第1話

文字数 1,198文字

 10年前の冬。母がこの世を去ったのは、雪の降り積もる静かな夜だった。
 母は敬虔なクリスチャンで、父と私も母に連れられて教会へ通う内に、神様を信じるようになった。教会まで母と手を繋いで歩いた道のり。繋いだ手から感じた母の温かさ。覚えたての讃美歌を歌う私の横で、嬉しそうに微笑む母の姿。そのひとつひとつの思い出が、今も宝物のように私の胸に残っている。
 私が中学生の頃から、母は病院に行くことが多くなった。「あなたは知らなくていいから。心配しないで、勉強してなさい。」と詳しい話は聞かせてくれなかったが、それが重い病気であることくらい、私にだってわかる。いつも寡黙な父が、夜中にひとり涙を流していた。その涙が、一層事の深刻さを物語っていた。
 母は乳がんだった。見つかった時にはかなり進行しており、母の希望もあって手術は行われなかった。長引く入院生活の中でも、母はいつも聖書を読み、祈っていた。
 「なんで母が?」「ねえ神様、いるんでしょう?なぜ助けてくれないの?」そんな気持ちでいっぱいだった私に、母が教えてくれた聖句がある。

 『主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。エレミヤ書‬ ‭29:11』

 「お母さんもね、時々怖くなるの。あなたの成長をずっと近くで見ていたい。もっと一緒に色んな所に行って、色んな話をしたい。だけど、それが出来なくなるんだなあって。でもね。神様には私たちが想像できないような素晴らしい計画がある。だから、大丈夫。」
 真っ白な病室で、西陽に照らされて聖書の言葉を語る母の横顔は、美しかった。抗がん剤治療の副作用で髪の毛が抜け落ち、ふっくらしていた頬もやつれた母。それでもあの日の母は、なんだか絵画みたいだな、と幼いながらに感じたのを覚えている。

 高校3年生の冬、センター試験の1週間前の夜だった。母は静かに息を引き取った。試験勉強にも身が入らず、ただ涙に暮れるばかりの私に父が渡したのは、生前母が遺した祈りのノートだった。私が生まれる前から、ずっとこのノートに心の内を書いて祈っていたんだと父は語った。ページをめくると、私のこと。父のこと。教会のこと。人のことばかりで、自分の病気のことは後回し。本当にお母さんらしいな、と思わず笑みが溢れた。私はこんなにも愛されて、祈られていた。それだけでいい。大好きな母との思い出と、大好きな聖書を支えにして、前を向こう。素直にそう思うことができた。

 それから無事第一志望の医学部に合格し、今は医師としてがんと闘う患者さんと日々向き合っている。先日、患者さんのお子さんに「私も先生みたいなお医者さんになりたい!」と嬉しい言葉をかけてもらった。ねえお母さん、これも神様の計画かな?
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