第2話
文字数 3,318文字
右足を引き摺る自分の足音は、我ながら不気味だった。ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた……まるで安っぽいホラー映画だ。
不自然に体重のかかる左腿は、さっきから壊れ始めている。強張った筋や筋肉が傷つき、ぶちぶちと音を立てて切れるのが分かった。構うものか、佐智のところまで辿り着けさえすれば。
俺は手摺に縋って、長く暗い廊下を歩き続けていた。不格好に身体を揺らしながら、ゆっくりゆっくりと。
振り返ってみれば、俺はずっと佐智 のヒモのようなものだった。
いい年をして定職に就かず、彼女の部屋に居ついて彼女の稼ぎに頼って、身の回りのことも全部やらせて、まるで寄生虫だった。愛しているの言葉だけは日に何度も囁いたが、そしてその言葉に偽りはなかったが、そんなものクソの役にも立たないことは分かっていた。家事のひとつでも覚えて彼女の負担を減らすべきだった。
佐智はこんなクズ男に一生懸命尽くしてくれた。残業続きだと言っていたが、週に何度かは夜のバイトをしていたと思う。彼女が疲れ切っているのを知っていて、俺は何もできなかった――いや、しなかったのだ。
――私もあっくんが大好きよ。
佐智は歯の浮くような俺の言葉を正面から受け止めてくれて、いつも明るく笑った。
――あっくんはそのままでいいんだよ。私が好きでやっていることだから、気にしないで。
そうかいいのか、と馬鹿な俺は本気で思った。彼女は本当に幸せそうで満足しているように見えたから、無理に暮らしを変える必要はないと自分を甘やかした。俺に嫌気が差したなら、きっと向こうから別れを告げるだろう。
何もできないけれど絶対に佐智だけは守る、幸せにしてみせる――自信なんかないくせに粋がる俺を、佐智は優しく見詰めた。
――ありがとう。でも私は今凄く幸せよ。あっくんの傍にいられたらそれで満足なの。
ほんとか? 俺の傍にいてくれるのか?
――ずっと傍にいるよ。だからね、これだけは約束して。
佐智は珍しく甘えるように言って、俺の耳元に顔を寄せた。
――一生、私だけを愛して。たとえ遊びでも、他の女には触らないで。
背筋がひやりとして、俺は身を引いた。佐智のいない昼間、何度かデリヘル嬢を呼んだのがバレたかと思ったのだ。
彼女は微笑んでいたが、眼差しはひたすらに真摯だった。カマを掛けている気配はない。
――あっくんは私ひとりのものよ。裏切ったら許さないからね。
正直、ちょっと怖かった。だが普段は見せない彼女の独占欲が伝わってきて嬉しくもある。風俗は浮気に入らないよな、と胸の内で言い訳をした。
分かった約束する、破ったらちょん切られたっていいよ、とおどけて答えると、佐智は嬉しそうに抱きついてきて、俺たちはそのまま床の上で愛し合ったのだ。
今になって分かる。佐智のあの言葉は、俺が思っていたような単なる甘い脅しではなかった。彼女の想いを見縊 った俺は、あいつに謝らなければならない。
あいつが近くにいるのを感じる。冷え切った身体に炎が灯るほど、会いたかった。
その足音は、明らかに看護師ではなかった。
ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた、ずるっ……歪で不規則なリズムだ。外科病棟だから足を怪我した入院患者かもしれない。さっさと通り過ぎてくれないかなと考えながら、私はドアから目が離せなかった。
しかしその足音は私のいる病室の前で止まった。ガラスに黒い影が映る。
付添人が戻ってきたのか、それとも部屋を間違えたそそっかしい患者なのか――入口のスライドドアがゆっくりと開いた。
廊下の常夜灯の明かりと受けて、その姿は薄暗い中でもはっきりと分かった。私はぽかんと口を開ける。
それは見たことのない男性。人間ドックの時に着る検査着みたいなのを身に纏って、ドアに寄りかかって立っている。どこが重心か分からない、不自然に傾いだ姿勢だった。足元は裸足である。
