第1話

文字数 1,990文字

 ピピ、ピピ、ピッ――
 腕を伸ばして時計を投げ飛ばし、アラームを強引に止める。
 その時。
 形容し難い不安――本能的な違和感とでも呼ぶべきか――を覚えて、体を横たえたまま視線を足元へ下ろした。そこには、黒い毛に覆われた四肢があった。
(……え?)
 ベッドの上でガバッと飛び起きる。状況からして、掛布団もかぶらずに寝落ちしていたらしい。だが、今はそんなことはどうでも良かった。自分のものとは思えない肉体をそこそこスムーズに動かしてベッドを降り、部屋の隅へ向かった。
「ニャーン」
 姿見に映る自分を見て、ため息に似た声が出た。そこにいるのは、どこからどう見ても一匹の黒猫だった。
「ミャァ」
 見た目が猫になってしまっただけではなく、口から発することが出来るのも猫語だけらしい。頭の中では寝起きとは思えないほどクリアに思考が働いているのに、それを言葉にして発するが出来ない。
「ニャァオ」
(それにしても…………可愛い!)
 道端で見かけたら思わず足を止め、手を差し伸べたくなってしまうような愛らしさだ。しなやかな体つき、艶やかな黒毛、そしてなんと言っても、つぶらな瞳。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう。どうして猫なんだろう。もう、どうしてこんなに可愛いんだろう! 猫、大好き! 撫で撫でしたい、大好き!)
 何をするでもなくひたすら鏡に映った愛らしい姿を眺めていると、階段を上がってくる音が聞こえた。自分の意思とは関係なく、物音に反応してピクリと動く猫耳の可愛さに声もなく悶える。しかし、そんな悠長に猫の可愛さをエンジョイしている場合ではなかった。
 コンコンとノックされるが、返事をする訳にもいかない。何故なら、恐らく足音の主であろう母は、動物が苦手なのだ。部屋に猫が居るなんて知れば大騒ぎになる。
 今すぐ隠れなければと焦って部屋中を見回す。だが私の殺風景な部屋には猫一匹が隠れられる程よいスペースなどない。物理的にはベッドの下に潜れそうだが、二年以上掃除をしていないので気分的に無理だった。
 そうこうしているうちに、ガチャリとドアが開けられた。
「入るよ。なんか、鳴き声が聞こえたんだけ――ぎゃぁぁぁ!」
 遅かった。
「出てけ! 野良猫め!」
 手近にあったハンガーを振り回しながら鬼の形相で子猫を追い出す母に内心引きながら、仕方なく窓から外に出た。追い出すなんて。こんなに可愛いのに。

 どれくらい経っただろうか。追い出されてから随分と長い間、全裸で道端を歩くという背徳感に襲われながら、ひたすら近所をうろついていた。だが今の私に不安はない。歩き回っている間に、この状況に対しての一つの答えを見出していたからだ。
 そう、これは『夢オチ』に違いない。
 現実的に考えて、ある日目覚めたら猫になっていたなんてことがあるはずないのだ。そこで、目覚めれば直るというある種の確信を持ちながら、もう一度眠ってみることにした。これは実験でもあり、日常を取り戻すために今取れ得る唯一の選択肢だ。決して、ただお日様が気持ちよくてなんだか眠くなってきたから本能のままに眠る訳ではない。断じて違う。何故なら私は、見た目は猫でも中身は大人の女なのだから――



 ハッと、目が覚めた。
 先ほど目を瞑ったときと同じ場所で、同じ姿勢で、猫のまま、目が覚めた。
 先ほどと違うことといえば、断然お腹が空いていることくらいだ。
(嘘でしょ……夢じゃ、ないの?)
 夢じゃないならなんなのか。本当は猫として生まれ、猫として生きてきたとでも言うのか。実は人間だったと勘違いしているだけの、ただの可愛い猫というオチなのか。
(……まぁ、それはそれで――)
 その時、道端に一口大のチョコレート菓子が落ちていることに気付いた。
(いや、お腹は空いてるけど、さすがに外で拾い食いは、ね。だって、見た目は猫だけど中身は大人の女だし)
 私は一度チョコを素通りしてから華麗に引き返し、器用に前足で包み紙を開けると、スンと匂いを嗅いでみた。ペロリと舐める覚悟を決めたとき、フラッシュバックのようにある情景が頭に流れ込んできた。
(そうだ、思い出した! 寝る前に会社の人からもらったチョコレートボンボンを食べてたんだ……やっぱり私は、人間だ!)
「ニャ―――ン!」
 その時だった。

 ピピ、ピピ、ピッ――
 アラームを投げ飛ばし、がばっと起きて姿見をまず確認する
「やった……よかった、戻ったぁ!」
 鏡には見慣れた姿の自分が映り、テーブルには見覚えのあるチョコが転がっていた。
(変だけど、やたらリアルな夢だったなぁ)
 束の間の猫体験はまんざらでもなかったな、などと考えながらポイとチョコを一粒口に放り込んだ。
 次の瞬間。
 覚えのある違和感が過り、ハッとして見下ろす。
(嘘でしょ⁉)
「ミャァァァ!」
 鳴きながら残りのチョコを薙ぎ払い、もう一度『目覚める』べくベッドにダイブした。
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