第1話

文字数 100,795文字

秋の風
「六十歳の夏」
はじめに
先週、大洗港からフェリーに乗り込み苫小牧港に到着したのですが、不幸なことに旭川を過ぎたところで、バイクが走行不能となってしまいました。最終的には、JAFに頼み込んで苫小牧港に戻り、そのまま再びフェリーに乗り込み大洗港に向かいました。苫小牧港までJAFで移動したのには、理由がありました。私の加入している任意保険の「ロードアシスト」が、最大十五万円まで補助してくれることが分かったからでした。
苫小牧港までの移動距離が二〇〇㎞オーバーでしたが、かろうじて十五万円弱で済みました。苫小牧港ターミナルでも様々な問題がありましたが、どうにか問題をクリアしながらフェリーにバイクを積み込むことが出来ました。今までバイクで五十回以上は北海道に渡っていますが(車、自転車、飛行機を加えたら百回以上)、過去の最短日数が二日間でしたが、今回はその記録を更に更新して「一日」でした。              
還暦を迎えた夏が、「北海道一日ツーリング」で終わってしまいました?本当なら「礼文・利尻」目指してスタートする予定だった「北海道ツーリング」・・・。私は、帰路のフェリーの中で「六十歳の夏」というキャッチフレーズを考えました。「秋の風日本 一周偏」が「礼文島」で途切れたことと、今回還暦を迎えた私が礼文島に向かったこと が、私に「秋の風日本一周偏」を製本させるきっかけになりました?
 大洗港ターミナルにバイクを駐車し、私だけがバスと電車を乗り継ぎ、古河に戻りました。次の日、ハイエースのセッティングをトランポにして、バイクの回収に向かいました。
アフリカツインが運ぶことが出来るように、あらかじめハイエースに様々な工夫を施しておいたのでそれは簡単でしたが、自走できないバイクを一人で積み込むことが不可能と考えた私は、ターミナルにいたライダーに声を掛け、何とか積み込むことが出来ました。
バイクが不動となってしまった今、私は「秋の風日本一周偏」を完成させるべくパソコンに向かっています。
私は二十代の頃日本一周を終えてから、「秋の風」を製本しました。二冊目が日本一周偏でした。ただ残念なことに、日本一周偏の製本が途中でとぎれてしまいました。途切れてしまった「日本一周偏」でしたが、四十五歳の時に再び書き出しました。なぜなのか分かりませんが・・・・。当時のことを綴った文章がありました。           ●四十五歳になり、何気なく読み返してしまった「秋の風」日本一周編・・・・・。本当は、何回か完成させようとは考えていたのですが、そのきっかけがつかめなくて・・・。製本途中から、約二十年の月日が流れてしまいました。バイクは二年ほど前まで元気に動いていたのですが・・・・・、盗難にあってしまい・・・、今はもう手元にありません。 あの白いRZで、いろいろな所へツーリングに行きました。特に北海道には、何回も行きました。古くなっていたので、旅をしていると                   「懐かしいな、あれRZが走っている・・・。」                  「いつまでも大切に乗って下さい・・。」                     「珍しいですねRZのノーマルなんて・・・。」                  たくさんの言葉を掛けられましたが、・・・、今はもう手元にありません。
あのバイクには、いろんな思い出があります。ここで書いていたらきりがないので、一つだけ書かせてもらいます。それは、あの白いバイクには、一つの思いがありました。ちょっとばかばかしいようなことなのですが、「あのバイクが壊れて動かなくなったら教師を辞める。」そう決めていたのです。だから、いつも手元に置いていました。部品も、古くなってきたのでいくつか手に入らない物は、あらかじめストックしておきました。
事故に遭うことなく、二十年間走り続けたのですが、盗難にあってしまったのです。私は、「これは、教員をやめろと言うことなのかな?」と考えました。しかし、途中で考えを変え、今もどこかで元気に動いているのだから、このまま定年まで続けなさいと言うことなのかなとも考えてしまいました。この文章を読んで「バカな・・・」と思う人が多いと思いますが、それほどあのバイクには教師としての思い入れがあったのです・・・?  半年間探し続けました。その後、あきらめてゼファーを買いました。ゼファーは乗りやすく、何の不満もありませんでした。半年間で約六千キロほど走りましたが、どこか「このバイクじゃない・・・」と、再び中古のRZを探し始めました。しかし、ノーマルで程度のよい物が探せませんでした。                          途中で、待てよZⅠかZⅡでもいいなと思い始め、探し始めました。ところがどこでどう違ってしまったのか、アフリカツインを買ってしまったのでした。(正直に言うと、社長が「このアフリカツインを買えばゼファーの下取りを高くする」と言った一言があったらかもしれませんが・・・)
このアフリカツインを買ってすぐに、冬の九州へと旅立ちました。この冬の九州へのツーリングがきっかけで、私はこのアフリカツインに愛着を感じ始めました。買った次の日、「失敗したかな?」と思ってしまった私でしたが、乗れば乗るほどにこのバイクの魅力にとりつかれ、一年と五ヶ月で二万キロを超えてしまいました。
そして、今再び「秋の風」を書き始めることとなったのです。日本一周編は、北海道の礼文島で終わっていますので、今から二十年前のことを思い起こしながら完成させたいと思います。
☆きっかけは、バイクの盗難と「アフリカツイン購入」でした。            更に月日が流れ、「八度目の礼文島ツーリング」が製本のきっかけとなりました。走行不能となってしまったバイクと共に大洗港に向かうフェリーの中で・・・。本当なら今頃太陽の下を・・・。そんな思いで書き始めました。今回のキャッチフレーズは、「六十歳の夏」です。そのことを考え、スタートは今回のツーリングから始まり、過去に行った日本一周へと続きます。

一「秋の風 六十歳の夏」
■二〇一七年七月三日(月)~
七月三日(月)
迷いに迷って、午後一時過ぎに深夜便の予約を入れる。準備をして、午後八時に自宅を出発。昼間は暑かったが、夜になるとほどよい風に吹かれながら大洗港を目指して走行する。途中疲れたので、高速道を利用する。大洗港には、午後九時半に到着する。バイクは少なかった。手続きを終了した私は、バイクを移動した。移動先には、すでに数台のバイクが駐車していた。私は、たまたま前に駐車していたBMのライダーに
「今晩は、今年もバイクは少ないですね・・・、二年前は多かったんですけれどねー・・。」
と、話しかけた。それがきっかけで、しばらく会話が続いた。
BMのライダーは、札幌ナンバーだった。乗船するときになって、ハンターカブが五台ほど出現、乗船開始になり更に増えた。カメラを持った若者に質問され、 
「若いときは走るばかりで・・・、年を取ってくると目的を持って旅をする。特に、その場所でその時期にしか見られない物を求めて旅をする・・・。」
と見当違いな返答をしていると、乗船開始になり会話はとぎれてしまった。乗船すると風呂に入ってすぐに寝る。

七月四日(火)
何故か、初めて寝過ごしてしまった。起きたのは午前十一時だった。理由は、部屋が暗かったので夜と勘違いしていた。昨年と違って、部屋の中での会話がなかったことが原因かも?
慌ててカメラを持って外に出るが、何度海を眺めてもイルカを見ることはなかった。
フェリーの中で、昨日の若者と遭遇する。会話の続きをして、別れる。苫小牧港に到着すると、すぐに道の駅に向かう。去年の教訓から、(深夜まで落ち着かず、寝付かれなかったため)「マオイの丘」にテントを張るつもりでいたが、昨年と同じ「ウトナイ湖」にテントを張る。
すでに自転車で旅をしている一人の老人が、寝ていた。昨年と違い、駐車場もキャンパーが少なく、東屋には老人以外いなかったので、テントを張って寝る。フェリーの中で一緒だったGSが、後からテントを張る。

七月五日(水)
午前四時半に起き、テントを撤収する。GSと簡単な会話をする。彼は四日間の旅らしい。私の話を聞いて、「うらやましい」と、言っていた。また、
「去年の夏にあった南富良野の集中豪雨は、あれからどうなったのですか?」
と質問され
「私は九州の熊本に行っていたので、全く分かりません。今回は訪れてみるつもりですが。」
と、答えた。
午前五時に出発、ナビを利用して快適に走行する。すぐに国道十二号線に出てしまった。ひたすら国道を北上する。さすが北海道、すれ違うライダーは必ず挨拶をしてくる。旭川を抜け、国道四十号線を北上する。「比布駅」の標識を偶然発見してしまい、それに従って駅に到着する。駅は新しくなっていた。不幸な出来事は、この後起こった。比布神社の所で、「ガリッ」と小さな音がしたかと思うと前に進まなくなってしまった。スプロケットの所で音がするだけで、前に進まない。とりあえずバイクを移動して、JAFに電話をする。                                     神社にバイクを移動して、日陰でJAFを待っていたが、急に保険会社のロードアシストのことを思い出し、保険会社に電話をする。会話の中で「十五万円まではお金が出る。」と言うことを初めて知り、苫小牧港まで移動することを考える。
保険会社との会話が終わった後JAFが到着、その旨保険会社のことと自分の考えを伝え、確認してもらう。何とか苫小牧港までのアシストは可能と分かったので、苫小牧港までの移動となる。
苫小牧港までの時間が長かったので、JAFとの会話が長くなってしまった。会話の中で分かったことは、JAFの若者は道内をよく知らないということ・・・。更に今までの仕事で、札幌までの移動が最長と言うこと・・・。また、道外からの観光客のレスキューが多いこと・・・。
 途中、ホクレンフラッグ購入を忘れてしまったことを悔やんだが、苫小牧港に到着してしまった。バイクをおろすと、慌てて受付へと向かう。かなり混んでいたが、どうにか夕方便に乗船が可能?本当なら自走不可能なバイクは乗せないという決まりになっていると言われ、かなり手続きに時間がかかってしまったが、乗船可能になった。
フル装備のアフリカツインを押しながらの乗船は、還暦を迎えた私にはきつかった。心の中で、「青春だあー。」とつぶやき、開き直っての乗船だった。嬉しいことに、私のバイクだけが一台、広いスペースを占領していた。
「ツーリスト」の部屋に入り驚いたことは、中国人観光客が多く、部屋での会話はほとんどが中国語だったことだ。また新型造船と言うこともあり、船内はきれいだった。荷物の整理をするとすぐに風呂に入り、夕食を食べる。コンビニで購入しておいたのは、正解だった。新型造船の船内の仕組みが分からず、「お湯」の確保で戸惑ってまったが、きれいなお姉さんに案内され、一安心。

七月六日(木)
午前六時過ぎに、カメラを片手に甲板へと向かう。天気はよいのだが、イルカの撮影は出来なかった。大洗港に到着するまで、ずっと海を見ていた。考えていたのは、バイクの移動だった。とりあえず電車で帰宅して、バイクは後から取りに来ることにする。
バイクの下船は下りだったので、一人で行うことが出来た。問題は、それからだった。受付のお兄ちゃんに事情を何度か説明するのだが、すぐに理解されず(バイクを二日間ほど止めておく場所が知りたい。)説明に時間が掛かった上、荷物を預かってもらうことが出来ず・・・、そのまま駐車場に置いてきた。盗難が心配なのに・・・。
バスにもどうにか乗れ、電車の繋がりも良かったので、古河駅には午後六時に到着することが出来た。古河駅まで、三時間で到着することが出来た。駅からタクシーでセブンイレブンまで・・・。運転手と自転車の話に夢中になり、コンビニに到着したのが気づかないぐらいだった。運転手が
「勤務中でなければ、まだまだ話したいことがありますが、勤務中なのでここで・・・。」と言ったぐらい、盛り上がっていた。

七月七日(金)
とりあえずバイクを運ぶことは一人では不可能なので、平日より土曜日の方が頼みやすいので、本日のハイエースでの運送は無し・・・。
還暦を迎えた夏が、「北海道一日ツーリング」で終わってしまいました。本当なら「礼文・利尻」目指してスタートする予定だった「北海道ツーリング」・・・。私は、帰路のフェリーの中で「六十歳の夏」というキャッチフレーズを考えました。「秋の風日本一周偏」が「礼文島」で途切れたことと、今回還暦を迎えた私が礼文島に向かったことが、私に「秋の風日本一周偏」を製本するきっかけになりました?

七月八日(土)
 ハイエースのセッティングをトランポにして、午後バイクの回収に向かいました。アフリカツインが運ぶことが出来るように、あらかじめハイエースに様々な工夫を施しておいたのでそれは簡単でしたが、自走できないバイクを一人で積み込むことが不可能と考えた私は、ターミナルにいたライダーに声を掛け、何とか積み込むことが出来ました。(土曜日に私のお手伝いをしてくれる友人は、見つかりませんでした)
バイクが不動となってしまった今、私は「秋の風日本一周偏」を完成させるべくパソコンに向かっています。

秋の風
「日本一周偏」
一、産休先生
彼は、階段をゆっくりと上がっていく。何か考え事をしているようだ。彼は、産休補助の講師をしている。そして、この学校で三年生を受け持っている。今年で、四回目の採用試験に挑戦することになっているはずの、講師だ。
職員室で先ほど教頭から
「悪いけど、七月二十七日で講師の期限が切れることになっているんだよ。二学期からは、また現在のクラスを受け持ってもらうことになるけれど・・・。期限切れで学校に来る必要はないのだけれど、できたら登校日には来てもらえないだろうか?」
と、言われたことを考えていた。彼は、いろいろと考えていた。中途半端な期限切れのような気もしたが、行政上仕方のないことだろうと諦めていた。考えてみれば、そんなことは何度もあった。
教室に入っても、彼は元気がなかった。生徒と離れること、これからのことを考えれば考えるほど、深く考え込んでしまった。職がないということは、収入がはいらないことだ。収入がなければ、生活が難しくなる。今までのように、アルバイトをすれば済むことなのだが、それもつまらないと考えた。
貯金は、車を買ってしまったのでなかった。わずかではあるが、定期預金で三十万円ほど残っているのが、全財産だった。海外の山を登るために預金していた貯金だったので海外の山に行くことも考えた。ただ、海外に行くためにはそれなりの手続きが必要になってくるので、今からでは間に合わないと考え、その考えは諦めた。
とにかく分かっていることは、七月二十七日から八月の三十一日までは、自由だと言うことだ?有給も考えれば、もっと期間はとれるかも知れないが・・・。とにかくせっかくの期限切れで自由になれるのだから、それを有効に使いたいと考え、とりあえずアルバイトは考えないようにして、旅に出ることを優先に考えた。
採用試験が終わってから行動を開始することとした。とりあえず、採用試験が終わったら北海道に向かうことを第一とし、アルバイトが有れば北海道でアルバイトをするも良し、なければ旅を続けるも良しとした。学校には、登校日は無理であると言うことを告げ、保護者にも学校から連絡してもらうこととなった。
採用試験が七月二十四日、次の日が日直になっていたので、二十六日を旅立ちの日とした。
二、旅立ち
七月二十六日(火)「雨の中、釜石へ」
朝から荷物の整理をするのに、時間がかかる。この日のために、タンクバッグとサイドバックを購入しておいた。荷物をバイクに積んでみると、思ったより多かった。重さにしたら、二十五キロ以上はあった。家を出るときに父親に
「何だその荷物は?」
と、バカにされたぐらいである。
曇り空の中に、彼は旅だった?心の中は、「不安」と「出会い」と「希望」でいっぱいだった。走り慣れた県道から、国道四号線にバイクを向ける。彼には釜石に友人が居るので、釜石まで一気に走るつもりで居た。高速を使えば早いのだが、家を出るときに彼は七万円ほどしか所持金がなかったので、高速は使えなかった。
四号線には、十時頃出た。家を出たのが8時頃だから、二時間はかかっている。新四号線に入る道路が分からず、時間がかかったのかも知れない。
四号線は、快適に走ることが出来た。信号も少なく、走りやすい。釜石までは、十四時間ほどで到着する予定だ。これまでに二回ほど友人宅を訪れているので、ほぼ間違えることはないだろう。
宇都宮からは、完全な雨に変わっていた。北に向かっていけば行くほど、雨は強く降ってくる。彼は、休むことを知らなかった。いや、休めなかったのかも知れない。矢板を過ぎると、交通量はぐっと減ってきた。しかし、雨は強く降り、カーブと坂道が多くなってきた。那須町を過ぎ、坂道を上り大きなカーブのある下りにはいると、大きく目の前に「福島県」の標識が見えた。彼は、二年前にカーブの終わったところで休んだことを思い出していた。
白河市に入る手前で、つぶれたドライブインを見つけた。彼は左折の合図を上げると、その中に入った。ドライブインの駐車場は、雨でぬかるんでいた。彼のバイクはロードスポーツタイプのため、スリップして思うように進んでくれなかった。やっとの事でドライブインの中にバイクを入れると、彼は雨具を脱いでザックの中からおにぎりを出した。おにぎりは、母親が作ってくれた物だ。彼がツーリングに出るときは、いつも作ってくれる。
四個ともすぐに食べてしまい、彼は雨ばかり見ていた。いつ止むか分からない雨を見ていても仕方がないと思ったのか、彼は雨具を身につけ始めた。雨具は濡れて気持ち悪かったので、ゆっくり着た。。濡れた雨具が、肌にぴったりと吸い付いて離れない。靴は、雨が降ってきたときに、長靴に履き替えていた。彼の長い経験から、ロングツーリングの時には、長靴を持って行った方が便利だと知っていたのだ。長靴の中は、雨水が入ってこないので快適だ。
彼は、雨の中で静かにバイクに乗ると、バイクのエンジンを掛けた。それからバイクを再び四号線に入れ、北に向かった。国道四号線は、混むことはなかった。白河市に入ると、高速道路下の信号機の所で、彼のバイクはパワーがなくなってきた。アクセルを開けるのだが、エンジンの回転がそれについてこない。ついてこないどころか、今に止まりそうな感じだ。
エンジンは、スタッ、スタッ、スタッと音を出している。いつものように歯切れの良い音は、出ない。クラッチを握りゆっくりアクセルを開けててみたが、エンジンの吹けは悪かった。いつもだと、パン、パン、パンと二サイクル特有の金属音がするのだが、全くしない。
彼は、バイクを路肩に止めた。エンジンの周りを見てみたが、悪いところはないようだ。プラグも、はずれてはいなかった。再びエンジンを掛ける。エンジンの周りを見ながら、アクセルをゆっくりと開けてみた。マフラーの所を見ていると、左側のマフラーから煙が出ていない。彼は、どこが悪いか見当が付いたのか、安心した顔に戻った。さっきまでの彼の顔は、青ざめた顔をしていた。内心、ツーリングをやめて家に引き返そうかと考えていたのだった。
彼は、再びバイクに乗った。この土砂降りの雨の中で、ゆっくりとバイクは見ていられないと思ったのだろう。片肺のままガソリンスタンドまで走行し、スタンドでプラグを交換した。再びエンジンを掛け、ゆっくりとアクセルを開けてみた。吹けが良くなった。バイクが、息を吹き返したのだ。彼は、明るい顔に戻った。雨は降っているが、エンジンが快適ならば、どうにかなる。
スタンドでタンクを満タンにすると、再び雨の中を走行した。
郡山市、二本松市、福島市と休まずに通過する。福島市から、スズキのGS650の後ろを走行する。スズキのカタナだ。カタナが白石市手前でオートスナックに入ると、彼もウィンカーをあげ、オートスナックに入った。
彼は、カタナと一緒にコーヒーを飲んだ。彼はコーヒーを飲みながら
「どこまで行くの?」
と、カタナに尋ねた。カタナは、
「北海道まで。」
と、静かに答えた。
二人の間には、それ以上の会話はなかった。カタナが出ると、彼も後を追いかけるようにして、オートスナックを出た。二台のバイクが一緒に四号線を走行したのは、仙台手前までだった。仙台市内に入る頃には、二台のバイクはかなり離れて走行していた。彼もカタナと一緒に走行することは考えていない。彼も北海道に向かってはいるが、北海道到着の前に、釜石到着という目的があるからだ。どんなに頑張っても、花巻までだ。
「仙台」の標識に従いながら、四号線を走行する。仙台市内に到着する頃には、長靴の中まで完全に濡れてしまっていた。体の中で、濡れていない場所はなかった。
仙台バイパスにはいる。時計は、午後三時を指していた。広瀬川を渡ると、市内だ。バイパスの流れは、良かった。しかし、雨は相変わらず降っていた。バイパスは三車線になっていて、路肩は広い芝生になっていた。バイパスを抜け、泉市に入ると道路は雨で水たまりになっていた。水たまりと言うよりは、川になっていた。バイクのタイヤが三分の一ほど潜ってしまうほどの水たまりだった。こうなると、交通の流れも悪くなってきた。
疲れてきたので、陸橋の下にバイクを止めて休んだ。喉が渇いたので、ザックからコッフェルとガスカートリッジをだして、紅茶を沸かし始めた。陸橋の上から雨水が垂れてくるので、水には困らなかった。雨の中の紅茶は、彼の冷えた体を温めてくれた。
周囲の目が気になってきたので、紅茶を飲み終えると再びバイクに乗った。古川市に入る頃には、辺りは暗くなっていた。雨の中で、夜になるのはイヤなものだ。それは、走りづらいからだ。特に対向車のヘッドライトは、ライダーにとって一番イヤなものだ。昼間走行するときでさえ、シールドを手で何度か拭き取らなければ行けない。雨の中を夜走行すると言うことは、自殺行為かも知れない・・・。
彼は、必死に走った。ただ走るだけであったが、それも楽しいと考えていた。
平泉には、午後七時前に到着した。去年より、約一時間速いペースだ。去年は、ここでラーメンを食べた。去年より早いからと言って、休むことはなかった。雨の中で濡れた体を何とかしたいと思っていたのだ。それには、釜石に到着して、風呂に入り、着替えるのが一番だと心に強く言い聞かせていた。だから、休むことはなかった。
彼は、一生懸命シールドの汚れを手で拭いている。水沢市を抜け、北上市に入った。市内にはいると、四号線から一〇七号線にはいる。右折の合図を出し、一〇七号線に入った。 ここから釜石までは、一〇〇キロほどである。彼は、雨の降る日にばかり釜石を訪れている雨男でもあった。また、残り一〇〇キロを走り通すタフな男でもあった。考えてみれば、この土砂降りの中を走行しているバイクなど一台もないではないか!そう考えると、彼はおかしくなってきた。先ほどからこの一〇七号線を走行しているのは、彼のバイクだけであった。対向車など、走行していなかった。
山間部にはいると、雨はスコールに変わってきた。フルフェイスのシールドをあげると、大粒の雨が顔に当たる。宮守村にはいると、道路は二つに分かれていた。右折すれば「大船渡市」、左折すれば「遠野市だ。」
彼は左折して、遠野市に向かった。町の灯りさえも見えない国道を走行していると、左側にオートスナックが見えた。彼は、休むべきかこのまま走り続けるべきか迷ったが、ブレーキを踏み、オートスナックの中へ入る方を選んだ。夕食も食べずに走行しているので、休憩もかねて食事の時間としたのだ。
オートスナックにはいると、手袋を脱ぎカップラーメンを食べようと考えた。手を見ると、手が緑色に染まっていた。自分の手では、ないような気がした。雨具は脱いだりすると面倒なので、着たままで居た。雨具の間に手を入れ、財布からお金を取り出すと自動販売機にコインを入れた。出てきたカップラーメンにお湯を入れると、カップラーメンを食べた。寒い雨の中を走行してきたので、体が温まり元気になった。時計はもう八時を過ぎていた。食べ終えると、再びバイクに乗った。
遠野市に着いたのは、午後九時近くだった。遠野市の町灯りが彼の心を慰めてくれた。遠野市から二八三号線に入り、仙人トンネルにはいる。このトンネルを下ると釜石市だ。トンネルの中は、ひんやりと冷たかった。
トンネルを抜け、カーブの多い下り坂にはいると雨は止んでいた。焦って事故でも起こしたらつまらないと考えたのか、彼はゆっくりとコーナーを抜けていくのだった。長い下りが終わると、洞泉駅の標識が左側に見えた。友人の家は、次の松倉駅の所にある。彼はゆっくりと走行しながら、左側を見ていた。「松倉駅」の標識が見えた。標識の右側には、黄色い電話ボックスがあった。彼は黄色い電話ボックスを目印にしながら、友人宅を訪れていた。電話ボックスの向かい側に細い路地があり、その路地に入れば学校が見えるはずだった。彼はいつものように路地に入り、友人宅にたどり着くことが出来た。
到着したのは、午後十時だった。雨の中を、十四時間も走行してきたのだった。彼はドアをノックしながら
「佐藤、着いたぞ!」
と、言った。友人はドアを開けると
「久しぶりだな。」
と、彼に向かって、懐かしそうに言った。彼は、友人の顔を見ながら奥を見て
「なんだ!山口もいるのか。」
と、驚いたように言った。山口は、神奈川に住んでいる友人であった。
彼が風呂に入り、風呂から出ると冷たいビールが待っていた。彼らはその夜、遅くまで大学時代の話題に夢中になった。