「え、え、あの……」
部屋間違えてますよ、と乾いた喉で言いかけて、私は異様さに気づいた。
暗いことを差し引いても、男の肌は土の色と同じだった。生気がまったくない。そしてその表情――虚ろというのはこういう顔を言うのだろうか。眉も頬も強張って人形のように無表情なのに、口元はだらしなく緩んでいる。瞼をカッと見開いているが、両眼は白目を剥いているのかと思ったほど白濁していた。眠っている人の目を無理やり押し開いたみたいだ。
その見えているのかどうか分からない目で、男は私を凝視している。瞬きひとつせずに。
尋常ではなかった。
「……サ……チ……」
鑢 のようにざらついた音がした。男の喉から出た声だった。唇はほとんど動かず、喘鳴に似た音声が空気と一緒に押し出されている。
「サ……チ……アイ……タ……カタ……」
私は迷わずナースコールのボタンを押した。
同時に男がこちらに向かって歩き出す。ぐらぐらと揺れながら大股で。彼の右足首が真横に折れ曲がり、骨らしきものが覗いているのが見えた。
ひゃあああ、と私は叫んだ。跳ね起きて逃げようとするが、ギプスで固定された左脚が動かない。身を仰け反らせるのが精いっぱいだ。
枕元のインターホンから看護師の声が呼びかけてくる。
「三森 さん? どうしましたか?」
「た、助けて! 早く来てぇ!」
「サ……チ……」
男は瞬く間にベッドに辿り着いた。私を掴もうと伸ばされた腕は、全体に鬱血したような紫色だ。私は思わずその腕を振り払った。
バランスを失って、男はあっさりと転んだ。ベッドのフレームにぶつかった頭が嫌な音を立てる。
私はもう必死で、上半身と右脚を使ってベッドから下りた。男がいるのとは反対側の窓際だ。動かない左脚を床につけると激痛が背骨を貫く。
「やだもうっ……何なのこいつ……何なの!?」
右脚だけでぴょんぴょん跳ねながら、私はドアへ向かった。変質者か強盗か知らないが、とにかくここから逃げなければ。廊下に出て叫べばきっと誰かが来てくれるはずだ。
倒れたままもがいている男を見ないようにして、その横を擦り抜ける。次の瞬間、私の右足首を冷たいものが掴んだ。軸足を阻まれた私は前のめりに転倒した。
「サ……チ……」
私の足首を握った男は呻いた。その身体は床で俯せになっているのに、首だけが半回転してあらぬ角度から私を見ている。
私はめちゃくちゃに足を蹴り上げ、両腕で床を掻いて逃れようとした。しかし男の力は恐ろしく強く、ボキボキと妙な音を立てながらも緩まなかった。それどころかゆっくりと私の方へにじり寄ってくる。
至近距離で目にする男の顔は、黄ばんだ蝋人形のようだった。痩せているわけでもないのに頬骨が目立ち、鼻の下が長く伸びている。入歯を外した老人のような口元は半開きで、赤黒い口腔内が見えた。
生きている人間の顔ではない――私は本能的に察知した。
「サチ……ゴメ……ン……ユルシテ……サチ……」
訳の分からない言葉を喘ぎながら、それは私の上に覆い被さってくる。冷蔵庫から出したばかりの生肉のような感触で、吐き気を催す悪臭がした。これは死体だ。死んだ人間の身体が動いているのだ。
悲鳴を上げ続ける私の口を、男の手が塞いだ。爪は真っ黒に変色している。
「ゴメン……ゴメン……サ……チ……」
謝ってる……? そう、気づいた時、
「あれぇ冴子 ? 起きてるの? ごめんなー、ちょっと夜食をさ……」
能天気な声とともに、ずっと姿をくらましていた付添人が病室に戻ってきたのだった。
「篤志 ぃ!」
私は首を捩って男の手を跳ね除け、恋人に助けを求めた。コンビニのレジ袋を提げた篤志はぽかんとした表情で床を見下ろし、数秒固まった。そして、
「ひいいっ」
と高い声を上げたかと思うと、その場にすとんと尻餅をついてしまった。
ああ最低、もう駄目だ――私は失望した。
篤志が這ったまま逃げ出すのと、廊下から慌ただしい足音が聞こえたのはほぼ同時だった。数人の看護師が部屋に駆け込んでくる。
