拝啓 前世紀の君へ
文字数 2,315文字
拝啓 前世紀の君へ
かつて、人は暗闇を怖れ、火を創造した。
ふぅーっと口から吐いた煙は、夜風に吹かれて空へと消えていく。膨らんだ風船が萎むように、消えていく煙草の火を見つめながら、ふとそんなことを思った。
人は悪魔を畏れ、死を恐れた。人は神を創造し、天国を創造した。未知とは恐怖そのものなのだ。そして、その度に僕ら人間は、何かを生み出し、それにすがるのだった。
「神様、か。」
呆れと憧れが混じったような、そんな声。溜息を吐きながら夜空を仰ぐ。
「地球は青かった。」
視線を足元に落とし、一呼吸置く。
「…だが神は居なかった。」
「懐かしいな、ガガーリン少佐の言葉か?」
こぼれた声が地に着くよりも先に、背後から声がした。少し身体を強張らせたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「ああ、そうだよ。よく知ってるじゃないか。」
「勤務中に屋上で煙草とは頂けないな。早く戻らないと報告させてもらうぞ。」
「その報告する相手はどこにいるって言うんだい?」
皮肉を込めて笑いかける。彼は少し怪訝そうな顔をしたが、早くしろ、と手で合図を送っただけで特に何も言わなかった。
「いま僕ら以外に残っている人間ってどれくらいなんだろうな。」
足早に階段を降りる彼の背を追う。
「さあね。未だに人間の身体にこだわるなんて、俺たち科学者以外にどれだけいるものか。」
ぶっきらぼうに言い放つ。ほんの数分サボったことがそんなに気に入らなかったのだろうか。雰囲気を和ませる為に別の話題を探した。
「なあ、やっぱり神様っているのかな。」
「さっき、神は居なかった、って君が言ったばかりじゃないか。」
暫く機嫌が治ることは無さそうだ。
「まあ、神様が居るとするなら、間違いなく人間を造ったのは失敗だったろうけどな。」
彼はそう言って扉を開けた。
「んっ。」
あぁ、この薬品の臭いはもううんざりなんだ。口から文句が溢れそうになったが、彼の機嫌を見遣り、ぐっと飲み込んだ。
追いやられるように担当する部署へ向かい、腰を下ろす。制御盤の上に一切の乱れなく整列するボタンたち。親の顔より見たであろうこの無愛想なお友達は、僕が煙草を吸いに行く前と同じ表情を僕に向けていた。
「じゃあな。」
そう言って彼は去っていったが、僕は目の前のコンピュータに負けずとも劣らない頭脳で、彼の発した四文字には、「次サボったらただではおかないから覚悟しろ」、という意味が含まれていることを読み取った。少々腹は立ったものの、子供のように理屈を捏ねるのは大人気ないと思い、自分の方も、「分かった」、の四文字で、出来る限り相手に不快感を与えられるよう努めた。彼は何か言いたげに振り向いたが、そのまま去っていった。
子供じみた僕の行動に反応したのだろうか。無愛想な奴らがチカチカと光り始めた。
「…笑うなよ。」
少し顔を赤らめて制御盤を弾いたが、その時にはもう、いつもの愛想のない表情をこちらに向けていた。
二一二〇年 三月 十六日
珈琲を飲みながら目を細めて制御盤を叩く。珈琲なんて前時代的なものを未だに口にしているのは僕くらいのものだろう。あらゆる分野で効率化が図られた今、栄養素というものは、もはや食事などと呼ぶに値しない、取るに足らない小さな錠剤で事足りるのだから。
制御盤から目を上げて、もはや日常と化した絶景に目を遣る。水槽に浮かぶ無数の物体、魚ではない。無数の配線に繋がれる、無数の肉塊。地球上から人間が消えた理由ともいえる光景が、いつものように目の前に広がっている。
僕ら科学者が管理するのは、この東京に保管される、六千万といくらかの脳髄、それである。
彼らはもはや錠剤をも必要としない、およそ新人類とでも呼ぶべき存在だ。彼ら、いや君たちは、神話ではなく機械の中に幻想を見出した。ユートピアかディストピアか。何にせよ我々人類は、水槽の中で配線に繋がれることで、電子の世界に平穏を手に入れたのだ。
前世紀、地球に蔓延る問題を、人類はとうとう解決できなかった。皮肉にも、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」という言葉は人類を破滅へと追いやったのだった。
屋上でのやり取りを反芻する。
何を恐れてか、いつからか君たちは、科学を創造し、科学を信仰し始めた。物質を信仰し、戦争を信仰し、この星を吸い尽くすに至った。
神が居るなら人間を造ったのは失敗、という彼の言葉もあながち間違いではないのだろう。知識の実を食べた人間は、知識によって繁栄し、知識によって滅びた。
あまつさえ、科学によって滅びかけた今、我々人類が生き延びる為にすがることが出来たのは科学なのだ。それが、もはや人類が生き延びる術は無いのだ、ということを暗に意味していることも、君たちは何処かで知っているのだろう。
そして、未来を変える為には今を変えるしかないということも。
行き着く先は希望か絶望か。ともあれ確かに存在する今日という一日は、この途方もない時間に堆積された、君たちの行いや選択に対して、圧倒的な現実として僕らの目の前に立ちはだかる。だからこそ、僕は百年後の世界から百年前の君たちへ、届くはずのない手紙として、遺るはずのない物語として記録するのだ。
プロローグは、この手紙を読む君たちに託すこととしよう。
この手紙は僕の記録する、とある百年後の物語。
エピローグが希望の文字で締め括られることを願う。
