ねこのきもち

文字数 2,979文字

 4月1日。僕はこの日を他のどんな日よりも憎んでいる。365日、毎週やってくる月曜日という悪魔を全て集めて、今日という日に立ち向かわせたとしても、到底適わないほどに。3月末に、僕の転勤が決まった。とは言っても地方銀行だから、何の縁もない県外へ無慈悲に放り出されたわけではない。引っ越し不要な程度の、ただ通勤する行程が変化するだけ。それでも、僕は憂鬱だった。毎回そうだ。2、3年で他支店へ転勤、を繰り返して、今年で10年目だ。今回で4回目の転勤になる。それでも慣れることはない。この時期は、大抵分かりやすく沈んだ顔をしている。今日からか、そう思って、ふーっとこれでもかと大きく息を吐いた。膝の上のビジネスバックを抱えるようにして丸まっていた背中を伸ばして、車窓から外を見る。バスの大きな窓から下を見ると、全てのどの車も見下ろすことが出来て、ほんの少しだけ、僕に優越感を味合わせてくれる。左側の壁に徐によりかかって、車内を見渡すと、これから出社するだろう中高年の男女がひしめいている。スマホをいじったり、本を読んだり、新聞を控えめに広げたり、遠くを見つめていたり、俯いていたり、皆それぞれだけれど、どことなく、緊張感をまとっていて、その衣が重そうに見える。満席で通路に立っている人も大勢いるが、車内は驚くほど静かで、車内前方で女性二人組がくぐもった声で会話をしていることすら分かるくらいだ。
 その時、隣の席から「カサ」っという紙と紙とが擦れあう音が聞こえてきた。隣の人に分からないように目だけを急いで右に動かして確認すると、どうやら何かの雑誌を読んでいるようだ。その女性は僕が乗車した次の停留所から乗り込み、僕の隣に座った。不自然にならぬよう細心の注意を払って、ゆっくりと背もたれに寄りかかり、彼女の手元を注視した。すると、そこには、猫の写真が数枚掲載されていて、一枚は見開き1ページ使ってでかでかと猫のアップが写っているのが見えた。猫雑誌か、と僕はこっそり鼻で笑った。そうして、また窓の外を眺めた。営業やらなんやらで何度も通ったことがある道だけれど、通勤として、これから毎日通る道となると、毎度のことながら、不思議な気持ちになる。それまで毎日のように挨拶を交わしてきた同僚や上司、会えば軽口をたたくような担当なお客さん、嫌味ばかり言う気難しい客、それら全てが4月1日を境に、がらりと別の者にとって代わる。人間関係はそんな交代制のものでなくて、それぞれ個々人の人間に対して、新しい環境で一から構築する性質のものだと分かっている。けれど、それが仕事の一部となってから、4月1日で全ては一掃されて、自分の中で設定されているポジションにまた新たな人員を埋め込んでいくような作業に変わってしまった。野球でいうところの、ピッチャーやセンターを決めるように、この人は親切な人間の枠、この人は扱いやすい人間の枠、この人は要注意の枠、そうした配置を4月1日から順次行う。そうして、それまでのメンバーは試合に関係ないから、ベンチにすらいない。それをもう何度も繰り返してきた。それが一番効率がよかったからだった。そうすれば、僕に与えられた、踏み込んでいい領域や裁量を見誤ることがないから。けれど、それを繰り返すほど、疲弊していくのが最近、分かってきていた。分かっている。僕には向いていない。この方法が向いていないのであれば、この仕事も向いていないと言っても過言ではなかった。出世などはどうでもいいが、仕事は続けなければならなかった。はーっとまた深いため息を吐いた。そうして、また隣の猫雑誌へ目を落とした。今度は、髪の長い眼鏡をかけた年配の女性が猫を抱っこして映っている写真が見えた。白くて青い目の猫は美しい姿勢でまるで宙に浮いてるみたいな軽やかさで、女性の膝の上からこちらを見ていた。

「猫、いいですよね」

突然、その女性が言った。僕は最初、僕に向けられている言葉だとは思わずに、ただ、驚いて、何も言えずにいた。すると、彼女はまた、猫、いいですよね、と今度はこちらに顔を向けて、僕の目を見ながら言った。その時、初めて、僕は彼女の顔を見た。さすがの僕も、自分に話しかけられているのだと知って、

「ええ、そうですね」

と戸惑いながら答えた。猫、好きなんですか、と馬鹿みたいな質問をしてから、ひどく後悔したけれど、彼女は特に何とも思わない風に、はい、好きです、と大真面目にまた、僕の目を見て言った。また僕は、はあとだけ言うのが精一杯だった。

「猫の舌ベラってものすごくざらざらしてるんですよ。」

妙な人だと思いながらも、彼女の周りだけ流れる落ち着いた空気に、引き込まれていく自分もいた。それは驚くべきことだった。そこだけ時間が停まったみたいだ、とそんなこと漫画だけの世界だと思っていたが、今初めて現実に自分の身に起きていた。彼女はまた、ページをめくって、

「あ、この子、ノルウェージャンフォレストキャットって言うんです」

と言って彼女は一匹の猫を指さした。小さい頃、友達が飼ってたんですけど、運動不足でぶくぶく太ってしまって、お医者さんに何度も怒られていたんですよ、勿論その友達と友達のお母さんが、ですけど。けれど、結局死んでしまいました、そう話をしてくれているのに、僕はその話よりも彼女の指に、僕は釘付けになってしまった。ひどく細くて長い、美しい指だった。

「猫飼ってるんですか、あなたも。お世話が大変ですね。その、お友達の話によると体調管理もしてあげないとならない」

「そうですね。でも、うちの子は比較的強いかもしれません」

「そうなんですね。なんという品種を買われているのですか」

「うちはずっと雑種なんです」

彼女の目は僕を見る度ごとに違う形に変化するように見えた。瞳孔の形が縦に長くなったり、丸くなったり、それこそ猫みたいに。

「猫の溜息見たことありますか」

「…いいえ。猫も溜息をするのですか」

「猫は溜息じゃないんです。その、人が言うところの、という意味で。猫がはーと息を吐くのは、緊張から解放された時なんですよ。ようはリフレッシュされた時」

バスが赤信号で停まった。

「あ、いけない」

と突然彼女は慌てて、目の前にある降車ボタンを押した。僕も慌てて、窓の外を見た。見慣れたラーメン屋の看板が見える。次の角を曲がると、もう僕の新しい職場だ。どうやら、彼女も同じ停留所で降車するらしい。

「僕も、次でおります」

「そうなんですね。私もです」

と言って、初めて彼女は笑った。僕もつられて、俯きがちに笑った。十代の頃みたいに。彼女が膝の上の雑誌を閉じた。表紙には、今日の空みたいな青色の字で、「ねこのきもち」とあるのが一瞬見えた。
今のところ、彼女が僕にとってのどこに配置されるのか、全く見当もつかない。それがひどく心地よい。彼女との相席が僕を決定的に変えてしまう、そんな楽観的にはなれないけれど、僕を循環させてくれるような空気を送り込んでくれる出会いだといいなと、神様に祈るみたいに思った。そうして、なんだか4月1日とこれからがうまくいくような気さえして、単純な自分に苦笑しながら、バス停車の「プシュー」と空気が抜ける音を聞いた。
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