第1話

文字数 7,984文字

 断らなくて良かった、と思った。
 私の勉強机に椅子を並べてすぐ隣に座る先生を、そっと見る。長めの前髪、白い肌、細い首、黒縁の眼鏡。大人の男の人がこんなに色っぽいなんて、私は知らなかった。
「ここ、漢字間違えてるよ」
 そう言って私のノートに指をさす、その手は想像より大きくて、指が長い。指は、ひとつひとつの関節できれいに曲がる。完璧な角度で私のノートをさす。短い爪も、指紋も、しわのひとつでさえ、完全。手の温度を想像するだけで私は、幸せになれる。
 先生は、男の人なのに良い匂いがする。学校の先生とは全然違う匂い。目を閉じて、その匂いを静かに吸い込む。先生に会ってから、たぶん私の体は驚いている。こんなに甘やかで瑞々しい匂いが人から発せられるなんて、私の鼻の粘膜も肺のひとつひとつの細胞も、きっと知らなかったに違いない。
「華ちゃん、聞いてる?」
「あ、はい」
 先生の匂いにくらくらしていたことがバレないように、私は冷静を装って急いでノートをとる。本当に、断らなくて良かった。
 
 夏休みの前半の二週間だけ、家庭教師をとらないか? と母に言われたのは一カ月くらい前だった。
「高2になってから、華、成績落ちたでしょ。お母さんの会社に優秀な人いるから、ちょっと勉強教えてもらいなさい」
 母は、基本的に放任主義だ。私が小学生の頃に父と離婚をして、デザイン会社を独立させて、今もバリバリ働いている。放任主義だけれど、私のことは大切に思ってくれていると知っている。私も、働く母はかっこいいから好きだ。ただ、そんな母を心配させるほどに成績が落ちたのは、残念ながら事実だ。
「えー、家庭教師? めんどくさい」
「二週間だけよ。どうせ夏休みの宿題だって最後のほうになって焦ってやるんでしょ? そうなる前に、宿題だけでも見てもらいなさい」
 珍しく教育熱心なところを見せる母に、渋々同意した。ごねて断っていたら、私は先生に出会えないところだった。

「今日から家庭教師をさせていただきます、林若葉です」
 夏休みの初日に来た先生は、男の人だった。母の会社で働く人だと聞いていたから、てっきり女性だと思っていた。母の起ち上げた会社「Lilly Green」は、小さな子供服のデザイン事務所だった。今では大きな会社に成長し、デザインから縫製から販売まで、全てを担っている。圧倒的に女性の多い職場で、小さい頃に会社に遊びに連れて行ってもらっても、会う人のほとんどが女性だった。
「若葉くん、よろしくね。華、挨拶して」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 若葉先生は、母の会社の経理を担当している税理士さんらしい。独立するときに、前の職場から引き抜いたうちのひとりだそうだ。男の人だったことに戸惑った直後、私の中にはまったく別の戸惑いが湧き出していた。大きな河川の上流を昇って、川の始まりを探すテレビ番組を見たことがあった。川の始まりは、山の奥にある湧水だった。何もないところから滾々と湧き出る豊かな水。途切れることなく溢れ続け、次第に流れを作り、大きな河川に発展していった。その源の湧水のようなものが、私の胸の真中に出現した。何もないところから、滾々と湧き出る感情。あっという間に首まで浸かって、身動きがとれなくて息が苦しかった。その気持ちの正体に、このときはまだ気付いていなかった。

