第1話

文字数 11,217文字

 武器商人はいつまでも黙っていた。韓非子にも記された、あの不用意な発言のすぐ後である。件の矛と盾とを手にしたまま、肩を下げて、がっくりうつむいていた。
 いつになく、売り口上に熱が入った。舌の回りもなめらかに、人を集めずにはおかないばかりの軽妙洒脱な語り口。その威勢のよさに、楚の首都、(えい)の物馴れた市場の客たちも足を止めて耳を傾ける。あっという間に人だかりができる。それに勢いを得て、さらに舌の回りに拍車がかかる。で、つい、うかつなことばが出た。それを、ただの失言と流すほどできた人間ばかりでないのが、商人の悲劇の始まりである。都会っ子のいやらしさが発揮されて、正論で責めたてられる、軽いヤジが飛ぶ、それがからかい半分で諫められる、ついでに皮肉も浴びせられる。
 すぐにひと言軽く謝り、おどけてみせれば、更に人気を得られたであろう。それだけ品も売れたであろう。が、その謝ることが、商人にはどうしても出来にくかった。近来ないほどの客の多さに瞬時戸惑い、二の足を踏んでしまったのである。
 一度(ひとたび)機会を逸すれば、ますます頭を下げにくくなる。周りにいる先ほどまでの客たちは、今は商人が口を開くのを待ち伏せている。どっと笑う準備をしているのである。そこかしこから、くすくすと忍び笑いが漏れ聞こえてくる。隣の者と耳打ちしあい、意地悪く顔を見合わせている。
 その商人は、ひどい状態である。へたりこむ寸前である。頭に上った血が火照って、立ちくらみがする。脇に冷や汗が溜まり、口が渇いて、のども粘つく。吐けない吐き気が襲ってくる。胸がつかえて、息も奥まで入っていかない。浅い呼吸の合い間に、えづくのを我慢するばかりで、黙っているしかできないのである。
 巧言令色の限りを尽くし、この場をどうにか収めるために、考えよう考えようとするのだが、ことばがまるでまとまらない。焦りやら恨みやら後悔やら、感情以前の反応たちがないまぜになって、混乱の一途を辿っていく。陰々と内に淀んでいく。ただ望むことは、都を囲む壁にへたり込み、目を瞑って、動悸が収まるまで独りで休んでいたかった。
 しかし、時とともに人垣は厚くなっていく。弁舌を盛んにするでもないのに、商人を囲む人々は去ろうとする気色すらない。その光景は、衰微したとはいえ、楚の首都、(えい)の賑わしい午後の市場にあって、はたから見れば異様である。通りがかりが興味本位に事情をたずね、面白がって見物に加わるのに、不思議はない。血の匂いのしない手頃な不幸は、いつも大衆の好物である。
 そこへひとりの若者が来た。あてもなく市場をぶらついていたのが、やはり、人の集まるのに惹かれたのである。
 「いったい、なんの騒ぎだい。」若者は、人垣の中に見知った顔があったので、気安く声をかけた。
 「おう、マァオかい。いや、なんでもね……。」その知り合いはニタニタ笑いながら、自分も又聞きした話を、マァオと呼ばれた若者へ、秘密らしく耳打ちした。マァオは、そうして経緯を知ると、悪戯っぽくにやりと笑った。そうして、
 「どこへ行くんだい。」と、とまどう知り合いを置き去りにして、「ごめんよ。」「わるいね。」と、人垣のすき間へ、遠慮なく肩を入れていく。どんどん前へ出て行って、商人の正面へ見下すように陣取ったのは、それからすぐのことである。

