第1話

文字数 5,151文字

 夢を見る。
 暗闇の中で誰かが私の手を取って助けてくれる夢を。

 じりじりと照り付ける陽がいつもの年より肌に刺さる夏だった。
 私は仕事の忙しい母に変わって神鳴(きよな)村にある母の実家へ行くことになった。電車をいくつも乗り継ぎ、深い渓谷にある小さな駅に着くと、叔母が迎えに来ていた。
 叔母の車に揺られて二時間程、車は舗装されていない険しい杉林の林道を進んでいた。
「本当にこの道でいいの?」
「大丈夫よ。もうすぐだから」
 荒れた道を抜け、視界の開けた場所に出た。
「あの家よ」
「凄い、立派な家」
 村の一番奥まった場所にある、古く苔むした石垣の上に建つ、大きな青い瓦屋根の家。家の周りに巡らされた垣根の向こう側には広い庭があり、母屋とは別にいくつかの離れと蔵があるのも見えた。
「立派でしょう?おじいちゃんの自慢の家だもの」
 私はこの家に、一か月ほど前に亡くなった祖父の形見分けがあると言って母の代わりに呼ばれていた。私には祖父の記憶はほとんどない。母と祖父は仲が悪く、私が知る限り母が実家に帰ったことは一度もなかった。
「透子(とうこ)、よく来たね」
 車を降りて母屋を覗いていると裏庭から、古びた麦わら帽子を被った小柄なお婆さんが私たちの傍へとやってきた。叔母に教えられてそれが祖母だとわかった。祖母とは私が小学六年の夏に亡くなった父の葬式以来、もうずっと会っていないから顔を忘れていた。
 案内された部屋に旅の荷物を運び、叔母と祖母の三人で中庭にある蔵へ行った。カビと埃の匂いがする暗い蔵の中は、無造作に積まれた段ボールや木の箱でいっぱいだった。
「色々と集め過ぎなのよ」
 ため息交じりに叔母が言った。
 戦後の高度成長期、一代で会社を立ち上げ成功させた祖父は晩年ずっと奇妙なものを収集していた。日本各地のよく知られた神話や伝説に関するものから地方の民話まで、関係するものは何でも、お金に任せて集めていた。先島(さきしま)家は代々不思議な力を持つ家系で、私も不思議なものが見えるとか聞こえると言うたびにクラスメイトに気持ち悪がられた。
 いじめに遭ってからは、中学、高校へと進んでいくうちにそういったことは周りには言わないほうがいいのだと私は学んだ。
 私は蔵へ入った。何があるのか全くわからない。埃の舞う蔵の中を懐中電灯で探っていると、足元に一枚の写真が落ちた。
「えっ」
 写真を拾い上げて私は驚いた。それは私にそっくりな女性のモノクロ写真だった。小柄で少し痩せている。まるで私が和服を着て写っているみたいだった。
「この人、誰?」
「ああ、それはね。ユイさんよ」
 祖母が懐かしそうに言った。
「ユイさん」
「おじいさんのお姉さん。あなたによく似ているから、おじいさんはあなたのことをこの人の生き写しだってよく言ってたよ。体が弱くて、早くに亡くなったんだけどね」
 写真の女性を見つめていると、なぜかとても懐かしく、切なくなった。
「この写真、貰ってもいい?」
「ああ、構わないよ」
 もう半分、日が暮れようとしている。叔母は隣町の自宅へ帰るというので明日、改めて蔵の中を見ることにした。
「涼しい」
 風鈴がチリンと鳴った。中庭に面した縁側へと肌を冷やすような風が入ってくる。入浴と夕飯を済ませた私はそこに座って、拾った写真を改めて見た。どうしても胸を締め付けられるような不思議な気持ちになる。ユイさんは一体どんな人だったんだろう。
「おばあちゃん、ユイさんってどんな人?」
 先島ユイ。祖父の姉で先島家の長女。生まれつき体が弱くほとんど家の外に出ることはなかった彼女も、年に一度の村祭りの時だけは浴衣を着て村の神社へ出かけた。村中の男が惚れ込むほどの美人だった。色白でね、痩せてはいたけど病気がちの人とは思えないほど美しかったんだよ、と祖母は目を細めた。
 次の日の朝、私は一人、蔵へ入った。ユイさんに関するものはないかと探していると一冊の古い書物が目に入った。祖父が書いたものだろうか。手に取ってページをめくっていく。
「千代姫伝説」
 この地方の豪族の娘だった千代姫は両親に可愛がられて育った。千代姫は遠方から敵兵討伐に来た武士と恋に落ちる。やがて国へ帰ることになった武士は千代姫と必ず戻ってくるという約束を交わした。しかし、遠い戦場で討ち死にした武士が千代姫の元へ戻ってくることはなかった。