「ああ! まただわ!」
「早く引き離して! 三森さん、大丈夫ですか?」
訳も分からぬまま、私は彼女らの手で男の下から引っ張り出された。床にごろんと転がされた男の身体はぴくりとも動かず、ただの死体に戻っていた。
不自然に体重のかかる左腿は、さっきから壊れ始めている。強張った筋や筋肉が傷つき、ぶちぶちと音を立てて切れるのが分かった。構うものか、佐智のところまで辿り着けさえすれば。
俺は手摺に縋って、長く暗い廊下を歩き続けていた。不格好に身体を揺らしながら、ゆっくりゆっくりと。
振り返ってみれば、俺はずっと
いい年をして定職に就かず、彼女の部屋に居ついて彼女の稼ぎに頼って、身の回りのことも全部やらせて、まるで寄生虫だった。愛しているの言葉だけは日に何度も囁いたが、そしてその言葉に偽りはなかったが、そんなものクソの役にも立たないことは分かっていた。家事のひとつでも覚えて彼女の負担を減らすべきだった。
佐智はこんなクズ男に一生懸命尽くしてくれた。残業続きだと言っていたが、週に何度かは夜のバイトをしていたと思う。彼女が疲れ切っているのを知っていて、俺は何もできなかった――いや、しなかったのだ。
――私もあっくんが大好きよ。
佐智は歯の浮くような俺の言葉を正面から受け止めてくれて、いつも明るく笑った。
――あっくんはそのままでいいんだよ。私が好きでやっていることだから、気にしないで。
そうかいいのか、と馬鹿な俺は本気で思った。彼女は本当に幸せそうで満足しているように見えたから、無理に暮らしを変える必要はないと自分を甘やかした。俺に嫌気が差したなら、きっと向こうから別れを告げるだろう。
何もできないけれど絶対に佐智だけは守る、幸せにしてみせる――自信なんかないくせに粋がる俺を、佐智は優しく見詰めた。
――ありがとう。でも私は今凄く幸せよ。あっくんの傍にいられたらそれで満足なの。
ほんとか? 俺の傍にいてくれるのか?
――ずっと傍にいるよ。だからね、これだけは約束して。
佐智は珍しく甘えるように言って、俺の耳元に顔を寄せた。
――一生、私だけを愛して。たとえ遊びでも、他の女には触らないで。
背筋がひやりとして、俺は身を引いた。佐智のいない昼間、何度かデリヘル嬢を呼んだのがバレたかと思ったのだ。
彼女は微笑んでいたが、眼差しはひたすらに真摯だった。カマを掛けている気配はない。
――あっくんは私ひとりのものよ。裏切ったら許さないからね。
正直、ちょっと怖かった。だが普段は見せない彼女の独占欲が伝わってきて嬉しくもある。風俗は浮気に入らないよな、と胸の内で言い訳をした。
分かった約束する、破ったらちょん切られたっていいよ、とおどけて答えると、佐智は嬉しそうに抱きついてきて、俺たちはそのまま床の上で愛し合ったのだ。
今になって分かる。佐智のあの言葉は、俺が思っていたような単なる甘い脅しではなかった。彼女の想いを
あいつが近くにいるのを感じる。冷え切った身体に炎が灯るほど、会いたかった。
その足音は、明らかに看護師ではなかった。
ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた、ずるっ……歪で不規則なリズムだ。外科病棟だから足を怪我した入院患者かもしれない。さっさと通り過ぎてくれないかなと考えながら、私はドアから目が離せなかった。
しかしその足音は私のいる病室の前で止まった。ガラスに黒い影が映る。
付添人が戻ってきたのか、それとも部屋を間違えたそそっかしい患者なのか――入口のスライドドアがゆっくりと開いた。
廊下の常夜灯の明かりと受けて、その姿は薄暗い中でもはっきりと分かった。私はぽかんと口を開ける。
それは見たことのない男性。人間ドックの時に着る検査着みたいなのを身に纏って、ドアに寄りかかって立っている。どこが重心か分からない、不自然に傾いだ姿勢だった。足元は裸足である。