メモ ガソリン20㍑ カップヌードル180円

七月二十七日(水) 「釜石で休養日」
朝から天気が良かった。奥では、佐藤の嫁さんが朝食の準備をしていた。体中がだるかったが、彼は元気よく
「おはよう!今日は天気がいいね。」
と、愛嬌のある顔で挨拶をした。それに答えるかのように
「あら、もう起きたの?少し待ってね。朝食はまだ出来ていないの。」
と、奥から返事が返ってきた。彼はすぐに
「いいよ。しかし、俺が来るときは必ず雨だな。頭に来るな!」
と、言った。そんな会話の中に、佐藤が起きてきて
「よう!もう起きたのか、昨日は大変だったな、疲れただろう?でもお前タフだからな。」と笑いながら、彼に向かって言った。
山口も起きてきて、にぎやかになった。それに今年は、もう一人仲間が増えた。それは、男の赤ちゃんだ。ここは、幸せな家庭だ。
佐藤が
「お前、今日どうするつもりだ。ゆっくりしていけよ。」
と、彼に向かっていった。彼のせっかちな性格を気にしながら言い出したのか、言い方が少しきつめだった。彼は、すぐに佐藤の気持ちを察していないのか
「今日はここにいるけど、明日からまた旅に出るよ。」
と、返事すると
「ゆっくりしていけよ、たまにくるんだから。山口もゆっくりしていくつもり出来て居るんだぞ。」
と、佐藤が再び威圧的に言うと
「だめだよ。ここにゆっくりしていたら、旅が辛くなるよ。軟弱になっちゃうよ。」
彼は、笑いながら言った。
彼はすべての荷物を外に出して、荷物の整理を始めた。整理を始めたと言うより、濡れた物を乾かし始めたのかも知れない?太陽が出ていると言うことは、とても幸せなことだ。太陽の下で、テント、シュラフ、ザック、ロードマップ、下着などを乾かしながら
彼は思った。
ここで一つ困ったことが起きた。カメラが雨で濡れているだけならまだしも、レンズ、フィルムまでもが、濡れてしまっているのだ。彼はそのレンズとフィルムだけは外で乾かさずに、中で乾かすことにした。友人宅は、彼の荷物でいっぱいだ。中も外も・・・。
佐藤は、午前中は学校に行くと言っていたので、彼と山口は佐藤のジムニーで、龍泉洞に行くことにした。ジムニーは、スズキで販売している軽の四輪駆動車だ。馬力はないが、四輪駆動車なので、どんな悪路でも走破することが出来る?
二人を乗せたジムニーは、狭い山岳路を走行していくのだった。煙を吐き、やかましいエンジンの音を立てながら・・・。詳しく書かせてもらうなら、二サイクルの三気筒エンジンは元気よくかな?二人とも大学時代からチャレンジ精神旺盛なので、運転も荒かった。 午後は、三人で海に泳ぎに行く。ジムニーと彼のRZは、いつもの海岸に向かった。釜石市内に入り、国道四十五号線に出ると右折する。右折すると、左側が海岸線になっている。この四十五号線は、カーブと坂道が多いので有名だ。
海岸で泳いだり、ジムニーで海岸線を走ったりした後、彼は二人と別れて釜石観音を見に向かった。佐藤宅に荷物を置いたままだったので、四時までには帰宅して荷物の整理をするつもりでいたので、彼は二人より先に帰宅することも念頭に置いての行動だった。
その夜も、にぎやかだった。しかし彼は、考え事をしていることが多かった。明日の天気とか、今後の金銭面での不安とか・・・。そんな彼を見て二人の友人は
「お前、明日はどうする?」
と、尋ねた。彼は二人の問いかけに対して、
「俺、明日ここを出るよ。もし明日雨だったら、ここにいることにするけれど・・・。」と、彼はテレビを見ながら答えた。テレビでは、天気予報をやっていた。山口がテレビを見ながら
「低気圧と前線が停滞しているから、明日も雨だな。」
と、説明するように言い出した。彼はその山口の言葉に対して
「山口、俺に金かしてくれ、今でなくていいから。東京に帰ったときでいいら、銀行の口座に振り込んでくれればいいよ。俺、家を出るとき七万円しか持ってこなかったんだ。もしかしたら、日本一周するかも知れないから・・。」
と、突然全く関係ないお金のことを話したが、人の良い山口は快く返事した。彼は、口座番号を書いたメモ用紙を山口に渡した。

七月二十八日(木)「野辺地から北海道へ」
朝から曇っていたが、雨は降っていなかった。彼は、荷物をバイクのキャリアにくくりつける準備に取りかかった。サブザックだけは、バイクにくくりつけなかった。何故かと言えば、佐藤の嫁さんに頼んでおいた昼飯用のおにぎりをつぶさないために、サブザックに入れるからだ。
おにぎりを受け取ると、サブザックに入れ外に出た。雨の中を走行してきたバイクは汚れていたが、エンジンは快調だ。アクセルを吹かすと、二サイクルエンジン独自のかん高い音がする。プラグがかぶったりしないように、アクセルはたまに吹かすといい。ヘルメットを被り
「じゃ、来年また来るから。たまには、こっちにも出てこいよ。」
彼はそういいながら、クラッチを握りギヤをローに入れ、静かに前進させた。
「気をつけてな、また来いよ。元気でな。」
友人達は、彼の後ろ姿に手を振りながら、彼に向かって言った。
友人達に見送られながら、国道二八三号線を釜石市内方面に向け、、国道四十五号線に出た。国道を走行しながら彼は、このまま四十五号線を走行して青森方面に向かうか、国道四号線に出てから青森方面に向かうか迷った。最終的には、単調な四号線を走行するよりも、景色の良い四十五号線を選択した。
走行しながら、彼はあることを考えていた。それは、「家庭」というものだ。佐藤は結婚して子供もいる。しかし、俺は就職も決まらず、バイクで旅をしている。いったいどちらがよいのだろうかと?それに、佐藤の生活がうらやましくも見えた。
山田町から、また雨に降られる。空模様を見れば降り出しそうなのは分かっているのだが、バイクを止めて雨具を着るのが面倒なため、雨が強く降り出すまでそのまま走行していることが多い。
彼はガソリンスタンドにバイクを入れ、ガソリンを入れた後雨具を着た。
久慈市の手前でお昼にする。おにぎりは、四個作ってもらった。バイクを海岸側に止めて、紅茶を沸かす。あらかじめ、水は準備しておいた。海を見ながら、彼はホーローに紅茶を入れた。おにぎりがおいしい。食堂で食べるのも良いが、海を見ながら食べるのもいいもんだ。
二人の小学生の女の子が歩いてきたので、写真を撮ってもらう。彼は、急に自分の残してきた子ども達のことを考えた。彼は旅に出るときに、子ども達のことを忘れないように、写真を免許証の中に入れてきていた。
サブザックの中にガスカートリッジなどを入れ、キャリアにくくりつけた。彼はヘルメットをとると、再びバイクに乗った。国道四十五号線を北へ・・・。
八戸市に着くと、風が強くなってきた。ハンドルが、左側に降られる。彼は八戸市内にはいると、何度か立ち止まった。市内に入っても、何度かバイクを路肩に止め、ロードマップを取り出している。四号線に入る道路は知っているはずなのだが、彼は四号線に入ろうとはしなかった。
彼は、三沢市にバイクを向けていたのだった。何故か、三沢市を訪れたかった。何故かというと、カメラに関係がある。一年ほど前、NHKで「沢田教一」のドキュメンタリーを見て、感動した。その影響で「ライカでグッドバイ」という本を購入してしまった。沢田の住んでいたところが、三沢市だったため、急に「三沢」という道路標識と重なって訪れたくなってしまったのだろう。国道沿いに「三沢」という標識がなければ、そのまま国道四号線を北上していたことだろう。
三沢基地への道路は、畑の中を通っていた。ガスがかかっていて今まで分からなかったが、あたりは畑だらけだった。畑の中の道路を通過すると、三沢市に着いた。町全体が静かで、これといった物がこの町にはないようにおもわれた。彼は、基地の前にバイクを止め、考え事をしていた。時計は、三時半を指している。彼はこの後の日程として、泊まるところを考えなければならない。そのことを考えると、暗くなる前にある程度の日程を決めておきたいと考えた。
彼は恐山あたりに泊まることを考えていたが、ロードマップを見ると人気がないのだ。何となく、不気味だ。彼がロードマップを見ながら悩んでいると、偶然彼の前を老婆が通り過ぎた。彼は、通り過ぎようとした老婆に
「恐山までどのくらいかかりますか?キャンプ場は、有りますか?」
と、尋ねた。老婆は彼の問いかけに対して
「旅の人、あそこは何もないところだよ。それに、若い人が行くところじゃないよ。やめなさい。」
と、言った。彼はその言葉を聞いて、恐山を断念した。一人で行くには、あまりにも不気味なところだ。
彼は、十和田市に向かった。四号線にはいるためだ。今から行けば、フェリーに間に合うかも知れないと考えた彼は、飛ばした。慌てていたので、十和田市内を通過してしまった。通過したことは、辺りの景色ですぐに分かった。この道路は、走ったことがあるからだ。すぐに引き返し、四号線に入った。
辺りは、暗くなってきた。ヘッドライトのスイッチをオンにする。何とか青森まで到着したいと考えていたが、北海道に渡るフェリーは、青森まで行かなくても良いというのが分かった。ロードマップを調べてみると、「野辺地」と言う場所から函館行きのフェリーが一日三本出ていた。それが分かったので、野辺地から函館に渡ることにした。
七戸から、交通量がぐっと減ってきた。広い車線の上を走行する。「野辺地」の標識に従って、ひたすら走行する。約一時間ほどで、「フェリーターミナル」の標識を目の前にすることが出来た。標識の下を右に曲がると、フェリーターミナルだった。
ターミナルは、風が強かった。彼はバイクの止めてある場所を探して、バイクを止めた。彼の他に、二台のバイクが置いてあった。ヤマハXS250、ホンダXL125だ。中に入り乗船名簿に必要なことをすべて書き込むと、夕食にした。このターミナルは混雑していなかったので、ゆっくりと食事が出来た。
場内アナウンスが流れると、放送の指示に従ってバイクをフェリーに乗せた。フェリーは何度か乗っているので、不安はなかった。タンクバックだけを取り外し、客船室にはいる。中は、ほとんど人が見あたらない状態だった。船内を見回していたら、ヘルメットを持ったライダーがいたので、そこで休むことにする。さきほどのXS、XLのライダーのようだ。二人とも大学生らしい。

メモ フェリー代3200円 かけうどん250円 ガソリン3000円

七月二十九日(金)「北海道上陸」
フェリーは、夜中に函館港に到着した。彼は、いつものようにキャリアから荷物を外して、荷物を待合室の中に入れた。それからテントを広げ、ザックからシュラフを取り出して、寝てしまった。待合室の中はうるさかったが、仮眠は出来た。
五時に起きて、荷物を整理した。一緒にフェリーに乗った二人も、ほぼ行動を伴にしていた。XLは、三度目の北海道だと言っていたので、XLに先頭を走ってもらう。北海道の道路は広いが、市内には結構信号機があった。五号線を北上する。別にルートは考えていなかったので、彼らと一緒に走行する。五号線も大沼公園にはいると、信号機もなく、走りやすかった。しかし、雨が降ってきたのには、参った。小雨ではあったが、気持ちの良い物ではなかった。
スピードメーターを見ていると、八十㎞の所をいったり来たりしている。森町を過ぎると、ガスの中に景色がうっすらと見えてきた。左側は人家だと分かるが、右側は海だとは思ってもいなかった。ガスの中にうっすらと見え隠れする海は、不気味だ。信号機のない道路を相変わらず快調に飛ばす。対向車もほとんど見かけない。長万部町を過ぎても、ペースは落ちない。まるで、高速道路だ。
長万部を過ぎたところで、遅い朝食にする。相変わらず小雨が降っている。朝食が済むと、再びバイクに乗る。こんなに飛ばしていて捕まったりしないのかなと心配していると、前に50㏄のバイクが走っているのが見えた。北海道は50㏄のバイクでは走りたくないなと思いながら、軽く追い抜いていく。追い抜いた瞬間、反対側でレーダーの準備をしているのが見えた。彼は反射的にスピードを緩めたが、XLとXSは、そのまま走っていく。彼はその様子を見て、慌ててアクセルを吹かすのだった。
五号線から三十七号線に入り、室蘭市に向かっていた。途中信号機が赤になり、バイクが止まると、ヘルメット越しに彼は
「俺は、洞爺湖に行ってみるよ。そっちはどうする?」
と、大きな声で二人に問いかけた。その問いかけに対して
「一緒に行ってもいいよ。」
と、二人は大きな声で答えた。
彼はもうすぐ標識が見えるだろうと、左側を見ながら走行していた。思った通り、標識はすぐに見えてきた。標識には、「洞爺湖七㎞」の文字が見えた。左折のウィンカーをあげると、左折した。前に大型バスが数台走っていて、じゃまだった。しかし、追い越し禁止の黄色の車線が引いてあるので、追い越すことは出来なかった。
ゆっくりと大型バスの後に付いていくと、湖が見えてきた。その後、昭和新山も・・。三台のバイクは、駐車場に入った。中にはいるとそのまま、バイクが並んで止めてある場所に向かった。到着後、バイクを止めた。
雨も止んだようなので、ついでに雨具を片づけた。やっと観光地らしいところに着いたという気がした。彼は今回のために、特別にリバーサルフィルムとカメラを用意していた。勿論、白黒フィルム用のカメラも、持っている。リバーサルフィルムは、スライドで子ども達に見せることが出来るから持ってきたのだ。
昭和新山からは国道三十七号線に戻らず、オロフレ峠を下って三十六号線に出るルートを選択する。久保内から右に入ったところが、オロフレ峠だ。最初は上り坂で、舗装が多くて楽しんでいたが、峠を登り切ったところからダートになっていた。不幸は、さらに続いた。雨が、強く降り出してきたのだ。XLが峠のドライブインにバイクを入れると、残りの二台も入っていった。中にはいるとすぐに
「ひでえなぁー。雨かよ。雨具を着るか。」
彼は空を見ながら、ポツリとつぶやいた。
三人とも雨具を着ると、すぐにドライブインを出た。下りは、ダートが続いた。XLはトレール車なので走りやすいが、彼のRZはロードスポーツ車、それもエンジンはピーキーで扱いずらいバイクだ。荷物も多い。彼は、タンクをしっかりとニューグリップしながら下る。XSの大学生は、遅れてついてくる。
やっとの事で、登別温泉にたどり着くことが出来た。ここからは、舗装された道路だから走りやすい。右側には「熊牧場」の看板が時たま見える。しかし彼らは、その看板には目もくれず、ひたすら登別市内へと向かった。
目の前に大きな海が見えた。もうここは、国道三十六号線だ。国道に出ると雨も止んだ。XLがガソリンスタンドに入ったので、彼も入った。三人は、スタンドで雨具を脱いだ。もう、雨の心配はなさそうな空模様だ。彼は雨具を脱ぎながら
「俺はここで写真を撮っているから、先に行ってていいよ。」
二人に向かっていった。二人は彼の言葉を聞いて
「じゃ、先に行っているから。またどこかで会うかも知れないね。」
と言い、二人は国道三十六号線を東に向かって走り出した。
彼は、また一人になってしまった。しかし、一人でゆっくりと走るのもいいし、飛ばすのもいい。一人で走りたいときもあるものさ・・・、そんな感傷にしたりながら海を見ていた。
登別市内を歩き、駅前でカメラを取り出し何気なくシャッターを押す。再びバイクに戻ると、国道三十六号線に入る。先ほどXLがガソリンを入れたスタンドで彼も給油すると、国道三十六号線を東に向かう。国道は海岸に沿っているのだが、海がハッキリとは見えない。右側に人家が多すぎるのだろうと、彼は考えた。国道を走行していれば彼らに追いつくだろうと考えていたが、彼らの姿は見えない。
しばらく走行していると、「民族文化伝承の里」と言うアーチが右側に見えた。彼はいったんブレーキを踏んだが、再びアクセルを吹かしてその場を通り去ったが、何を迷ったか再びブレーキを踏むと、ギヤをシフトダウンしてUターンし始めた。
彼は先ほどのアーチの所に戻ったのだ。狭い路地にバイクを入れ、ゆっくりと走行する。道路からさほど離れていないところに「伝承の里」があった。駐車場は空いていた。バイクから降りると、中に入った。そこには、民芸品がたくさん置かれていた。彼はそれらの民芸品を見ると、バイクの所に戻った。
駐車場で再び雨具を着ていると、XL250に乗った人が入ってきた。彼は興味津々にナンバーを見た。川崎ナンバーだったので、急に大学時代が懐かしくなり
「川崎からですか?以前私も川崎に住んでいたんですよ。」
と、親しそうに話しかけてしまった。会話が続いていたが
「写真でも撮ってもらおうかな、お願いします。」
と、彼はXLにカメラを手渡し、バイクの所に立った。XLは、シャッターを押しえると「僕は、今日フェリーで帰るところです。あなたは?」
と、彼に尋ねた。
「私は、これからです。日本一周します」
彼は、自慢そうに言った。
そんな会話をしていると、
「君たちは、何処まで行くの?」
観光客の一人が尋ねた。その観光客の質問に対して、XLはフェリーで今日帰ることを、彼は日本一周することを話した。観光客は彼の答えに対して、
「日本一周するのはいいけど、まだ北海道に入ったばかりだろう。大げさだな・・。」
と、笑いながら彼の顔を見ていった。彼もその言葉に対して、それもそうだなと不安な気持ちが強くなったのと、ちょっぴり言わなければ良かったかなと言う後悔の気持ちが出てきた。
彼はXLに別れを告げ、白老の町を後にした。国道三十六号線を走行していると、だんだんと道幅が広くなり、三車線の所もところどころ出てきた。彼はその広さを考えると、登別で別れた二人には追いつくことは出来ないだろうと考え始めた。
諦めながら飛ばしていると、二台のバイクが前方に見えてきた。バイクが見えてくると、RZは、白煙を上げながらスピードを更に上げた。あっという間にRZは、信号待ちしている二台のバイクに追いつくことが出来た。信号機の所でブレーキを踏むと、ヘルメット越しに彼は二人に話しかけた。
赤信号の短い時間ではあったが、彼は会話の中で追いつくことが出来た理由が分かった。彼らは昼食をとり、彼はまだ昼食をとっていないこと、その時間が追いついた理由だろうと、彼は考えた。せっかく追いついたので、彼は昼食をとらずに彼らと一緒に走行した。 苫小牧市からXSは、旭川市に向かう。XSは、ホーンを鳴らしながら左折した。私達もホーンを鳴らした。彼らは、右折した。右折して一㎞進んだところで、海が見えてきた。それから海の見えたところで、左折した。海は、真っ青だった。太陽も顔を出している。彼は、最高に嬉しかった。雨の中を走行することが続いていたので、空の青さがよけいに青く感じられたのかも知れない。海岸に沿って、しばらく走行する。のどかな風景だ。
二三五号線は、バイクが多かった。キャリアに荷物を積んだ旅人が、走る。排気量の少ないバイクもあれば、排気量の大きいバイクもある。ソロツーリングもいれば、グループツーリングや、タンデムツーリングもいる。ライダーは、様々だった。
XLとは、鵡川町で別れる。XLは、富良野にラベンダーの花を見に行くらしい。花を見た後、美幌ユースでヘルパーとして働くそうだ。
彼は、また一人になってしまった。一人になってしまったからなのか、昼食をとっていない彼は、急にお腹が空いてきた。右側に食堂が見えたので、食堂に入った。テレビを見ると、午後二時の番組をやっていた。彼はテレビを見ながら食事を続け、午後の予定を考えた。まず考えたのは、キャンプ場がある場所にテントを張りたいと考えた。どこでもテントは張ることは出来るが、出来たらキャンプ場がベストと考えた。
食堂を出ると、海岸沿いに襟裳岬を目指すことにした。襟裳岬周辺に、キャンプ場があるからだ。「門別」を過ぎ、「静内」を過ぎると景色はぐっと広がってきた。左側に日高山脈、右側に太平洋と牧場が広がっていた。特に右側の牧場は、緑の牧草地の中に赤いレンガでできたサイロがあったり、牧草地から海が見えたり、牛が見えたりと変化に富んでいた。                                      海岸に沿って、レールが伸びていた。彼は、前に走行車がいないので、アクセルを吹かした。しかし、数㎞も走行すると大型トラックが前方に見えてきた。追い越し禁止の車線ではないので追い越す気になれば追い越すことも出来るのだが、彼は追い越すことはなかった。なぜなら、交通の流れが八十㎞はあったからだ。トラックの後ろをしばらく走行していると、前のトラックがフラッシャーをあげながら右折してしまった。
彼は、ギヤをシフトダウンすると、一気に加速した。タコメーターは、レッドゾーンに入っていた。加速しながらシフトアップしていくと、120キロは楽に出た。前には走っている車がなかった。スピードを元に戻して走行していると、後ろからRZ250Rが走ってくるのがバックミラーに写った。彼の後ろを、ずっと走行していたようだ。
町の中にはいると、信号機が赤に変わった。彼はゆっくりとブレーキを踏み、とまった。後ろのRZRも同じようにとまった。彼はギヤをニュートラルにしていたが、またギヤをローに入れると、路肩をゆっくりと走行して先頭に立ち、クラッチを握ったままとまった。信号機が青に変わると、彼はアクセルを吹かして飛び出した。そのまま加速していると、突然前方で、赤棒を振っている警察官が見えた。彼は、すぐにレーダーに引っかかったことを理解した。彼は警察官の指示に従って、バイクを右側の路地に入れた。
警察官は、彼に近寄りながら
「ずいぶん急いでいたねえ、何キロで走っていたか分かりますか?」
と、優しく彼に尋ねた。彼は、その質問に対して
「たぶん五十㎞ぐらいだと思います。」
と、小さな声で答えた。彼の答えに対して警察官は、
「あの標識が見えなかったのかな?」
と、標識を指しながら彼に尋ねた。彼は再び
「よくみえませんでした。」
と、小さな声で答えた。更に警察官はゆっくりとした口調で
「あの標識の意味は分かるね?」
と、優しく問いかけるように彼に話しかけた。彼は、
「はい。」
と、ハッキリとした口調で答えた。警察官は、彼にレシートのような紙を見せ
「これを見てください。二十五㎞オーバーになりますね。申し訳ありませんが、赤切符になりますから・・。」
と、ハッキリとした口調で言った。
彼は、警察官のその言葉を聞くと、目の前が真っ暗になった。北海道に上陸したばかりなのにと、自分の気持ちを落ち着かせようとしながら思った。更に何とかならないのかという気持ちから
「私だけ捕まるのは、おかしいです。右から入ってきた車の後ろを走行していたはずですから・・・。スピードメーターも、六十キロ以上は指していなかったと思います。」
と、食い下がるように抗議した。
彼は十年以上もバイクに乗っているが、こんなに抗議したのは今までになかった。彼の必死の抗議にもかかわらず、義務的に処理されてしまった。
自分のバイクの所に戻るとヘルメットを取り上げたが、まだ未練があったのかなかなかヘルメットを被ろうとしなかった。むしろ、その場で考え事をしている時間が長かったように思われた。赤切符が行政処分の対象になっている事を考えると、彼の行動も板しかないとも思われるが・・・。
じっと考え込んでいたが、我に返るとバイクのスイッチをオンにして、キックペダルを軽く踏んだ。彼のバイクは、パンパンパンと音を立てながらマフラーから白い煙を出した。旅の途中で、行政のハガキが自宅に届く可能性もある。それに、この後も旅を続けなくてはならない・・・。更に心配なのは、この先同じようなことがあったらバイクに乗れない恐れも出てくる。悪い方に考えれば考えるほど、きりがなかった。彼は再び考え込んでしまってはいたが、パンパンパンと二サイクル特有の歯切れの良い音だけは鳴り響いていた。 彼は決心したかのようにヘルメットを着用し、手袋をはめた。それから、フラッシャーを右にあげると国道二三五号線を襟裳岬目指して走り出した。後は、神様に任せることにした。いくら考え込んでも仕方のないことだ、自分が悪いのだから・・・。彼の心は、すばらしい景色によって慰められた。このすばらしい景色を子ども達にも見せてあげたいと思っていた。
襟裳町から先は、霧で何も見えなかった。町から岬に続く道路は、アップダウンが激しかった。彼は、ライトのスイッチをオンにした。前方がよく見えるわけではないが、対向車から確認しやすいだろうと思ったからだ。彼は飛ばすこともあるが、安全には最善を尽くすことにしていた。
襟裳岬には、午後五時頃着いた。何も見えなかった。先ほどのRZRが止めてあったので、彼はその脇にバイクを止めた。ヘルメットをとり、あたりをぐるっと見渡すと彼は岬目指して歩き始めた。階段を下ると「襟裳岬」という看板があった。霧で全く見えないがここが襟裳岬だと分かると、彼は海の方を見た。波の音がするだけで、何も見えない。彼は諦めて、写真だけでも撮っておこうと考えた。たまたま近くにカメラを提げていた人がいたので、軽くお辞儀をしながら
「すいません。シャッター押してもらえませんか?」
と、頼んだ。シャッターを押してもらうと、すぐに駐車場の所に戻り始めた。
バイクの所に戻ってみると、RZRに乗っていたライダーが居た。彼らは、目を合わせると軽く笑った。
「俺が捕まったの見ただろう?まさかレーダーをやっているとは思っていなかったよ。俺が後ろを走っていたら、君が捕まっていたかもしれないな。」
彼は、元気のない声で言った。
「そうですね、僕もレーダーには気が付きませんでしたから。」
RZR250のライダーは、軽く笑って答えた。
「今日はどこに泊まるの?」
彼は、RZRに尋ねた。
「僕たちは、ここのキャンプ場に泊まります。」
RZRが答えた。
二人の会話の所にDT125がやってきた。RZRの相棒らしい。
「もう着いたの?早かったね。何分待った?」
DTは、RZRに尋ねた。
「俺も着いたばかりだよ。岬なんて見えないよ。」
RZRは、答えた。
「キャンプ場は、ここでなくて百人浜にあるはずだよ。」
彼は、二人に向かっていった。
三人の会話の中に、また新しいライダーが来た。
「土浦ナンバーか、どこから来たの?」
CB750ボルドールのライダーが彼に尋ねた。
「岩井市の方からです。」
彼は、CBのナンバープレートを見ながら答えた。驚いたことに、CBのナンバープレートも土浦ナンバーだった。
「あなたのナンバーも土浦ナンバーですね。どちらからですか?」
彼は、丁寧に尋ねた。
「俺は、石下からだよ。近くだな。」
CBは、なまった声で答えた。CBと一緒に来たXL250Rは、横浜ナンバーだった。二人はフェリーの中で一緒になり、そのまま一緒に走ってきたらしい。
「今日はどこに泊まります?」
彼は、CBに尋ねた。
「俺らは、襟裳町に旅館を予約してきたばかりだよ。二人で泊まることにしたんだ。」
CBは、言った。
彼らの話題は、先ほどのレーダーの話になった。
「俺も捕まったよ。でも、勘弁してもらった。初めてきたんで分からなかったと言ったら、許してくれた。たしか、三〇㎞オーバーだと思ったよ。」
CBは、XLに同意を求めるような顔をして話した。
「ずるいなー。俺は、二五㎞オーバーで捕まったんだよ。頭に来るな!」
彼は、大きな声で言った。
そこに、また新しいライダーがやってきた。RG250ΓとCBX400だった。ガンマは、三台だ。
「今日は、岬見えませんね、残念だなあ。せっかく札幌から来たのに・・。」
ガンマの人は、軽く笑いながら話しかけてきた。
地元ですか、どちらまで?」
彼は、尋ねた。
「帯広市まで・・。」
ガンマは、軽く言った。
「今から帯広市まで行くのは、きついな・・。」
CBは、無理だと言わんばかりに言った。
「大丈夫ですよ。北海道は本州と違って、信号機もないし混まないから・・。」
ガンマは、平気そうな顔で答えた。
「じゃ、遅れますからお先に・・。」
札幌ナンバーの四台のバイクは、霧の中に消えていった。
彼らは、四台のバイクに向かって手を振った。四台のバイクは、それに答えるかのように、ピースサインを出した。
「さあ、俺らも行くか・・。」
石下から来たCBが、XLに話しかけた。
「俺はここにテントを張るけど、そっちはどうする?」
彼は、RZRとDTに尋ねた。
「じゃ、私達もそうします。」
彼等は、答えた。
「じゃ、元気で・・。」
一言言うと、CBとXLはヘルメットを身につけ、エンジンを掛けた。
「そちらこそ事故を起こさないように・・。」
彼等は、CBとXLにピースサインを送った。CBとXLは、軽くホーンを鳴らしてピースサインに答えるのだった。
さっきまでにぎやかだった岬の駐車場も、寂しくなった。
「夕食はどうするの?」
彼は、学生に尋ねた。
「まだ食べていません。ここの食堂で、食べていきますか?」
学生は、彼に尋ねた。
「そうだな、それにまだ観光客がいるし、テントを張るには早すぎるかも知れないな。」 彼等は、バイクを止めたまま食堂に入った。中にはいると、食事を注文した。
「ここには、アルコールは売っていないのかな?」
彼は、学生達に話しかけた。学生達はそれに答えるかのように、アルコールを持っていることを彼に話した。
彼等は食堂を出ると、バイクから荷物を外してテントの張れそうな場所を探した。霧でよく見えないので、適当な場所にテントを張った。彼は、テントを張るのが早かった。それに比べると、学生達は何も出来なかった。彼は、学生時代はアパートで寝るよりテントで寝ることが多かったので、テント生活には慣れていた。学生達は、今日が初めてらしい。ツーリングに備えて何度か練習はしたのだが、うまくいかないようだ。彼は、テントの中の整理を始め、それが終わると紅茶を沸かすために水をくみに行った。テントの中に入り、紅茶を沸かし始めると、
「どうだいテントのほうは?」
コッフェルを片手で押さえながら、学生達に言った。
「後少しで終わります。練習してきたんですけれどね・・。」
学生は、疲れたような声で答えた。
「テントが張り終わったら、紅茶を飲むかい?今沸かしているんだけど・・。」
彼は、優しく言った。
紅茶が沸くと、彼はホーローに紅茶をそっと入れて、少し呑んだ。テントの中は薄暗かったが、紅茶のおかげで芯から体が温まった。キャンドルを出し、ライターで火を付けるとテントの中が明るくなった。キャンドルの明かりは、彼の心を慰めてくれた。
学生達がテントを張り終えると、彼は、温かい紅茶があるからテントに来るように話した。学生達は、先ほど買ったつまみと一緒にウィスキーを持ってきた。彼もウィスキーは、持っていた。狭いテントの中で、会話は弾んできた。しかし彼は、あまり明るく振る舞えなかった。なぜなら、赤切符を切られたことが、頭からまだ離れなかった。たぶん、アルコールを飲んでも離れないだろう。彼は、今日の出来事をこう受け止めることにした。
「今日捕まったのは、良かったのだ。これからはスピードを出さないで、ゆっくり走りなさいと神様が私に忠告してくれたんだ。」
彼はそう考えると、気分が楽になった。学生達が今日の出来事を話すたびに、彼はそう話すのだった。
学生達がテントから出て行ってしまっても、彼は寝ようとしなかった。キャンドルの明かりをジッと見つめていた。顔がキャンドルの明かりで照らされていた。彼は、大学時代のことを思い出していた。そして、これからのことも・・。教員採用試験のことも・・。ホーローを出して、ウィスキーを少し入れると一気に飲んだ。それから静かにシュラフの中に潜り込んだ。