「若葉くん、華、ご飯できたわよ」
 リビングから母の声がする。
「今日はここまでにしようか」
 先生の声は優しく私の鼓膜を震わす。その振動だけで、私はやけどしそうなほど耳の奥が熱くなる。優しくて温かくて刺激的な先生の声。私の体は、先生に出会ってからどんどん正直になる。
 先生は丁寧に参考書をたたんで、自分の鞄にしまった。
 夕方から二時間ほど勉強を教えてもらって、そのあとに先生と一緒にリビングで夕飯を食べる。先生が来てからの一週間はそんな生活だった。先生は、けっして学校のクラスメイトみたいに、がつがつ食べたりしない。お米の一粒ずつにも敬意を持っているように見える。ゆっくり時間をかけて、音を立てずに咀嚼して、きれいな喉を上下させて飲み込む。先生の食事は、それだけで芸術のようだ。汁物を飲むときに少し眼鏡が曇るのも良い、と思う。
「若葉くん、華の勉強、どお?」
 母が聞く。
「大丈夫そうですよ。一学期の遅れはすぐに取り戻せると思います。百合さんに似て、華ちゃんは賢いですよ」
 褒められるのが気まずくて、食事に気を取られているふりをして静かに下を向く。鶏のからあげを箸でつまみながら、脂で唇がつやつやになったら少しは大人っぽく見えるだろうか、と期待する。
「私は別に賢くないわよ。自分が賢かったら、若葉くんに家庭教師頼まないわ」
 母は楽しそうにしている。私が勉強に集中しているから、安心しているのかもしれない。事実、私は真面目に家庭教師の指導を受けている。せっかく先生が来てくれているのに、私の成績があがらなかったら先生の評価がさがってしまう。私の出来の悪い脳みそのせいで先生が恥ずかしい思いをするなんて耐えられない。私にできることは、頑張って勉強することだけだ。私は、先生のきれいな食事の所作をさりげなく見ながら、今日習ったところの復習もちゃんとしよう、と決めた。
「じゃ、また明日来ます」
「はい。よろしくお願いします」
「ありがとう。気を付けて帰ってね」
 夜の八時になると、先生は帰って行く。夕飯から八時までは、お茶を飲んだり甘い物を食べたりテレビを見たりする。その間も、先生は甘やかな匂いを漂わせながら、適度にリラックスして、適度に礼儀を持って、家庭教師としての振る舞いを忘れない。
 先生を見送ってから、私は自分の部屋に戻る。先生が座っていた椅子に触れてみる。すっかり冷たくなった木製の椅子。撫でてみても、温度はわからない。あんなに甘やかに立ち昇っていた匂いも消えている。私は、ベッドに倒れ込んで、先生の声と匂いと所作と立ち振る舞い、その全てを思い出す。耳が熱くなって、鼓動がはやくなる。この息苦しい気持ちのことを「恋」と呼ぶのだと、私は先生に出会わなかったら知らなかったかもしれない。

 先生は三十二歳らしい。私は十七歳だから、十五歳も年が違う。最初に年齢を聞いた時は驚いた。もっと若いと思っていたのだ。どう見ても、二十代に見える。十五歳も年下の女子高生なんて、先生から見たらきっとただのガキなのだろう。私は、自分がせめてあと十年早く生まれていればと、どんなに願ったかわからない。それでも、百年も千年も離れていなくて良かった。同じ国に生まれて、同じ地域に住んでいて、母の会社に勤めていて、私の家庭教師をしてくれる確率なんて、いったいどれほど低いのだろう。その奇跡とも思える偶然の連続に、私は感謝することにした。これだけ偶然が重なっていたら、もはや必然なのかもしれないとすら思う。