 私は本の表紙の裏に一枚の写真が挟まっているのに気が付いた。
「また、写真」
 写真には背の高い野球選手のようながっしりした体格の男の人が写っていた。私はそれを母屋に持ち帰って祖母に見せた。
「その人は圭一さんだよ」
 彼は村長の一人息子で、ユイさんの恋人だった。しかし、不幸な火事で家と財産の全てを失った彼は一家を建て直すために異国に渡り、その地で病に倒れ、帰らぬ人となった。ユイさんは彼をずっと思い続けて亡くなった。
 ユイさんと圭一さん。千代姫の伝説にも似ている。
 お昼過ぎになって、叔母から連絡があった。今日は急用で来ることができないという。
 私は村の外れにある「千代姫神社」へ行くことにした。
 神社は酷く荒れ果てていた。長い間、人の手が入っていないのだろうか。傾きかけた鳥居をくぐって、割れた石畳を進んだ先にご神木があった。楠だ。しめ縄の切れかけた楠がお社を守るように根を張っていた。そのお社の横には大きな岩があって、岩の下に空洞が見えた。冷たい風が吸い込まれていく。私は覗こうとして足を滑らせ、とっさに岩にしがみつこうとした。岩に触れた途端、強い風が吹き、木々が騒めいた。岩が動いて、その下に開いていた穴の底から呻き声のようなものが聞こえた。怖くなった私は急いで祖母の待つ家へ戻った。
「透子、顔色が悪いけど」
「なんでもない。大丈夫だよ」
 祖母は水を渡してくれた。家の前を流れる冷たい湧水で乾いた喉を潤す。ふと、中庭を覗くと目の前を白い影が前を横切った。よく見ようと目を凝らしても、何も見えない。きっと何かと見間違えたのだろう。
 その晩、私は布団の中で琵琶のような弦を弾く音を聞いた。意識がぼやけたまま目を開けると部屋の障子が開いていて、月明かりに庭の池が照らされているのが見えた。池の近くの地面を這うように何かが動いている。小川のように見えたそれは黒い大蛇だった。
 私はとっさに起き上がり、逃げようとした。大蛇と目が合った。足がすくんで動けない。
 大蛇は頭を持ち上げて、こちらを見ている。
 もう、だめだ。そう思った瞬間、
 誰かが私の手を引いた。
 ユイさん。
 暗闇で顔は見えないけれど確かにユイさんだ。どうしてなのかはわからなかったけど、私にはそれが彼女だとわかった。そのまま手を引かれて隣部屋に入ると部屋の天井の照明が弾けるように音を立て、明かりがついた。
「大丈夫よ」
 声の主の顔を見る。やっぱりあの写真の女性、ユイさんだ。
「もう襲ってこないわ」
 いつの間にか、黒い大蛇の姿は見えなくなっていた。
「明かりの中で見える幽霊なんて珍しいでしょう?これでもなるべく見つからないようにしてるのよ」
 ユイさんは恐怖で体の震えが止まらない私を気遣うように優しく笑った。
「あの大蛇は千代姫よ。今日は彼女の命日で村祭りの日。今はもう行われなくなってしまったけれど、千代姫の魂を鎮めるためのお祭りなの」
 千代姫伝説には続きがあった。武士を待ち続けた千代姫はやがて大蛇へと姿を変え、村人を襲うようになった。そこで村人は通りかかった武士に助けを求め、大蛇は倒された。村人は哀れな千代姫のために神社を建てて祀った。
「あなたが私によく似ているからきっと間違えたのね。私を探しているのよ」
「ユイさんを?」
「そう、村祭りの日に千代姫神社で神域に入ってしまった子供を助けた時に、怒った千代姫に呪いをかけられそうになったの。私がこんな姿をしているのも、その時にお父様が私を助けるためにかけた術のせい。千代姫はまだ怒っているのよ。いつまでも根に持つような人は嫌われるっていうのにね」
 ユイさんはいたずらっぽく笑った。
「私が神社で岩を動かしてしまったから」
「岩?」
「千代姫神社のお社の横にある大きな岩」
「それは千代姫を封じていた岩ね。そういうことは気にしないの。大丈夫。こう見えても私、結構強いのよ」
 そう言うとユイさんは着物の袂から櫛を取り出した。
「お守り。これを持っているといいわ。きっと、あなたを助けてくれる」
 それは手のひらに収まるほど小さな赤い漆塗りの櫛だった。
「いいんですか?」
「もちろんよ」
 私に櫛を手渡しながらユイさんは微笑んだ。
