「君は営業職だったな」その通り、彼はスポーツ用品店の外回り担当だ。「だったら何だよ」「私を殴ってみなさい」「ハア?」と聞き返す六郎に、流は言った。「もし君の拳が私に少しでも触れたら、ラッキーストライクを10カートン差し上げよう」六郎の目が輝いた。「マジでか」六郎は喧嘩の腕には自信があった。「なら遠慮なくいくぜ」ぺろりと唇を舐めながら、念のため辺りを見回す。パーテーションに仕切られた狭い喫煙コーナーは、二人以外誰もいない。隙間から見える限りでは、外にも人気はなかった。「いただき!」六郎は目の前の男めがけて殴りかかった。拳が顔面にめり込んだ、と思いきや、手の甲には何の感触もなく、空を切った右腕が、パーテーションにバキッとめりこんだ。「あれ?」右手をさすりながら見回すと、流は六郎の背後でニコニコしている。「次はゆっくり触ってみなさい」六郎はこわごわ近寄り、シャツの上から太い二の腕をそっと触ってみた。六郎の指はまたもや空を切った。呆然としている六郎に男が笑いかけた。「実は私はそこにはいないんだよ」「じゃあどこにいるんだ」「私は今、そこから200mほど離れたパチ屋で海物語を打っているのだ」「何!」「君が目にしているのは私の闘気(オーラ)だ。煙草を吸えないイライラが具現化したものだ。私が今いるのは喫煙席なので、周りでは人間のクズどもが遠慮会釈なくスパスパやっていてね。私のイライラも最高潮なわけさ」だが男はほがらかな笑顔を浮かべている。「すると闘気のパワーもうなぎ上りになるのだ。こんなふうに」流は右手を差し出した。真っ赤に光る球体を握っている。流がブンと手を振った。火の玉が、六郎の頬を掠めて飛び、背後にあった鉢植えの観葉植物にぶち当たった。肉厚の葉がまばゆい光に包まれたかと思うと、ジュッと音を立てて蒸発した。六郎が空になった植木鉢を唖然として見ていると、流が言った。「『燃える煙草の先端は思ったより熱い拳』という技だ。摂氏1000℃の高温で敵を焼きつくす」六郎の気持はむしろ冷めてきた。こうまであり得ない展開ばかりが続くと、人によっては第三者的な視点でものを見るようになるものだ。六郎が「へーすげえ」と気のない声をあげると、流が満足げに言った。「さすが私が見込んだだけのことはある。早速『第三者の目』を身につけたな」「なんだいそりゃあ」と六郎。流は穏やかな顔で言った。「言ったろう。私の本体は今、一服やりたくて気も狂わんばかりなのだ。だが禁煙拳をマスターすると、心の一部を隔離しておくことが可能になる。君が見ている私の姿は、いわば私の『第三者の目』なのだよ」「よくわからないけどさ、それって本人はキツいってことだろ」六郎は新しい煙草をくわえながら言った。「俺はもう禁煙するつもりはないし、無理して変なパワーを身につける意味がないよ。別に悪と戦ってるわけじゃないし」流は両手を広げてにっこりと笑った。「でも、この『パチ屋幽体離脱拳』を身につければ、日がな一日中パチ屋に入り浸ったままで外回りができるのだよ」六郎の口からポロリと煙草が落ちた。流がたたみかけた。「君はエヴァにハマっているのだろう。どうだ、理想的な生活だとは思わないかね」六郎はガクガクと首を振った。「やる!やります!俺はやる!必ず禁煙拳の道を極めてやるぜ!」山蛙六郎の戦いは今、始まったばかりだ。
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