メモ ガソリン2000円 朝食650円 昼食500円 夕食500円

七月三十日(土)「帯広から阿寒湖へ」
朝の目覚めと共に彼は、朝の紅茶を沸かした。時計を見ると、まだ午前五時だった。テントの入口から外を見ると、深い霧だった。ラジオを取り出して、スイッチを入れた。静かなテントの中に、音楽が流れてきた。音楽は、彼の心を明るくしてくれた。テントの中で聴く音楽が、これほど楽しいとは思ってもいなかった。それは、一人だからかも知れない・・。 紅茶に使ったお湯が余ると、ラーメンを造り食べた。ラーメンが胃の中に入ると、それが熱となり力となり、彼を元気にしてくれた。ラーメンでも、元気になるのだ。 学生達は彼よりも遅く起きるて、パンをかじった。彼は、学生達と行動を共にすることにした。別に予定などないのだから、彼はそれでも良かったのだ。一人で旅するより、良いかも知れない。テントをたたみ、荷物を整理してバイクのキャリアにくくりつける。昨夜は、彼と学生の他に、大宮ナンバーの軽ワンボックスが泊まっていたようだ。
三人は、雨具を取り出して着込んだ。朝は、思ったよりも寒かったのだ。エンジンを掛けると、襟裳岬を後に帯広市目指して走る。岬から少し走ると、岬の売店は霧の中に隠れて見えなくなってしまった。再び国道二三六号線にはいると、霧は晴れてきた。道路は、乾いているので走りやすかった。雨でなくて、良かった。彼は、これから走る「黄金道路」を楽しみにしていた。名前のように、すばらしい道路を思い切り飛ばしたかった。だから、雨は降ってほしくなかったのだ。快晴の「黄金道路」を走りたかったのだ。
国道二三六号線には、彼等のバイクだけが走っていた。彼は、この辺が「黄金道路」だと考えて走っていたが、そこは砂利道だった。それも、片側通行が三カ所ほどある。ところどころに、大きな岩が転がっていた。最悪なことに、霧が雨に変わってきた。砂利道を走ると、バイクは瞬く間に汚れてしまった。
「この辺が黄金道路のはずなんだけど?」
彼は、学生達に話しかけた。学生達は相づちを打つように、頭を何度も振った。
六㎞ほど進むと、「黄金道路記念碑」というのが右側に見えた。海の中から、大きな岩がいくつか見えるところだ。彼等が通ってきた砂利道が「黄金道路」と知ったとき、彼はがっかりした。確かに海岸に沿った道路で、海には岩が見えるけれど、あまりにも砂利道が多すぎる。何故「黄金道路」なのか、考えこんでしまう。
彼は、朝から心配していたことがあった。ガソリンが無くなりそうなのだ。昨日から知っていたのだが、ついつい入れ忘れてしまって入れなかった。今日は今日で、朝早く出発したので、ガソリンスタンドなど開いていなかった。それにここまで人家など無く、スタンドなど営業できる場所ではなかったが・・?
彼は、砂利道から舗装に変わるとガソリンスタンドがあるだろうと考えた。人家も多くなってきた。彼は、広尾町に着いたのだと思った。学生達は、彼がガス欠寸前だと言うことは知らなかった。人家が多くなってきたと言っても、広い畑の中に建物がぽつりぽつりとあるだけ・・。
雨が降っていても、道路が混んでいない上に真っ直ぐなので、学生達はスピードを落とそうとしなかった。彼は、後続を走行していた。三台のバイクは、雨降る十勝平野を走行している。対向車など来ない?
襟裳岬から三十二㎞走行して、やっと信号機を見ることが出来た?三台のバイクはスピードを落とし、徐行しながら信号機が赤から青になるのを待った。赤から青に変わると、ギヤを落として加速した。彼等にとって、信号機は退屈しのぎにちょうど良かった。それほど交通量は、少なかった。
彼は信号機を過ぎてから、先頭を走行した。それは、ガソリンスタンドらしき建物を見つけたからだった。スピードを落とし軽くブレーキを踏むと、静かにギヤを落とした。左折の合図を出すと、スタンドに入った。
「ちぇ!スタンドが閉まっている。あとどのくらい走れるかな?」
彼はエンジンのスイッチを切って、軽く舌打ちしながら言いだした。
「ガソリンがないのですか?」
学生達は、彼に尋ねた。彼は軽く笑いながら、
「昨日から無かったんだよ。早めに入れておくんだったな、失敗した!」
と、言った。
彼等は、再びエンジンを掛け雨の中へと走り出した。踏切を渡ると、広尾町の中心に入った。踏切を渡ると、スタンドはすぐに見つかった。彼は再び左折の合図を出すと、スタンドに入った。ここも、閉まっていた。時間が早すぎるのか?彼がバイクの所に戻ろうとすると、一台のトラックが入ってきた。トラックから従業員らしき人が降りて
「今開けますから、少し待って下さい。」
と、彼に向かっていった。その後、すぐにガソリンを補給することが出来た。
彼は満タンになったので
「今日はどこまで行くの?」
と、学生達に尋ねた。学生達は、
「阿寒湖ユースに予約を取ってあるので、そこまで行きます。僕たちは、一日おきにユースを取ってあるのです。」
と、答えた。彼はそれを聞き
「よし、決めた!俺も阿寒湖まで行くよ。」
と言った。
彼等はスタンドを出ると、再び雨の中を走り出した。広尾の町を抜けると、畑が広がっていた。元の、単調な道路に戻ったのだ。この時間になると、車とすれ違うようになってきた。バックミラーには、ダンプカーも写っている。大型のダンプカーだ。写っていた大型ダンプカーは、彼等を追い越しながらホーンを鳴らした。数回鳴らすと、彼のバイクと並行して走行した。走行したのはほんの数秒だったが、彼に向かって何かを話しかけているようだった。彼はそれが聞き取れなかったので、荷物が落ちたのかと思い、後ろを数回振り向いたが、荷物はしっかりとキャリアにくくりつけてあった。ホーンをなぜならしたのか?彼は、前を走行するダンプカーを見ながら考えた。ふとナンバープレートを見ると、「土浦ナンバー」だった。たぶん、同じナンバーだったので「あいさつ」のホーンだと確信した。
彼は大樹町に入り信号機にかかると、ダンプカーの脇をすり抜けて前に出た。そして、後ろを振り返り軽く笑った。ダンプカーの運転手は、ホーンを鳴らし
「どこまで行くんだい?」
運転席の窓から顔を出し、大声で彼に向かって叫んだ。彼は、大きな声で
「わからない!」
と、大きな声で答えた。運転手は、
「気をつけてな!」
と、手を振りながら彼に向かって叫んだ。彼も運転手の言葉に応えるかのように手を振り、信号機が変わると加速していった。
雨も止み走りやすくなってきたが、風景に変化はなかった。畑の中には、ジャガイモが植えてあった。関東のジャガイモ畑と違って、他の野菜は見あたらなかった。目の前にあるジャガイモ畑は、ジャガイモだけだった。とにかく、端から端までジャガイモだけ・・。国道の両脇には建物はなく、ただ真っ直ぐと木が植えてあった。
彼は、一定の速度を保ちながら走行していた。学生達も同様に、一定の速度を保ったまま走行していた。先頭がRZR、次が彼のRZ、最後がDT125LCというふうに走行していた。DTは排気量が小さいため、ついてくるのが精一杯のようだった。RZRの学生は、カウリングの中に身を伏せて走っている。風圧をさけるためだろう。だが彼の旧型のRZにはカウリングがついていなかったので、学生のまねは出来なかった。
学生と彼が時たまアクセルを開けると、DTはバックミラーに消えてしまう。ギヤを落とし加速すると、金属音と共にマフラーから白い煙が出て、バックミラーに白い煙だけが写る。RZとRZRが交互に先頭を走る。
先頭のRZRが右折の合図をすると、彼もそれに従って右折の合図を出して曲がった。町の中にはいる。どこに行こうとしているのか、彼には全く見当がつかなかった。最初の信号機を右折した。彼は初めてその時、学生がどこに行こうとしているのか分かった。目の前に「愛国駅」と書かれた建物が現れたからだった。
学生達は、「幸福駅」と「愛国駅」の切符を買うためにここを訪れたのだった。
「おい、何枚買っていく?」
学生達は、相談していた。彼は土産は買わない主義なので、駅の中で退屈していた。彼等が駅に入ってしばらくしないうちに、次々と観光客が訪れてきた。それも、自転車やバイクが多かった。駅の中にはいると、スタンプを押していくライダーもいた。彼は何を思ったか、彼等に
「俺、ちょっとはがきを買ってくるから・・。」
と市街地に向かって走り出した。駅前の売店にはハガキは置いてなかったので、売ってる場所を尋ねて、郵便局に向かった。
郵便局は、駅前を右に曲がったところにあった。それも小さな郵便局で、駐在所も兼ねていた。彼は、はがきを二十枚購入した。駅に戻ると、五枚のはがきにスタンプを押した。スタンプを押し終わると、
「俺も切符買おうかな?どうしょうかなー。切符だったらかさばらないし、よし決めた、買うぞ!」
彼は迷いながらも、セットになっている切符二つと、普通の切符を三枚購入した。セットの切符は、誰に渡すか決めていたようだ。
「写真撮ろう。」
三人はそういいながら、駅の外に出た。駅の外に出ると、バイクが十五台ほど止めてあった。
駅を後に、三台のバイクは帯広市へと向かった。帯広市には、午前十一時過ぎに到着した。お腹が空いてきたので、食堂を探しながらの走行となったが、学生達が銀行に寄ることを知っていたので、
「ここで食べよう。」
と、彼は銀行にバイクを止めた。市内を歩くが、なかなか食堂が見つからないまま、銀行に戻ってしまった。自然と流れは、「走りながら適当な場所を探す。」となった。
三台のバイクは、阿寒湖方面へと向かった。ルートは二本あり、一つは「上士幌」、もう一つは、「本別」のルートだった。三人はルートを決めないまま、大きな交差点にさしかかった。
交差点には、「上士幌」と「本別」の標識がかかっていた。彼等は、交通の流れに沿って真っ直ぐ走行した。国道二四一号線を走行して、上士幌経由で阿寒湖に向かうルートだった。距離的には、二四二号線を走行し「本別」経由で阿寒湖方面に向かうのが近かったのだが、交通の流れが速くて右折できなかったようだ。
真っ直ぐな道が「上士幌」迄続いたが、足寄まではアップダウンとカーブが続き、変化に富んでいた。大きなカーブを通り過ぎ、緩い上り坂を走行するとドライブインがあった。彼のバイクが右折すると、学生達も右折した。
このドライブインは、峠の中間地点に営業していた。この峠からは、湖も見えた。三人はヘルメットをとると、ドライブインの中に入った。中はがらんとしていて、広かった。テーブルに座っていると、お茶が回ってきた。三人は、
「何を注文するかな?」
と、口を揃えて言った。彼はすぐに
「カレーを下さい。」
と、注文が早かった。彼には彼の理由があった。北海道でバイトが見つからなかったら、このまま旅を続けるつもりでいたので、無駄なお金は使いたくなかったのだ。
三人は、テレビに釘付けだった。なぜなら、天気予報をやっていたからだった。彼等にとって、雨の中を旅するのは苦痛なのだ!そんな彼等の気持ちとは裏腹に、明日の予報も雨らしい。
今まで気がつかなかったが、ドライブインの中では松山千春の曲が流れていた。北海道にふさわしい曲だった。彼も、今回の旅のために「松山千春」のカセットテープをザックの中に入れてあった。北海道で聞くつもりでいたのだが、まだ一度も聞いていなかった。ドライブインに流れている曲を聴きながら、自分の持ってきたカセットテープをゆっくり聴きたいと思った。そんなことを想いながら彼は、
「明日も雨かよ、頭に来るな!そっちはどこに行くんだい?」
と、学生達に尋ねた。学生達は、
「根室半島に行くつもりです。キャンプ場もあるようだし・・・。」
と、答えた。それに対して彼は、
「もし雨だったら走りたくないな・・。家からずっと雨の中を走ってきたんだ。もう、うんざりだよ。初日は、雨の中十五時間も走って、釜石まで向かったんだ。」
と、テレビを見ながら一方的に話した。
食事が終わると、水を軽く飲んで外に出た。外は雨が少し降っていた。彼は空を見上げながら
「こりゃ、また雨になるぜ!」
大きな声で言った。
三人がドライブインの所で会話をしていると、ホンダCBX250が雨具を身につけて、ドライブインに入ってきた。そのライダーに尋ねると、阿寒湖の方は雨と言うことだった。ドライブインを出ると、三人は足寄に向かった。五㎞ほどで足寄だった。彼は、バイクのオイルランプが点灯しているのを気にしていた。出来たら、足寄でオイルを補給したいと思っていた。
足寄にはいると、彼は、オイルを補給することを学生に告げた。それを聞き、学生達は「いいですよ。雨も降ってきたから、モータースで雨具を着ましょう。」
と、言った。「ヤマハ」の大きな看板が、右側に見えた。三台のバイクは、モータースのガレージに入った。大きなガレージの中には、何台ものバイクが並べてあった。かなり古いバイクも置いてあった。彼等がガレージに入ったときには、すでに先客が居た。社会人のようだった。バイクは、ホンダのCB250RSZだ。会話はなかったが、お互いに軽く頭を下げた。彼がオイルを補給していると、CB250RSZは雨の中へと走り出した。
彼等もオイルの補給が終わると、雨具を着て雨の中を走り出した。雨は、かなり強かった。しばらく走行すると、先ほどのCB250RSZが前を走行しているのが見えた。彼等がすぐに追いつくと、CB250RSZはスピードを上げた。彼等はその後を走行した。 学生達は、「オントネー湖」の標識に従って右折してしまった。CB250RSZは、そのまま直進した。彼は、学生達に従って右折した。道幅は狭くなり、カーブの多いダートが続いた。四㎞ほど走行したところに、湖があった。観光客の車も数台停車していた。バス停があったので、路線バスも通っているのだろう。
バイクは、彼等だけだった。何故か、若いカップルが多かった。雨具を身につけて彼等の姿は、若い男女のカップルと比較したら浮浪者に見えるだろう。彼が
「寒いな!写真でも撮っていこう!」
と言い、近くのカップルに向かって
「すいません!シャッター押してもらえませんか?」
と、頼み込んだ。快く引き受けてもらった後、カップルからもシャッターを頼まれた。
三人は寒いので、早めに阿寒湖に向かった。狭い道路から、再び国道に出た。八㎞走行すると、T字路にぶつかった。ここを右に曲がれば、阿寒湖に出る。彼等は右に曲がると、アクセルを開けた。対向車が何台かすれ違った。バイクも数台、列を作って走ってくる。ほとんどが、ツーリングだった。ピースサインも多くなってくる。左側のガソリンスタンドでは、オフロード者がガソリンを入れていた。多摩ナンバーのバイクだった。彼等に手を振っていた。
ガソリンスタンドを過ぎたところに、信号機があった。右側がキャンプ場になっていた。彼等は、反対に左折した。観光客が多い道路を徐行する。「マリモ記念館」にバイクを止めると、彼等はヘルメットをとった。学生が
「かなり人が多いな、バイクもかなり止めてある。これは新型のVFだよ。」
と言いながら、「マリモ記念館」に向かって歩き出した。
記念館には入ったが、入場料を取られる場所はさけた。すぐに出てしまうと、観光客の流れに沿って、湖畔の方へと向かった。湖畔には湯気が立っていた。ここは「ボッケ」と言われる温泉地らしい。彼等は、ここで今後の予定を話し合った。
バイクの所に戻ると
「じゃ、元気でな。もしかしたら、明日また会うかも知れないね。ユースの前の道路も通るしね・・。」
彼は、ヘルメットを取り出しながら、学生達に向かって話した。学生達も同じように
「じゃ、お元気で。」
と、彼に向かって言った。
三台のバイクは、町の中を一緒に走り抜け、国道二四一号線で別れた。学生達は左に、彼は信号機を真っ直ぐに突っ切った。彼等は、お互いにホーンを鳴らしながら別れた。雨の中へ・・・。彼も屈斜路湖まで一緒に行きたい気持ちもあったが、これ以上濡れると今夜が大変なので、阿寒湖にテントを張ることにした。
キャンプ場の管理人に四百円を支払うと、キャンプ場に入った。駐車場は、ほぼ車だった。彼は、テント場の近くにバイクを止めた。キャリアから荷物をおろすと、テントを張る場所を探した。テントの数が多く、張る場所を探すのに苦労した。彼は、トイレと水場で張る場所を決めた。テントは、数分で張り終えてしまった。ダンロップのドーム型テントは使用回数が多いので痛んでいた。、
テントの中に入り、小物の整理をするといつものように紅茶を沸かした。使い古されたホーローにティーパックを入れ、熱い紅茶をゆっくりと飲んだ。今日は十分に時間があるので、ひとまず寝ようと考えていた。
シュラフの中に入り休んでいると、ポツリポツリとテントに当たる雨音がした。その音は、すぐに「ザー」と激しい音にかわった。彼は、天井をジッと見つめながら、何かを考えていた。十分ほどばかりみていただろうか・・・、雨はすぐに止んでしまった。入口を開け、外を見た。いったん外に出て辺りを見回すと、再び中に入ってしまった。それから、メモ帳とはがきを出した。メモ帳には、住所と電話番号が書かれてあった。メモ帳の住所を見ながら、はがきに宛名を書き出した。彼の字は、おせいじにもきれいとは言えなかった。
宛名を書き終えると、考え事をしているかのようにハガキをジッと見つめた。それから、一気に書き始めた。彼は書き始めると、早かった。次々と書き、五枚のはがきは文章で埋め尽くされてしまった。彼は、急に外国に行ったという人のことが頭に浮かんだ。その人の住所もメモ帳にきちんと書かれてあった。しかし五枚の中には、その人の住所は書かれていなかった。彼は、その人がお盆過ぎでないと帰ってこないと言うことを知っていたので、書かなかったのだ。
テントの中が急に明るくなり出したので、彼はテントから出てみた。貴重な晴れ間と考え、彼はカメラを持ち出してキャンプ場から外に出た。キャンプ場近くの信号機の所で、バイクの撮影を試みた。かなりのバイクが通過したため、あっという間にフィルムを三本使用してしまった。
彼がファインダーーをのぞいていると、どこかで見たことのあるバイクが四台止まった。襟裳岬で出会ったバイクであることを思い出し彼は、
「おーい、おーい。俺だよ、俺!」
と、四台のバイクに向かって叫んだ。彼の声が届いたのか、四台のバイクは彼の所に近寄り、手前で止まりエンジンのスイッチを切った。彼は、
「ここで会うとは、思っても居なかったよ。これからどこまで行くの?」
と、彼等に尋ねた。ガンマに乗ったライダーが
「これから屈斜路湖まで走るよ。泊まる場所はまだ決まっていないけどね。」
と、答えた。彼は、
「さっきパトカーが通ったから、スピードには気を付けて下さい。」
彼等に伝えた。
四台のバイクは、彼の所に白い煙を残して走り去った。彼は、四台のバイクが走り去った方を、ずっと見ていた。五時過ぎになったので、撮影を止め、阿寒湖畔を散策した。ここには、アイヌ部落も残っていた。民芸品の並んでいる通りを、ゆっくりと歩いた。民芸品を見終えると、パンとウィスキーを買った。
スライド用の撮影をすると、信号機の所にある食堂に入った。先ほど見つけておいた食堂だった。食堂には、客はいなかった。キャンプ場に戻ってもすることがないので、彼はしばらく食堂にいた。暗くなると、食堂を出てキャンプ場に戻った。
駐車場が満車状態だった。テントの数もすごかった。特に、家族ずれが多かった。テントの中に入って少し横になっていると、カラオケの歌が聞こえてきた。彼にとっては、静かなキャンプ場よりは、人の声がするキャンプ場の方が安心できた。しかし、カラオケは十時を過ぎても、終わることはなかった。彼もウィスキーを飲んで、何とかごまかしていたが、我慢できなくなってテントを奥に移動した。
キャンプ場の奥でも、カラオケは終わることはなかった。挙げ句の果てには、花火を上げる人まで出た。寝ようとする人たちが
「うるせえぞ!静かにしろ!」
と、怒鳴っているのが聞こえた。彼の近くにテントを張った学生が
「明日の朝早いので、静かにしてもらえませんか!」
と、訴えた。すると、酔っぱらいが
「こら!学生!何処から来た?」
と、学生に向かって怒鳴った。学生は静かに
「沖縄です。」
と、答えた。酔っぱらいはそれに対して
「聞いたか!沖縄だとよ。こっちに来て一緒に飲め!」
と、怒鳴った。学生は、
「僕たちは合宿中なので、結構です。」
と、答えた。
学生とカラオケを楽しんでいる人たちの会話がとぎれると、又カラオケの歌が聞こえてきた。彼もサイクリングできた学生と一緒に抗議しようとしたが、そのうちにやめるだろうと思ったので、苦情は言わなかった。
彼は、またウィスキーを飲み始めた。頭に血が上っているのか、悪酔いしそうだった。時計の針を見ると、午前0時を過ぎていた。カラオケの歌は、まだ聞こえた。彼はシュラフから出ると、テントの外に出てカラオケをやっているところまで行った。そして、
「うるさいんですけれど!」
彼は真っ赤な顔をして、訴えた。すると、酔っぱらいが
「さっきの学生か、沖縄からサイクリングで来たバカか!」
と言われたので
「違います。」
と、数人の男達をにらみつけながら答えた。それに対し、酔っぱらいが
「じゃ、何処から来たんだ?」
と尋ねたので、彼は
「茨城からです。バイクで来ました。」
と、目をそらさずに答えた。酔っぱらいは
「おい、聞いたかよ。茨城からだとよ。いも!こら!茨城のいも、こっちで一緒に飲め。」と、彼に向かって叫びました。彼は苦情を訴えたことを後悔しながら、その場を去りテントに戻りました。

