第12話

文字数 3,487文字

「ちょっと、行ってくるよ」



「はあ? 今日はやめときなさいよ。熊が一頭とは限らないじゃない」



「大丈夫。逃げ足には自信あるから」



 食事を済ませた――奈津が作り直した――久野は、腰を上げて家の戸へ向かう。



「久野様、もうお帰りになられるのですか?」



「いやまぁそれもありますけど、その前に行く所があるんです。昨日は阿夜さんの事でそれどころじゃなかったので」



「?」



「蛍を見に行くのよ。わざわざ夜中の森の中に入ってね」



 奈津は不機嫌に言った。今日自分が危険な目に遭ったにも拘わらず、それでも幼なじみは夜中に出歩くと言う。毎度の事ではあるが、いくつになっても変わらない頑固さに呆れて、八つ当たり気味に茶碗の中身を掻ッ喰らう。



「そんなこと言ったって、夜じゃないと見えないじゃないか」



「あーあーはいはい。何でもいいわよ。逃げ足が自慢のバカ久野なんでしょ。行きたいならさっさと行き――」



「ワタクシも宜しいですか?」



 そこで、二人はきょとんと止まった。
















 ―――――――――――――。



















「足下、気をつけて下さい」



「はい」



 普段から誰も通らないその道は、朽ち木が乱雑して雑草で足場が覆い隠されている。足を滑らさない様にと、久野は恥ずかしながらも阿夜の手を掴んでいた。強く握る勇気は当然なく、そっと持っている様な、そんな塩梅。



「……今更ですけど。蛍を見たいと言っても、阿夜さんには見れないんじゃないんですか?」



「はい。それは勿論承知しております。気配を覚えたいのです。ホタル様はどの様な感覚なのか、と」



「はは……、虫に“様”はどうなんでしょう」



 苦笑いを浮かべるも、対して微笑みで小首を傾げられる。阿夜にとって生き物は全て平等か、それともただの世間知らずか。しかし可憐な鈴の音は、違和感を無くしてしまう。



 ――夜中の森は、静かだった。鬱蒼と生い茂るこの一帯は月明かりを木の葉に遮られて、村より若干濃い蒼色に包まれている。深い海の中を歩いてるよう。虫の声も風の音さえも全く木霊していない。四本の足が踏みしめる音が、小さく単調に。



「ホタル様を見に行くのは、子供の頃からなのですか?」



「ええ、そうですよ。見てると和むというか、何というか。女々しいってみんなからは言われますけど」



「そんな事は御座いません。心を落ち着かせる行為に悪いも善いもないのですから」



 確かに、と久野は笑う。



 それから歩き続けて、小川に着いた。山の頂上付近から垂れ落ちる水滴が集まり一つの列を成して、緩やかに流れていく直線。この場だけに、透き通るさらさらとした水の音が、穏やかに流れていた。



 暫く立ち尽くして眺めていると――ひらり、淡い光が漂う。それにつられて、今度はふわり、二つの光が灯る。



「お、いたいた」



 それを見つけた久野は子供みたいに微笑み、腰を下げて丸まり爪先で立つ。阿夜も同じく、腰を下げて隣に並んだ。



 ――十数匹という蛍が、ゆったりと光を灯しては優雅に舞う。

 薄緑の残像でなぞられた線は、まるで絵を描いているよう。常時光っている事もなく、時折は濃い蒼に包まれる。しかしそこで再び光り出す儚くも幽かなそれが、心の中の余計なしがらみを忘れさせてくれた。



「――これはなんと……、愛らしい気配で御座います」



「ははは。それならボクにもわかる気がします。目を瞑らなければ、ですけど」



「ふふ。誠に可愛らしゅう御座います。久野様が見に来る気持ちがわかった気がします」



「それは嬉しいなあ。まあ……あ、いや」



 何故か、久野は言い淀んだ。



「久野様、如何なされましたか?」



「っ、あ、はい?」



「何やら困った様子……。先程、言葉を躊躇ったようでしたが、何かあるので御座いますか?」



「…………阿夜さんに隠し事は、悪いかな」



 久野は呟いた。面白くもない話なのだが、隠すという行為に彼は後ろめたさを感じていた。阿夜との出逢いも何かの縁である。彼女だけ仲間外れというのも悪いだろう、と久野は思い至った。



「……昔の話です」





















 ――久野が初めてこの小川に来たのは九つの時。丁度、両親を失った時。



 その頃は、奈津と共に彼は村長の家で世話になっていた。村人達も助けるつもりで、育てた野菜を毎日分けてくれた。家と食料には困らなかった、生きる事は出来た、だが彼には生きる気力が無かった。

