第1話
文字数 3,142文字
確かにわたしは下を向いて歩いてた。いろいろとあったから。でもこの人とぶつかったのはわたしのせいじゃない。「どこ見て歩いてんのよ!」と啖呵の一つも切ってやりたかった。
引っ越しをしてからちっとも良いことがない。実家住まいの裕二の近くにはなったけれど、どうも外れ物件を引いてしまったかもしれない。
引っ越したのは土曜日だった。郵便受けに前の住人の郵便物、特に督促状みたいな封筒が入っているのを見た時、なんとなくいやな気分になった。
翌日には水道局を名乗る男がやってきて、メーターを交換したから代金を払えと言う。そんなのおかしいから「とにかく大家さんと話をしてください」と言ってインターホンを切った。その日はちょっと怖くて外に出られなかった。
さらに、昨晩帰宅すると見知らぬ女が二人、家の扉の横に立っていた。
「あんた、誰!?」
前のめりの大柄な女が、怒りに震えた声を上げる。驚いたけど、いきなりそんな風に言われる筋合いなんてない。
「誰って……そちらこそどちら様で--」
「ケ〇〇居る?」
「は?」
ケンジだかケイスケだかは覚えてない。そんなことはどうでもいい。とにかく彼氏の名前じゃない。裕二に合鍵は渡したけれど、それはつい一昨日、引っ越して三日目のことだ。さすがに疑う要素はどこにもない。
「ケ〇〇いるんでしょ!? 出してよ!」
女はすごい顔をしてわたしに迫った。後ろに控える小柄な女は目を腫らし、口元をハンカチで押さえている。
はあ……前の住人の因縁だよ。まったく、なんでちゃんと清算して出てってくんないかなあ。
「そんな人知りませんけど。わたし引っ越してきたばか……」
「じゃあどこよ! ケ〇〇どこにいんのよ!」
その冷静さに欠ける身勝手な醜い様に、なんでこんな女に丁寧に応対してんだワタシ、と思った瞬間イライラが火を噴いた。
「知らないわよ! そっちこそ誰よ、他人 ん家 にいきなりやってきて。なんでわたしがあんたなんかに怒鳴られなきゃなんないの!?」
わたしは彼女たちの憤りと焦りと狼狽に少しは同情してあげるべきだったかもしれない。彼女たちも勘違いにうすうす気付いたのか、ややたじろいだように見えた。が、それでもまだ引き下がるわけにいかなかったのだろう。
「じゃあ、中を見せてよ」
「はあ?」
--悪意に満ちた見も知らぬひとを家の中にホイホイ入れるバカがいる? もし逆の立場で同じこと言われたら「どうぞお気の済むまで」ってあんた言えんの? 引っ越し早々、あんたたちが引っかかったなんとか言うケチな男のせいで、迷惑してんのはこっちの方なんだよ!
わたしはブチ切れ気味にそんな意味のことをまくし立てたと思う。息巻いていた女も次第に萎んでいき、最後には二人とも気の毒なくらいしょぼくれて去っていった。わたしに対する謝罪の言葉はないまま。
--マジ? 大変だったね! 大丈夫?
今日引っ越し祝いをするつもりだったけど、急に仕事が入ってごめん、と裕二からメッセージがあった。歓迎できない訪問者のことをわたしが書くと、一応心配してくれたらしい彼はそんな風に答え、さらに電話もかけてくれた。愚痴をひとしきり受けとめ、ちょっとした慰めの言葉のあと「今度ご馳走作るからね」と料理人の彼は言った。
その夜はなかなか寝付けなかった。
ぴち……。
それは夜中の何時頃だっただろう。最初は気にもとめなかった。
びし……。
しばらく経って、また聞こえた。なに? わたしは少し、身を固くした。
ぴっ……ぴしっぴしっ。
たまらずベッドから身を起こし、わたしは灯りをつけた。冷や汗が滲み出る。ひと通り部屋の中を調べてみたけれど、変わったことは特になかった。
「新しい家はどう?」
寝不足とは言えず、体調不良を理由に終業早々帰り支度をしていると同僚の子に話しかけられ、どきりとした。
「うん、まあ……まあかな」
「いいなあ、あたしも引っ越したいなあ」
適当に言葉を濁してそそくさと職場を後にした。
昨夜、異界からこちらの世界に穴をうがつような音は、わたしが眠りに落ちかけると鳴るのだった。欠陥住宅、とまでは言わなくても水道管に亀裂くらいは入っているかもしれない。ってあの怪しい水道屋の腹いせじゃ……。それとも昨夜の女たちの逆恨み? 前の住人も問題ありだし、あの部屋さあ、なんかもうほとんど事故物件だよ。ちょい待ち。もしかしてもしかすると、事件はいま現在も進行形ってことない? 実は壁の中にケンジだか誰だかが埋められてて、そのうちちょっとずつ壁が剥がれて……ひいい、やめて!