メモ ガソリン3800円 昼食800円 キャンプ代300円            オイル代1000円 銭湯代200円 夕食 玉丼450円

七月三十一日(日) 「霧多布湿原から根室半島へ」
朝早く目覚めた彼は、テントを撤収してキャンプ場を後にした。昨夜のことは思い出せば出すほど、腹がたってきた。キャンプ場を出るとき、昨夜の男達のテントに石を投げてやろうかと思ったが、ばかばかしく思えてきたのでやめた。
朝の国道二四一号線は、走行している車が少なかった。先ほどまでカローラの後ろを走っていたが、追い抜いてしまった。かなりのカーブが連続していたが、彼にとっては楽しいものであった。夏だというのに、寒くて体が思うように動いてくれない。彼は、雨具を身につけることを考えた。
弟子屈町から国道二四三号線に入る。国道には、「美幌峠」と言う景色の良い峠があったが、行かずに終わってしまった。一度は美幌峠目指して走行したのだが、帰りにでも立ち寄ればよいと考えていたが、立ち寄ることはなかった。
彼は一度引き返してから、屈斜路湖に向かった。屈斜路湖には、アイヌ部落があった。中に入りたかったのだが、早朝と言うこともあり開いていなかった。記念撮影をして、その場を去った。
池の湯には、朝から観光客が来ていた。ここには、温泉があったのだ。それも、砂の中からわき出ている温泉が・・・。かなりの数のバイクが、停車していた。ほとんどがグループだった。彼は、テントが多く設営してあるのを疑問に思った。不思議に思いながら歩いていると、ジャズフェスティバルの看板があった。この屈斜路湖で、ジャズフェスティバルが開催されるというので、多くの若者が押しかけていると言うことだった。
屈斜路湖から摩周湖に向かった。摩周湖に向かう道路は、カーブが多くコーナーリングを楽しむことが出来た。ただ残念なことに霧が立ちこめていて、走行しながら風景を楽しむことが出来なかった。
霧がヘルメットのシールドをぬらすので、前がよく見えなかった。しかし、彼はコーナーを楽しみながら、前方を走行するサバンナとシルビアを追い越した。コーナーリング性能は、バイクの方が限界が高い。下りは弱いが、登りに関してはコーナーの安定が優れている。
霧の中を走行していると、ドライブインが見えてきた。彼はリズムが崩れないように、そのまま走行した。ドライブインを過ぎると、下りに入った。下っていくと、徐々に視界が開けてきた。緩いカーブを通過すると、ストレートになっていた。速度警告灯が赤くついたままだった。両側が、牧場になっていた。
先ほどまでの霧が晴れてきて、視界がハッキリしたとき、彼はふと疑問に思ったことがあった。「摩周湖」は、山間部にあるはずなのだが?このまま下っていくのは得策ではないと思い、バイクを路肩に止めた。ロードマップを取り出し確認すると、彼が思っていたとおり間違っていた。
通り過ぎてしまったので、道を引き返した。スピードを緩めて走行するが、摩周湖は分からなかった。先ほどのドライブインが見えたので、ドライブインで尋ねることにする。駐車場にバイクを止め、ドライブインの中に入る。中に入り、「摩周湖展望台」の文字を確認すると、ここが彼の探していた展望台であることが分かった。
長い階段を上り展望台に出たが、何も見えなかった。彼ががっかりしていると
「今日も見えませんね。ここは、午後になっても見えないんですよ。見える確率が低いんですね。」
そういいながら、一人の老人が彼に近づいてきた。彼は老人の言葉に対して
「そうですか、先ほどもこの前を通ったんですけど、霧で場所が分からなくて・・。でも残念だなー。せっかく来たのに・・。」
と言うと、老人は
「こんな話知っていますか?摩周湖に初めて来て摩周湖を見た人は、愛した人と結ばれないという話を・・。」
説明すると、彼は、
「じゃ、私は愛した人と結ばれますね。」
笑顔を見せながら言った。彼は老人に礼を言うと、根室半島目指して走行した。
先ほどの真っ直ぐな道路を走行していると、右側に「摩周湖ユース」と言う看板が見えた。彼は看板を見て、慌ててブレーキを踏んだ。バイクを止め、ユースの前に並んでいたバイクを見回した。偶然、建物からバイクに向かう学生を見かけたので
「偶然だな、俺だよ、俺!」
と話しかけた。学生達は、これから根室半島に向かうらしい。方向が同じなので、一緒に行こうと考えたが、ヘルパーから「今なら摩周湖が見える。」という話を聞いたので、もう一度摩周湖に向かった。
学生達は根室半島に向かい、彼は再び摩周湖に向かった。残念なことに、摩周湖は見ることが出来なかった。再び下ると、弟子屈を抜け根室半島に向かった。
国道の両側が樹林帯で囲まれているところを抜けると、ただの広い野原に出た。野原と言うより、牧草地帯かも知れない。広い、広い牧草地帯を走行していると、後ろから何台かのバイクが、彼のバイクを追い越していくのだった。ある者はホーンを鳴らしながら、ある者は手を振りながら追い越していくのだった。彼のバイクは、時速九十キロを示していた。それを考えたら、彼のバイクを追い越していくバイク達は何㎞で走行しているのだろう?
彼は捕まったばかりなので、慎重に走行した。これまでの経験から、地元ナンバーの車の後ろを走行していればほぼ捕まることはなかった。そうでなければ、決して先頭を走行しないことだ。それも、距離感を考えて走行することが重要だと考えていた。
行けども行けども、牧草地帯の景色は変わらなかった。一時間ほど走行すると、「荻野」と言うところに到着した。ここは、不思議なことに信号機がなかった。何㎞走行しても、信号機がない!町中に入ってもない!
虹別市街にはいると、ガソリンスタンド、スーパーなどが点在していた。更に市街地を抜けると、周りは樹林帯と牧草帯の景色が、交互に現れるのだった。人家は、見えなかった。お腹が空いてきたので食事を考えていたが、食堂がなかった?更に深刻なことが起きた。ガソリンが無くなってきたのだ。距離にして、約六十㎞ほどしか走行できない。大体の距離なので、どうなるか分からない。人家さえないこの国道沿いに、ガソリンスタンドは望めない。それを考えたら、スピードを落として一定の速度で走行することを心がけるようにしなければ・・。
ところどころにサイロが見えるが、あまりきれいなサイロではなかった。何となく人の臭いがしない。あるテレビ番組で、「パイロットファーム」と言うのを見たことがある。この番組の内容は、北海道の開墾から、国の政策による牧場計画を扱った番組だった。番組の中で、司会者が「現在、北海道の牧場は危機に面している。」と、一言言ったのが印象的だった。それを考えると、あの汚いサイロは、つぶれてしまった牧場のサイロ?
虹別に到着すると、やっと食堂を探すことが出来た。当然、食堂よりガソリンスタンドに入った!スタンドから食堂に入り、すぐにカレーを注文した。この「カレー」は、おきまりのパターンとなってしまった。
食堂を出ると、彼は再び走り出した。原野が広がっている道路でもあり、牧草地帯の道路でもある国道二四三号線、快適な国道であった。サイロが見え、牧草地帯が広がっていて、辺りは緑色に染まっている。行けども行けども、辺りは緑色が続いた。その緑色のを絨毯を走行しているのは、彼だけだった。太陽が雲の間から時たま顔を出すと、雲の切れ間から太陽の光が地上に降りてくる。光が当たる場所は、いっそう緑が掛かって見える。 乾いてきたアスファルトの上を、彼は走行している。彼のバイクは、センターラインよりに走行する。しかし、対向車は一台も走ってこない。彼はふざけて、ギヤを落としてタンクの上に状態をうつぶせにして、アクセルを吹かしてみる。八〇〇〇回転でチェンジアップする。彼のバイクは、乾いたアスファルトの上を加速して見えなくなってしまった。 退屈してくると、バイクを農道に入れて小高い丘のような牧草地で休むのだった。
厚床の町に入り、国道二四三号線から国道四四号線にはいる。四四号線にはいると、霧が出て来た。彼は、霧の中を走り続けた。霧の間から湖が見えるのが、彼には分かった。大きな橋を渡ると、霧はドンドン薄くなってきた。更に根室市内にはいると、すっかり霧は晴れていた。
二車線の道路を走っていくと、T字路にぶつかった。彼はバイクを右に走らせ、納沙布岬目指して走る。道路は、狭くなったり広くなったりして走りづらかった。彼は学生達に会えると思って、先を急いだ。それなので、午前中に納沙布岬に着いてしまった。彼はバイクを止めると、学生達を探した。しかし、学生達は居なかった。ここで一時間待って学生達に会えなければ、ここを出発することにした。
海も、霧で何も見えなかった。彼は、展望台の記念館の中で休んでいることにした。窓の外を見ると、雨が降っていた。彼が一時間待っていても、学生達は来なかった。彼は展望台から、雨の中へと歩いた。いつの間にか、彼のバイクの周りは、たくさんのバイクで埋め尽くされていた。
彼がザックの中から雨具を出して着用しようとしたときも、次々にバイクが入ってきた。全進雨で濡れたライダーは、雨具を来たまま歩くのだった。彼は納沙布岬を後に、知床半島目指して走行した。雨は、止むことを知らなかった。むしろ、だんだん強くなってきた。彼は、すれ違うバイクから目を離さなかった。なぜなら、学生達とすれ違うかも知れないと思ったからだった。しかし、それはなかった。
彼は、寒くなるのを肌で感じた。夏の北海道がこんなに寒いものだとは思っても居なかった。彼は夏の北海道の寒さを甘く考えて、着替えはTシャツだけしか持ってこなかった。それから、「YAMAHA」のマークの入ったトレーナーを一枚持っているだけだった。彼は、一度通ってきた道を引き返していた。四四号線から二四四号線へと・・。二四四号線も、車を見かけることはなかった。雨の中の二四四号線は、心細かった。お腹が空くし、寒いし・・・。とにかく温かいラーメンが食べたかった。しかし、国道沿いに建物は見あたらなかった。
彼がガソリンの心配をするようになる頃、やっと古びた漁村に着いた。海岸沿いには、壊れた漁船が打ち上げられていた。彼はその町で、ラーメン屋を見つけた。ラーメン屋の駐車場には、トレール車が五台停まっていた。彼は、トレール車の脇に自分のバイクを止めると、中に入った。中央には、夏だというのにストーブが置かれてあった。更に、その周りにはブーツを履いた中年男が、四人座っていた。彼等もラーメンを食べている。
彼は中を見回して、開いているテーブルを探した。ヘルメットを抱えながら、左端のテーブルに座ると、彼は
「味噌ラーメン一つ。」
と、言った。ストーブの所では、四人のむさ苦しい男とラーメン屋のおじさんが楽しそうに会話を交わしている。バイクの話に熱中しているようだ。彼は、その話を静かに聞いていた。
「毎年、バイク好きの男達がここにくるんですよ。このノート見て下さい。ここに寄った人たちの日記帳ですよ。ほら・・・。」
ラーメン屋のおじさんが、ノートを手にしながら話している。誰かが
「ここから羅臼まで、どのくらいありますか?」
と尋ねると、ラーメン屋のおじさんは快く答えてくれる。
会話を聞いていると、知床半島の情報がよく分かった。彼もノートに走り書きで
「俺は日本一周するぞ!三年二組のみんな元気?」
と、書いた。彼は少し雑誌を見ていたが、立ち上がると
「この辺に、キャンプ場ありますか?」
と、ラーメン代を支払いながら、ラーメン屋のおじさんに尋ねた、おじさんは料金を受け取りながら
「キャンプ場はないけれど、何処にテントを張っても苦情を言う人はいませんよ。適当なところにテントを張ってはどうですか?」
と、答えた。彼は、つり銭を受け取ると外に出た。
相変わらず、雨は降っていた。バイクに乗り、近くのスーパーでパンとラーメンを買うと再びバイクに乗り出した。ストーブの側を離れてみると、やはり外は寒かった。夏の北海道だというのに、この寒さはどうしたんだろうか?国道の左側は、海に沿っている。空は、どんよりと曇っている。しかし、彼は走ることをやめなかった。エンジンは汚れ、ナンバープレートからマフラーまで汚れていた。彼は、その汚れには気がついていないようだ。彼の雨具も・・・。
彼はこのまま雨の中を走行するよりも、晴れてから旅を続けた方がよいのではないかと考え始めた。しかし、晴れて来るという保証は何処にもない。スーパーで聞いた「青少年旅行村」にテントを張ることにする。このまま走行すれば、午後四時頃にはつくはずである。後三十分ほどで到着?
青少年旅行村は、国道の左側にあり海に面していた。彼はキャンプ場にはいると、お金を五百円支払った。高いと思ったが、水場のないところにテントを張るよりはましと考えた。早速張る場所を探し、キャリアからザックをおろす。雨に濡れた雨具をとり、テントの中に吊すと、紅茶を沸かし始める。暖かい紅茶を飲みながら、ラジオを聞く。心が安まるときだ。朝早くから走り通しなので疲れがどっとでる。疲れたのか、いつの間にか寝てしまった。
一時間ばかり寝ただろうか、彼は急にお腹が空いてきた。時計を見ると、夕食にしても良い時間だった。外食を止め、テントの中でラーメンを作ることを考えた。腹が空くから、ソーセージやかっぱえびせんも食べることにする。水をくみに行こうと、テントから外に出ると、知らないおじさんが
「こんにちは」
と、挨拶してきた。彼も
「こんにちは」
と返事をした。彼が水をくんでくると、おじさんは
「このエビおいしいよ。食べてごらん。」
と、彼にエビを十八匹ほど差し出した。彼は、
「どうもありがとうございます。お一人ですか?」
と尋ねた。どうも四十前後に見えたので、家族ずれと考えていたが
「ええ、一人です。」
とおじさんは返事した。何となく寂しそうな雰囲気だったが、彼がテントに入ってしまうとのんきに鼻歌を歌っていた。彼はテントの中で、ラーメンとエビ、ソーセージを食べた。かっぱえびせんは、寝るときにウィスキーのつまみにした。彼は明日晴れることを願ってシュラフの中に入った。