  〇

 ドゥアンは夜明け近くの戦列にいた。全軍最前の横隊の、前から三列目に立っていた。先程合図があり次第、突撃しろとの命令が、悪態とともに伝達された。開戦は、もう間もなくのことである。
 ドゥアンの周りに整列している男たちは、日の出前の寒々しさに、身じろぎをして、ぼそぼそと話し合っている。出るのは主に、不平不満や恨み言の類である。それが、祈祷めいて、大がかりな(まじない)のようである。
 呟く男たちは、正式な軍兵ではない。戦場近くの一帯から駆り集められた者たちや、食事と給金を目当てに募兵に応じた食いつめ者ばかりである。だから、まともな恰好をした者などない。ただのこん棒に、端材で作った割れ盾に、縫いもあやしい皮鎧……。兜を目深に被っているのは、辺りではドゥアンひとりである。
 そんな無様な集団を、後方に構えた軍兵連中は、道具の一種と断じている。ドゥアンたち下兵も、それを十分承知している。だから、呟くことを止められもしないし、止めもしない。いわば今生の別れである。
 しかし、ドゥアンは全然別なことを考えている。行軍してきたときには、遠くに山が見えるほかには、一面に荒野が広がっていた。そこに今は、右も左も、槍や旗が暗い中に林立している。前方には敵軍が、地平までつづく黒い壁のように、立ち塞がっている。それが不思議でならず、どうにも呑み込めない。浮わっついて、矛も手に余るようである。半ば呆けているのである。
 そこへ、すぐ後ろから腕を叩かれたから、ドゥアンの身は、ぎくりと一瞬固くなった。合図の銅鑼と勘違いしたのである。しかし、周りの連中は動かない。相変わらず、低い声で、湿っぽい会話を止めないでいる。ドゥアンは、それに気付くと、おずおず振り返った。
 「おい、若いの、どこから来た?」ドゥアンに問うたのは、いかにも冴えない小男である。身につけたものの質はよくない。矛は曲がったのを無理に戻したようでくにゃくにゃしている。木の盾は、まるで鍋蓋である。鎧代わりであろうか、二枚の板を、からだを挟み込むように括り付けている。冴えないばかりでない。ずい分と、みすぼらしい。開いた口から、どこで調達したか、酒気をさえ漂わせている。
 ドゥアンは馬鹿にされた気がして、問いかけにも答えず、ふんと鼻を鳴らして、前へ向き直った。後ろからは舌打ちひとつ聞こえてきた。それで済んだらしい。
 見晴るかせば、空は燃えるような色である。遠い雲の隙間から覗く火の玉は、まもなく朝日になるであろう。よい天気になるらしい。ドゥアンは、埃っぽい空気にかまわず深く息をついた。その時、はるか後方から、か細い銅鑼の音が、響いてきた。開戦の合図である。ドゥアンはふるり、身震いした。

 〇

 マァオは、商人の目の前に仁王立ちすると、嘲るようにまくしたてた。
 「この矛はなんでも貫いて、この盾はなんでも防ぐのだろう。このふたつをぶっつけると、どうなるのか、教えるだけじゃないか……。黙ってるだけじゃ、いけない。商人でなくとも、自分のことばには責任を持たなくちゃあ……。まさか、できないとは、言わないだろう。なら、(おれ)が、やってもいいが……。矛と盾を貸してもらおう。さあ、こうやって……。かち合わせるだけじゃあ、音が鳴るだけ。なにも起きやしない。おや、そう怖い顔を、しないで……。ところで、これは、盾が防いでいることになりはしないか。とすると、矛の方の売り文句は嘘だった、ということになる……。おっと、危ない、取り返そうたって、ダメさ……。色をつけるならまだしも、全くの嘘というのは、どうなのだい。せめて、筋は通してなきゃあ、商売じゃない……。ほら、もっと、やるかい。カン、カン、カン。おや、今度は、盾に、少しあとがついた……。さあ、矛か盾か、どちらのことばが嘘だったのだい。ええ、なにか、言いなよ。さっきまでの、威勢は、どうしたい……。」
 そんな類のことばを吐きながら、これみよがしに、武器を打ち合わせる。その大仰な振る舞いが、いかにも商人を小馬鹿にするものであったから、それを見て、今までは控えめに、くすくすするだけだった人々は、待ち構えた笑いを爆発させた。図にあたったことで調子付いて、マァオは演説するかのように、ますますあざ笑う。
 笑いの渦の中心で、商人は、うつむていた。もはや、立っているのがやっとである。しかし非情にも、耳はマァオのことばも笑い声も、逃さずしっかと聞きとめる。どっと笑いの波が起きるたび、だんだん顔は蒼ざめてくる。伏し目をきょろきょろさせていたのが、険しくなって、マァオを下から睨みつける。だらり垂らしていた腕に力が入り、こぶしが握られ、固くなる。とっ散らかっていた頭の中が恨みを軸にまとまってくる。ギリギリ締め付けられた恨みの圧力が、ある一点を逃げ道に、決壊した時、突然、商人は、うつむいたまま、
 「それなら、あなたに、手伝ってもらいましょう……。」と、慇懃な命令のように、底暗い声で言い出した。
 マァオは商人のことばの意外に出たのを、まるで相手にしないように、周囲の人垣に向かって、ひとつ肩をすくめてみせた。気が違ったと、相手にすることはないと、言外に示したのである。
 しかし、予期に反し、群衆は笑いを止めていた。真剣な顔で見つめ返してくる。マァオはうろたえながらも、あくまで冗談らしく、
 「へ、馬鹿を見るのは、いやだね……。」と、商人からの指名を拒否した。
 だが、商人は怯まない。一度ことばを発してからは、「手伝ってください。」と何度も迫ってくる。マァオに「矛をよこしてください。」と、手を伸ばす。頬のこけた、(かつ)えたような大きな目が、まばたきも忘れてマァオをまっすぐ見つめている。
 マァオは、「へ、そう脅かすなよ……。」「なあに、ただの冗談じゃないか……。」「なにも、そんなに、怖い顔をしなくたって……。」と、茶化して、うやむやにしようとする。口調は努めて明るい。だが、気圧されて、何れのことばも語尾は消え入るようである。せかせかと、絶えず足を踏みかえながら、囲みの群衆へ目配せする。しかし、群衆は無表情のまま動かない。
 そうして、陰気な押し問答がいくらか続くと、マァオへの視線が変わってきた。ついには肩を小突かれた。無言の催促である。マァオが驚いたように振り返ると、群衆はまたもや、くすくす笑いを始めていた。