半分涙目で、ともかく帰路を急いだ。足早に歩いていたら、段ボール箱を何個か抱えた男がよろけてくるのが視界に入った。落ちた箱の中身が飛ぶ。封が一つ、すでに解かれていたようだ。
状況的に「どこ見て歩いてんのよ」と非難するわけにいかずにいると、男はこれ見よがしに舌打ちをした。「したいのはこっちだから」と喉元まで出かかった文句を飲み込んで手伝おうとしたが、路上を跳ねる細長の怪物を見て手が竦んだ。散らばったおがくずを申し訳程度にかき集めて箱に戻し、わたしはその場を立ち去った。
「ホントついてない」
占ってもらおうかなと思いながら、わたしは部屋のドアを開けた。茫と薄暗いキッチンで、それが待ち構えているとも知らず。
「ひっ!」
思わず口に手を当てたわたしの前に、埃まみれ(というほどではなかった)のそれは転がっていた。
「なにこれ」
わたしは恐る恐る、憐れな姿で横たわるものの傍にしゃがみこんだ。
エビ? どういうこと?
まさかさっきの男が侵入して……いやそんなはずない。あり得ない。
でも、それじゃ、なんで?
冷たいものが全身を巡る。
引っ越してくる前から居たの? 異界の住人からのプレゼント? ないない!
いったい誰よ。わたしに害を与えようとしてるのは、誰?
混乱していた。
だから気付かなかった。
男がすぐそこまで来ていることに。
「おい!」という鋭い声に、はっとなって振り仰いだ。
わたしは、眼を剥いた。
男は、封の開いた段ボール箱を片手に持っていた。
大きく「くるまえび」の赤い文字。
そして、もう片方の手には……その形状は、どこからどう見ても、包丁だ。
「ぎ△ぃ*や%〇あ$!」
言葉にならない音の塊が炸裂し、周囲の景色を震わせた。
ワ タ シ 真 ッ 先 ニ 占 ッ テ モ ラ ウ ……べきだった。
ゆっくりと、目の前が薄れていく。
「ありえない」
しゃがれた声。ため息をついて、わたしは赤いチリソースに見え隠れする怪物たちのなれの果てを見つめる。裕二が気まずそうに口を歪め、何度目かの「ごめん」を口にした。
「昨日、ホントは休みだったろ。だから引っ越し祝いしようと思ってここに寄ったんだよ。いい車エビ仕入れたからさ、それ持って。そしたら電話かかってきて、マンパワー足りなくなったんで××の新店舗に応援行ってくれって言われて。しょうがないからエビは冷凍しといたんだけど……」
どうやら遊び盛りが一匹、かくれんぼのつもりだったのか、跳ねて備え付けの冷蔵庫わき辺りに逃げ込んだらしい。音の正体はこいつだった。
よく見ると裕二の持ってきた箱は、ぶつかった人のそれと微妙に違う気がする。彼は今日休みをもらい、昨日持ち帰った箱に備品とエビ以外の食材を入れてきたのだと言う。
「でもなんで包丁なんか持ってんのよ」
「だってオマエ、昨日の話聞いてて、あんな風にヘタり込んでたらさ、何があったんだって思うよ。声かけても全然反応ねえし……。それに包丁はちゃんと新聞紙に包んでたろ」
「こんな話、普通ある?」わたしは苦笑いする。
「ないな」裕二も笑う。
たぶん当分の間、お寿司屋さんには行けそうもない。
引っ越しをしてからちっとも良いことがない。実家住まいの裕二の近くにはなったけれど、どうも外れ物件を引いてしまったかもしれない。
引っ越したのは土曜日だった。郵便受けに前の住人の郵便物、特に督促状みたいな封筒が入っているのを見た時、なんとなくいやな気分になった。
翌日には水道局を名乗る男がやってきて、メーターを交換したから代金を払えと言う。そんなのおかしいから「とにかく大家さんと話をしてください」と言ってインターホンを切った。その日はちょっと怖くて外に出られなかった。