メモ 朝食カレー500円 昼食ラーメン400円 ガソリン2000円

八月一日(月) 「 知床峠から網走湖へ」
朝も霧で、視界が悪かった。彼は時間を遅らせて、出発しようと考えた。時間が経てば霧も晴れてくるだろうと考えたのだ。思った通り、二十分ほどで霧は晴れた。彼は慣れた手つきで旅の用意をすませると、バイクを押しながらキャンプ場を出た。朝早くからエンジンを掛けると、キャンプ場の人達に迷惑を掛けてしまうと考え、バイクを押していったのだった。
エンジンを掛け、知床半島に向かう。途中右折して、野付半島に向かう。野付半島の両側は、海だった。雲の切れ間から、太陽の光が海を照らすのだった。更に、お花畑が続いていた。それも、ずっと続いていた。黄色い花で、ニッコウキスゲに似ていた。道路の両側に人家はなかったが、電線が真っ直ぐに引かれていた。。
道路がとぎれたところに、一軒だけ店があった。そこにバイクを止めて、自然歩道を歩いた。彼が歩いていると、ブーツを履いたライダーに出会った。彼が
「ここには、何があるんですか?」
と話しかけると、
「ここは、トド松などがあるんですよ。倒木と言った方が早いかな・・。」
ライダーは答えてくれた。彼は、そのライダーと一緒に中を歩いた。湿原地帯なので、板が強いてある歩道を歩かねばならなかった。彼が
「バイクは?」
と尋ねると、ライダーは
「GPZです。」
と答えてくれた。彼は自己紹介をすると、自分のバイクのことも話した。
彼は、GPZと誰もいない湿原の中をゆっくり歩くのだった。湿原の中には、珍しい植物もあった。彼が高原で見かけた植物も、何種類かあった。残念なことに、植物名を言えるほどの知識が彼にはなかった。駐車場まで、彼等は一緒に歩いた。GPZが
「向こうに国後が見えますね。」
と指さした。彼は、GPZが指した方を見た。なるほど、ハッキリと島が見える。地図上では知っていたが、今回初めて国後島を見た。更にGPZは、
「国後がハッキリ見えるのは、珍しいですよ。」
と言った。彼はその話を聞くと、カメラを取り出して撮影した。
二台のバイクは、湿原の駐車場を後にした。走行しながら彼は
「ねえ!ここから何処に行くの?」
と、大きな声で尋ねた。GPZも大きな声で
「僕は、根室に向かいます!」
と、答えた。彼は、
「じゃ!俺と逆だね!俺は知床半島に向かうよ!」
と、シールド越しに言った。
カワサキのGPZ250は、ベルトドライブの静かなバイクだった。彼はそれを知っていた。彼は走行しながら
「ベルトドライブは、静かだね。切れたりしないの?」
と、尋ねた。GPZは
「大丈夫ですよ。それに、チェーンみたいに調整の心配が無くていいですよ。」
と、答えた。彼は、故意にスピードを上げた。八十㎞、百㎞、一二〇㎞、ストレートに伸びたアスファルトの上を一気に加速していく。遅れながらも、GPZはついてくる。彼がアクセルを戻すと、GPZは追いついてきた。軽く笑いながらGPZが
「RZは、速いですね。」
と言った。
二台のバイクは、T字路の所で別れた。彼のバイクは右へ、GPZは左へと向かった。知床半島に向かう国道三三五号線は、「熊注意」の立て看板が目立った。熊が出たら、バイクで逃げると決めていたので不安はなかった。それに、熊が出るようには思えなかった。確かに人家もなく、車の往来も少ない。しかし、熊が出るというイメージはなかった。もし雨が降っていたら、違っていたかも知れないが・・・。
天気は良かった。久しぶりの太陽かも知れない。彼は、このまま晴天が続くのを期待しながら走行した。しばらく両側が林に包まれた道路が続いていると思っていると、カーブを下ったところから、大きな海が彼の視界に入ってきた。真っ青な海だった。太陽の光で、よけい青く見える。彼は、これが知床の海だと思った。
所々に、「カニ」の売店が見えた。さらに、峠の下に大きなドライブインが見えた。ドライブインにはいると、海を見ながら遅い朝食をとった。彼は、ドライブインで知床峠の道路の状態を尋ねた。食後の熱いお茶を飲み終えると、ドライブインから出て、再び太陽の下を走行するのだった。太陽の下をしばらく走行すると、濡れた衣類は完全に乾いた。太陽のありがたさを、しみじみと知った。
羅臼の町に到着すると、ガソリンを補給し、スーパーでラジカセ用の電池を購入した。ガソリンを補給するとき、スタンドでも知床峠の情報を詳しく尋ねた。彼は、出来たら知床峠を横断する前に、知床半島の末端まで行くことが出来たら行きたいと思っていた。しかし、様々な情報からそれは無意味だと判断した。
知床峠の確認をすると、信号機を左折した。左折するとすぐに停車した。郵便局があったからだった。彼はタンクバックからハガキを取り出すと、はがきをポストに投函した。更に、局内に入りはがきを五枚購入した。そのハガキは、通常のハガキより五円安かった。ハガキには、観光地の景色が印刷されていた。ハガキをタンクバックに入れると、再び走りだした。                                    知床峠は遅い車が走行していなければ、最高に楽しいワィンディングロードとなるのだが・・・。何処にでも遅い車は走っているもので、この峠でも数台見られた。彼は、先ほどからカリーナGTの後方を走行していた。前方の車は、遅い車には入らなかった。バックミラーには、スズキGS750が写っていた。                   カリーナGTは、かなりのハイペースで走行していたのだが、急にスピードが落ちた。なせスピードが落ちたかというと、前方を走行していたサニーに追いついてしまったからだった。彼はギヤを落としながら走行し、対向車が来ないことを確認すると、アクセルを一気に吹かし二台の車を追い抜いた。追い抜いた後前方にカーブが見えたので、フルブレーキングした。カーブで体を傾けると、徐々にアクセルを開けながらコーナーを抜けた。バックミラーにはサニーは写っていず、スズキGS750が写っていた。追い抜く前から、ぴったりと彼の後方についていた。彼にとっては、走りづらかった。
しばらくすると、コロナに追いついた。彼は追い抜かず、コロナの後ろをゆっくりと走った。できたら、後方のGSが追い抜いてくれるのを待つことにした。そう考えながら走行していたら、前のコロナが急に停車した。彼も慌てて停まった。後方のGSは停まらず、彼等を追い抜いた。
コロナの前にも、数台の車が停車していた。停車するような場所ではないのに、何故か停車していた。ドライバーが窓から外を見ているので、彼もドライバーが見ている方向を見た。そこには、青い海の上に浮かんだ国後島が見えた。彼の後ろにも、車が停車していた。
交通渋滞になりかねないので、彼は再び走り始めた。峠を登るにつれ、霧が発生し始めた。その霧も、峠の最高地点に達すると雨に変わった。峠を下ると、完全な雨だった。さらに悪いことが起こった。先ほどまでの快適な舗装路から、ダートに変わってしまった。一部だけかと思っていたが、それが続いた。二サイクルのRZに二十五㎏ほどの荷物をくくりつけ、ダートを下る。それも土砂降りだ。
彼のバイクと雨具は、、峠を下り終える頃には泥だらけになっていた。峠を完全に下ると、再び舗装路にかわった。舗装された国道を「知床五湖」へと向かう。国道を右折すると「知床五湖」だ。入ってすぐにダートになった。最悪なことに、このダートは道幅が狭く荒れていた。彼はトレール車に乗るように、立ったままバイクに乗った。転ばないように、バランスを保つためだ。ダートは三㎞ほど続いた。その間に、二台のバイクが転倒していた。
知床五湖は、かなりの観光客で賑わっていた。本州の観光地ほど混まないが、人は多かった。彼は、その流れに沿って歩いた。距離は思っていたより短く、ただ湖があるだけで、期待するほどの場所ではなかった。再び駐車場に戻ると、ベンチで少し休んだ。
彼は、目の前を往来する人々をじっと見ていた。彼のようにバイクで来る者もいれば、自転車で来る者もいた。彼は、ここに来たことがいったい何になるのだろうかとじっと考えた。また、疑問にも思った。何も雨の中を走ったり、いろいろな事に会いながら来るだけの価値があるのだろうかと思った。それよりも、アルバイトをしてお金を貯めた方が利口だったのではないかとも思ったりもした。
そんなことを考えていたら、一人のがっちりした自転車野郎が目の前を歩いて行った。自転車の所で停まると、雨具を着て自転車を押して道路に出ると、自転車に乗り雨の中に消えてしまった。自転車の荷物は、サイドバックが四個とリアキャリアにも荷物を付けていた。彼から見れば、この広い北海道を自転車で旅するというのは、かなりの日数と体力を必要とする。バイクであれば、その問題が解消されると思うのだが?
何故自転車なのか?何故バイクなのか?何故一人なのか?
観光客の流れを見ながら考えていると、ふとそんなことを考える自分がバカらしくなってきた。就職はしていないが、その代わり自由な時間を手に入れることが出来たではないかと、納得しながら再びバイクに乗る。
カムイワッカの滝で、DT125LCに乗った社会人と一緒になる。DTは、フェリーで上陸したそうだ。方向が同じなので、しばらく一緒に走る。ただ何となく走っている気もするが、一人で走るよりは心強い。彼は、DTの行動に合わせて走ることにする。どうせ何も予定はないのだから・・・。その日その日を、事故のないように走ればよいのだから・・。
DTは、ウトロの町に到着すると
「ここから知床半島一周の遊覧船が出ているけれど、どうする?」
と、彼に尋ねた、彼は
「俺は、金がないから遠慮するよ。」
と、雨の中で答えた。その答えを聞いて、DTは、
「じゃ、昼食でも食べながら考えるか?」
と、笑いながら言った。
二人は、食堂を探し始めた。勿論、食堂はいくらでもある。しかし、彼は安い食堂を探していた。彼等が食堂を探していると、XL250Rが停まっている食堂があった。バイクには、荷物がたくさん積んであった。彼等と同じ、ツーリストらしい。ナンバーは、山形ナンバーだった。彼等がその食堂に入ろうとすると、一人のライダーが同じ食堂に入ろうとしていた。薄汚れた雨合羽に、泥だらけのブーツを履いていた。ヘルメットを見ると、トレール車に乗るヘルメットを手にしていた。外にあるXLRのオーナーだとすぐに分かった。
XLRのオーナーは、彼等の方を見ると、軽くほほえんだ。彼等も軽く手を挙げた。するとXLRのオーナーは彼等に近づき
「どちらから来ましたか?」
と、彼等に尋ねた。彼等はすぐに
「知床五湖から一緒になってきました。」
と、答えた。
三人は、揃って食堂に入りそのままテーブルに着くと、会話を始めた。それぞれの旅の話を・・。会話の中で、おもしろいことに気がついた。年齢のことである。DTに乗ったひげのある人が二十五歳、XLRが二十六歳、そして彼が二十六歳なのだ。一番年上と見られたDTが若いとは思っても居なかった。それから、年齢が続いているのもおもしろかった。
三人は食堂の前で記念写真を撮ると、再び走り始めた。XLRは羅臼に向かい、彼とDTは、網走に向かった。まだ、雨は降っていた。「オシンコシンの滝」を見学してから、斜里へと向かう。雨は、止んでいた。
斜里を過ぎて、「原生花園」が見えるところにきたころには、太陽が顔を出していた。彼等は、久しぶりの太陽に喜んだ。彼がバイクを止めると、DTもバイクを止めた。彼は「走ってばかりではつまらないから、ここで大休止にしよう!」
と笑顔で提案した。DTも笑顔で
「いいよ!」
と快く賛同してくれた。
「原生花園」と言うところは、アヤメに似た植物がたくさん生えているところだった。広い原野に、きれいな花が咲き乱れているのだ。そして、その原野には馬が放牧されていた。湖も見える。更に、雲の切れ間から太陽の光が湖へと差し込んでいた。
彼は、濡れた長靴を脱ぎ捨てて裸足になると、アスファルトの上に座り込んだ。何台かのバイクが、ホーンを鳴らしながら彼等の脇を走り去っていった。手を振りながら走り去っていくライダーもいた。彼も、それに答えるかのように手を大きく振るのだった。
赤いカワサキGPZ750が、国道を網走方面に向かいながら、走行してきた。他のバイクと同じように、彼の脇を通過するのかと思っていたのだが、違っていた。GPZ750は、フラッシャーをあげながら彼の前に停車した。停車したかと思うと、
「こんちわー!元気いいっすね!」
元気の良い、ひょうきんなライダーが彼に話しかけてきた。ライダーは、スタンドを立てると、ヘルメットをとった。学生のようだった。
「ここが、原生花園っすか?」
GPZは、彼に尋ねた。彼は、
「そうらしいよ、どっからきたの?」
と答えると、逆に聞き返した。GPZは、
「関西ですよ、関西。」
と、笑いながら答えた。彼は、GPZのナンバープレートを見た。「京」ナンバーだった。 彼とDTとGPZの三人組は、網走へと向かった。「京」ナンバーのGPZは、愛嬌が良かった。すれ違うライダーには、大きく手を振って挨拶するし、時には足を上げることもあった。すれ違うライダーも、それに答えるかのように足を上げていた。結構、それが楽しかった。それに、天気が良くなってきたこともハイテンションの理由になっていた。 三台のバイクは、久しぶりの日光を浴びながら快調に飛ばしていた。GPZは、女の子に対しては人一倍愛嬌が良かった。女の子を見ると急ブレーキを掛け、手を振りながらゆっくりと走行するのだった。前など見ない、脇ばかり見ている変人ライダーだった?彼は、愛嬌のあるGPZと別れるのが寂しくなり
「よう、GPZ。今日は、何処に泊まるんだい?」
と、尋ねた。GPZは
「決まってないよ。」
と、答えた。彼はそれに対して大きな声で、
「それじゃ、俺のテントに一緒に泊まれ、DTも一緒に泊まるからよ!」
二人に言った。
DTを先頭に、三台のバイクは網走市内に入った。DTは、網走市内から能取岬に向かった。彼もGPZも予定はなかったので、DTの後に付いて走行した。市内を右折すると、道幅は狭くなってきた。しばらくすると、舗装路からダートに変わった。先頭のDTはトレール車だから走りやすいが、GPZはナナハン、彼のバイクは二サイクルのピーキーなエンジンだ。
彼はモトクロスもやっていたので、林道を走行するのも結構速かった。彼は、DTにぴったりと付いて走行していた。それよりもGPZの事が心配になり、バックミラーをちらっと見た。かなり遅れて走行しているかと思っていたら、驚いたことにGPZは彼のバイクにぴったりと付いて走行していた。
ダートをハイスピードで走行していると、下りにさしかかった。下ると、目の前に海が広がった。久しぶりの、青い海だった。三台のバイクは、岬の所で止まった。バイクから降りると、遊歩道の標識に従って歩いた。人は、少なかった。三人は、ずっと旅を一緒に続けているかのように、親しく話していた。三人の笑い声は、岬に響いた。バイクの所に戻ると、キタキツネが居たので撮影使用としたが、逃げられてしまった。今日だけで、五回目のキタキツネとの遭遇だった。それほどキタキツネは、多かった。
彼は、帰路を考え、
「帰りは、さっきの道を走るのか?」
と、DTに尋ねた。DTも彼と同じ事を考えていたのか
「どうするかな?このまま能取半島を一周しようか!」
と、二人に同意を求めた。二人とも同じ考えだったので、賛同してくれた。GPZが?
「よし、今度は競争しよう。この時間だし、この辺は人家がないから大丈夫だよ。」
と言い出すと、そのまま三台でダートをハイスピードで走行した。
ここから国道までは、天国と地獄のようだった。ストレートのダートを、時速百キロで走行するのだ。安定性の良い車でさえ、時速百キロの林道は相当な危険を含んでいるのに、彼等はバイクで走行している。彼のバイクは、二十五㎏ほどの荷物を積んでいたので、時々後ろの荷物に手をやりながら走行した。
タンクをしっかりニューグリップしていないと、バイクがバランスを崩してしまいそうだった。彼は、最後尾を走行していた。先頭は、DTでなく、「京」ナンバーのGPZだった。彼は、百㎞の壁を破ることが出来なかった。しかし、GPZは百㎞の壁を破ることが出来た。その行為は、狂った行為としか見ることが出来なかった。一度アクシデントが起きれば、死んでいたかも知れない。心配とは裏腹に、事故は起きずにアスファルトの国道を見ることが出来た。
国道に出て、最初の信号機で停車したときフロントフォークからオイルがにじんでいることに、彼は気づいた。一瞬考え込んだが、そのまま走行した。以前乗っていたバイクも途中でフロントフォークからオイルがにじんでいたことがあったが、別に支障はなかった。 辺りが暗くなってきた頃、能取湖に到着した。休まずに、網走湖目指して走行する。国道に出ると、対向車のライトが点灯していた。彼等も、ライトのスイッチをオンにした。すれ違うバイクも多かった。何処に向かっているのか分からないが、視線が自然とバイクのテールランプにいってしまう。ぽつんと光っているテールランプが、何故か暖かみを彼に与えていた?
網走湖までの距離はさほどではなかったが、疲れていたので長く感じた。彼は網走湖畔の国道に出ると、スピードを緩めた。湖畔のキャンプ場を見失っては行けないと思ったのだ。キャンプ場は、国道を右折すると、すぐに分かった。右折の合図を出して、キャンプ場に入ると、バイクからテントを降ろしてすぐにテントを張ろうとしたが、彼は隣に止めてあるバイクのナンバープレートに気を取られて動こうとしなかった。そのナンバーに見覚えがあったのだ。彼が考え込んでいると、
「あれー、フェリーの中で一緒だった人でしょ!」
と、逆に話しかけられた。
暗くて最初は分からなかったが、野辺地からフェリーに一緒に乗った品川ナンバーのXS250の学生だった。彼は思い出して
「よおー、元気そうだな!」
とXS250の学生に懐かしそうに話しかけた。品川ナンバーの学生も、一人ではなかった。ドウカッティに乗った、山形訛りの強い三十代の男性と一緒だった。
彼等はテントを張ると、夕食を食べに行こうとして、
「よおー、学生。夕食はどうする?」
と、テント越しに尋ねると
「食べてきたからいらないよ。駅前まで行くんだったら、ビールを買ってきてほしいっていっているんだけど、買ってきてくれない?」
学生は、ドウカッティから預かったお金を彼等に渡した。
彼等はなるべく近くの食堂で食べたいと思っていたが、近くには食堂がなかった。彼が「駅前に行った方がいいな・・。」
と言うと、彼等は駅前へと向かった。駅前には、たくさんのバイクと自転車があった。みんな、駅前に泊まるつもりで集まっているようだった。彼等は、駅前の食堂にはいると、すぐに注文をした。食堂の中では、テレビで天気予報をやっていた。みんな天気予報に興味があるようで、ジッとテレビを見ていた。誰かが
「明日は晴れそうだな・・。」
と言うと、それに相づちを打つかのように、誰もが頭を下げた。
夕食が済むと、缶ビールとつまみを購入し、ガソリンを満タンにし、キャンプ場に戻った。このキャンプ場は無料だったので、お金の心配はいらなかった。彼もレッドの残りをザックから取り出すと、ホーローに注いだ。レッドは、いつもザックに忍び込ませてあった金銭的に余裕があるときには、ホワイトを忍び込ませておくこともあった。。
DTと彼は、ウィスキーを飲んでいたが、GPZは、あまり呑まなかった。元気の良いGPZも、レッドには弱いようだった?

八月二日(火)「層雲峡から紋別へ」
太陽のまぶしい光で、彼等は目を覚ました。
「快晴だよ、快晴!」
彼等はテントから出ると、嬉しそうな声で叫んでいた。しかし、GPZはテントの中から出てこようとはしなかった。どうやら二日酔いらしい。彼が
「おい!GPZ起きろよ!」
テントの外から声を掛けると、テントの中から
「ダメだ、気分がすっきりしない。」
と、元気のない声がした。彼等が荷物の整理をしているとき、GPZは湖畔の所で吐いていた。それを見ながら、彼等はこれからの相談をした。まず、GPZはこのまま走行するのは危険なので、気分が良くなるまでこのキャンプ場で休ませる事にし、その間に網走刑務所を見学する。見学が終わってから、このキャンプ場で解散をすることになった。また、GPZは心配なので、DTが一緒に走ることになった。
網走刑務所は、すぐに分かった。映画や雑誌で想像していた刑務所よりも、とてもきれいだった。周りは、明るい色のモルタル作りだった。彼等が何枚かの写真を撮り終えて帰ろうとすると、数台の観光バスが、駐車場に止まった。バスの中から、大勢の観光客が降りてきた。この網走刑務所も、観光地になっているようだ。
彼等は、キャンプ場で別れた。再び、彼は一人旅を続けることになった。彼は、とにかく北に向かった。サロマ湖畔を通り過ぎるときだった。彼がガソリンスタンドに止まっている二台のバイクに気がついたのは・・。彼は思わず
「よおう!久しぶりだな、生きてたんか!」
大きな声で言いながら、二台のバイクに近寄った。その二台のバイクとは、摩周湖で別れたRZRとDTだった。
彼等は、別れてからのことを互いに話した。彼は予定がなかったので、彼等と再び合流することにした。彼等は、層雲峡へと向かった。山間部を走行し、峠を越すと層雲峡だった。DTがガイドブックを片手に
「ここは、自動車やバイクで走るよりも、サイクリング車の方がいいらしいよ。」
と解説をしてくれた。相づちを打つかのように
「トンネルの中を通り過ぎるコースがいいらしいね。特にサイクリングコースからの眺めが・・。」
RZRが言った。彼等は層雲峡を見てしまうと、ルート二七三号にでて、紋別に向かった。 ルート二七三号線は、途中からダートに変わった。すぐに舗装路に変わるだろうと思っていたが、その考えは次第に崩されてしまった。彼は、
「おい、引き返そうぜ。」
と、提案した。しかし、二人の大学生は、このままダートを走ろうとしていた。彼は、
「じゃ、ここで別れよう。そして、どこかで会うことにしよう。」
と、違う案を出した。彼はロードマップを出して、「紋別市」を待ち合わせ場所にした。「どちらが速いか競争だな。」
彼はそういいながら、国道三三三号線に引き返した。国道に戻った彼のバイクは、乾いたアスファルトの上を滑るように走った。コーナーとアップダウンの続くルートだった。途中に小さな町があったが、寂れていた。
いつの間にか彼の前に、黄色のXT250Tが走行していた。メーターを見ると、時速八十キロの所をいったりきたりしていた。このコーナーの続く国道を時速八十キロで走行するのは、きつかった。彼は何とかXTを抜きたいと思っていたので、無理をしてアクセルを開けた。抜くことは出来たが、今度はXTがぴったりと離れずに付いてきた。何度バックミラーを見ても、付いてくるのが気になる。彼は疲れたので、左折の合図を出して路肩に停車した。彼が停車すると、XTは彼の横を走り去った。
彼は路肩で二、三分休むと、再び走り出した。人家のない国道をひたすら走った。信号機も対向車もないので、不気味な感じもした。彼は、大学生達に遅れまいと、アクセルはゆるめなかった。
紋別市まで三十㎞という所で、彼は一台のバイクを見かけた。止まっているバイクは、何度も見ているが、そのバイクは故障して止まっているように見えた。彼は、心の中で止まろうか迷いながら通り過ぎてしまった。彼は迷いながらも、無意識にブレーキレバーを握っていた。彼はそこに立ち止まりながら、しばらく考え込んだ。それから、バイクをUターンさせ、故障したらしいバイクの所に戻った。
彼は故障したらしいバイクの所で止まると
「どうしたの、ガス欠かい?」
と尋ねた。バイクは、ヤマハのRZ50だった。少年は、高校生のようだった。
「ええ、ガス欠なんです。」
と、高校生は答えた。彼は高校生に向かって
「じゃ、俺のバイクのガソリンを少しあげるよ。」
と言い、バイクから降りると空き缶を拾ってきた。慣れた手つきで、ガソリンコックのホースを外し、空き缶にガソリンを入れた。高校生は、
「すぐそこにガソリンスタンドがあったのに、どうもすみません。」
と言いながら、彼に向かって頭をしきりに下げた。彼は、高校生に別れを告げると、再び紋別へと向かった。
紋別市に到着したのだが、学生達に会うことはなかった。彼は、そのまま宗谷岬を目指して、走り出した。夕方近くになると寒くなり出したので、雨具を身につけることにした。たまたまバイクショップでオイルを補給しなければならなかったので、バイクショップで雨具を身につけた。
暗くなる前にキャンプ場を探さなくては行けないので、キャンプ場を探しながら、走った。枝幸町にキャンプ場があることが分かったので、枝幸にテントを張ることにした。ここから一時間も掛からない。日が暮れた海岸沿いを走行していると、キャンプファイヤーの火が見えた。彼はその火に引かれるように、火の所に向かった。到着すると、キャンプ場ではなく、学校の校庭だった。更に驚くべき事に、その校庭で偶然学生達と会うことが出来た。彼はバイクで学生達の所まで近づき
「そっちの方が速かったな、何時頃ここに着いたんだい?」
と、学生達に尋ねた。学生達は、
「三十分ほど前ですよ。」
と答えた。彼等はここにキャンプしようと思い、校庭の中に入り尋ねたが、断られてしまった。その代わりキャンプ場を教えてもらったので、困ることはなかった。
彼等は、キャンプ場目指して暗闇の中を走行した。キャンプ場は、海岸にあった。キャンプ場の場所が分かったので、とりあえず夕食を食べるために食堂を探した。なかなか気に入った食堂が見つからず時間が掛かったが、安い食堂を見つけることが出来た。
夕食を終えると、キャンプ場に入りテントを張った。このキャンプ場は平らなところがなかったので、張る場所を探すのに苦労した。結局気に入った場所が見つからず、寝心地の悪そうな場所にテントを張った。彼等がテントを張った後も、バイクが何台かやってきた。

八月三日(水)「宗谷岬から利尻島へ」
朝起きてみると、周りの景色が初めて分かった。確かにキャンプ場ではあったのだが、キャンプ場にしては設備が不足していた。又、平地でなかったため寝付かれなかった。彼等は、真っ先にキャンプ場を後にした。
浜頓別を過ぎると、広い海岸線が続き、単調な道のりだった。更に進むと、宗谷岬に近づくにつれ、丘が多くなってきた。海が見えなくなり、丘だけが続いた。又、その丘に合わせたように、道路もカーブが多くなってきた。そのまま走行していると、丘の切れ間から海が見え、音楽が流れてきた。丘の切れ間の海に向かって、道路が延びていた。そして、その道路に沿って走行すると、そこは宗谷岬だった。
宗谷岬は、観光客でいっぱいだった。彼等は、「日本最北端の碑」の所で記念撮影をしようと思っていたが、順番待ちでなかなか出来なかった。撮影が終わると、稚内市へと向かった。予定はなかったので、とりあえず学生達と行動を共にした。
稚内市には、予定より早く到着してしまった。彼等は、あてもなく市内をさまよっていた。いつの間にか、フェリーターミナルに着いてしまった。学生達が
「僕たちは利尻島に行きます。バイクはここに置いていきますけど、どうしますか?」
と、彼に尋ねた。彼は返答に困ってしまった。フェリー代が高額なので、このまま進路を南に取るのが得策ではないかと考えたのだ。彼は迷いながら
「次のフェリーが出航するまで一時間半あるから、少し考えるかな?」
と、答えた。彼はターミナルの中で、迷っていた。
彼等はいったんフェリーターミナルの外に出て、バイクを止める場所を探した。バイクを移動するとき、彼が
「なんじゃ!このバイク泥だらけじゃないか!ナンバープレートのナンバーが、泥で読めやしない。」
と言い出すと、学生達も
「そうですね。じゃ、ガソリンスタンドに行ってバイクを洗いましょう。ガソリンを入れれば、ただで洗えますよ。」
と、言った。彼等はスタンドを探しに市内へと向かった。バイクにガソリンを入れると、靴を脱いで、裸足でバイクを洗った。水が冷たくて、気持ちが良かった。
彼等は、バイクが洗い終わるとフェリーターミナルに戻った。彼はそこでKL250に乗った学生に会った。学生は、ターミナルでキャンプ用品を広げていた。彼は学生に向かって
「今から何処に行くの?」
と、尋ねた。そのまじめそうな学生は、
「利尻島に行くつもりなんですけど、荷物が多くて困って居るんです。」
と、彼に向かって答えた。彼はそれを聞き
「じゃ、俺も利尻に行こうかな、そっちが良ければ一緒に利尻に行ってもいいよ。」
と、学生に話した。学生は、
「いいですよ。一緒に行きましょう。荷物も二人分に分けることが出来るから、助かります。」
と、表情をあまり変えずに言った。
学生は、彼が大学時代に山岳部に所属していたことを知ると、
「よかった。僕は利尻山に登ろうと思っていたんですが、自信が無くて不安だったんですよ。」
と、言い出した。彼等はターミナルの中でよけいな荷物をロッカーの中に入れ、必要な荷物だけを二人分に振り分けた。それから、乗船名簿に必要事項を記入し、チケットを購入した。彼が乗船名簿に記入していると、学生が彼の乗船名簿を見ながら
「学校の先生なんですか?へえー、いろんな先生がいるんですね。」
と、彼の顔を見ながら言った。
彼等は、バイクをターミナルに置いたまま、利尻島へと向かった。フェリーの中には、ライダーは居なかった?ちょっぴり寂しい気もした。それは、バイクをターミナルに置いてきてしまったからだろう。
フェリーは、約二時間ほどで利尻島に到着した。夕方の利尻島は、ひっそりとしていた。彼等は、フェリー乗り場のあるターミナルで食事を取った。彼はお金を払うとき
「すいません、近くにキャンプ場がある筈なんですけれど・・。」
と、食堂のおじいさんに尋ねた。おじいさんは、丁寧にキャンプ場のある場所を教えてくれた。ここから、徒歩で三十分ほどかかるそうだ。
彼等は、荷物を背負ってキャンプ場に向かった。しばらくすると、キャンプ場に到着したが、キャンプ場があまりにも広くて悩んでしまった。キャンプ場にテントが張っていなかったので、なおさら悩んでしまった。坂道を更に登っていくと、やっとテントが二つほどあった。彼等は、その場所にテントを張った。
学生は、どちらかというと無口であった。だから、あまり会話はなかった。辺りが暗くなり、二人がシュラフに入ったとき、
「まっとって、ねえ、今から利尻山に登るん。僕も一緒に行く!」
そんな声が、外から聞こえてきた。堂やら夜中に登って、日の出を見ようと考えての登山らしい。結構、その後も登山道を歩く人の声がした。