 今日は数学を教えてもらっている。数学は特に苦手な科目だ。数字の羅列が美しいと思える数学好きに、私はなれない。文字のほうがずっときれいだと思う。数字には奥行きを感じない。数字は、簡素だ。そっけない。1なら1でしかない。そこに、1らしさも1らしくなさもない。1から感じる情報は、1だけだ。
「華ちゃんはおもしろいことを考えるね。でも、そんなことないと思うよ」
 先生は言う。
「1は最小の正の整数で、無を表す0に対して有・存在を示す最初の記号だよ。1がなければ、それ以上の10も100もないんだ」
 先生の言っていることはよく理解できなかったけれど、同じ感覚になりたいと思った。1は1でしかない、のではなく、1がなければ10も100もない。そういう重要なことの始まり、と思えば、1はとても勤勉で責任感が強く真面目な数字に見えてくる。重要なことの始まりといえば、河川の源も、1だ。何もない0のところから、滾々と湧き出る最初の水が1。私が先生に出会う前、胸に刻まれた数字は0だった。それが出会った瞬間1になり、そこから10になり100になり、溢れ続けて今では数えることは不可能だと思う。数学も、もしかしたらそういうことなのかもしれない。
「なんとなく、わかった気がします」
 私は勝手な納得の仕方をしていたけれど、先生は「それは良かった」と言って、数学の問題を進めた。先生は相変わらず甘やかな匂いを纏って、声で私の耳を焼き、指先の丁寧な動きで胸を氾濫させ、私の頭をくらくらさせた。
 夕飯の時間になると、いつもはリビングから声をかけてくる母が、私の部屋に来た。
「華、今日あそこの神社、お祭りやってるの知ってる?」
 私は勉強を中断して、母を見る。椅子ごと少し回転して振り返ったから、右隣にいる先生の左太ももあたりに、私の膝が当たる。
「神社ってどこ?」
「あの、商店街の先の」
「ああ、お稲荷さんの?」
「そうそう、あそこ今日出店出てるみたい。若葉くんと行ってきたら? ついでに夕飯済ませてきちゃってよ」
「ええ!」
 思いのほか、大きな声が出た。先生と夏祭り? 先生の太ももに当たっている膝に、じんわり温度が伝わってくる。
「お母さんにも、焼きそばかなんか買ってきてよ。そうすれば、夕飯作らないで済むから」
 いつもなら夕飯が出来上がっている時間である。何も作っていないということは、はなから買いに行かせるつもりだったのだろう。先生は何も言わずににこにこしている。
「先生、どうしますか?」
「もちろん、行きましょう」
 いっきにドキドキした。でも、それを悟られるのが恥ずかしかったから、普通の顔をして、「じゃ、行きましょうか」と答えた。心臓はドキドキしているのに、緊張のせいか指の先は冷えていた。
 神社までは歩いて十分ほどだ。商店街を抜けると徐々に人が増え始め、神社の入口は人が大勢いた。先生は、鳥居をくぐるときに小さくお辞儀をした。私もまねをする。神社を通る風は昼間より少し涼しくて、夏の湿気をはらんだ、木々と土とお祭りの食べ物の匂いがした。
 神社の参道には出店がたくさん出ていた。綿あめ、金魚すくい、焼きそば、らくがきせんべい。浴衣姿の女の子たち。提灯の灯りと出店のお兄さんの大きな声。子供たちのはしゃぐ声。お祭りって、万華鏡の中みたい。きらきらしていてカラフルで、どうしてこんなにきれいなんだろう。
「何食べようか」
 先生は、万華鏡のきらめきの中にいてもなお、その色気を失うことはなかった。並んで歩いていたら、カップルみたいに見えるだろうか。