さらに、昨晩帰宅すると見知らぬ女が二人、家の扉の横に立っていた。
「あんた、誰!?」
前のめりの大柄な女が、怒りに震えた声を上げる。驚いたけど、いきなりそんな風に言われる筋合いなんてない。
「誰って……そちらこそどちら様で--」
「ケ〇〇居る?」
「は?」
ケンジだかケイスケだかは覚えてない。そんなことはどうでもいい。とにかく彼氏の名前じゃない。裕二に合鍵は渡したけれど、それはつい一昨日、引っ越して三日目のことだ。さすがに疑う要素はどこにもない。
「ケ〇〇いるんでしょ!? 出してよ!」
女はすごい顔をしてわたしに迫った。後ろに控える小柄な女は目を腫らし、口元をハンカチで押さえている。
はあ……前の住人の因縁だよ。まったく、なんでちゃんと清算して出てってくんないかなあ。
「そんな人知りませんけど。わたし引っ越してきたばか……」
「じゃあどこよ! ケ〇〇どこにいんのよ!」
その冷静さに欠ける身勝手な醜い様に、なんでこんな女に丁寧に応対してんだワタシ、と思った瞬間イライラが火を噴いた。
「知らないわよ! そっちこそ誰よ、
わたしは彼女たちの憤りと焦りと狼狽に少しは同情してあげるべきだったかもしれない。彼女たちも勘違いにうすうす気付いたのか、ややたじろいだように見えた。が、それでもまだ引き下がるわけにいかなかったのだろう。
「じゃあ、中を見せてよ」
「はあ?」
--悪意に満ちた見も知らぬひとを家の中にホイホイ入れるバカがいる? もし逆の立場で同じこと言われたら「どうぞお気の済むまで」ってあんた言えんの? 引っ越し早々、あんたたちが引っかかったなんとか言うケチな男のせいで、迷惑してんのはこっちの方なんだよ!
わたしはブチ切れ気味にそんな意味のことをまくし立てたと思う。息巻いていた女も次第に萎んでいき、最後には二人とも気の毒なくらいしょぼくれて去っていった。わたしに対する謝罪の言葉はないまま。
--マジ? 大変だったね! 大丈夫?
今日引っ越し祝いをするつもりだったけど、急に仕事が入ってごめん、と裕二からメッセージがあった。歓迎できない訪問者のことをわたしが書くと、一応心配してくれたらしい彼はそんな風に答え、さらに電話もかけてくれた。愚痴をひとしきり受けとめ、ちょっとした慰めの言葉のあと「今度ご馳走作るからね」と料理人の彼は言った。
その夜はなかなか寝付けなかった。
ぴち……。
それは夜中の何時頃だっただろう。最初は気にもとめなかった。
びし……。
しばらく経って、また聞こえた。なに? わたしは少し、身を固くした。
ぴっ……ぴしっぴしっ。
たまらずベッドから身を起こし、わたしは灯りをつけた。冷や汗が滲み出る。ひと通り部屋の中を調べてみたけれど、変わったことは特になかった。
「新しい家はどう?」
寝不足とは言えず、体調不良を理由に終業早々帰り支度をしていると同僚の子に話しかけられ、どきりとした。
「うん、まあ……まあかな」
「いいなあ、あたしも引っ越したいなあ」
適当に言葉を濁してそそくさと職場を後にした。
昨夜、異界からこちらの世界に穴をうがつような音は、わたしが眠りに落ちかけると鳴るのだった。欠陥住宅、とまでは言わなくても水道管に亀裂くらいは入っているかもしれない。ってあの怪しい水道屋の腹いせじゃ……。それとも昨夜の女たちの逆恨み? 前の住人も問題ありだし、あの部屋さあ、なんかもうほとんど事故物件だよ。ちょい待ち。もしかしてもしかすると、事件はいま現在も進行形ってことない? 実は壁の中にケンジだか誰だかが埋められてて、そのうちちょっとずつ壁が剥がれて……ひいい、やめて!