メモ ガソリン2000円 昼食700円 夕食1000円 フェリー代1600円
ロッカー代300円 ジュース100円 パンその他350円

八月四日(木)「利尻島一周」
朝からガスっていたので、時間待ちをして様子を見ることにする。ラジオの天気予報だと、「曇りのち時々雨」、午後は晴れ間も見えるという予報だった。午後は天気が良くなると言うことなので、ガスっている中を出発する。彼は
「下がガスっていると言うことは、上は雨が降っている可能性が強いな。」
と、学生に向かって言った。学生は、彼の話を聞くだけで自分から話そうとはしなかった。 広いアスファルトの道路から本格的な登山道に入ろうとしたところで、また雨が降ってきた。彼はお互いに顔を見合わせてから、空を見上げた。彼は、
「どうしようか?たぶん、上に行っても景色は見えないと思うよ。それに、最悪の場合は雨かも知れない。やっぱり引き返そう。」
学生に提案すると、学生も賛同してくれた。二人は相談して、明日登山することにした。彼は
「今日はサイクリングで、利尻島を一周しよう。」
と、再び提案をした。学生は、それにも賛同してくれた。
二人はキャンプ場に戻ると、荷物をテントの中に入れ、町に出た。レンタサイクルは、五カ所ほどあった。二人は、その中で一番安いところで借りることにした。しかし、サイクルショップは、何処も料金が同じだった。彼は、
「おじさん、二人で三千円の所を二千八百円にしてくれない。そしたら借りるよ。」
と、頼み込むように言った。おじさんは軽くうなずき、商談は成立した。
二人は、バイクを置いてきたことを後悔した。バイクがあれば、サイクリングを借りる必要もなかったし、キャンプ場から町に出るにも、歩かなくて済んだかも知れない。二人は、時計回りに利尻島を回ることにした。
最初は心地よい風に吹かれて爽快な気分でペダルを踏んでいたが、風が次第に強くなり雨が降り始めると黙ったままペダルを踏むだけだった。自転車から降りて休むにも、雨が降っているので、休む場所を探さなくてはならなかった。主な休憩所は、ほとんどバス停だった。北海道のバス停は、小さな小屋になっていたので、休むのに適していた。
二人は、雨の中をモクモクとペダルを踏み続けた。沓形を過ぎた頃から、雨が止み太陽が顔を出してきた。しかし、風はいっこうに止む気配はなかった。夏だというのに寒さが厳しかった。濡れた体を乾かして、ゆっくりとくつろぎたかった。それだけが、二人の頭にあったようだ。
レンタサイクルを返却して、二人はキャンプ場に戻り温かい紅茶を飲んだ。着替えをして、濡れた衣服をテントの上に干した。それまでゆっくりとすることがなかった二人は、キャンプ場で日向ぼっこをするのだった。キャンプ場の様子も、ゆっくりと見ることが出来た。今まで気が付かなかったが、バイクで島を訪れている旅人もいた。一台はモンキー、もう一台は、スズキのGSX250Eだった。その二台のバイクのテントは、ひどかった。ただ、ビニールを付けただけという感じのテントだった。風が吹けば、すぐ飛ばされそうな? 彼等がゆっくりと休んでいると、そこにワンダーフォーゲル部らしい女子大生が来て、テントを張り始めた。かれはその女子大生を見ていると、自分の大学時代が思い出されて仕方がなかった。何故か、無性に話しかけたくなった。その夜は、利尻の花火大会を見た。夜空に散る花火は、とてもきれいだった。

メモ レンタサイクル1400円 昼食600円 夕食500円 ビール150円
ビスケット150円

八月五日(金)「礼文島へ」
二人で利尻を登るはずだったが、昨日と同じようにガスって来たので、礼文島に渡る。鷲泊港からフェリーで礼文島に渡るとき、ちょっぴり家に帰りたくなった。
礼文島に到着したが、キャンプ場が見つからなかった。二人は、キャンプ場を探すために案内所に入った。案内所では、キャンプ場はここから約二十㎞ほど離れたところにあると、説明した。二人は、がっかりしてしまった。歩くには、距離が長すぎた。彼は
「金がないから歩こう。途中でヒッチハイクすればいいさ・・。」
と、明るく言った。彼は大学時代から歩いていたので、苦ではなかった。それに、ヒッチハイクの経験もあった。
二人は一㎞歩いたところで、アルミバンのトラックを拾うことが出来た。残念なことに、このトラックは途中までしかヒッチ出来なかった。アルミバンを降りた二人は、再び歩き出した。彼は思いきって路上の中央に立ち、赤いバンダナを大きく振り車を止めた。赤いスターレットだった。彼は窓越しに
「すいません。ずっと先まで行きますか?もし行くのでしたら、私達も乗せていってほしいんですけれど・・。」
と尋ねると、スターレットのドライバーは、
「ええ、行きますよ。じゃ、後ろに乗って下さい。」
と、答えた。スターレットには、二人の大学生が乗っていた。彼は、静かに
「すいません。キャンプ場に行くお金がなかったものですから・・・。」
と言い出した。それに答えるかのように、学生達も
「俺たちと同じだ。何処からきました?」
と、話した。スターレットに乗った四人は、すぐにうち解けてしまった。
キャンプ場は広かったが、自動車をキャンプ場内に乗り入れることは出来なかった。車から荷物を取り出すと、テントを張る場所を探して張った。それから、いつものように紅茶を沸かしてから荷物の整理をした。このキャンプ場の近くには売店が見つからず苦労したが、バイクで旅をしているライダーが居たので嬉しかった。
学生は独り言のように
「おかしいなぁ、稚内公園キャンプ場で一緒だった女の子が、礼文島に渡った筈なんだがなぁ、もうバイトが見つかって、どこかの店で働いているのかな?」
と、小さな声でしきりにつぶやいていた。それに気づいた彼は、
「このキャンプ場でなくて、違うキャンプ場にテントを張っているんじゃないの?そういえば、そこの所にユースがあったよ。そこで働いているかも知れない・・。」
彼が学生に話しかけていると、学生はスターレット達がテントを張った近くに、白いバイクが止めてあるのを見つけた。学生が
「あれ?あのXL250Rは、女の子だったな。」
とつぶやいていると、そこに女の子がやってきた。女の子は、タオルと石けんを持っていた。女の子は学生に気が付き
「あら、利尻にいるはずじゃなかったの?」
と、学生に話しかけた。二人はその後、しばらくの間稚内から利尻島へ渡ってからの話をしていた。そんな会話を続けている内に、キャンプ場には若者が次々と集まってきた。
二人がテントに戻ると、どこかで見たようなモンキーが止まっていた。更に、隣にはスズキのGSX250Eが止まっていた。ずっと見ていたら、古ぼけたテントの中から二人の男が出て来た。そう、その二人というのは、利尻のキャンプ場で一緒だった二人だ。彼等はその二人の男に近寄り
「もしかしたら、利尻のキャンプ場にいませんでしたか?私達もあのキャンプ場にいたんですよ。私達は、二人のことをよく覚えていますよ。」
と、彼が話しかけると、二人の男もすぐに彼等とうち解け、旅の話を始めた。
日が暮れ、テントに灯りがともる頃
「今晩は、さきほどのXLですけれど・・・。」
と、女の子の声がした。学生テントの入口を開けると、
「あそこに、このキャンプ場にいるライダーが集まるんですけれど、来ませんか?」
と、彼等に言った。楽しそうなので、彼等はすぐにOKをだした。必要な物を準備すると、集まっている場所に行った。辺りが暗いのでハッキリと分からないが、男ばかりが七人ほどいた。その場所は、たき火が出来るように出来ており、周りがレンガで出来ていた。うまい具合にベンチ代わりに座ることが出来たので、そこに座っていると
「焚き火用の薪が少ないから、もう少し拾ってこようか?」
誰かが言い出すと、それぞれ薪を拾いはじめた。彼は薪を拾いながらスターレットのテントに立ち寄り、誘ってきた。
ほんの十分ほどであったが、薪はだいぶたまった。薪に火を付けると、きれいな炎をあげて燃えだした。パチパチと音を立てて燃えてくると、周りが急に明るくなり若者達の顔を照らし出した。名前も何も分からなかったが、会話は楽しかった。誰かが
「一人二百五十円で、酒でも買ってこようか?つまみと焼酎ぐらい買えるよ。」
と提案すると、その声に応じるかのように、各自が二百五十円を出した。スターレットが
「じゃ、俺が買ってこようか?」
と言いだし、そのまま酒を買いに行ってしまった。
スターレットが買ってきた酒も入り話が弾んでくると、それぞれのバイクのことが分かって来た。会話の中で、明日の予定について話が出ると
「この先にあるトド島に行くことになっているんだけど、どうかな?漁船でないと渡れないから漁船をチャーターしておいたんだけど、どうかな?」
XJに乗った若者が言うと、
「俺も行こう。」
「じゃ、俺も行こう。」
と、次々と参加の返事が返ってきた。その結果、全員でトド島に渡ることになった。明日の予定が全員一致で決まると
「このキャンプ場の近くにユースがあるんだけど、そこのユースで風呂に入ってこないか?」
と誰かが提案すると、集会は解散された。
彼はテントに戻りタオルを取り出すと、ユースの風呂に向かった。ユースの風呂は、これで二回目だった。十時を過ぎていたが、ユースの風呂は開いていた。先ほどのライダーも、すでに四人ほど入っていた。彼が
「夏にしては寒いな。明日はどうしようかな?俺、バイク置いてきたんだよな。仕方ないから、朝早く出るか・・。」
と話していると、パリダカに乗った青年が
「バイクの後ろに乗せてもらえばいいのに、結構距離あるよ。」
とアドバイスした。彼はそれに対して、
「乗せてもらうのはいいんだけど、ヘルメットを持ってこなかったんだよ。失敗したなぁ、バイクさえあればなぁ、つくづくバイクの便利さを感じるよ。」
と、答えた。二人の会話から四人の会話へと話が進み、会話がとぎれると彼等はキャンプ場に戻り、シュラフの中で眠りについた。

メモ フェリー600円 昼食700円 缶詰、牛乳260円

 八月六日(土) トド島へ
朝起きると、晴れていた。彼等は、それぞれ島へ行くための準備をしていた。バイクのない二人は、他の人たちよりも早めに出て行った。二人が歩いていると、その脇をバイクが数台通っていった。どのバイクも、二人に手を振っていた。
二人は、焦ることもなく歩くのだった。時たま足を止めると、海を見るのだった。彼は、「たぶんあのカーブを過ぎたところが、岬じゃないか?」
と、学生に向かって言った。学生は、相変わらず無口だった。
二人が歩いていると、バイクが二台二人の方に向かってきた。先ほど通り過ぎたバイクだった。パリダカとGSXLに乗った青年が
「乗りませんか?」
と、二人に話しかけてきた。二人は笑顔で
「サンキュー、歩かなくて済んだよ。」
と言いながら、バイクの後ろに乗った。バイクは、石だらけの道に入った。そこを三分ほど走行すると、船着き場だった。XJが
「一人五百円でいいらしいよ。」
と言うと、みんなXJに五百円づつ渡した。船はそれほど大きくなく、十五人も乗ればいいかなと思うぐらいの、大きさだった。
青い海と青い空の中へと、ボートは消えていった。そんな表現が当てはまる光景だった。船が島に到着すると、午後三時頃迎えに来てくれるようにとXJが言っていた。島の中には、人の踏み跡が残っていた。所々踏み跡からそれて歩くと、きれいな植物が見られた。これと言ったものはあまり無いが、ウニだけはたくさん捕れるようだ。
海水パンツになると、それぞれが海の中へと入った。海の水は冷たく、そしてきれいだった。波が荒かったので、岩場に体を打ち付けてしまった若者もいた。ウニは、おもしろいほどよく捕れた。ウニを捕った後、焼くために焚き火を行った。彼等はウニを焚き火の中に入れると、その周りで休んだ。ウニは、十分ほどすると焼けた。ビールのつまみにするのはよいかも知れないが、そのまま食べるのはあまりおいしくないような気がした。
ウニを取り終えると、彼等は島の探検に向かった。島は小さく、漁師の古びた小屋があった。唯一この島の近代的な建物は、灯台であった。彼等はその灯台に登り、何枚かの記念撮影を行った。船が迎えに来る時間に船着き場に戻ると、船は来ていなかった。船着き場には、ユースの連中が十人ほど来ていた。




一九八三年八月六日(土)「トド島から礼文島の夕陽へ」
礼文島での乞食集団、名前は分からないがバイクだけは、知っている。私は、キャンプ場で「先生」と言われた。
(RZ・KL・XLR・GSX・XLパリダカ・XJ・GS・モンキー)
礼文島に渡り、さらにその先のトド島という島に渡った彼等は、・・・・。
「おい、ユースの連中だぜ・・。」
誰かが言い出した。するとさらに誰かが
「ユースの連中もチャーターした船を待っているんだろう・・・。ちょうどいい、ビーチバレーでもやるか・・・。キャンプ場対ユースホステルと言うことで・・。」
それからトド島で、ビーチバレーが始まった。キャンプ場対ユースホステルと言うことで・・・、それは盛り上がった。なぜあんなに盛り上がったのだろう。下は砂浜と言うより、石の方が多かった。ネットは張らず、ラインは棒を横に置いただけだった。ゲームは、彼等キャンプ場チームが勝った。勝った彼等は、そのままトド島を後にしてキャンプ場に戻った。
キャンプ場に着くと、誰かが夕日を見に行こうと言い出した。礼文島にある空港の丘から、綺麗な夕日が見えるというのだ。私はバイクがなかったので、タンデムで丘の所まで行った。夕日を追いかけながら、コーナーを一つづつクリアしていくと、いつの間にか丘の上に着いていた。目の前には、大きな夕日が見えた。太陽は、トド島の向こうへ沈もうとしていた。彼等は、バイクを止め夕日を見ていた。そこに一台の車が止まり、中から三人の女の人が出てきた。彼等の脇で夕日を見ていたかと思うと、三人の中の一人の女の人が
「すいません、シャッターを押してもらえませんか?」
と突然、女の人に言われた。私は、
「いいですよ。」
と、返事をした。シャッターを押すと
「ありがとうございました。バイクできたんですか?」
と質問されたので、私たちはキャンプ場に泊まっていることを話し、夕日を見に来たことも話した。
「バイクで旅なんていいですね・・・、すいません、できたらそのとれた夕日の写真を送ってもらえませんか・・・・。できたらでいいんです・・・、住所書きますから・・。」
私は快く返事をしたが、いつ自宅に戻るかわからないのであまりあてにしないでほしいと言った。しばらくして、彼女たちと別れた。
キャンプ場に戻ると、みんなでたき火をしていた。
「今日は、捕ってきたウニをたくさん食べられるぞ、どれくらい食べられるのかな? 」
とパリダカが言い出した。すると、XJが
「ウニは、キロあたり一万円で取り引きされると聞いたけど、今日はどれくらいウニを捕ったのかな・・・十キロぐらいとったのかな・・.すると、十万円か・・。」
と言う話で持ちきりになった。昨夜と同じように、お金を出し合ってアルコール類を買ってきて酒を飲み始めた
「明日の予定だけど、礼文島の八時間コースに行かないか、・・・。礼文島には、四時間コースと八時間コースが有るんだ。」
するとGSが
「十二時間コースもあると聞いているけれど・・・・。」
わいわいがやがやと話をしながらテントに戻った。

メモ パン牛乳270円 船1000円 パン牛乳ソーセージ、ビスケット390円
缶詰、体育館260円

八月七日(日)「雨の日」
朝から雨が降っていた。本当なら礼文島八時間コースを歩く予定だったが、彼等はあきらめて明日八時間コースを歩くことにした。退屈なテント生活なのに、さらに一日中テントにいるというのは、気がめいる。XJが
「あそこにある体育館でなにかやるか・・・・? 」
と言い出した。すると、北見のスターレットが
「いや、もうやっているよ。確かバドミントンをやっていたと思ったけど・・・・。」
その言葉を聞き、我々乞食集団は体育館へと向かった。
もうすでにユースに泊まっている人たちが、体育館の中でバドミントンをやっていた。XJが
「すいません、私たちも使っていいですか?」
と聞くと
「どうぞ。」
と言う返事が返ってきたので、彼等も何かやることにした。最初バドミントンをやり始めたのだが                                   「バレーやろうぜ・・・。トド島の続きだ・・・。」
XJの一言で、バレーに変わった。彼等はキャンプ場に戻り、人数を確保した。同じようにユースの連中も・・・。それからトド島の続きが始まった。
雨も午後には上がり、又それぞれのテント生活に戻ると、XJが          
「海岸にメノー石を探しに行こうか?」
と言い出した。それをきっかけにして、何人かのライダーがメノー石を捜しに出かけた。私はメノー石のことがよく分からなかったが、彼等が戻ってきて初めてメノー石が分かった。私は、
「なんだ、これのことか・・・。」
彼等の差し出した石を見て、言った。時間が有れば取りに行こうかと思ったが、私にはバイクがなかった。私は、「利尻」「礼文」とバイクなしで旅をして、初めてバイクのありがたみが分かった。これからは多少お金がかかっても、バイクは持っていこうと深く反省した。
 そんなキャンプ場へ、真新しいザックを背負った一人の高校生が現れた。その高校生は、買ったばかりのテントをキャンプ場で設営し始めた。私たちが炊事をし始める頃、何度か彼等の所に器具の使い方を聞きに来た。夜の宴会になると、何気なくたき火の所に入ってきた。
モンキーが
「どこからきたん?」
と聞くと
「大阪から・・。」
と言う返事が返ってきた。高校生は、ポケットからたばこを出すと、たばこを吸いながら、いろいろな話を始めた。
大阪の高校生なのだが、どうも学校生活が合わなくて両親と喧嘩になり、そのまま家を出たのはよいのだが、どうしていいか分からなかったときに、たまたま礼文島に来てしまったと言うことは分かった。高校生は、「旅人」の生活にあこがれ、途中でキャンプ道具を買い込んだと言うことだった。お金は、家にあるお金を持ち逃げしてきたと言うことも分かった。
私は学校の教員の経験があるので、ついつい職業の癖が出てしまい、話にのめり込んでしまい、何とかしてあげようと言う気持ちになってしまい。
「ま、親も心配していることだろうから、早く電話してあげれば・・・。それに、たばこは似合わないな・・」
と言った。
しかし高校生は、私の言葉に従う様子がなかった。モンキーが
「先生、あんまりしつこく聞くのはよくないんと違う・・・。」
と、言った。それを聞いた高校生は、
「え、学校の先生なんですか・・・・。とても先生には見えなかった・・。もう少しはやく先生のような人にあっていれば・・・・・。」
そういいながら高校生は、たばこを吸うのをやめた。そして私に
「もう少しここに一緒にいたら、大阪に帰ります。」
と言った。会話が続き、高校生も礼文島八時間コースに、一緒に行くことになった。
たき火を囲んで八時間コースの計画を立てているところに、さらに新しい仲間が二名入ってきた。
「今晩は、遅れてすいません・・。」
するとXJが
「チャリンコ、来るのが遅かったね・・・・。」
と話はじめた。XJの話を聞いていると、どうも片方のチャリンコは自転車で日本一周をしているようだった。それから片方のチャリンコは、たまたま北海道での旅友らしい?
チャリンコ二人が加わり、明日の礼文島八時間コースはさらに仲間が増えた。

メモ 缶詰300円 ソーセージ、ビスケット500円 本480円 たいやき160円
風呂300円

八月八日(月)「礼文島八時間コース」
朝起きると、身支度をして八時間コースのスタートであるスコトン岬に向かった。
足のない私と山形の大学生、そしてチャリンコ二人は北見のスターレットの車でスコトン岬へと向かった。
スコトン岬は、礼文島の北側にある岬だった。向こうには、二日前渡ったトド島が見えた。彼等は、写真を撮ると歩き始めた。上り下りはあるものの、歩きやすい行程だった。ときおり海岸線を歩くと小屋がいくつかあった。私は、「レブンソウ」という花のことを聞いていたので、ぜひ写真にとって帰りたいと思っていたが、残念なことにもう終わっていると言うことだった。
歩いていると、所々に「立入禁止」の立て看板と有刺鉄線で囲まれたところが見られるようになってきた。そこには、いろいろな注意書きが書いてあった。特に「レブンソウ」が多く繁殖している地域は、有刺鉄線が頑丈に張ってあった。レブンソウは、絶滅寸前と言うことだった。
礼文島は、「花の浮島」という名前が付いているだけあって、植物は豊富にあった。しかし、彼等はその植物の名前を知らなかった。「花の名を知らなくてもいいではないか、難しいことはいらない、礼文島は美しい島なのだ・・・。」彼等はそう思いながら、美しい花と美しい海を見ながら歩いた。昼食は、それぞれが工夫して食べた。ただの乞食集団ではあるが、それぞれがそれぞれの思いを胸に礼文島に集まったのだ。
海岸沿いのコースには、「番屋」と言われる小屋がいくつか合った。小屋では、年老いた老夫婦だけが、仕事をしていた。私が写真をとり始めると
「観光で来る人はいいねえ・・・、礼文島に本当にたくさんの観光客が来るけれど・・・、冬は誰も来ない。それに若い人もいないし・・・。」
と、老夫婦が私に語り始めた。私が思っている礼文島と、実際の礼文島は違っていたのだった。夏は若い観光客がたくさん来るけれど、冬は人のいない寂しい島になるのだった。それから、若者が次々とこの島を離れてしまうので、高齢化も問題になっていたのだった。
地蔵岩のところで、XJが岩の所にお金を挟み始めた。私もそのまねをして、一円玉を岩に挟んだ。
キャンプ場に戻ると、すぐにたき火の準備をした。XJが
「明日は稚内で花火大会があるから、稚内に戻ろうか・・・。」
と話し始めた。するとパリダカが
「僕もそうしようかな・・・。そろそろ戻らないとお盆になってしまうし・・。」
「先生どうする?」
私は聞かれると
「どうしようかな、それにバイクのことも心配だし・・・・。稚内に戻るよ。」
と、答えた。それに、稚内からずっと一緒に生活している大学生がいることも、その理由に入っていた。その夜は、キャンプ場解散の日となり、宴会を盛り上げようと準備が進められた。太陽が沈むと、たき火を囲み宴会が始められた。ほとんどが北海道の旅の話だったが、誰かが途中から歌を歌い出し、合唱の回数が増えてきた。盛り上がってきたときだった。突然背後から
「すいません。警察の者ですが、キャンプ場がうるさくて眠れないと言う苦情が入っているのですが・・・・。未成年者はいませんよね・・・。」
と問いかけられた。私はすぐに
「はい、未成年者は一人もいません。それから、うるさかったことは謝ります。この後はボリュームを下げますので・・・・・、本当にすいません。」
と、警察官に謝った。
「みんな知り合いなのかな?、ま、楽しくやると言うことはいいことだが、ほどほどにしないとね・・・。じゃ、火の後始末には十分注意するように・・・。」
と注意されると、私は
「はい分かりました。私が責任を持って火の後始末はしますので・・・。本当にすいませんでした。」                                  と、再度謝った。警官が帰るとXJが
「やっぱり、こんな時は先生が一番しっかりしているよね・・・。歳も一番上だし・・・。」
と言った。それを聞いて、私は笑った。その夜は、みんなで別れを忍んで、遅くまで宴会が続けられた。もちろん回りに迷惑をかけないように・・・・?

