第1話

文字数 921文字

1787年、ハイドンの3曲の交響曲が出版されました。今の番号で言うと下記の通り。

82番 熊 C dur
83番 めんどり G moll
84番 名前はない(猫ではない) Es dur

いわゆる6曲の「パリセット」の最初の3曲です。

モーツァルトはこの楽譜を買ったはずです。1788年にモーツァルトが書いた(最後の)3曲の交響曲は下記の通り。調性にご注目。

39番 Es dur
40番 G moll
41番 C dur


モーツァルトは「ハイドンセット」と今では呼ばれる6曲のカルテットを尊敬するハイドンに捧げています。立派なイタリア語の手紙を添えて。その時は、ハイドンがモーツァルトの家に来てヴァイオリンを弾き、モーツァルトはヴィオラを弾き、あとの2人はヴァンハルとディッタースドルフ。その当時の素晴らしい作曲家が4人集まってそれらのカルテットを弾いたということです。

それが1782年か83年ごろ。


それから5年ぐらい経って、モーツァルトは今度はハイドンを相手に腕試しをしたのではないか?

3ヶ月の間に書いてしまったモーツァルトの3曲の交響曲は、演奏されるあてがなく書かれたと言われています。諸説ありますがどれも説得力に欠けています。これだけの曲を3曲も、誰のために、あるいは、どこで演奏するために書いたという記録が見つかっていないのは不思議です。

そういうわけで、私の得意の憶測によれば、尊敬するハイドンに対して、自分はどのくらい成長したのだろうか、ということをモーツァルトは自分で試したかったんだったんじゃないかと思うのです。競争したとか挑戦したというのではないと思います。あれだけ尊敬していたんですから。

とにかく、誰もが知る通り、これら3曲は音楽の歴史に燦然と輝く作品となりました。そして、あまり言われていないことですが、これらの傑作が生まれたきっかけはハイドンのおかげです。


モーツァルトはハイドンより遅くに生まれて早くに亡くなっています。モーツァルトの訃報に際してハイドンは言いました。

「あのような天才は今後100年は現れないだろう」

そういう天才は、230年経った今日、まだ現れていません。


ハイドンのお葬式ではモーツァルトのレクイエムが演奏されたそうです。


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