百年後より愛を込めて
かつて、人は暗闇を怖れ、火を創造した。
ふぅーっと口から吐いた煙は、夜風に吹かれて空へと消えていく。膨らんだ風船が萎むように、消えていく煙草の火を見つめながら、ふとそんなことを思った。
人は悪魔を畏れ、死を恐れた。人は神を創造し、天国を創造した。未知とは恐怖そのものなのだ。そして、その度に僕ら人間は、何かを生み出し、それにすがるのだった。
「神様、か。」
呆れと憧れが混じったような、そんな声。溜息を吐きながら夜空を仰ぐ。
「地球は青かった。」
視線を足元に落とし、一呼吸置く。
「…だが神は居なかった。」
「懐かしいな、ガガーリン少佐の言葉か?」
こぼれた声が地に着くよりも先に、背後から声がした。少し身体を強張らせたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「ああ、そうだよ。よく知ってるじゃないか。」
「勤務中に屋上で煙草とは頂けないな。早く戻らないと報告させてもらうぞ。」
「その報告する相手はどこにいるって言うんだい?」
皮肉を込めて笑いかける。彼は少し怪訝そうな顔をしたが、早くしろ、と手で合図を送っただけで特に何も言わなかった。
「いま僕ら以外に残っている人間ってどれくらいなんだろうな。」
足早に階段を降りる彼の背を追う。
「さあね。未だに人間の身体にこだわるなんて、俺たち科学者以外にどれだけいるものか。」
ぶっきらぼうに言い放つ。ほんの数分サボったことがそんなに気に入らなかったのだろうか。雰囲気を和ませる為に別の話題を探した。
「なあ、やっぱり神様っているのかな。」
「さっき、神は居なかった、って君が言ったばかりじゃないか。」
暫く機嫌が治ることは無さそうだ。
「まあ、神様が居るとするなら、間違いなく人間を造ったのは失敗だったろうけどな。」
彼はそう言って扉を開けた。
「んっ。」
あぁ、この薬品の臭いはもううんざりなんだ。口から文句が溢れそうになったが、彼の機嫌を見遣り、ぐっと飲み込んだ。
追いやられるように担当する部署へ向かい、腰を下ろす。制御盤の上に一切の乱れなく整列するボタンたち。親の顔より見たであろうこの無愛想なお友達は、僕が煙草を吸いに行く前と同じ表情を僕に向けていた。
「じゃあな。」
そう言って彼は去っていったが、僕は目の前のコンピュータに負けずとも劣らない頭脳で、彼の発した四文字には、「次サボったらただではおかないから覚悟しろ」、という意味が含まれていることを読み取った。少々腹は立ったものの、子供のように理屈を捏ねるのは大人気ないと思い、自分の方も、「分かった」、の四文字で、出来る限り相手に不快感を与えられるよう努めた。彼は何か言いたげに振り向いたが、そのまま去っていった。
子供じみた僕の行動に反応したのだろうか。無愛想な奴らがチカチカと光り始めた。
「…笑うなよ。」
少し顔を赤らめて制御盤を弾いたが、その時にはもう、いつもの愛想のない表情をこちらに向けていた。
二一二〇年 三月 十六日
珈琲を飲みながら目を細めて制御盤を叩く。珈琲なんて前時代的なものを未だに口にしているのは僕くらいのものだろう。あらゆる分野で効率化が図られた今、栄養素というものは、もはや食事などと呼ぶに値しない、取るに足らない小さな錠剤で事足りるのだから。
制御盤から目を上げて、もはや日常と化した絶景に目を遣る。水槽に浮かぶ無数の物体、魚ではない。無数の配線に繋がれる、無数の肉塊。地球上から人間が消えた理由ともいえる光景が、いつものように目の前に広がっている。
僕ら科学者が管理するのは、この東京に保管される、六千万といくらかの脳髄、それである。
彼らはもはや錠剤をも必要としない、およそ新人類とでも呼ぶべき存在だ。彼ら、いや君たちは、神話ではなく機械の中に幻想を見出した。ユートピアかディストピアか。何にせよ我々人類は、水槽の中で配線に繋がれることで、電子の世界に平穏を手に入れたのだ。
前世紀、地球に蔓延る問題を、人類はとうとう解決できなかった。皮肉にも、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」という言葉は人類を破滅へと追いやったのだった。
屋上でのやり取りを反芻する。
何を恐れてか、いつからか君たちは、科学を創造し、科学を信仰し始めた。物質を信仰し、戦争を信仰し、この星を吸い尽くすに至った。
神が居るなら人間を造ったのは失敗、という彼の言葉もあながち間違いではないのだろう。知識の実を食べた人間は、知識によって繁栄し、知識によって滅びた。
あまつさえ、科学によって滅びかけた今、我々人類が生き延びる為にすがることが出来たのは科学なのだ。それが、もはや人類が生き延びる術は無いのだ、ということを暗に意味していることも、君たちは何処かで知っているのだろう。
そして、未来を変える為には今を変えるしかないということも。
行き着く先は希望か絶望か。ともあれ確かに存在する今日という一日は、この途方もない時間に堆積された、君たちの行いや選択に対して、圧倒的な現実として僕らの目の前に立ちはだかる。だからこそ、僕は百年後の世界から百年前の君たちへ、届くはずのない手紙として、遺るはずのない物語として記録するのだ。
プロローグは、この手紙を読む君たちに託すこととしよう。
この手紙は僕の記録する、とある百年後の物語。
エピローグが希望の文字で締め括られることを願う。
百年後より愛を込めて