苦悩

文字数 2,875文字

 理央(りお)は、理沙(りさ)の墓の前に立っていた。
 今日はクリスマス、さすがに周囲に人影はいない。
 慎一(しんいち)遙香(はるか)と結婚してから、もう二年に成る。
 遙香は社内で重要ポジションに就いたこともあって、朝から晩まで分刻みで仕事に追われている。それでも理央たちとのコミュニケーションは欠かさない。
 一度だけ、「仕事が忙しいなら家に帰ったときぐらいは、無理しなくていいよ」と言った。
 それに対して遙香は、仕事も私生活も今が一番充実しているから、寝るのも惜しいくらいだと笑って答えた。

 一方、慎一は結婚してから老けたように感じる。見るからに動作がゆったりという感じで、何か安住の地に落ち着いたご隠居様と言った感がある。
 見るに見かねて遙香に、
「爺臭くて嫌に成ったら、離婚するって言った方がいいよ」と忠告した。
 理央の過激な発言に、遙香は笑いながら、
「今でも難しい場面に成ると適切な助言をくれるし、変に社内で目立つと、浮気されるんじゃないかと心配になるから今のままでいいの」と、答えた。
 その答えを聞いて以来、馬鹿らしくなって夫婦の話に触れることは止めた。

 理央は、予定通り外語大に合格し、一橋大に合格したノアと一緒に、アメリカ留学を計画していたところ、世の中にコロナという凶悪ウィルスが蔓延し、留学できなくなった。
 自粛という聞き慣れない言葉が政府から発信され、家族全員が家の中に閉じ込められた。
 リフォームしておいて良かったと思う反面、一つの家に四人もいると意外と鬱陶しいことに気づいた。
 慎一と遙香は新婚一カ月でどこにも行けなくなったが、マイペースで暮らしている。
 なかなか心が強いと感心した。

 経済の弱体化を心配した政府が『GO TO 〇〇』などの政策を打ち出して、自粛の雰囲気が緩和してきたので、久しぶりに母の墓参りをすることにした。
 慎一夫婦と行くのは、何となくめんどくさかったし、最近の沙穂は理央よりも遙香にべったりなので、これ幸いと置いてきた。
 理沙の墓を目の前にすると、様々な感情が浮かんで来た。

「しばらく来れなくてごめんね。寂しかったよね」
 謝った途端に、理央の脳裏に理沙との様々な思い出が蘇る。
 それも、慎一と結婚する前の一人で頑張っていたときの思い出だ。
 小学校に上がったときの初めての学校公開で、仕事が忙しくて美穂子に代理をお願いする理沙に、もう誰も来なくていいと泣きじゃくった日のこと。
 理央の五才の誕生日に、二人でケーキを焼いて、スポンジがうまく膨らまなくて失敗したのに、無理して美味しいと言いながら食べた日のこと。
 父親がいないことを男子にからかわれて、回し蹴りでぶっ飛ばしたら、男子の母親が激怒して電話を掛けてきて、謝りながらも理央には片目をつぶって笑ったこと。
「いろいろあったよね。お父さんができるまでは、ホントに二人で頑張ったもんね」
 思い出を噛みしめながら切ない気持ちに成ると、ポツポツと小雨がぱらつきだした。
 理央は用意していた折り畳み傘を取り出して広げた。
「お母さん、もしかして泣いてるの? 大丈夫だよ、理央はお母さんのこと忘れないから」
 言ってる傍から理央も目頭が熱くなってきた。
 
「そうそう、これを見せようと思って持って来たんだ」
 理央が取り出したのは、沙穂の二分の一成人式の写真だった。
「沙穂も十才になったんだよ。今のところ私と違ってすごく素直に大きくなってる。おしゃべりで人懐こくて、お母さんや私よりお父さんに似ているみたいだよ」
 自分で言いいながら、二人が漫才コンビのように話しているシーンを思い出して、思わず笑ってしまった。

「新しいお母さんともうまくやれてるから心配しないでね。でも、沙穂が遙香さんに凄く懐いている様子を見ると、たまに腹立つことがあるんだ。まあ、仕方ないよね。私も人間だから」
 誰にも言えないでしまってた気持ちを吐き出すと、涙が零れた。
 理央は傘を差したままその場にしゃがみこんだ。
「ホントはママがいるところに別の人が立っている。ママが可哀そう」
 涙と一緒に言葉がどんどん溢れてくる。
「私ね、あの家を出たくないって言ったのは、ホントは違う理由なの。私はパパと血がつながってないから、パパに反対したくて言っただけなの。そしたら、パパはホントに聞いてくれて……。ママがいなくなったのもパパのせいだと思ったときもあった。そんな自分が嫌でアメリカに行こうとしたのに……。もういい子でいるのが辛いよ。うっうっ――」
 もう、言葉が出てこなくなった。傘を差したまましゃがみこんだ。

 暫く泣いていると、周りが急に寒くなった。冷気が身体の奥底まで凍らせる。
 顔を上げると雨が雪に変わっていた。墓石の上は白く成っている。
 背後に人の気配を感じて振り返った。
 そこには、美穂子とノアが立っていた。
――いつからいたんだろう。聞かれた?

「理央」
 ノアの声は優しかった。
「どうしてここにいるの?」
「理央に話があって、直接話したくて(うち)に行ったんだ。そしたら国立に行ったと聞いて、お婆さんの家を教えてもらって」
「ここじゃないかと思って案内したのよ」
 美穂子の顔にも涙の跡がある。
 聞かれたんだ……

「寒くなってきたから、風邪をひかない内に帰ろう」
 頷いてから、ああまた四人で暮らすのかと憂鬱になった。
 黙って歩いていると、ノアがこっちを向いた。
「理央、アメリカに行こう」
「えっ?」
「今、父さんがいるマサチューセッツ州は、他の州に比べると比較的落ち着いている。この先どうなるか分からないけど、今のところ対面式の授業も行われている。遊びに来るのは論外だけど、学びに来るのならOKだと、父さんは言ってくれた」
 理央は行きたかった。危険なのは分かっている。でもなぜアメリカでこんなに感染が拡がったのか、こんなときアメリカ人は何を思うのか、いろんなことが知りたかった。
 ただ、家族に心配をかけるのが心苦しい。

「行ってきなさい」
 黙って聞いていた美穂子が口を開いた。
「いいの?」
「私が誰だと思っているの。あなたのお母さんの母親だったのよ。お母さんだってみんなの反対を振り切ってアメリカに行ったの。それに日本にいたって絶対安全なわけじゃない。お母さんのことを考えたら分るでしょう」
「うん……でもお父さんが――」
「大丈夫、もし慎一さんが反対したら、私が説得してあげる。でも慎一さんは反対しないと思うわ」
「どうして? 私は血がつながってないから」
「そんなわけないじゃない。コロナで家に籠っている間に頭がおかしくなったんじゃない。慎一さんは理央のことを誰よりも信じているの。だから理央が自分で決めたことなら、絶対反対はしない」
――そうだった。今まで父さんは誰よりも私のことを信じてくれた。私がいじめの犯人にされそうなときも、私を信じて一生懸命戦ったくれた。
「お婆ちゃん、私行くね」
 美穂子は微笑んで頷いた。
「さあ、急ごう。雪で電車が止まるかもしれない」
 ノアが先頭をきって歩みを速める。
 雪が地面を白く染め始めたが、理央の足取りは来るときの何倍も力強かった。

(了)
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