メモ スターレット1000円 パン牛乳200円 マイクロバス500円 酒250円

八月九日(火)「稚内公園キャンプ場へ」
彼等は、キャンプ場からフェリー乗り場まで朝移動した。テンとを畳むと、それぞれが久種湖をバックにして写真を撮り始めた。私はキャンプ場に来たときと同じように、北見のスターレットに同乗した。フェリー乗り場は、混んでいた。フェリーに乗ると、私はデッキに出た。
デッキから港を見ると、桃岩ユースの歓送迎がとてもおもしろかった。ギターを片手に歌を歌い、テープを投げていた。デッキでは、涙を流している若者がたくさんいた。私は、ちょっぴり寂しさを感じた。そして、その気持ちを葉書に書いた。
フェリーに乗船すると、約二時間ほどで稚内に着いた。私は、真っ先にバイクの所に向かった。バイクはあったが、一週間でサビが目立つようになってしまったことに気が付いた。特にディスクパットはサビ付いていた。バイクのスイッチを入れ、キックペダルを軽く踏み下ろすと、エンジンはすぐにかかった。私は、荷物をバイクにくくりつけるとすぐにキャンプ場に向かった。キャンプ場には、礼文島で一緒だった仲間がもうすでにテントを張っていた。私も適当なところを探すと、テントを張り始めた。
すると
「こんにちは、ツーリングですか?」
と、突然かわいい女の子に話しかけられた。私は、心の中で(ラッキーと叫んでしまった)
「ええ、今日礼文島から引き返してきたところです・・・。」
バイクを見ると、赤いXLだった。私も彼女に
「どこから来たんですか?」
と、話しかけた。彼女が
「奈良から来ました。」
と、返事をした。すると、またそこへ
「遅れてごめん。市内が混んでいて・・・。」
と白いXLに乗った男が現れた。私は、(何だ男がいたのか)と思いながら
「こんにちは・・・。」
と、挨拶をした。話をしているうちに、二人は今年結婚したばかりで奈良県からツーリングに来たと言うことが分かった。そして、小学校の先生であると言うことも・・・。
私はテントを張り終えると、一週間乗っていなかったバイクが心配だったので、バイクですぐに市内に出た。特にディスクブレーキのパットが心配だった。キャンプ場から市内へ向かう道路は、ずっと下りだった。下ると、すぐ「氷雪の門」が見えた。それからさらに下ると、市内にはいる。私は、先ほどからのブレーキの音が気になっていた。それに、今朝稚内公園のキャンプ場に向かう途中で、クラッチワイヤーが切れてしまったことも気がかりだった。クラッチワイヤーは予備を用意していたので、後でゆっくりとつけ直すことにし、まずはディスクブレーキのパットの交換を先に行うことにした。
バイクショップは何件かあったのだが、どこも閉まっていた。今日は、稚内の花火大会ということもあり、ほとんどの店が閉まっていた。市内をぐるぐる回っていると、「ヤマハ」のマークが見えた。私は、すぐにその店に向かった。しかし、「ヤマハボート」であった。バイクを店の前に止めると、ヘルメットをとった。そして
「こんにちは、今日はお店やっていますか・・・。」
と、玄関前で言うと
「やっているよ・・。」
と、いいながら奥から男の人が出てきた。私は、ディスクブレーキのパットの話をした。すると店の主人は
「うちは、ボート専門だからね・・・、でも前に何回かやったことがあるから何とかなるかな・・・?」                                  そういいながら、駐車場に止めてあるバイクの所まで行き、ブレーキの所を見ていた。私が
「何件かバイクショップはあったんですけれど、どこも閉まっているんですよね・・・。」
と、言うと
「何とかやってみましょう。」
と、店の主人は言いながら、ブレーキホースのオイルを抜き、作業に入った。しかし、ディスクパットの交換はしなかった。作業が終わった後
「ありがとうございました。料金はいくらですか?」
と、聞くと
「そうだね、工賃とオイル交換だけだから・・、五千円ぐらいもらっておこうかな・・。」
と言った。私は高いなとも思いながら、五千円を払った。(私は、なぜパットを交換しないのかと不思議に思ったが、なぜか聞こうとしなかった。)
私は、再び稚内公園に向かった。そして、今度はクラッチワイヤーの交換に入った。ロングツーリングに出るときは、予備のパーツを持っていくようにしていた。切れたクラッチワイヤーをはずしていると
「どうしたん?」
と、モンキーとGSがちかづいてきた。クラッチワイヤーが切れたので、交換しているんだと説明した。新しいクラッチワイヤーを取り付けようとしているのだが、なかなかその作業を終えることはできなかった。私は疲れたので、作業をやめた。
「まいったなあ・・・、ワイヤーが入らないや・・。」
すると、回りにいた者が次々にクラッチワイヤーの取り付け作業にとりかかった。しかし、ワイヤーをつけることはできなかった。パリダカが
「バイクショップに持っていってつけてもらえば・・。」
と言い出したので、私は、
「今日はどの店も花火大会で閉まっているんだ・・・。ディスクブレーキだって結構時間がかかったし・・。」
私は作業をいったん中断し、テントからシュラフを出したり、衣類の洗濯に入った。それから、バイクの点検と機材の点検に入った。太陽の下での作業はとても気持ちが良かった。礼文島から移動してきた仲間達も、同じようなことをしていた。私は一通りのことが終わると
「クラッチワイヤーを取り付けてもらってくるから、テント回りの管理を頼む。」
と言い、再び市内へと向かった。
午前中市内をずっと回っていたので、バイクショップのある場所はだいたい分かっていたので、キャンプ場に一番近いショップの所まで向かった。そして、閉まった店の前にバイクを止め
「こんにちは、・・・。すいません・・・。誰かいませんか・・。」
と、何回か大きな声で呼びかけた。少したってから、内側から鍵を開ける音がした。
「悪いけど今日は花火大会で休みだよ。」
と、戸を開けた店の主人が言った。私は、クラッチワイヤーの話をした。すると
「今シャッターを開けるから、バイクをそこに入れて下さい。」
店の主人はそういうと、すぐに中に戻り、隣のシャッターを開けた。私は、言われたとおりバイクをそちらに持っていった。作業は、ほんの十分ほどで終わった。
「すいませんでしたお休みの所を・・・、料金はいくらですか ?」
と、聞くと
「店の主人は、三千円もらおうかな・・。」
と言った。私は、それは聞き
「じゃ、これでお願いします。」
と言い、千円札を三枚出した。本当は、あまりの金額の高さに苦情を言いたかったのだが、休日に無理に店を開けてもらい作業をやってもらったのだから・・・仕方ないかと自分に言い聞かせたが、やはりほんの数分の作業で三千円は納得がいかなかった。
店を後にして再びキャンプ場に戻った。キャンプ場に着くと、クラッチワイヤーの代金の話をすぐにした。それを聞いたモンキーが
「何、旅人からそんなに金をとるんか、頭に来るな・・。」
と、言った。回りにいたライダー達も同じように頷いた。
あたりが暗くなってくると、稚内公園の駐車場はもういっぱいになっていた。また、稚内公園に向かう道路も、渋滞で身動きができない状態だった。私たちは、あらかじめ買い出しておいた食料を取り出した。XJが                       「今日は、花火を見ながらジンギスカンだね。」
と、言うと
「おーい、鉄板があったぞ!」
と言う声とともに、GSがこちらに近づいてきた。みんなの打ち合わせで、今日の夜はジンギスカンと決まっていたようだ。私はそれがよく分からなかったので、ちょっと鉄板にはとまどってしまった。次々といろいろな物が持ち込まれてきたが、いったいあの鉄板はどこから手に入れたのか、私は興味深々だった。
花火の打ち上げとともに、彼等はジンギスカンを始めた。しかし、困ったことに肉だけ量がかなり少なかった。そのためか、彼等は先を争うかのように生のまま肉を食べた。誰かが
「ライトをつけると肉が分かってしまうから、闇ジンギスカンにしよう。」
と言った。彼等は、その決まりに従い、ライトを消した。なぜか、闇ジンギスカンは盛り上がった。稚内公園から見る花火は、とてもすてきだった。私は、その花火を見ながらいろいろなことを又考えた。できたら、ずっとこのまま時間が止まってくれればいいのにと思った。しかし楽しいことばかりではない、人それぞれいろいろな人生があるのだ、今日は今日、明日は明日ではないか、それでいいではないか・・・。私は、ふと、(残してきた生徒達は元気でいるだろうかと)クラスの写真を見るのだった。

メモ フェリー代1800円 バイクオイル工賃8000円 米その他1450円
酒250円 アイスクリーム400円

八月一〇日(水)「サロベツから札幌へ」
朝から快晴だった。この稚内公園から、またそれぞれ次の旅を続けることになった。旅人達は、それぞれの名前も知らずに、次の旅先へと向かった。私は、そのままサロベツ原野に向かうことにした。又一人旅となった私は、新たな期待を抱いて国道四十号線を南下した。国道四十号線は、大草原の中を走る大陸的な道路だった。南下していくと、右手にサロベツ原野が見え始めた。右手にサロベツ原野を見ながら、サロベツ原野にはいるべき道路を探していた。すると向こうに、二台の単車が見えた。アクセルをゆるめながら二台の単車を見た。その二台の単車は、礼文島からずっと一緒だったパリダカとGSXLだった。私は、あわててブレーキレバーに手をやり単車を止めた。
「どうしたの?」
ヘルメットをとりながら話しかけると
「蜂に刺された。」
と、元気のない返事が返ってきた。首の所を蜂に刺されたらしい。私は心配になり
「大丈夫かい。」
と聞いた。
「大丈夫です。ちょっと様子を見るために休んでいきますから・・。悪いから先に行ってていいですよ。」                                と言う返事を聞くと、私は先を急いでいたので
「じゃ先に行くから・・・。」
といい、再びヘルメットを取り上げ、バイクに乗った。
数分走ると、大きな標識が出ていた。その標識に従って、バイクを走らせた。豊富町に入る手前で右に入ると、そこは大草原だった。国道四十号から見る風景とは、又違ってた。大草原の中を数分走ると、左側にサロベツ原野のビジターセンターが見えた。私は、バイクをビジターセンターの駐車場に止めた。観光客で駐車場はいっぱいだったが、バイクなのでどうにか止められた。ヘルメットをとると、ビジターセンターの中に入った。
中は、パネル写真がたくさん展示してあった。一つ一つパネルを見ると、二階に行ってみた。二階も同じように、パネルが展示してあった。ビジターセンターは、真新しい木の臭いがした。たぶんできたばかりなのであろう、どれも新しい物ばかりだった。建物自体が完成したばかりで、駐車場と中の設備がまだ準備中という感じだった。私は、二階から見たサロベツ原野を歩くことにした。
二階から見ると、観光客が木道を歩いている風景が見えた。ビジターセンターを出ると、すぐに木道を歩き出した。八月中旬という事もあり、草花が満開とはいえ無いが、草原の中に見えた。たぶん、六月下旬から七月上旬の頃が一番綺麗なのだろう。私がカメラを取り出しながら歩いていると                            「すいません、シャッターを押してもらえませんか・・・。」
と、一人のOL風の女の人に話しかけられた。
「いいですよ、どこをバックにしますか?」
聞き返すと、彼女は、
「じゃこの辺でお願いします。」
と、木道の所にある看板の前にたった。私は、言われたとおりカメラのシャッターを押した。それから、彼女にカメラを返した。彼女は
「すいませんでした。一人旅ですか?」
と、お礼を言いながら、話しかけてきた。私は、
「昨日まではいろんな人と一緒だったんですが、今日からは又一人旅になりました。」
と、答えた。何か話さないとまずいなと思い。
「私は茨城から来たんですけど・・、あなたはどちらからですか?」
と聞き返すと
「私ですか・・・、どこからだと思いますか・・・、あらごめんなさい。神奈川です。」
彼女は笑いながら、質問に答えた。二人は、そのまま木道を歩きながらいろいろな話をした。ビジターセンターの所に来ると私は、
「じゃここで、僕はこのままバイクで南下しますから・・。」
彼女は、
「ずいぶん荷物がありますね・・・、私も男だったら一緒に旅していたかも・・・、男の人はいいですね・・、じゃ気をつけて・・。」
と、私のバイクを見ながら言った。
私は、再びバイクで南下した。彼女とサロベツ原野を一緒に歩いたことが思い出され、最後に言った彼女の言葉も気になった。そんなことを考えながら、ひたすら南下した。四十号線を南下することより、そのままサロベツ原野を横断して国道二三二号線を南下することにした。国道までの道は、砂利道だった。ひたすらダートを走ると国道に出た。国道を左折して、海を見ながら南下した。海の向こうには、利尻島が見えた。ひたすら海を見ながら南下すると、羽幌についた。
私は礼文島で、「吉里吉里」という喫茶店の話を聞いていた。北海道を抜けるのには四十号線の方が楽だったのだが、「吉里吉里」という喫茶店によってみたいと思い、日本海に出たのだった。何でも、その「吉里吉里」という喫茶店でお茶を飲めば、写真を撮ってくれると言うことだった。その話を聞き、自分も是非その写真を撮ってもらいたいと考えたのだ。また、そのアルバムは一生「吉里吉里」という喫茶店に残ると言うことだった。
羽幌市内に着くと、ゆっくりと道路の両側を見ながら走った。いつの間にか市内を抜けてしまったことに気が付き、あわててバイクをUターンさせ、再び市内へと向かった。まず場所を聞いた。その場所は、すぐに分かった。目の前に「吉里吉里」という名前を発見し、そこでバイクを止めた。喫茶店に入り
「こんにちは、旅の途中で、ここで何か注文すれば写真を撮ってもらえると言うことを聞いたのですけれど・・・。」
と、話した。それを聞いたマスターが
「そこにアルバムがあるけれど、そのアルバムの中に撮った写真を記念として保存しておきますけれど・・。」
と言った。なるほど、店内の本棚の中にアルバムがいくつかおいてあった。昼食時だったので、カレーを注文した。
私がアルバムを見ていると、カレーが届いた。しばらくしてカレーを食べ終えると、マスターが
「じゃ、写真を撮りますから店の外に出てもらえますか・・。」
と言った。私はお金を払うと、店の外に出た。それから、写真を撮ってもらった。マスターの話だと、又「吉里吉里」に来てもらえれば写真は見られると言うことだった。
私は吉里吉里を後にして、再び国道を南下した。留萌から、進路を深川に取るため、国道二三三号線と変更した。山間部を抜ける寂しい道だった。対向車もほとんど通らない国道を抜けると、深川市に着いた。深川市から国道十二号線へと入り、ひたすら札幌を目指した。単調な国道十二号線を南下していくと札幌に着いた。
私が札幌に着いたのは、夕方だった。札幌市内に入り、彼はどこに行くか迷っていた。そして、ひとまず大通公園に行くことに決めた。再び大通公園に向けてバイクを走らすと、一台のVTが後ろから一緒に走っているのに気が付いた。彼は、大通公園が分からないので、バイクを止めて大通公園までの道を聞くことにした。良い場所を見つけると手で合図をしてバイクを止めてもらった。
「すいません、大通公園までの道が分からないんですけれど・・・。」
彼は、ヘルメットをしたまま聞いた。するとVTは、
「いいですよ、でももう暗くなるから・・・・。」
彼は、VTが大通公園に行っても意味の無いような言い方をしたので
「大通公園に今日テントを張るつもりなので・・・。」
と、彼がどうしていくのか説明すると、
「じゃ、俺の所に泊まれば、国鉄の宿舎だけど別に問題ないよ。」
とVTが言うと彼は、
「じゃ、お言葉に甘えて・・・。」
と、笑顔で答えた。彼にとっては、久々の屋根付きの寝床だった。
VTの後に付きながら、走った。宿舎に着く頃には、あたりも薄暗くなっていた。VTの脇にバイクを止めると、彼の後に続き彼の部屋に入った。建物は、綺麗な建物とは言えなかった。どちらかというと、かなり古い建物だった。VTが
「この宿舎には風呂がついていないんだ。だから近くの銭湯に行かないといけないんだけど、どうする?」
そういわれたので、彼は、
「じゃ、風呂が先がいいな。そしてそのあとは、どこかで夕食をとると言うことに・・・。」
と言い、荷物の整理をした。そして、銭湯へと向かった。銭湯までは徒歩で行った。そして、銭湯の帰りに、夕食をとった。夕食の時にVTが
「明日は悪いんだけど、七時半には宿舎を出るから・・・。出勤だからね・・。」
と言った。彼は、
「大丈夫、テント生活をしていたから毎朝六時には必ず起きていたよ・・。」
と、笑顔で言った。VTは、どちらかというと、口数は少なかった。そして、その夜は久しぶりに布団で寝ることができた。

メモ ガソリン1500円 銭湯240円 ビール、ジュースつまみ760円        弁当400円 パン牛乳210円 スパゲティ500円

八月一一日(木)「支笏湖へ」
朝、VTより早く宿舎を出た。彼は、雨の中を大通公園へと向かった。彼にとって大通公園は、二度目だった。大学時代、山岳部の合宿で北海道に来たとき、この大通公園でじゃがバタを食べたことを思い出した。朝の大通公園は、ちょうど通勤時間とあって混んでいた。彼は、そこで朝食をとった。彼は、この札幌からどこに向かうべきか考えていた。できたらもうすぐにでも北海道を出なければいけないのだろうが、せっかくきたのだからまだ行っていないところへも行ってみたいし・・・。
彼は、進路を支笏湖方面にとった。大通公園から国道四五三号線に向けてバイクを走らせた。そして国道四五三号線を走っていくとカーブの多い峠道になってきた。峠の登り切ったところにさしかかると、雨が強くなってきた。彼は、スピードを緩めず、峠を下った。峠を下ると、支笏湖が見えてきた。雨がやむ様子はなかった。彼はひとまず、雨宿りできそうな場所を探した。下ったところが支笏湖で、道路の右側に公衆トイレと食堂があった。この食堂の所は、ボート乗り場にもなっていた。彼はひとまず、食堂の所にバイクを止めた。そして雨具をとると、食堂に入った。彼はメニューを見ると
「ラーメン下さい。」
と言った。とにかく寒かったのだ。特に峠にさしかかってからは、雨が強くなり、気温も下がった。
「はい、おまちどおさま、ラーメン一つでしたね・・・。」
と、食堂のおばさんがラーメンを運んでくれた。ラーメンを食べていると、次々にバイクが食堂の駐車場に入ってきた。公衆トイレに行く者もいれば、食堂に入る者もいた。ライダー達は、雨宿りのために食堂に入ってきたようだった。
ライダー達の話題は、みんなこの雨だった。そんなとき
「おばさん、この近くにキャンプ場有りますか?」
と尋ねたライダーがいた。おばさんは
「ここがキャンプ場になっているんだよ。ここと言ってもこの食堂のわきになるけれどね・・。」
と答えた。その会話を聞いていた彼は、この雨は当分やみそうもないと考え、キャンプ場に泊まることを考えた。その会話を聞いた場所に行ってみると、確かにキャンプ場はあった。彼は、
「すいません、今日テントを張りたいのですけれど・・・。いくらですか?」
と聞いた。すると
「一人二百円です。」
と、管理人は答えた。彼は有料であるということが我慢できなかったが、この雨のことを考え
「じゃ、一名お願いします。」
と言った。彼は、バイクから荷物を出すとすぐにテントを張り、荷物の整理をした。そして、シュラフの中で休んだ。
シュラフの中で休んでいると、先ほどまで雨音がしていたのだが、その雨音がしなくなった。彼は、雨が上がったのかなと思い、テントの外に出てみた。曇ってはいたが、雨は小降りになっていた。水場から水をくんできて、お湯を沸かした。そして、温かい紅茶を作った。再びシュラフにはいると、ラジオをかけて休んだ。すると、テントが急に明るくなってきた。どうやら、雲の切れ目から太陽が顔を出してきたようだ。だんだん、太陽が顔を出す時間が長くなると、テントの中でじっとしていられなくなりテントから出た。雨は完全に上がっていた。
彼は、カメラを取り出し、湖畔を散歩した。散歩していると、国道に近づくとライダーが多いのに気が付いた。それからは、ライダーの表情をカメラで追った。そうしていると
「こんにちは、ツーリングですか?」
と一人のライダーに話しかけられた。ライダーは、CBXの単気筒に乗っていた。彼は、
「雨が強くなってきたので、お昼からここのキャンプ場にテントを張りましたよ・・。」と答えた。するとCBXは、
「ここにキャンプ場が有るんですか・・・、どうしようかな僕もここにテントを張ろうかな・・?」と彼に向かって言った。彼は、
「よかったら俺のテントに入れば、二人でも十分な広さがあるよ・・。」
と彼が話しかけるとCBXは、
「じゃ、お願いします。」
と言い、彼のテントの所までバイクを運んだ。それからバイクの荷物を取り出すと、彼のテントの中に入った。荷物の整理が終わる頃、暗くなってきた。暗くなると、再び雨が降り始めた。
二人は夕食をとりに、雨の中食堂に向かった。食堂にはいると彼は、
「カレー下さい。」
と言った。お昼にラーメンを食べているので、夕食ぐらいはご飯を食べたいと考えていたので、カレーだった。夕食が終わる頃、
「まだやっていますか?」
と一人のライダーが雨具をつけたまま食堂に入ってきた。食堂のおばさんは、
「まだやっていますよ。」
と、答えた。するとそのライダーは再び外に出て雨具をとり、中に入ってきた。ライダーは彼等に気が付いたのか、軽く頭を下げた。彼等もそれに会わせて、軽く頭を下げた。ライダーは、ラーメンを注文すると彼等に話しかけてきた。
「近くにキャンプ場が有るんですか?」
とライダーが尋ねると、彼は、
「そこがキャンプ場ですよ。私はお昼から張っていましたけど・・・。」
と答えた。外の雨は強く降っていた。食堂の中で、三人はいつの間にか明日の予定を話す仲になっていた。ライダーは、ラーメンを食べ終えると
「実は、私は明日から出勤なんですよ、だから会社に電話しないと・・・、でも北海道を旅しているうちに、もっとゆっくり回ってみたいという考えに変わってきたんです。本当は昨日のフェリーで苫小牧から乗船するわけだったんですけれど・・・・。乗りませんでした。正直言うと・・・、会社を辞めてもいいから旅を続けたいと言う考えに変わってきたので、乗れなかったんです。苫小牧のフェリー乗り場まで行ったんですけれど、切符を買う気になれませんでした。そして迷ったあげく、フェリー乗り場で一夜を明かしました。考えたんです・・・、これでいいんだろうかって、俺、今年でまだ二十六歳です。まだまだやりたいこといっぱい有るんじゃないかなって思ったんです。考え方が甘いって言われればそれまでですけれど、でも今のままじゃいけないなって思ったんです・・、北海道を旅していて・・・、おかしいですかね、俺の考え・・・。」
ライダーは話し始めた。彼は、そのライダーの考え方がよく分かる気がした。彼も又同じような旅人でもある。ましてや、職業も決まっているわけではない。正直言えば、彼は現在無職なのだ。そして、北海道に仕事を探しに来ているのだった。彼は、ライダーに向かって
「気持ちは分かりますが、会社にもいろいろ事情があると思うので、勝手にやめるんではなくて事情を説明してやめればいいんじゃないですか・・・。それにあなたが急にやめることによって会社にもいろいろな不都合が生じるかもしれない。あなたが今やめても、どうにか会社がやっていけるんだったら問題ないと思うし・・・。まず、ここから電話でもいいからきちんと話をしないと・・・、明日出勤でしょ・・。」
彼の話を聞いたCBXも、軽く頷いた。そして、ライダーも・・・。
食堂が閉店になると言うので彼等は食堂から出た。外は、まだ強い雨が降っていた。外に出るとライダーはバイクの所に行き、再び雨具をつけた。バイクは、赤いホンダのXLだった。それもフロントタイヤが二十三インチの・・・。XLは、雨具を身につけると、食堂の脇にある赤い公衆電話に走っていった。彼等は、XLの事が気になったのか、食堂の所からずっとXLが電話をしている様子を見ていた。雨の中でずっと話をしているXLの顔は、真剣だった。電話を切ると、彼等の所に近寄ってきて
「今、社長に話をして、会社は辞めると言うことになった。社長のはからいで、まだ有給休暇もあるだろうから、その有給休暇を全部取って旅を続けて、それでも考えが変わらないんだったらやめればいいと、そしてわざわざ東京までやめるために戻ってくるのも大変だろうから、正式な退職届けは後でいいと言うことになった・・・・。」
と、話した。そして雨の中、三人はキャンプ場に入った。