半分涙目で、ともかく帰路を急いだ。足早に歩いていたら、段ボール箱を何個か抱えた男がよろけてくるのが視界に入った。落ちた箱の中身が飛ぶ。封が一つ、すでに解かれていたようだ。
状況的に「どこ見て歩いてんのよ」と非難するわけにいかずにいると、男はこれ見よがしに舌打ちをした。「したいのはこっちだから」と喉元まで出かかった文句を飲み込んで手伝おうとしたが、路上を跳ねる細長の怪物を見て手が竦んだ。散らばったおがくずを申し訳程度にかき集めて箱に戻し、わたしはその場を立ち去った。
「ホントついてない」
占ってもらおうかなと思いながら、わたしは部屋のドアを開けた。茫と薄暗いキッチンで、それが待ち構えているとも知らず。
「ひっ!」
思わず口に手を当てたわたしの前に、埃まみれ(というほどではなかった)のそれは転がっていた。
「なにこれ」
わたしは恐る恐る、憐れな姿で横たわるものの傍にしゃがみこんだ。
エビ? どういうこと?
まさかさっきの男が侵入して……いやそんなはずない。あり得ない。
でも、それじゃ、なんで?
冷たいものが全身を巡る。
引っ越してくる前から居たの? 異界の住人からのプレゼント? ないない!
いったい誰よ。わたしに害を与えようとしてるのは、誰?
混乱していた。
だから気付かなかった。
男がすぐそこまで来ていることに。
「おい!」という鋭い声に、はっとなって振り仰いだ。
わたしは、眼を剥いた。
男は、封の開いた段ボール箱を片手に持っていた。
大きく「くるまえび」の赤い文字。
そして、もう片方の手には……その形状は、どこからどう見ても、包丁だ。
「ぎ△ぃ*や%〇あ$!」
言葉にならない音の塊が炸裂し、周囲の景色を震わせた。
ワ タ シ 真 ッ 先 ニ 占 ッ テ モ ラ ウ ……べきだった。
ゆっくりと、目の前が薄れていく。
「ありえない」
しゃがれた声。ため息をついて、わたしは赤いチリソースに見え隠れする怪物たちのなれの果てを見つめる。裕二が気まずそうに口を歪め、何度目かの「ごめん」を口にした。
「昨日、ホントは休みだったろ。だから引っ越し祝いしようと思ってここに寄ったんだよ。いい車エビ仕入れたからさ、それ持って。そしたら電話かかってきて、マンパワー足りなくなったんで××の新店舗に応援行ってくれって言われて。しょうがないからエビは冷凍しといたんだけど……」
どうやら遊び盛りが一匹、かくれんぼのつもりだったのか、跳ねて備え付けの冷蔵庫わき辺りに逃げ込んだらしい。音の正体はこいつだった。
よく見ると裕二の持ってきた箱は、ぶつかった人のそれと微妙に違う気がする。彼は今日休みをもらい、昨日持ち帰った箱に備品とエビ以外の食材を入れてきたのだと言う。
「でもなんで包丁なんか持ってんのよ」
「だってオマエ、昨日の話聞いてて、あんな風にヘタり込んでたらさ、何があったんだって思うよ。声かけても全然反応ねえし……。それに包丁はちゃんと新聞紙に包んでたろ」
「こんな話、普通ある?」わたしは苦笑いする。
「ないな」裕二も笑う。
たぶん当分の間、お寿司屋さんには行けそうもない。