 〇

 銅鑼の音を聞いて、ドゥアンは矛を握り直した。
 遠く、馬のいななきがあったと思うと、地が割れんばかりの怒号とともに、歯の根が鳴るほどの振動が伝わってくる。後ろから前進々々と大音声がある。払暁に薄らぐ闇の中を、敵軍の影が波打つように動き出す。
 ドゥアンの周りの者たちが、武器を天へ掲げながら、一斉に鬨の声を張り上げた。膨大な音に囲まれて、ドゥアンもそれに同化するように、矛の柄頭で砂を叩きながら、あらん限りに吼え立てた。まるで軍全体が歓喜に沸いたようである。そしてそのまま崩れるように、やにわに敵方へ突進した。
 矢が夏の雨のごとく降り注いでくる。運悪く射られた者がくず折れる。それを踏み越え蹴り退ける。盾を傘にして、ひた走る。前へ前へ駆け走る。矢の雨を避けて刃の林へ殺到する。
 あれだけ離れていた敵がたちまちのうちに近づいてくる。正面の敵は精兵らしい。硬く重い大盾が一糸乱れず、整然と並んで押し迫ってくる。盾は金属製で獣文様が浮かせてある。その上には、幾千万の(ほこ)の刃先が、日の出にきらめき、伸びている。卜の字型の刃先が分厚く鋭く光っている。人の姿で垣間見えるのは僅かに、兜の房飾り、戈を持つ腕、厳粛として歩調を刻む足しかない。
 その時、ドゥアンの脳裏には、いまは懐かしい故郷の都城の外壁が浮かんだ。旗は風に翻り、一屋(ひとや)ほどもある大門は開け放されて、傍には門番が呆けた顔で佇んでいる。荷を牽いた馬が通る。牛が通る。徒歩の行商人を追い抜いていく。鍬を肩にした農夫連が、都城の外にある畑へ出ていく。活気ある往来は、夕暮れの閉門まで止むことがない。幼いころ、友人とともにその様子を毎日飽かずに覗いたものである。喧嘩が持ち上がればはやし立て、事故があれば見物に行く。両親との夕餉に話題を欠かしたことはない。生まれてこの方、見慣れた風景のひとつである。ドゥアンは瞬間、淋しくなった。この洗浄は現実だろうか。それでも、走りも叫びも止まらなかった。
 両軍衝突の瞬間、ドゥアンは生きてきた中で一等大きな音に包まれた。いくつもの金属の打ち合う響き。骨肉のぶつかり合う鈍い音。苦痛にゆがんだいくつもの悲鳴。雑多な空気の振動が明け方の空へ消えていく。それを耳にしながら聞きもせず、ドゥアンは敵陣真っただ中へ飛び込んでいった。

