月とノスタルジア

文字数 1,960文字

 ある夜、気まぐれでベランダに椅子を出して月を眺めていた。
 こういうことをしていると、往々にしてナルシスティックだと嘲笑されるものだけれど、馬鹿にしたければいくらでも馬鹿にすればいいのだ。「こういう感性を否定して、何が人生だよ!」とも思う。きっとその人にとっての感動とは、刺激に過ぎないのだろう。
 たぶんそういう人たちは、自分自身のナルシスティックな側面や、自身がナルシシストだったころの記憶に対する抑圧があるのだろう。それらの負の想念を他者のなかに見ている。(ちなみに私は、そもそもナルシシズムに起因して月を眺めているわけではない)
 何の変哲もない月だった。満月にはほど遠い半月で、どことなく歪な感じのそれだった。光の具合や色合いも、なんだか中途半端だった。
 夜風も涼しくなってきたとはいえ、特に秋の気配を感じさせはしなかった。まだ夏の雰囲気を色濃く残した風だった。
 それでも私には、その月とその夜風に、ある種のノスタルジアを感じないわけにはいかなかった。子どものころ、私は月が好きだった (今でも好きなのだが) 。



 私は二十代で実家を出るまで、埼玉の某市にずっと住んでいた。田舎でも都会でもない町だった。東京に近かったけれど、辛うじてその雰囲気からは逃れていたようにも思える。
 これはもちろん私の主観に過ぎないのだが、埼玉は、南に向かってあるラインを超えると、急に空気や雰囲気がズシッと重たくなるのだ。そして、これも私の印象に過ぎないのだけど (そして、嫌味の意図で言うわけでもないのだが) 、どことなく空気が淀みを帯びてくる。
 話を戻して、そこは静かで良い町だった。人もやさしかった (もちろん、自分の育った町に対しては、皆多かれ少なかれ、そのような想いを抱くものだろう) 。
 私は中学生・高校生のころ、よく夜に家を抜け出して、近くの書店に自転車で、あるいは徒歩で出かけていた。お金がなかったので、ひたすら立ち読みをするだけだったが……
 漫画雑誌や漫画単行本、アニメ雑誌などを読んで回った。それから、小説やラノベ、音楽雑誌なんかも読んでいった。2000年代の半ばあたりだった。私には、いい時代だったようにも思える。
 そのあとは大抵の場合、そのまま自宅へと帰る。用水路沿いの道を辿って——
 歩きの場合は、よく夜空を眺めていた。
 私の思い出にあるのは、どれも綺麗な月だ。少しだけ欠けている、真っ白く輝く月——。その月明かりが、流れる大きな雲を照らす。その雲が、ときどき月の姿を隠す。
 その夜空を見ていると、私はどこか「切なさ」のようなものを覚えた。今ではその切なさを感じることは、あまりなくなってしまったのだが。
 あの感情の正体とは一体なんだったんだろうか?とも思う。
 その切なさは、遠くに見える景色や、遠くから聞こえる海鳴りのような音を耳にしたときの思いにも似ている。しかし、何かが少しだけ——だけど、決定的に違う。
 ちなみに、遠くの景色や遠くから聞こえる音というのは、過去の記憶・感情のメタファーなのではないか?と私は思っている。
 その用水路沿いには、草木があった。人工的なそれらだったが、夜はそこから虫の声が聞こえてきた。やはりそれも、私の心を静かに癒した。

 ときどき、自宅には戻らず、ちょっと遠くまで足を延ばすことがあった。
 自転車で、土手沿いの道を走った。
 向こう岸の町灯りを眺めながら、自転車を走らせた。
 そのとき、何を考えていたのかといえば、将来のことだった。「俺はこれから先、どうなってしまうんだろうか?」とかそんなことだった。ありがちといえば、ありがちなのだけれど。
 そこには、まだ希望があった。若かったのだ。私はまだ世間知らずで、身の程知らずだった (それはきっと、悪いことではなかっただろう) 。
 当時好きだった女の子のことにも、思いを馳せたりもしていた。そういう意味でも、私はやはり身の程知らずだった。私は自分自身のことを、まだよくわかっていなかったのだ。
 その土手の道をどこまでも走っていけたら、あるいは夜がいつまでも続いてくれれば、とも考えていた。たぶん無意識のレベルで——。遠くの町灯りを眺めながら。
 夜が明けるということは、あるいはどこかで引き返すということは、現実に帰るということだったからだ。「現実に直面する」ということだったから。私は幻想の世界にいつまでも浸っていたかった。
 それは、漫画やアニメ、ゲームといったフィクションの世界に浸っていることにも似ていた。ある種の、現実逃避だったのだろう。
 ただ、それは私にはきっと必要なことだったのだろう。一時的に逃げ込めるところやものがなければ、私の心はきっと現実に耐え切れなかっただろう。私は「うつろな人間」になっていたかもしれない。
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