「先生は、何食べたいですか?」
 聞くと、先生は私を見つめて「華ちゃんの食べたいものにしよう」と言った。私は、その言い方があまりに優しくて思わず下唇を噛んだ。長い前髪の下から眼鏡越しにのぞく切れ長の目に射すくめられて、私は死んでしまうんじゃないかと思った。昼から夜へと引き継がれる境界の上で、先生はいつも以上に素敵に見えた。私の胸の源泉は、間欠泉になった。勢いよく空へ空へと熱湯をどんどん吹き出して、もうもうと熱い湯気に覆われて視界が悪い。大きく息を吸う。お祭りの喧騒と先生の色気と間欠泉の熱気を一緒に吸い込んで、私はのぼせそうだ。
 結局、無難な焼きそばを買って、神社の縁石に座って食べることにした。お金は先生が出してくれた。母の分の焼きそばも買った。先生は割り箸を私に渡しながら「お祭りって楽しいよね」と言った。
「はい。楽しいです」
「華ちゃんと来られて良かったよ」
 先生はそう言って笑った。本当に嬉しそうに笑ってくれる顔を見て、一瞬だけ期待した。心の奥底で、一瞬だけ芽生えてしまった。そんなはずないのに、もしかして、先生。いや、そんなはずはない、でも……。私の中でいろんな感情が渦巻いた。
 だって、どうしてそんなに優しいの。どうして一緒に来られて良かったなんて言うの。どうしてそんなに嬉しそうな顔で私を見るの。私が子供だからからかっているの? そんな人じゃないでしょう。今ここで気持ちを伝えたら、先生は何て言うのだろう。残っている家庭教師の日にちを考えても、気持ちを伝えるチャンスは少ないかもしれない。でも……
 逡巡する私にはおかまいなしに、先生は焼きそばをいつものように音もたてずに咀嚼して、きれいに食べている。いつもは母と一緒にいるから私は先生のことをあまりじろじろと眺めないようにしているのだけれど、今は二人きりだ。ちょっとくらい見ていても、いいだろう。焼きそばを口に含みながら、少年のような顔でお祭りの灯りを眺める横顔を、改めてきれいだなと思った。
 焼きそばを食べ終わって、金魚すくいをした。先生はとても下手で、ポイを何枚も破った。その都度、照れたように笑うのがかわいらしくて、私は思わずスマートフォンで写真を撮った。
「一緒に撮ろうよ」
 先生は金魚すくいを諦めて立ち上がり、私の隣に並んだ。さすがに私は怯んだが、先生は気にせず「自撮りってできないの?」と聞いてきた。
「できますよ」
 私はスマートフォンをインカメラにして、腕を伸ばした。四角い画面の中で並ぶ先生と私は、もしかしたらカップルに見えるかもしれない。お似合いとはまだ言えない。でも、あと何年かしたら、私だってもう少しは大人っぽくなるはずなんだ。そうなったら、先生に気持ちを伝えよう。その決意を写真に閉じ込めるように、自撮りのシャッターを押した。
「ただいま」
 母にすっかり冷めてしまった焼きそばを渡す。
「ありがとう。楽しかった?」
「うん」
「若葉くん、ありがとうね」
「いえいえ、楽しかったです。じゃ、今日はこれで」
「はい。ありがとう。気を付けて帰ってね」
「お邪魔しました」
 母は機嫌が良さそうだった。冷めた焼きそばをさっそくレンジで温めている。私は自分の部屋に行き、ベッドへ倒れ込んだ。スマートフォンの写真を眺める。先生と一緒に撮った写真を保存したスマートフォンは、いつもより熱を持っているような気がした。私は、金魚すくいをしている照れた先生の顔を思い出して、静かに目をつむる。スマートフォンをそっと胸に抱きしめた。