 〇

 マァオと商人とを取り巻く人々は、ひそひそ話を始めている。興奮した視線の先にふたりはいる。武器商人は矛を手に、落ち着き払って立っている。
 対して盾を構えたマァオは、いまいち腰が決まらない。目を泳がせて、足の位置をちょこちょこ変える。まさか、本当に突くまいと、手前勝手に楽観している。商人が、弁舌巧みに、いつうやむやにしてくれるかと、待ち焦がれている。こちらに恥をかかさずに、この場を収めてくれればいいと、期待している。勝手が過ぎるようである。
 群衆は、今度はマァオを笑いものにする番と心得ている。笑い出す切っ掛けを探している。商人が、居丈高に、マァオを馬鹿にするのを、待っている。
 だから、商人が、ぴたり矛を構えると、みな生唾を飲み込んだ。商人の態度は真剣である。構えも堂に入って、ぶれがない。マァオは、やっと身を固くした。それでも商人の顔色を伺いながら、腰を低めて半身になって、おずおず盾を前に出して待ち受けた。
 沈黙。誰も、商人の一挙一動も見逃すまいと、まばたきも忘れて見入っている。音を立てる者もない。
 マァオは矛の刃先と商人の顔を見比べた。表情はむしろ蒼白である。落ちくぼんだ目は、見開かれても隈が深い。視線はマァオをとらえているようで、不確かである。こけた頬は、今に始まったことではないであろう。痩せたからだは、脂っ気もなく乾いている。髪にも髭にも白いものが混じっている。商売柄、身ぎれいにはしているが、服装もどこかくたびれている。貧しい商人であった。たびたび一食を欠かしてさえ、妻子を養うのがやっとの、痩せた男の姿であった。
 風が吹いた。どこかの店先で、晒した布地がばたばた鳴った。すぐそこの路地から犬の遠吠えが響いてきた。いきなり商人は腰を矯めて、叫びも鋭く、大きくマァオへ踏み込んだ。矛の刃先が空を裂いて、マァオの盾へ飛んでいった

 濃く立ち上る砂煙が青空を覆っている。砂は肌に張りついて、始終ぴりついて不快である。が、それを払うような余裕は、この場の誰にもない。舞うのは砂だけではないのである。およそ人の体液で混ざっていないものはない。
 腹を薙がれた男の死体には、涙と洟と涎の跡がある。口は半開きで、目玉がぐるりと天を向いている。(はらわた)がこぼれた後も、しばらくはもがき苦しんだらしい。破れた腸から糞が直に垂れている。股間あたりの血の色が薄いのは、小便を漏らしたためであろう。血と脂が流れ出ているのは、もちろんである。それを汗だくの男たちが蹴り立てる。丁度、股間が踏み潰される。精液が血と小便に混ざり合う。その死体も、やがて砂煙の中へ消えていく。
 ドゥアンは、そんな修羅場の中にいた。最前線は、すでに乱戦模様である。濃い砂煙で目を遮られて、戦いの騒音すら、幕を一枚はさんだかのように遠い。時々、砂色を透かして、黒い像が盛んに手足を動かしているのが、見えないではない。槍や剣の切っ先が突然、閃くこともある。目を剥いた軍馬がいななきとともに顔を出すこともある。しかし、それらもまた、見えたと思うとすぐに濛々(もうもう)とした砂煙の向こうに隠れてしまう。影ばかりがぼうと現れ、ぼうと消える。
 朦朧としたその中を、ドゥアンは訳も分からず、駆けずり回っていた。敵も味方もわからない。ただ、向けられた刃に矛で突き返し、盾で弾き、逃げて逃げて、生き延びていた。盲滅法、手を振り続け、足を止めないよう動かしていた。
 その時、視界の端の影のひとつが急に濃くなったかと思うと、降ってきた戈の刃が、すぐ前にあった味方の脳天へ落ちた。飛び散った血と破片が頬を濡らすほどの至近である。頭を三分の一に割られた男は、瞬間ぐっとからだ全体を強張らせたが、すぐにだらりと絶命した。ドゥアンは咄嗟に死体にぶつかり、肩でそのまま圧し込んだ。しかし、厚く固く重いなにかに阻まれた上、非情な力で圧し返された。たまらず、一歩退いた。死体が倒れた。砂煙の向こうから現れたのは敵の大盾である。死体を跨ぎ越して、立ち塞がった。死体から戈を引き抜き、血まみれの刃が振り上げられた。ドゥアンは遮二無二、矛で突いた。
 戦場には、およそ似つかわしくない、軽やかな音が響いた。矛は盾を貫かなかった。あまつさえ弾き返された。よろけたドゥアンは際どく体勢を立て直すと、再び矛を刺し出した。もはや、それしか頭にない。高い音が再び鳴って、尻切れトンボに消えていった。ドゥアンの手元に、いやな感触が伝わってきた。矛の(きっさき)がもろくも欠け折れていた。それを好機と、大盾は走り寄ってくる。ドゥアンは残った矛の柄を、力の限り叩きつける。盾の縁に防がれる。柄も真っ二つに折れて飛ぶ。そのまま体当たりを食わされて、ドゥアンは地面へ放り出された。