 日々に価値を見い出せず、埋まらない空虚を抱えたまま人形みたいに過ごしていた。誰にも口を利かず、誰にも心を開かず、感情という感情を消し去っていた。



 ――そんな彼はある日、村長と奈津が寝静まったのを見計らって家を出た。目的は無い。ただ一人になりたかっただけ。しかしその実、このまま歩き続けて命尽きるのを待とうなどと考えていた。

 獣に遭遇してもいい。遭遇しなくても歩き続ければいい。兎に角、両親――死――が恋しかった。少年は無表情で森の中を歩く。何も思わず、闇の中に答えを導き出すかの様に、止める事なく歩を進めてゆく。

 恐くはなかった、どちらかと言えば先程までくるまっていた寝床の方が恐い。大切な何かを拭おうとしてくるものの方が恐ろしい。朝になると向けてくる笑顔と言葉に、時を刻んでいく里の風景に、底知れぬ悪寒があった。



 ……もしやすると、ただ単に恐くて逃げ出しただけなのかも知れない。忘れさせようとする世界が恐くて、消えた二人に縋り付こうとしているのかも知れない。

 けれども……やはり彼にはどうでもよかった。何故なら彼は、虚ろ。自分の考えさえ、自分には理解できなかった――。



 ふと、躓いた。呆としていたから、小石に引っ掛けた程度で前倒しになってしまった。暫く経っても彼は起き上がる事を選ばず、そのまま虚ろに横たわる。



 咄嗟に出した掌は痛くない。



 ぶつけた膝は痛くない。



 擦れた頬は痛くない。



 なのに、心が痛い。



 どんどん肥大していくそれは酷く痛くなり。




――――――――――――――――――泣いた。




 両親が無くなってから一年。毎日を無表情だけで過ごしてきた彼は、泣いた。



 いつもなら抱き起こしてくれるのに……それが無い。



 心配してくれる懐かしい顔が……そこに無い。



 そしてこれから先ずっとずっと……無い。



 溜まりに溜まった激情が転んだだけで呼び起こされた。眼を背け、吐き出したくなかった想いが嫌と云うほど、口と目から零れていってしまう。声を上げて泣いた。産まれたばかりの赤子よりも激しく、慟哭を辺りに喚き散らした。



 息を吸って更に喉を破壊しようとして、




 ふわり――……




 気付いた時には、泣き止んでいた。



 いつの間にか現れたそれを見つめる。ゆらゆらと魂めいて漂うそれを目で追う。視界からいなくなるなら顔を動かし、遠ざかっていくなら体を起こして追いかけた。何故かはわからない。……ただ、そうしないといけない気がした。



 泣き喚く自分の前に現れたその光に、無意識に、もしもを思い浮かべていた。



 木々を縫う。漂うそれについて行く。その内、それを見失ってしまった。見渡しても見当たらない。幻覚の様に姿が消えてしまった。

 うなだれた。そしてまた泪しようとした瞬間――世界が光り出した。




 ――――……。




 ……本当に……綺麗な……淡い光。



 地上から一斉に飛び立つ光は薄暗かった筈の世界を照らし、まるで別の世界を創りあげたかの如く。闇を押し広げるかの様に、力強く、そして優しく、母体を思わせる心地。



 内包される少年は呆然とした。あまりにも幻想的な光景を目の当たりにして、心を奪われた。



 ……彼の心は完全に無となっていた。正と負さえも消え去り、虚無すらも無い、本当の空っぽと化していた。そしてその中には、また見よう、なんて云う単純な想いが芽生えていた。



 それがよかったのかも知れない。全くの空の中に生まれた言葉。却ってそれが、彼の存在価値に繋がったのだ。



 また見よう、ならば、死ねない。



 両親が死んでからの様々な記憶が蘇る。自分に尽くしてくれた人達。自分と同じ境遇でありながら笑顔を絶やさず、いつも笑顔で話し掛けてくれた幼馴染み。みんなみんな、こんな自分の為に――……なのに、ボクは……。



 久野は眼窩に残っていた涙を拭う。こんなんじゃ駄目だ。こんな弱々しいままじゃ、みんなに恩返しが出来ない。

 久野は走り出した。あの恐ろしかったものは、捨ててはならないものだと理解した。早く戻らないと。早く謝らないと。



 そして帰ったら、今度は自分がみんなに応える番。みんなの為に、みんなに優しくする番。

 これまでの優しさ以上に優しく、みんなの為に在り続ける番。



 もしまた別の悲しみが続かないよう、ボクが、優しい人間になればいいんだ――
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