文字数 2,684文字

 実家に居た頃、パティシエールの母親がよく言っていた。「青春はガトーショコラだ」と。甘くて、苦くて、そしてホロッと崩れそうな心。何を言ってるんだと思っていた。さっきまでは。

「また明日」
「ま、また、明日」

 もっと傍に居たい、という心の言葉を噛み殺すのに時間がかかった。結果、自分の声がぎこちなくてとてもダサい。中高と男子校出身で大学二年の今も親族以外の女性と無縁という事実が露呈したかと思ったが、相手は変わらない笑顔で手を振って俺の横から離れた。

 改札を通った相手の姿が見えなくなったところで、俺も帰路につく。周囲には先ほどの俺たちのような男女が何組か居る。傍から見たらプリン・ア・ラ・モードみたいな華やかなカップルに見えていたのかも? なんて思ってしまう。いや、何考えてんだ俺。下を向いて口を手で押え、早足でその場を離れた。

 明日も逢えると思ってテンションがあがったが、明日の授業ならきっとアイツも居る。いつも通りなら、アイツは彼女の横に座って講義を聞かずに眠り、終わったら彼女に起こされて、起こされたことに不機嫌な顔して教室を去っていくんだろう。アイツに限らず真面目に受講しない奴を見るとイライラする。何のために大学来てんだよ。

 スマホが震えた。テスト期間や課題を出された時以外では珍しい彼女からのメッセージだ。

「徳井くん、突然だったのに愚痴聞いてくれたり駅まで送ってくれたりしてくれてありがとう。優くんと仲直りできるように頑張ってみるね」
「気にするな。また何かあったら聞くから」

 先ほど気がついた淡い気持ちは容器に入っているプリンのカラメルソースと同じくらい心の奥底に追いやって、いつも通り返した。短くて素っ気なかっただろうか。早すぎて待ってたみたいで気持ち悪かったか。いや、いつもこれくらいだったから大丈夫……大丈夫だよな? 女々しいな俺。色々な考えがロールケーキのようにグルグルと頭の中をまわっている。

 一年生の頃から彼女とは同じ学科で同じ授業を取ることが多かった。確か前期の期末考査前に連絡先を交換して、互いのノートの写真やレポートの添削をしあっていた。それだけの関係だ。それ以外の話は一切したことない。直接話したのも、連絡先を交換した時以来だった。それなのに今日、彼女は授業終わりの俺に話しかけてきて、誰も居なくなった教室でアイツの愚痴を話してくれた。

「二年生になってから、私の横によく座る男の人わかる?」
「あぁ、すごく貴女には不釣り合いなチャラ男」

 正直に言い過ぎたと咄嗟に謝ろうとしたが、気にしないでと微笑みながら言われた。彼女は演劇の「え」の字も知らないくらい俺でも分かるくらい大根役者で、整った顔のキャンバスに描かれた笑顔はかなり醜い。

「優くんって私は呼んでる。四月に告白されてから付き合ってるんだけど、付き合ってからずっと色んな女の人と遊んでるの。多分、エッチとかもしてるんだと思う」 

 ズボンのポケットに入れていたスマホを取り出してロック画面を確認した。今日は九月二十八日、後期授業開始日。今日から一週間はどの講義もガイダンスだから半分くらいの奴はサボるんだろう。

「……今九月だろ? どうしてまだ付き合ってるんだよ」
「正直私もどうしてかわからない。惚れた弱みって言うのかな」

 何となく文学部に入った俺に恋愛相談なんて専門外だ。こういうのは心理学部のカウンセラーの資格を目指してる奴らが受けるべき内容だろう。でも、少し関心はある。これは年頃の男の性なんだろうか。

「どうして、アイツは他の女と遊ぶかわかってるのか?」
「わからない。優くん留年してて二年生二回目なんだよね。入学が私たちより一年早いの。だから、私が知らなかっただけで前から遊び人だったのかもしれない」

 留年してるのかよ。なおのこと彼女と不釣り合いすぎるだろう。 こういうのって見た目チャラいけど、実はしっかり勉強してますとか彼女一筋ですみたいなのが良いんじゃないのか? 確かテレビで見たぞ、ギャップ萌えって奴だろう?

「昨日電話したらそのことで喧嘩しちゃったんだ。そしたら、女として魅力がないって言われちゃった。私がガリ勉で色気がないからかな?」

 頬杖をつきながらため息をつく彼女を見て、嫌な仮説が脳内に浮かんだ。アイツはそもそも彼女のことが恋愛対象ではなく、期末などを乗り越えるために付き合った。「彼女」でも「浮気相手」でもなく、留年回避の道具としか見ていない。一年上とはいえ年頃の男だ。甘い快楽を求めて色んな女と遊んでいるんだろう。……そうであってほしくはないけれど。

 薄暗い教室、響くのは空調の音のみ。窓の外は整備されていない雑木林。それを見つめる切ない横顔。初めて女性を抱きしめたいと思った。フワフワのスポンジケーキの上に立っている頼りない彼女を俺が支えたい。

「学生の本分は勉強。それを一生懸命全うしている貴女は何も間違っていない。それに」
「それに?」
「いや、なんでもない」

 言ってはいけない。まだ不確かな気持ちは、文学部の癖に課題図書以外の本を全く読まない俺なんかの語彙力では言葉にはならない。この気持ちが本物かも自信がない。俺はただ、恋に憧れているだけかもしれない。


 季節外れの暑さで浅い眠りしかできなかった。こういう時にクーラー付きの物件にすれば良かったと後悔する。


 講義開始八分前、いつも通りの場所に座りテキストなどを準備する。五分前、先週の復習をしていると少し前の席に彼女が一人で入ってくる。横にアイツは居ない。鐘が鳴り講師が入ってきても、アイツは入ってこなかった。彼女の背中はいつも通りのはずなのになぜか小さく感じた。

 講義が終わり、二人きりの教室。昨日と同じ展開。

「今日も彼は他の女性と逢っているんですね」

 脳内の引き出しを開けまくって選んだ言葉を口にしたら敬語になってしまっていた。言葉の厳選などせず最低男だのヤリチンだのボロクソに言ってやりたい気持ちはあったが、彼女の好きな人を悪く言うのは駄目だと理性が止めた。

「徳井くん、私、優くんを嫌いになりたい。誰も愛せなくなるくらい傷付けて」

 アイツのように下の名前を呼ばれたい。弱々しく震えるその背中が、自分を欲してほしい。穢れのない声で名前を呼んで、自分に縋り付いてほしい。世の中思い通りになることはない。彼女が好きなのは紛れもなくアイツだ。目の前の泣きじゃくる彼女を抱きしめることも頭を撫でることもできない。俺は彼女の友だちでも恋人でもなく、知人の一人だから。

 ……俺なら泣かせたりしないのに、なんて言えないけど。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み