 〇

 商人とマァオの対峙を囲む群衆は、矛が盾の中央やや上に当たるのを見た。マァオはそれを受け止めようと、ぐっと足を張った。しかし、腕への衝撃はほとんどない。盾はいささかの抵抗もなく、きれいに突き破られたのである。矛は盾の穴を押し広げながら、顔を目掛けて馳せ飛んでくる。マァオは反射で背を反った。しかし、避けきれるようなものではなかった。
 頬に冷たいひと筋が走ったかと思うと、熱した鉄棒でひどく殴られたような衝撃があった。それとともに、頬の裏側から口内へ向かって、火の噴き出した感覚があった。耐えがたい痛みが、爆発的に、重みを持ってやってきた。それらが、一瞬間に詰め込まれていた。マァオは、経験のない熱と痛みに混乱し、からだの平衡を崩した。勢いそのままに倒れ込んだ。盾がからりと投げ出されて、マァオの意識は遠のいていった。
 顔のあたりから、血を吹きながら倒れたマァオの姿に、ふたりを取り巻いた人垣はにわかに崩れ、我先にと逃げ出した。叫喚がある。押し合いがある。罵言が飛ぶ。子供が泣く。転んだ者が助け起こされ、警らの兵士を呼びに走る者がある。あたりの店へ駆け込んで、危難をふれ回る者もいる。みんなが走っているものだから、なにが目的かも分からずに、とりあえず付いていく者もある。巻き起こった恐慌は、市場全体へ広がっていった。
 そんな喧騒をよそに、武器商人はただ独り、手にした矛をだらりと提げて、ぼうとマァオを見下ろしていた。

 〇

 大盾に強か殴られて、伸びていたドゥアンは、文字通りたたき起こされた。頭をこれでもかと蹴られたのである。幸い兜が用をなしたが、立ち上がるのもままならない。もがいても、すぐに踏み潰される。矛の残りも分捕った盾も、いつか手放していた。視界には、無数の脚と、それが立てる砂埃しか入らない。どちらかの軍が、相当な規模の突撃をかけたのに、巻き込まれたらしい。
 両肘で半身を起しても、鼻っ柱へ膝が飛んでくる。痛みに丸まった背中に、矛や戈の柄尻がねじ込まれる。四つん這いで逃げようにも、腹を蹴り上げられて転がされる。うめいていると、流れ矢が眼前に突き刺さる。倒れてきた死体が折り重なって、息ができない。それを何とか押し退けられても、起き上がれるような隙は、一瞬たりとも存在しない。間断なく足が襲ってくる。
 ドゥアンは、頭を抱えて丸まった。それしかできなかったのである。もはや肌の出ているところで傷のないところはない。あまつさえ、肋や手足指の骨は、いくつか折れて砕けている。全身が痛みそのもので、個々の痛みは麻痺している。濃淡はあれど、もはや、どこが痛いということもわからない。ただ、目を瞑り歯を食いしばり、嵐が過ぎるのを祈るしかなかった。

