やよい婆ちゃん
文字数 1,977文字
世界最高齢の現役ピッチャーにして、女性初のプロ野球選手。それが橋本やよい選手だ。しかもゴリゴリの豪速球投手なのだから、もう訳がわからない。
世界中の野球ファンの目が、点になるのは無理もない話だろう。登録名は『やよい婆ちゃん』。もちろん、超人気者だ。
最初は誰もがトリックや偽装を疑った。その視線は珍妙な生き物に対するものへと変わり、そして徐々に人間賛歌にも似た称賛へと至った。
全く知名度のなかった彼女は、ドラフト指名外の入団テスト組だ。彼女が現れた入団テストは今でも語り草になっている。何しろ、試験当時のやよい婆ちゃんは御歳 八十二歳。立派な後期高齢者だ。
やよい婆ちゃんは、マウンドに立っていなければ、本当に普通の老人だった。小さくて痩せていて、筋肉のかけらすら見当たらない。そんな老人がプロ野球の入団テストに現れたものだから、誰もが心配した。マウンドで倒れられたりしたら大問題だ。
テストを受ける者も、主催者も取材陣も、誰もがハラハラして見守った。
実際婆ちゃんは歳相応で、バットを振る様子もヘロヘロだし100M走は歩いていた。ところが、マウンドに立ち投球フォームに入った途端、そこに居合わせた全員が息を呑んで立ち上がった。
恐ろしく綺麗なフォームから、見失うほどの速さで振り切った腕から放たれたのは、紛うことなき豪速球だったのだ。時速150キロのストレートがキャッチャーミットに突き刺さった。しばらく誰もが口を閉じることすら出来なかった。声を上げることも出来ずに、隣にいる者と目だけで会話した。
なにあれ、見た? 嘘だろ? どうなってるの?
最初に口を閉じ、また開いて声を発したのは、ピッチングコーチだった。
「……橋本やよい選手。もう一球、お願いします」
絞り出すような声がグラウンドに響くと、ゆっくり頷いたやよい婆ちゃんは、トレースするように全く同じフォームから、髪の毛ひと筋のブレもなく、ど真ん中へとボールをぶち込んだ。
「変化球は投げられますか?」
やよい婆ちゃんは首を振る。
「他のコースへ投げてもらえますか?」
またもや首を振る。その様子は、キャッチャーからの逃げのサインに承知しない、強気のピッチャーそのものだった。
やよい婆ちゃんはもう一球、同じコースへと投げて、自らマウンドを後にした。
ピッチングコーチに声をかけられると「三球しか投げられません」と、恥ずかしそうに笑ったという。
球団の首脳陣は色めき立った。スター性、話題性に於 いては文句の付けようがない。間違いなく今シーズンの台風の目となるだろう。
「三球しか投げられない。しかもど真ん中のストレートのみ。だが、使いどころは必ずある!」
「「「合格だ!!!!」」」
満場一致の採用となった。
「健康診断の結果は?」
「神経痛と肩こり、老眼、緑内障の手術歴あり、総入れ歯です!」
「そ、そうか……特に持病は?」
「ありません。ですが、念のため試合中はドクターとナースを常駐させましょう」
「何年現役でやれるんだ?」
「見当もつきませんね……」
果たして伸びしろはあるのか? 常にあのパフォーマンスを期待して良いのか?
「家族構成は?」
「配偶者は昨年亡くなっています。子供は三人、すでに全員既婚者、孫が五人。長男家族と同居しています」
「プロの選手になることに、家族は同意しているのか?」
「孫たちは大喜びです。息子さんたちはまだ半信半疑のようです。橋本選手が野球をやることすら知らなかったようです」
実はやよい婆ちゃん。野球のルールもよくわかっていなかった。走攻守の一切に、興味もない様子だ。婆ちゃんが得意だったのは、孫とよく行く川原での『水切り』だ。
平らな小石を投げ、水面をポンポンと弾ませて数を競うアレだ。その神業的な投石を見て、少年野球をやっていた孫が投球フォームを教えたらとんでもなかったらしい。
「と言うことは……アンダースローが投げられるのか⁉︎」
「イケますよ! こちらはスピードはそこそこですが、地を這うような低い弾道で、バッターボックス付近でポップします。こちらも充分通用しますよ……」
「素晴らしいな……! それも三球か?」
「はい。三球が限度だそうです!」
「アンダースローの方はマスコミに嗅ぎ付けられるなよ! 切り札として申し分ない!」
そこから三年、やよい婆ちゃんはプロ野球選手として一世を風靡した。一試合三球のみのピンポイントだが、登板率は低くはなかった。チームのピンチを何度も救い、絶大な人気を誇り、惜しまれつつ引退した。
引退会見の「大変楽しゅうございました」という言葉、流れるような美しいフォーム、寸分の狂いなくキャッチャーミットへと突き刺さる完璧なコントロール。出番前に、ベンチで座布団を敷いて正座しながら番茶を飲むその様子……。