「え、え、あの……」
部屋間違えてますよ、と乾いた喉で言いかけて、私は異様さに気づいた。
暗いことを差し引いても、男の肌は土の色と同じだった。生気がまったくない。そしてその表情――虚ろというのはこういう顔を言うのだろうか。眉も頬も強張って人形のように無表情なのに、口元はだらしなく緩んでいる。瞼をカッと見開いているが、両眼は白目を剥いているのかと思ったほど白濁していた。眠っている人の目を無理やり押し開いたみたいだ。
その見えているのかどうか分からない目で、男は私を凝視している。瞬きひとつせずに。
尋常ではなかった。
「……サ……チ……」
「サ……チ……アイ……タ……カタ……」
私は迷わずナースコールのボタンを押した。
同時に男がこちらに向かって歩き出す。ぐらぐらと揺れながら大股で。彼の右足首が真横に折れ曲がり、骨らしきものが覗いているのが見えた。
ひゃあああ、と私は叫んだ。跳ね起きて逃げようとするが、ギプスで固定された左脚が動かない。身を仰け反らせるのが精いっぱいだ。
枕元のインターホンから看護師の声が呼びかけてくる。
「
「た、助けて! 早く来てぇ!」
「サ……チ……」
男は瞬く間にベッドに辿り着いた。私を掴もうと伸ばされた腕は、全体に鬱血したような紫色だ。私は思わずその腕を振り払った。
バランスを失って、男はあっさりと転んだ。ベッドのフレームにぶつかった頭が嫌な音を立てる。
私はもう必死で、上半身と右脚を使ってベッドから下りた。男がいるのとは反対側の窓際だ。動かない左脚を床につけると激痛が背骨を貫く。
「やだもうっ……何なのこいつ……何なの!?」
右脚だけでぴょんぴょん跳ねながら、私はドアへ向かった。変質者か強盗か知らないが、とにかくここから逃げなければ。廊下に出て叫べばきっと誰かが来てくれるはずだ。
倒れたままもがいている男を見ないようにして、その横を擦り抜ける。次の瞬間、私の右足首を冷たいものが掴んだ。軸足を阻まれた私は前のめりに転倒した。
「サ……チ……」
私の足首を握った男は呻いた。その身体は床で俯せになっているのに、首だけが半回転してあらぬ角度から私を見ている。
私はめちゃくちゃに足を蹴り上げ、両腕で床を掻いて逃れようとした。しかし男の力は恐ろしく強く、ボキボキと妙な音を立てながらも緩まなかった。それどころかゆっくりと私の方へにじり寄ってくる。
至近距離で目にする男の顔は、黄ばんだ蝋人形のようだった。痩せているわけでもないのに頬骨が目立ち、鼻の下が長く伸びている。入歯を外した老人のような口元は半開きで、赤黒い口腔内が見えた。
生きている人間の顔ではない――私は本能的に察知した。
「サチ……ゴメ……ン……ユルシテ……サチ……」
訳の分からない言葉を喘ぎながら、それは私の上に覆い被さってくる。冷蔵庫から出したばかりの生肉のような感触で、吐き気を催す悪臭がした。これは死体だ。死んだ人間の身体が動いているのだ。
悲鳴を上げ続ける私の口を、男の手が塞いだ。爪は真っ黒に変色している。
「ゴメン……ゴメン……サ……チ……」
謝ってる……? そう、気づいた時、
「あれぇ
能天気な声とともに、ずっと姿をくらましていた付添人が病室に戻ってきたのだった。
「
私は首を捩って男の手を跳ね除け、恋人に助けを求めた。コンビニのレジ袋を提げた篤志はぽかんとした表情で床を見下ろし、数秒固まった。そして、
「ひいいっ」
と高い声を上げたかと思うと、その場にすとんと尻餅をついてしまった。
ああ最低、もう駄目だ――私は失望した。
篤志が這ったまま逃げ出すのと、廊下から慌ただしい足音が聞こえたのはほぼ同時だった。数人の看護師が部屋に駆け込んでくる。
「ああ! まただわ!」
「早く引き離して! 三森さん、大丈夫ですか?」
訳も分からぬまま、私は彼女らの手で男の下から引っ張り出された。床にごろんと転がされた男の身体はぴくりとも動かず、ただの死体に戻っていた。