 〇

 群衆は、四方八方に逃げ散って、いまや市場には、マァオと武器商人の姿しかない。人声ひとつ聞こえない。
 深い沈黙の中、マァオは顔から血を流して、倒れたままである。武器商人は、それを茫然自失で見下ろしている。双方とも動かない。都城の壁の上を、風が通り過ぎるのか、旗がばたばた鳴っている。
 マァオが気絶から覚めたのは、痛みのためである。左の頬を丸々焼きつぶされたかのように、ひどい熱が襲ってくる。余りの痛みに無意識に、大きく息を吸い込もうとしたその拍子、さらなる激痛が身を貫いた。その激痛にあえぐたび、次々痛みが重なってくる。際限がない。のども異常に渇いているが、粘っこいなにかで、奥の方が塞がっている。つい頬へ手をやった。
 口の端からあごの骨へ当たるまで、頬がまるまる両断されていた。指の先が、食い縛っている歯に触れた。息をするたび呼気が傷を撫でていく。その痛みに顔を歪ませることが、さらなる痛みの源になった。涙が滲んで、吐くことさえできなかった。
 それでも人間、耐えてさえいれば、痛みにわずかずつでも慣れてくる。マァオは泥のような顔を、そろそろと上げてみた。薄目に涙を透かして、武器商人の手にした矛が、いやにくっきり見えた。それに惹かれて、長い時間をかけて、ふらつきながらも立ち上がった。地面に手を着くわずかな振動にも、鋭い痛みが襲ってくる。腰は曲がったままである。うめきながら、よろよろと商人へ近づいた。
 当の商人はいまだ茫然として退くことすらしない。マァオが矛を握っても、商人は気付いた素振りひとつしない。ただ何人のするに任せているようである。
 矛を乱暴に奪ったマァオは、柄にすがって腰を起こした。下から商人を睨めつけた。しかし、そこにあったのは、もはや商人の身ではない。阿呆がひとつあるだけである。その目の奥には、いかなる揺らぎもない。
 マァオは後ずさると、残り少なな体力で矛を構えた。頬へあてがっていた手を外したので、呼吸が異物のように歯茎をなでる。血と唾と脂汗との混ざった汁が(えり)まで汚して、桃色に冷えている。気持ちが悪い。商人は、事ここに至っても動かないままである。マァオは、その厚みのない腹へ狙いを定め、矛を突き出した。
 ぐうとくぐもった声を出して、商人は仰向けに転がった。マァオは、激しく動いたための痛みに耐えた後、それを真上から見下ろした。商人は腹の穴を探りながら、あ、あ、と小さく呻いている。その肩を踏みつけて、力任せに矛を引き抜くと、ひゅうっ、と細く息を吸って、あとは小さく荒い呼吸となった。すでに精根尽きる寸前らしい。とどめとばかり、マァオは矛を両逆手に握り直すと、その胸へ深々と突き立てた。
 鮮血が飛ぶ。商人の腕が跳ね上がって、ぱたりと落ちた。マァオは執念深く突き下ろそうと、再び矛を引き抜く力を込めた。
 その時である。末期の息を吐いたかに見えた商人が、自らの胸へ突き立てられた矛を、猛然と掴んだ。マァオは驚いて、矛を引き抜こうとするが、微動だにしない。右へ左へねじり込んでも、びくともしない。どこに残っていたか不気味なほどの剛力である。マァオは思わず商人の目を見た。
 先程とは打って変わった目である。それはマァオへ哀願するのではない。ぼやけていた焦点は、今や、真っ直ぐ天へ向かっている。虚無であった目の奥には、「生」でもない「死」でない、得体のしれない何かが宿っている。ただ涙に潤み、静かである。
 マァオが、商人の不思議な様子に慄いていたのは、数瞬であろう。気がつくと、事切れていた。からだはすでに脱力している。あっさりと、矛を引き抜いてみれば、もはや商人の目に、光はない。それでも、マァオは矛を振り上げた。死体にいくつもの風穴を開けるのを止められなかった。