今も世界中の人々の心に、強く焼き付いている。
世界中の野球ファンの目が、点になるのは無理もない話だろう。登録名は『やよい婆ちゃん』。もちろん、超人気者だ。
最初は誰もがトリックや偽装を疑った。その視線は珍妙な生き物に対するものへと変わり、そして徐々に人間賛歌にも似た称賛へと至った。
全く知名度のなかった彼女は、ドラフト指名外の入団テスト組だ。彼女が現れた入団テストは今でも語り草になっている。何しろ、試験当時のやよい婆ちゃんは
やよい婆ちゃんは、マウンドに立っていなければ、本当に普通の老人だった。小さくて痩せていて、筋肉のかけらすら見当たらない。そんな老人がプロ野球の入団テストに現れたものだから、誰もが心配した。マウンドで倒れられたりしたら大問題だ。
テストを受ける者も、主催者も取材陣も、誰もがハラハラして見守った。
実際婆ちゃんは歳相応で、バットを振る様子もヘロヘロだし100M走は歩いていた。ところが、マウンドに立ち投球フォームに入った途端、そこに居合わせた全員が息を呑んで立ち上がった。
恐ろしく綺麗なフォームから、見失うほどの速さで振り切った腕から放たれたのは、紛うことなき豪速球だったのだ。時速150キロのストレートがキャッチャーミットに突き刺さった。しばらく誰もが口を閉じることすら出来なかった。声を上げることも出来ずに、隣にいる者と目だけで会話した。
なにあれ、見た? 嘘だろ? どうなってるの?
最初に口を閉じ、また開いて声を発したのは、ピッチングコーチだった。
「……橋本やよい選手。もう一球、お願いします」
絞り出すような声がグラウンドに響くと、ゆっくり頷いたやよい婆ちゃんは、トレースするように全く同じフォームから、髪の毛ひと筋のブレもなく、ど真ん中へとボールをぶち込んだ。
「変化球は投げられますか?」
やよい婆ちゃんは首を振る。
「他のコースへ投げてもらえますか?」
またもや首を振る。その様子は、キャッチャーからの逃げのサインに承知しない、強気のピッチャーそのものだった。
やよい婆ちゃんはもう一球、同じコースへと投げて、自らマウンドを後にした。
ピッチングコーチに声をかけられると「三球しか投げられません」と、恥ずかしそうに笑ったという。
球団の首脳陣は色めき立った。スター性、話題性に
「三球しか投げられない。しかもど真ん中のストレートのみ。だが、使いどころは必ずある!」
「「「合格だ!!!!」」」
満場一致の採用となった。
「健康診断の結果は?」
「神経痛と肩こり、老眼、緑内障の手術歴あり、総入れ歯です!」
「そ、そうか……特に持病は?」
「ありません。ですが、念のため試合中はドクターとナースを常駐させましょう」
「何年現役でやれるんだ?」
「見当もつきませんね……」
果たして伸びしろはあるのか? 常にあのパフォーマンスを期待して良いのか?
「家族構成は?」
「配偶者は昨年亡くなっています。子供は三人、すでに全員既婚者、孫が五人。長男家族と同居しています」
「プロの選手になることに、家族は同意しているのか?」
「孫たちは大喜びです。息子さんたちはまだ半信半疑のようです。橋本選手が野球をやることすら知らなかったようです」
実はやよい婆ちゃん。野球のルールもよくわかっていなかった。走攻守の一切に、興味もない様子だ。婆ちゃんが得意だったのは、孫とよく行く川原での『水切り』だ。
平らな小石を投げ、水面をポンポンと弾ませて数を競うアレだ。その神業的な投石を見て、少年野球をやっていた孫が投球フォームを教えたらとんでもなかったらしい。
「と言うことは……アンダースローが投げられるのか⁉︎」
「イケますよ! こちらはスピードはそこそこですが、地を這うような低い弾道で、バッターボックス付近でポップします。こちらも充分通用しますよ……」
「素晴らしいな……! それも三球か?」
「はい。三球が限度だそうです!」
「アンダースローの方はマスコミに嗅ぎ付けられるなよ! 切り札として申し分ない!」
そこから三年、やよい婆ちゃんはプロ野球選手として一世を風靡した。一試合三球のみのピンポイントだが、登板率は低くはなかった。チームのピンチを何度も救い、絶大な人気を誇り、惜しまれつつ引退した。
引退会見の「大変楽しゅうございました」という言葉、流れるような美しいフォーム、寸分の狂いなくキャッチャーミットへと突き刺さる完璧なコントロール。出番前に、ベンチで座布団を敷いて正座しながら番茶を飲むその様子……。
今も世界中の人々の心に、強く焼き付いている。