第1話

文字数 1,996文字

 仕事に追われる毎日だが、それでも私が元気に生きていけるのは、何と言ってもアイスクリームがあるからだ。甘くて、冷たくて、それでいておいしい。神は二物も三物もアイスクリームに与えたのだ……というのは間違いで、これは各メーカーの努力の産物に他ならない。だから私は神ではなく、人間の営みに感謝すべきなのだろう。
 駅からの帰り道、ここから家までは徒歩で約10分。近くもないが遠くもない。いい運動になるといえばたしかに、しかしこの季節になるとそうも言ってはいられない。数時間も前に日は落ちたというのに、そんなものは関係ないと言わんばかりの暑さだ。生ぬるい風が身体に吹き付けてくる。
 夏だなあ……春を通り越して日本の夏だ。湿気が皮膚にまとわり付いている感じがする。
 だからこそ、私はアイスクリームを食べなければならない。もちろん、アイスクリームは季節を問わずおいしい。しかし、その本分はやっぱり夏だろう。暑い中で冷たいものを口に含む。そうやって人は季節の移り変わりを実感するのだ。まあ私は年がら年中食べているけれど。
 
 5分ほど歩くと馴染みのコンビニが見えてくる。ここはアイスクリームの種類が豊富だ。大手メーカーの商品はもちろん、オーナーの趣向なのか、そこらのスーパーでは見ないようなものも置いている。そしてどれを選んでもハズレがない。
 店を構えてくれてありがとう、と心の中で唱えながら入り、アイスクリーム売り場へと足を進める。さて今日は何にしようか。とこれは迷ったふりで、実際はもう心に決めている。
 私が選ぶのはそう、何だか高価なバニラのアイスバーだ。ベーシックだがプレミアムなアイスを食べたい。今夜はそんな気分だった。
 会計を済まして軽い足取りで店を出る。さあ食べよう。夜風に当たってアイスクリームを食べながら歩く。これが私の至福の時間なのだ。

 さあさあとアイスクリームの袋に指をかけたそのとき、耳をつんざくような女性の叫び声が後ろから聞こえてきた。
「シロ! シロぉ!」
 あまりにも切迫した調子だったため、つい振り返ってしまう。すると、真っ白な犬がいた。いや、走っていた。サモエドと思しき大型犬が、街灯に照らされながらこちらへと向かい、その距離を詰めつつあった。
「シロぉ! 待って!」
 何となく状況は分かった。シロと呼ばれるこの犬が、飼い主の元から逃げてしまったのだろう。
 犬は好きだ。そして人助けも大切だ。つまり私はこの犬を捕まえるべきなのだ。開けようとしていたアイスクリームを地面に置き、駆けてくる犬と向き合った。
 気分はPKのゴールキーパーだ。重心を落として身構える。相手の動きを見極めるのだ。しかしその犬は、私に近づくにつれ徐々にスピードを落とし、ついには私の目の前で立ち止まった。シロという名であるらしいその真っ白な犬は、口から舌を出しながら、目を煌めかせてこちらを見ていた。
 私は姿勢を低くして、ゆっくりと一歩を踏み出し、シロを捕まえた。その場でシロの身体をワシャワシャしていると、ゼェゼェと息を切らした妙齢の女性が近づいてきた。
「あ、ありがとうございました!」
 乱れた息のせいで正直よく聞き取れないが、多分そう言ったのだろう。どうやらシロに着けていたリードが外れてしまったらしい。
 なにとぞ気をつけて、と声をかけ、シロを引き渡した後、私は地面に置いたアイスクリームを拾い上げた。少し指に力をいれてみると、アイスクリームはすでに柔らかくなりつつあった。
 これはまずい。溶け始めてしまっている以上、袋を開けたら最後、全てのバニラがこぼれ落ちていくことは目に見えている。
 採れる対処法はただ一つ。このまま急いで家に帰り、冷凍庫にブチ込むこと。固まるまで待たなければならないが、それでもこのままよりは幾分もましだ。とはいえ溶け切ってしまっては、それすらも叶わなくなってしまう。
 大丈夫。もともと歩いて5分の道のりだ。走れば何の問題もない。私はこのバニラアイスクリームを食べて、今日という日を終わらせるのだ。

 夢中で走るうちに自宅が見えてきた。ほうら言ったとおりだろう。アイスクリームはどうだろうか、と袋越しに状態を確認する。さっきよりもふにふにだ。しかし、まだ一応固形を保ってはいた。
 これなら何とか。そう思った矢先、後ろから再び、聞き覚えのある叫び声が聞こえてきた。
「シロ! シロォ!」
 私はその声を無視するべきなのだろう。しかし、もう私はシロを知っている。そして犬は好きだし、人助けも大切だ。だから振り返ったのだった。

 靴を脱ぎ、勢いそのままに窓を開け、エアコンの電源を入れる。溶けたアイスをシンクに流しながら、冷凍庫から買い置きのアイスクリームを取り出し、口の中に放り込んだ。バニラの甘さを味わいながら、こんな日もあるか、とシロの顔を思い浮かべた。

 明日は何のアイスクリームを食べようか。
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