 〇

 戦線は両軍の押し引きで、徐々に他所へ移っていく。激しい戦闘を示す騒音は、すでに背景になっている。
 後には、死体やら武器の残骸やらが散乱している。荒野の砂塵がまぶされた、血のこびりついた小汚い死体が晒されている。すでにどれも、敏いハエが卵を産みつけて、賢いカラスが肉をついばんでいる。
 その内の一体がドゥアンである。蹴り退けられて、踏みにじられて、砂色の塊になっている。うつ伏せのからだが妙に伸びて見えるのは、力みが緩んだのと、至るところの骨が折り砕かれたためである。指も幾本か、ちぎれて紛失している。骨付きのくず肉が、申し訳程度にぼろ布を巻かれ、そこらへ投げ捨てられた恰好である。
 そこへ近づく影がある。死体を剥ぎに来た盗人である。盗人は、そこらに散らばる死体の間を縫うように歩きながら、品定めを始めた。やがて、ドゥアンの死体に目を付けた。珍しく兜をつけたものだったからである。掘り出し物であった。
 肩に乗って、首あたりの肉を探っていたカラスを追い払うと、盗人は、小刀で手早く顎紐を断った。兜に手をかけ、ぐいと引く。が、中々外れない。兜が歪んだか、どこかで突っかかっているか、動きはするが、うまく取れない。
 こんな場合に、近在の農民でもある盗人が、木の鍬を持っているのは、伊達ではない。柄を梃子にして、労軽く転がした。仰向けになった。
 首が奇妙にねじれている。それに乗る頭に張り付く顔は、存外、原形をとどめている。半ば飛び出した目からは血涙がにじみ、鼻はつぶれて赤い塊となっている。食いしばった歯は、ほとんどが欠け割れている。その破壊の中でも殊に目立つのは、左の口元から頬にかけての傷痕である。歪に癒着して間もないのか、傷が開いて、口の端から裂けかけている。
 だが、盗人はそれを見もしない。手際よく兜を取ってしまうと、次は鎧もどきをほどき始めた。数分の後には、死体は裸で捨て置かれていた。あとは、ハエとカラスに任すままである。さらには、遠く、興奮して息を切らした狼の群れも走りきている。ドゥアンは、それらの糧となって、ついには墓さえ作られなかった。乾いた骨は深く深く砂へ潜り、いつか小石と混じって分からなくなった。

 〇

 マァオは都城の門へ急いでいた。上半身は血まみれである。それが、自身の血だか、返り血だか、判然としない。頬の血も未だ止まらない。商人の着古しから破りとった袖を傷口に押し当てている。上半身を染めた血は色濃くなるばかりである。歩けるまでには、痛みになれたが、それでもどくどくと疼く傷に大きな波が来ると、足はぐらりふらついた。立ち止まり、波が去るまでぐっと耐えなければならなかった。顔の筋肉を動かせないから、痙攣したようにぴくぴくしていた。血でぬらり光る矛を手に、一心不乱に門を目指すその姿は、古書に見える妖魔悪霊がごとくである。
 その様には、誰もが背筋を冷たくした。道端で遊ぶ子らは泣いて逃げ、通行人は路地を跳んで引き返し、店にいる者は奥へ隠れた。マァオは独り大路を血痕で汚しながら行く。
 大門へ着いた。門番は近づいてくる幽鬼のようなマァオに怖気(おじけ)て、とっくの昔に逃げだしていた。門は開け放されたままである。何の咎め立てもなく、マァオはすんなり都城の外へ出た。
 街道が伸びている。その脇には、一面に畑が広がっている。黄昏に、いつもは繫く往来している人車も野良仕事の影も見えない。畑中の道は普請よく、燃える夕日に照らされて、赤銅色の一筋道がどこまでも続いているようである。ここまで逃げて来たはいいが、マァオには、どこへ行こうというあてもない。日が没せば、野盗、虎狼も出るであろう。傷の手当てもしなければならない。近在の(むら)までは幾里もある。討手がかかれば、逃げおおせるのは難しい。急がねばならなかった。
 頭の片隅には、新たな戦争の噂があったかもわからない。末がどうなるかも知れない。ただ目の前の一歩のみ、その一歩に生じる痛みのみが確かである。頼りである。マァオは、国境の係争地へ向かって、矛に縋りながら街道を行った。

 通報を受けた警吏係の兵士の一団が、捜索に街道へ出た時には、赤黒い血の跡が点々と残されていただけだという。
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