 明日で家庭教師が終わる、という日になった。私は何か理由をつけて、夏休みの後半も来てもらうか、もしくは、新学期が始まっても定期的に家庭教師を頼もうと思っていた。直接先生にお願いするより、母に言ったほうが効果がありそうな気がする。二学期の成績があがれば、きっと母も先生のおかげだと思ってくれるに違いない。私が「先生の授業が分かりやすかったおかげだ」と言えば、家庭教師を続けてくれる可能性は高い。私は密かにそんな計画を立てた。
 リビングから母が夕飯の時間を知らせる。
「じゃ、今日はここまでね」
「はい。ありがとうございました」
 ノートを閉じる私の肩が、少しだけ先生の肩に触れる。触れた肩から熱が伝播してきて、体がどんどん熱くなる。もう少し、もう少しだけそうしていてください。そう願った瞬間、先生の体は何事もなかったように、当たり前のように離れる。両手で顔を覆いそうになる。明日で会えるのが最後、なんてならないように、真面目に母にお願いしなきゃいけない。このまま先生に会えなくなったら、考えただけで私は泣きそうだ。
 夕飯はカレーだった。先生は相変わらず、丁寧に食事をする。米とルーの割合も完璧だ、と思う。口のまわりを汚さないところも良い。でも、いつもより食べるのが早い、と思った。そう言えば、少し落ち着きがない。
 先生は食器を今までになくゴトリと音を立ててテーブルに置くと、突然しゃんと姿勢を正して、咳払いをした。
「百合さん、華ちゃん、明日で家庭教師の期間が終わりです」
 先生は突然話し出した。
「この二週間、僕自身とても有意義な時間でした」
 どうしたのだろう。
「人に勉強を教える、ということがいかに大変か、自分の力不足を感じることもありましたが、華ちゃんと過ごす時間は、何ものにも代えがたい大切な時間でした」
 え? 先生、何言ってるの?
「改めて華ちゃん、二週間ありがとう」
 先生が私の顔をまっすぐに見つめてくる。私はスプーンを中途半端な位置に持ったまま、口を半開きにして、ぽかんと先生を眺めた。それから、急にドキドキした。私と過ごす時間が何ものにも代えがたい大切な時間? 先生の言葉を時間差で理解し、顔が熱くなる。母もいる場で、何てこと言うんだろう。もしかして、もしかして、先生は私の気持ちに気付いていたの? 
「華ちゃん、伝えたいことがあります」
 心臓の音がうるさくて耳がじんじんする。緊張して指先が冷える。胸の間欠泉は無限を示している。
 先生……
「華ちゃん……」
 先生……
「華ちゃん、僕を……華ちゃんのお父さんにしてください!!」
 ひゅっと自分の喉が鳴って、私は呼吸を忘れた。え……何て?
 心臓の音は鳴りやまない。どういうこと? お父さんって言った? 私のお父さん? 理解が追いつかない。先生、今、お父さんって言った?
「もう、若葉くん唐突なんだから。華がびっくりしてるじゃない」
「ああ、ごめん。でも、家庭教師の期間が終わる前に、はっきり伝えておきたかったんだ」
「それはわかるけど」
 急に母に対して敬語じゃなくなった先生を見て、私は、勢いよく立ち上がった。反動で椅子がガタンと鳴る。自分の体が自分じゃないみたいな変な感じがする。頭がぐらぐらする。何も言わずに自分の部屋に駆け込んだ。背後から「華!」と母の声がしたけれど無視をした。電気をつけないまま、ドアを閉めて立ち尽くす。胃の中でカレーが冷えていく気がした。
 母の会社の名前「Lilly Green」。Lillyは母の名前「百合」からとっていると知っていた。Greenは何からとったのか、考えたこともなかった。今やっとわかった。林若葉。まさに、青々としたGreenの似合う名前ではないか。母が会社を起ち上げたのは、もうずいぶん前のことだ。その頃から、母と先生は恋人だったということか。
 私は、今度こそ、本当に自分の顔を両手で覆った。呼吸が乱れて苦しい。この二週間は、私と先生が仲良くなるための猶予期間だったのだ。母が仕組んだ、親子になるための時間だったのだ。母は、分からなかったのだろうか。私がまさか胸の間欠泉が無限になるほど先生に身を焼かれているとは、思いもよらなかったのだろうか。先生がこの二週間、どうしてあんなに優しかったのか。どうして一緒にお祭りなんて行ったのか。どうして一緒に写真なんて撮りたがったのか。先生は、私に好かれたかったのだ。男としてではなく、父親として。
 ヒッヒッヒと小さく繰り返していた呼吸を意識的に整える。顔を覆っていた手を離し、自分の肩を抱く。ゆっくり深呼吸をする。横隔膜はヒクヒクしているけれど、少し呼吸は戻ってきた。
 私は冷たいままの手で、部屋のドアを開けた。ゆっくり、母と先生のいるリビングへ向かう。
 母と先生は、不安そうな顔で私を見た。こうやって見れば、しごく納得がいく。もうすぐ40歳の母と32歳の先生。恋人になるなら、こっちだったのだ。良く見れば、とても似合っている。苦しい。どうしようもないほど苦しい。胸の間欠泉は無限のままだ。でも、私は苦しい気持ちを耐えてでも、視線に身を焼かれ続けてでも、一緒にいることを選びたい。
「先生」
 私の声に、緊張した顔をする先生。その顔も良い、と思ってしまってまた苦しい。
「先生……お母さんをよろしくお願いします」
 私は下唇を噛んで、頭を下げた。リビングに安堵した空気が充満する。
「ああ、良かった。華ちゃんも、これからよろしくね」
「はい」
 この気持ちは、一生ひとりで抱えていく。ぜったい言わない。ぜったい言えない。これからもきっとずっと大好きです。私の、お父さん。

おわり
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