 眠れない夜を過ごし、やがて朝が来た。
「千代姫は、また来るんでしょうか?」
「そうね。あの人は私とあなたを探しているから」
「でも、この家で待つのは」
「あなたのおばあさんを巻き込むわけにはいかないものね」
 昨晩、私の部屋で物音がしたことを祖母は心配していた。
「大丈夫だよ、寝ぼけていただけだから」
「そう?それならいいけど」
 祖母に迷惑はかけたくなかった。
 日が暮れるのを待っている間、ユイさんは圭一さんがどんな人だったのかを私に話してくれた。
「あの人はとても優しくて誠実なのよ。今みたいにとても暑い日が続いた時だった。村にボロボロの服を着た親子連れの旅人が来たの。村の皆は泊るところもお金もないその人たちを村に入れようとはしなかった。でも、圭一さんだけは違った。村長さんと村の皆を説得して、足を怪我した子供のために病院も手配してね。その子が回復するまでずっと面倒を見ていたわ。その時よ、私が圭一さんのことを好きになったのは。それで、私もあの人のように人を助けたいと思ったの」
 村を囲む山の向こうに陽が落ちて、夜が来た。私たちは千代姫神社へ向かった。
「千代姫は、この穴の中にずっと一人でいたんですよね」
 私は冷たい風を吸い込み続ける暗い穴の中を恐る恐る覗いた。
 この闇の中で千代姫はどれだけ寂しい思いをしていたのだろうか。
「来るわよ」
 静まり返った境内を見渡しても何も見えない。
 目を凝らしていると、灯篭の明かりが暗い境内を浮かび上がらせるように灯り、お社の前の石畳の上に黒い影が現れた。
 うねる黒い河のような影は次第に大きさを変え、楠の高さを越えるほどの大蛇へと姿を変える。
「千代姫様、お鎮まりください。千代姫様」
ユイさんは落ち着いた声で千代姫に語りかけた。
「千代姫様、お鎮まりを」
 なだめるユイさんに向かって大蛇は大きな口を開き、白く鋭い牙を見せながら何度も襲い掛かった。
 ユイさんの周りには木々を揺らすほどの強い風が吹き、容易に近づくことができない。
 小さな体のどこにこんな力が潜んでいたのだろう。
 ユイさんが大蛇の目の前に手をかざし、その細い腕を首に向かって伸ばした時、もろくなっていた楠の枝が雷鳴のような音を立てて私の傍に落ちた。悲鳴を上げた私に気づいた大蛇がユイさんの腕を振り切って、こちらへ向かってくる。
「透子ちゃん!」
 ユイさんが叫ぶのと同時に、私の胸のポケットにあった櫛が大蛇の目を射るように金色の光を放った。
 光に目がくらんだ大蛇は頭を振って悶えている。
 ユイさんは私をかばうようにして大蛇の前に立ち塞がった。
「千代姫様、あなたを責めるつもりはありません。あなたの苦しみを理解できるものなどいない。でも、あなたの苦しみを受け取ることはできます。さあ、こちらへ来てください」
 ユイさんは大蛇を導くように手を伸ばす。
「大丈夫。あなたはもう闇の中で一人、苦しまなくていい」
 ユイさんが優しく話しかけると、大蛇は見開いた瞳から大粒の涙をこぼした。
「千代姫様、私も同じように遠い国で愛しい人を亡くしました。あなたの悲しみ、苦しみが少しでも楽になるのなら、私は力を惜しまない。だから、一緒に黄泉の国へ参りましょう」
 大蛇の姿は次第に小さくなり、やがて幼い娘の姿になった。泣き続ける千代姫の体をユイさんはそっと抱きしめ、その手で千代姫の涙を拭った。
「透子ちゃん、私は千代姫様と一緒に行くわ」
「ユイさん」
 夜明けが近づいていた。ユイさんと千代姫の体の輪郭が淡い陽の光に溶けていく。
「圭一、さん」
 ユイさんの視線の先には圭一さんの姿があった。
「千代姫様、行きましょう」
 夜明けが訪れ、朝の光の中に三人の姿は消えた。
 陽の光が山の稜線を浮き上がらせているのを、私はしばらく見つめていた。

 このことがきっかけで、私はこの家にいたい、と思うようになった。
 先島家にはまだ知りたいことがたくさんある。
「おばあちゃん、もう少しこの家にいてもいい?」
「ええ、もちろん。いくらでもここにいていいんだよ」
 遠く、入道雲が湧き出るのが見える。夏は始まったばかりだ。
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