メモ ビール250円

八月一二日(金)「函館へ」
朝から晴れていた。彼は、山形の大学生とテントを撤収すると、昨夜のXLの所に行き挨拶をしてキャンプ場を後にした。山形の大学生は、札幌へと向かい、彼は美笛峠へと向かった。途中「オコタンペ湖」により美笛キャンプ場の前を大滝村目指して、バイクを走らせた。峠までの道は、ずっとダートだった。もっと正直に言うと、オコタンペ湖からずっと林道だった。特に、美笛キャンプ場を過ぎてからの広い林道には、うんざりした。
峠の所に着くと、一台のVTに出会った。この林道を走っていて、初めてであったバイクだった。顔をお互いに見合わせ、笑って挨拶をした。彼は、VTのナンバーを見て
「あれ、土浦ナンバーじゃん、同じだー、どこから来たの?」
と尋ねた。するとVTは、
「岩井からです。」
と、答えた。彼はすぐに
「岩井!なんだ、近くだよ、俺は猿島町からだよ。大学生?」
彼が親しげに話しかけると、VTも
「RZで林道を走る人も珍しいですね・・・。それにその荷物の量・・。すごいな・・。」
と、返答した。彼は、峠からの景色を眺めながら、これからのことを話した。しばらく話すと、彼等は峠で別れた。
彼は、函館からフェリーに乗って本州に渡るつもりだった。しかも、できたら通ったことがない道を通って、函館に行きたいと考えていた。だから、大滝から洞爺湖には向かわず、ニセコ方面へとバイクを走らせた。それから岩内へと抜け、再び日本海に出た。さらに、国道二二九号線を南下した。瀬棚にはいると、この先どうするか迷った。このまま日本海を回りながら函館まで行くか、それとも長万部に出て、そのままフェリーで本州に渡ってしまうか・・・。迷ったあげく、残り少ない日数では、九州まで行くことは難しいと考え、長万部に出て国道五号線を南下し、そのまま函館に向かうことにした。
長万部から函館まではすぐだった。初めて上陸した北海道も、函館だった。そして、走った国道も、今彼が走っている国道五号線だった。「函館」の標識のままに走っていると、いつの間にか、道路に大きく「フェリー乗り場」という看板が見えた。彼は、それに従って走った。しばらく走行すると、フェリー乗り場に着いた。フェリー乗り場は、バイクでいっぱいだった。彼は、初めてこれからお盆休みにはいると言うことを知った。バイクを止めると、切符売り場に向かった。彼は、フェリーに乗れるかどうか急に心配になったのだった。特にお盆休みが始まると言うことを考えると、それは当たり前のことだった。
受付の所に行き、必要なことを記入すると、すぐに受付の所に並んだ。彼は、順番が来ると
「バイク一台に大人一人・・。」
と言った。するとすぐに
「すいません、排気量は何㏄ですか?」
と聞かれたので、彼はあわてて返事をして切符を買った。函館から青森まで三三二〇円だった。単車一台に大人一人である、車に比べたら格段に安い。切符には、一六便・八月一二日と書いてあった。アナウンスの指示に従い、彼はバイクを所定の場所まで移動させた。バイクは、彼のバイクも含めて、数十台止めてあった。これから本州に帰る者もいれば、これからがツーリングの始まりだという者まで、それぞれの思いを胸にライダー達は、乗船を待っているのだった。アナウンスが流れ、トラックが先に乗船した。次に乗用車、バイクが最後だった。彼は、必要な物だけを船内に持ち込むため、一つのバックに荷物をまとめそれを船内に持ち込んだ。
ザックを片手に階段を上ると、二等船室という案内板が見えた。それに従って歩いていくと、二等船室に着くことができた。彼は、混んでいる船内を見渡しながら、自分の場所を確保しようとした。自然と、ヘルメットを持った人たちが集まる方へ、彼も向かっていった。それからブーツを脱ぐと、空いている場所に横になった。
彼が横になっていると
「ここいいですか?」                              と、学生風のヘルメットを持った青年が彼の脇に座った。その学生風の青年はとても話し好きで、回りのライダーともすぐうち解けてしまった。もちろん、彼にも話しかけてきた。その青年もバイクで北海道を回って、明日高速を使って帰ると言うことも分かった。にぎやかな四時間の船旅だった。

メモ 昼食500円 ガソリン2000円

八月一三日(土)「新潟へ」
アナウンスとともに、フェリーの中はにぎやかになった。青森に着いたのだ。しかし、時間がいけなかった。着いたのが、夜中の二時だった。彼は、眠い目をこすりながら、バイクの所に歩いて行った。それから回りの目を気にしながら、バイクのスイッチをオンにした。なぜ回りを気にしたかというと、オイルをマフラーから吐き出すので、排煙が多いからだった。思った通り、彼がキックペダルを踏み下ろした瞬間、マフラーから白い煙が、船内に立ちこめてしまった。次々とバイクのエンジンがかけられ、一台づつ誘導に従いながら、フェリーのタラップを下っていった。
彼はタラップを下ると、ターミナルの所にある芝生にテントを張った。それを見ていた先ほど船内で一緒だった青年も、彼のところでバイクを止めた。青年のバイクは、赤と白のツートンカラーのホンダのCBXだった。彼は、CBXに
「一緒に寝るか?」
と話しかけた。するとCBXは、
「じゃ、一晩だけお願いします。」
と、彼に頭を下げた。二人は、テントにはいるとすぐに寝た。朝の六時には、テントを撤収していた。彼は、CBXに
「今日は、どこまで行くんだい?」
と尋ねた。CBXは、
「横浜まで帰ります。高速を使えば夜には着くと思いますけど・・・。」
と、答えた。二台のバイクは、フェリーターミナルを出ると、国道目指して走った。それから国道のところで、二台のバイクは別れた。
彼は、いっきに新潟目指して走り始めた。もちろん、国道をひたすら走った。国道八号線をひたすら南下すると、日本海に抜けた。右手に海を見ながら新潟目指して彼は、走った。青森から新潟まで約五百キロだった。能代に着くと、道路のところが所々隆起していた。地元の人の話だと、「能代地震」の後だと言うことだった。彼は、テレビで何回か見ていたので、その地震のことはよく知っていた。彼は改めて、その地震の大きさを知ることができた。
能代を過ぎると「男鹿半島」の標識が目立ってきた。彼は、男鹿半島には行ったことがなかったので、是非行ってみたいと思っていた。時間的に男鹿半島に立ち寄っていく余裕が有るのだろうか、彼は迷ったが、いつ又これるか分からなかったので、標識のままに「男鹿半島」を目指した。さすがに男鹿半島に着くと「なまはげ」の絵や像が多く見られるようになってきた。彼は、男鹿半島に着くと、「入道崎」目指して走った。男鹿半島の最北端になるところだった。入道崎に着くとXLに乗った女の子にあった。右手に「交通安全」の腕章をしていた。めがねをかけてXLに乗る姿が目に付いたので、彼は写真を撮らしてもらった。
さらに男鹿半島から、酒田市に向けてバイクを走らせた。酒田市にさしかかる頃には、彼も疲れが出たのか、信号機で止まるたびに、クラッチを握る右手を休めていた。とにかくクラッチを握らなくていいように、ニュートラルにしておくことが多くなった。それから、時間も気になってきた。青山のいる新潟までまだまだある、途中で一泊してから、次の日青山に会いに行ってもいいなとも思った。その考えが起きてから、彼は海側の標識に目をやるようになった。もちろん、キャンプ場を探すためであった。海岸線には、キャンプ場はあったが、どれも有料だった。彼は、お金を出してまでキャンプ場に泊まろうとは考えてなかった。特に、北海道の帰りである・・・。
あたりが暗くなると、さらに又彼は考えが変わった。キャンプ場にお金を出してまで泊まることはない、このままどこかで夕食をとり、遅くてもいいから青山の所まで行こうと思った。それから彼は、適当なところで夕食をとり、そのまま新潟を目指した。新潟に着くと、彼は青山に電話をして待ち合わせをした。彼が青山に会ってから何年ぶりの再会だろうか・・・・。たぶん、五年ぶりになると思う。彼の家には、もう家族は住んでいなかった。新しく家を建てたそうだ。彼だけが前の古い家に住んでいると言うことだった。
「まさか倉持さんが学校の先生をやって、バイクで日本一周するとは思っても見なかったよ・・・、本当に久しぶりですね・・・。」
青山は、彼に話しかけた。青山は、彼のバイクの旅がうらやましてと言う感じで話を始めた。青山の所には、あのとき一緒に走ったバイアルスはなかった。そして、砂でじゃりじゃりしたあの木のお風呂もなかった。彼は改めて、過去にはもう戻れないんだと言うことを実感した。二人は夜遅くまで日本海を走ったときの話をしていた。

メモ 有料道路1150円 昼食600円 アイス200円 夕食550円

八月一四日(日)「佐渡へ」
次の日、青山は出勤と言うことで、彼は青山の弟を新築した家に送り、そのまま佐渡島に渡ることを考えた。青山は、
「倉持さん、悪いんだけど、今日は出勤なので・・・・。仕事が終わったらまたかえって来ますから、今日は弟と一緒に母親のいるところに行っていて下さい・・。じゃ、・・」
と、彼に言うと、家を出た。彼は、とにかく弟を新築した家まで送り、その後のことは又考えることにした。
バイクに荷物を再びくくりつけ、青山の弟と新築した家まで行くことにした。新築した家は、バイクで三十分ほどしたところにあった。市内のはずれにたてられていた。
「そこで止めて下さい。」
弟が言うと、彼はその建物の前でバイクを止めた。彼は、母親に会うのがとても楽しみだった。特に、覚えているかどうかが楽しみだったのかもしれない。弟が玄関の戸を開けると、彼も一緒に中に入った。すると
「まあ、お久しぶりです。倉持さん、今学校の先生をやっているんですって、裕一から聞いて驚きました。まあ、とにかくあがって下さい。」
母親は、玄関の前で彼に会うとそう話し、彼を中に案内した。やはり新築である、中にはいると木の臭いと畳の臭いがした。
彼は早い昼食をとると、佐渡島へと渡ることを家族に話した。時間が有れば又新潟でゆっくりしてもいいし、無ければそのまま旅を続けてもいいと思った。彼は母親に礼を言うと、そのまま新潟港から佐渡島へと渡った。新潟港から佐渡島にはフェリーが出ていた。ターミナルの受付で手続きを済ませると、すぐに乗船できた。それほど便数は多かった。フェリーで約二時間ほどで両津港に着いた。彼は、佐渡島は初めてであった。
フェリーターミナルで地図を見ながら、今後の日程を考えた。まず、今日中に新潟に戻ることは可能ではあるが、佐渡島を回ることはできないと思い、佐渡島に一泊することにした。彼は、そう思ったら時間にゆとりができたので海水浴場で泳ぐことを思いついた。そして、適当な海水浴場を見つけると、彼はバイクを止め、すぐに海に入った。彼は、佐渡島の海水浴所が砂浜でないことに気が付いた。普通海水浴場と言えば砂浜なのだが、玉砂利であった。足の裏の感触が又おもしろかった。そして、海も綺麗だった。
彼は泳ぎ終わると、今日のキャンプ場をどこにするか迷った。地図を見ながらキャンプ場を「二つ亀」に決めた。彼は、進路を北にとるとバイクをキャンプ場へと走らせた。いつもなら日が暮れるとあわててテントを張るのだが、時間的に余裕があったので彼はのんびりとしていた。そして、二つのキャンプ場を見つけた。彼は、バイクの止めてあったキャンプ場にテントを張ることにした。白いヤマハのXTの横にバイクを止めると
「すいません、キャンプ料はいくらですか?」
と彼は尋ねた。するとXTは、
「管理人がいないんだけど、あそこに千円という料金が書いてあったと思うけど・・・。このテントは、もう少し料金が高いんじゃないかな・・。」
と答えた。彼は、千円という料金を聞いて、高いからどこか安いところを探そうかと思い、再び
「近くに安いキャンプ場はありませんかね?」
と聞いた。すると
「どこも料金は同じだと思うよ・・・。あ、それからこのテント・・、管理人がいないようだから俺は黙って泊まろうと思っている。」
とXTは、答えた。彼はその話を聞いて、同じように泊まろうと考えた。ひとまずテントだけは張らない方がよいと考え、常時設営のテントの中に入り休んだ。
「どこから来たの?」
XTは、彼に聞いた。彼は、
「茨城からです。でも北海道を回ってから佐渡島に来たんです・・・。」
彼は、茨城から直接来たわけではないと話した。そして、これから日本海をずっと南下して九州まで行くことも話した。XTは、
「若いのはいいねえ、俺なんかお盆休みだから家を逃げてきたようなもんだ。」
と笑いながら言った。
そんな会話をしていると、そこへカワサキのLTDに乗った京都の学生が来た。学生は、
「こんにちわ。」
と挨拶すると、バイクを止め、テントを張り始めた。学生の話だと管理人はいると言うことだった。二人は手続きをしていないので、もし管理人に言われたらお金を払うことにした。

メモ フェリー4070円 ガソリン2000円 おかず1220円

八月一五日(月)「本州へ」
朝から風が強かった。彼は、ラジオのニュースで台風が近づいていると言うことを知っていたので、早めにフェリーで新潟に渡ることを考えていた。
「なんか天気が悪いみたいですよ。」
と、キャンプ場を出るときに二人に話した。彼は二人に別れを告げ、相川を目指してバイクを走らせた。相川と言えば、佐渡の金山では有名だ。相川には、観光用の歴史館があった。そこには、動力仕掛けで動く人形がおいてあった。
彼は見たいところもあったのだが、お昼までには佐渡島を離れるのがよいと考え、程々にしてフェリーターミナルの受付はすましておきたいと考えた。回りたいところもあったが、彼はフェリー乗り場へと急いだ。フェリーターミナルは、小木と赤泊にあった。迷ったが、なるべく南に着くフェリーがよいと考え小木にした。駐車場にバイクを止めると、すぐに受付に行った。受付の「フェリー欠航」の看板を見て
「すいません。今日はフェリーは出航しないのですか?」
と尋ねた。受付の人が
「今のところ様子を見て、この時間は欠航となっています。何便が出航するとは現在の時点では言えません。場合によっては、この後の便から出航するかもしれません。しばらくここでまってもらうしか有りません。」
と言った。それを聞いて、少しここで待ってみて出航できないと言うことで有れば、どこかにテントを張らなければいけないと考えた。ロードマップを見ながら、近くの名所を探したがあまりなかった。もしここでこの場所を離れて、フェリーに乗れなくなるといけないと思い、彼は待つことにした。回りのライダーも皆同じ気持ちなのか、待っているライダーが多かった。
そんなことを考えて待っていると、
 「午後五時の便が出航となりますので、乗船なさる方は手続きをお願いします。」
とアナウンスが流れると、出航を待っていた人たちの間から笑顔が見えた。出航までに時間があると思い、乗船切符が手に入らない場合を考えて、すぐ受付まで行って切符を買った。受付は、混んでいた。考えてみれば、お盆の最中のことである。混んでいても仕方ないと思った。
「RZでツーリングなんて珍しいですね、実はうちの嫁さんもこのバイクに乗っているんですよ。」                                   と、カワサキLTDをチョッパー風に改造したライダーが話しかけてきた。彼も
「台風で足止めをくって六時間も待たされるなんて・・・。」
とLTDに話した。彼は、話をしているうちにLTDの仕事がカメラ関係の仕事であることが分かった。その証拠に、LTDのシシーバーの後ろには、アルミのカメラバックが設置されていた。ターミナルで露出を計っていることでも、それが分かった。それが、又彼の興味をひいた。さらに興味をひいたのは、エンジンが四百㏄でなくて、六百五十のエンジンに載せ変えてあると言うことだった。
「バイクで乗船の方は、係員の指示に従って乗船の手続きをして下さい。」
と放送が流れると、駐車場に止まっていたバイクが次々と移動を始めた。それから係員の指示に従って乗船を始めた。すると、一台のバイクがエンジンがかからないのか、駐車場から移動できないでいた。何人かの女の子のグループらしく、交代でキックペダルを踏み下ろしていた。しかしエンジンは、いっこうにかかる気配はなかった。彼は、そのバイクがRZとわかると、そこに走っていき
「ちょっと貸して、俺のバイクもRZだから、なぜかからないか分かるから・・・。」
と言うなり、バイクのスイッチをオンにして、すぐにバイクを押し始めた。それから数歩走ると、バイクのマフラーからパンパンパンと音が出て、白い煙が上がった。エンジンがかかったのだった。彼は自慢げに
「RZは、プラグがかぶりやすいから、かからないときはプラグを交換するか、押しかけが一番なんだ・・。」
と、女の子に言った。女の子は、
「ありがとうございました。」
と、彼に礼を言うと係員の指示に従って乗船した。
フェリーは、六時間ぶりに出航することができた。直江津に着く頃には夜になり、雨も強くなっていた。彼はターミナルに着くと、今夜の宿泊場所を考えた。彼と同じように、ターミナルで知り合ったLTDも宿泊場所を探した。LTDが彼に
「あそこに国鉄のコンテナがあるけれど、あの中で寝ないか?」
と話しかけると彼は、
「国鉄のコンテナ?」
と不安そうに返事をしたが、この土砂降りの中でテントを張るのも面倒になり、その考えを了解した。二人はターミナルで夕食をとると、コンテナの中で一夜を明かした。

八月一六日(火)「能登半島へ」
朝起きると、雨は降っていた。彼はさらに国道八号線を南下した。LTDは、東京に帰ると言うことで上越市内で別れた。糸魚川を過ぎると「親不知子不知」の看板があった。彼はかって青山達と泳いだことを思い出しながら、走っていた。そして黒部を過ぎる頃には、雨は上がっていた。彼はこのまま国道八号線を南下するか、それとも能登半島に行くか悩んで走っているうちに、いつの間にか睡魔におそわれた。居眠り運転はいけないと思い、バイクを路肩に止めると、路上でそのまま横になり寝てしまった。数十分ではあるが、寝てしまった。
車が走る音で、彼は再び起きた。それから、再び国道を南下した。トリップメーターを見ると、二百十キロの所を指していた。そろそろガソリンを入れた方がよいと考え、ガソリンスタンドにバイクを止めると
「すいません、レギュラー満タン・・。」
と言った。疲れたので、バイクを降りてスタンドの中に入り
「牛乳一本下さい。」
と言い、牛乳を一本飲んだ。そこで
「土浦から来たんだ・・・。バイクもかなり汚れていますね・・。」
と、店員に話しかけられた。ガソリンが満タンになると
「おまちどおさま・・、領収書いりますか?」
と、聞かれたので、彼は、
「いりません。」
と、答えた。すると店員が
「先ほどバイクでガソリンを入れた方は、日本一周と書いて領収書を作ってくれと言っていたので作ったんですけど・・。」
と言った。彼は、なるほど、おもしろいし記念になるなと思い、書いてもらうことにした。
彼は、いつの間にか富山市内に入ってしまった。富山駅は、大学時代好く来ていたので、とても懐かしく思えた。市内をよく分からず走っていた。いつの間にか「富山城」の所に来てしまった。何気なくそこで歴史博物館を見て、再び富山から能登半島を目指した。氷見を過ぎる頃から、一つのバイク集団と一緒になり、そのまま七尾と来てしまった。バイク集団は、東京から来た集団だった。七尾から珠洲にはいる頃には、日も暮れ始めてきた。彼は、宿泊場所を探した。右手の方に「ランプの宿」という看板があったので、知らず知らずのうちに「ランプの宿」に入ってしまった。そこは旅館であり、キャンプ場はなかった。彼はそのまま能登半島を回り、曽々木海岸に着いてしまった。その海岸の所にキャンプ場らしき場所があったので、そこにテントを張ることにした。彼がテントを張り終えると、太陽が沈むところだった。彼は、テントの中で夕食をとった。利尻島から、自炊をなるべくするようにしていた。そのため、このキャンプ場でも自炊をした。キャンプ場のほとんどの人が海水浴客だった。

メモ ラーメン百五十円 牛乳七十円 ガソリン二千円 昼食五百円 ビール二百五十円
テント二百円

八月一七日(水)東尋坊
朝テントを撤収すると、輪島の朝市に向かった。彼は、社会科の資料にしようと朝市の様子をスライドにした。そして、バイクを金沢へと向けた。彼は、前々から金沢の兼六園に一度行ってみたいと思っていたので、輪島を過ぎると迷わず金沢へと進路をとったのだった。彼は、金沢市内にはいると「兼六園」と言う看板に従って、バイクを走らせた。そして、兼六園に着いたが、どうしてもバイクを止める場所が見つからない。探していると、駐在所の脇にヤマハのSRが止めてあった。彼はそれを見て、そこにバイクを止めようとSRの所にバイクを走らせた。すると、若い男女のカップルがヘルメットを持って、SRの所に戻ってきた。そして彼の姿を見ると彼に軽く会釈をした。彼もそれに会わせて、軽い会釈をした。
彼は、バイクを駐在所の脇に止めると、入園料を払って兼六園の中に入った。彼は、ゆっくり見学すると言うより、ただ兼六園の中を早足で歩っているだけだった。そして、彼は一時間もしないうちにバイクの所に戻った。そしてスイッチを入れようと思ったら、一枚の紙が貼り付けてあったのに気が付いた。紙には「駐車禁止」という紙が貼り付けてあった。その紙をはがし、注意書きを読んでみると、彼はあわてて駐在所に入った。
「すいません、この紙がバイクの所に貼り付けてあったのですけれど・・・。」
と申し訳なさそうに話した。すると
「君のバイクかね・・。駐車禁止の標識が有るんだけど・・・、見えなかったのかな・・・。」
と駐在所にいた警察官が言い始めた。そして、一枚の反則切符のようなものを渡された。彼は、初めてみるその切符について
「これは、反則切符なんですか?」
と、警察官に尋ねた。すると
「それは、一年間で二回その紙が渡された場合のみ、反則切符として取り扱われるんです。だから、これから一年間同じような違反を起こさないように・・・。」
と言った。彼はその言葉を聞いて安心した。彼は、バイクで駐車違反というのは、初めてのことだった。
彼は再びバイクに乗り、加賀を目指した。そして、東尋坊へとバイクを走らせた。東尋坊を過ぎるとあたりも暗くなってきたので、彼はキャンプ場を探し始めた。海水浴場へ向かえばキャンプ場があるだろうと、海水浴場に入った。急に風が強くなり出した。彼は、バイクのライトをつけキャンプ場を探したが、見つからなかった。すると、海の家があった。しかし、お盆を過ぎた海の家は、もう閉まっていた。彼は、ここにテントを張ることを決めた。すると
「もう海の家は閉店だよ・・・、だからキャンプ場もやって無いよ・・。それに、こんばんは台風が上陸するらしいから、できたらテントはよしたほうがいいと思うよ・・・。特に高波には気をつけないとね・・。」
と、軽トラックに乗った若い人が言った。彼は、
「キャンプ場が見つからないので、ここにテントを張らしてもらいます。」
と、若い人に向かっていった。若い人は、
「分かった・・・、とにかく高波には気をつけて下さいよ。高波で死んだなんて事になるとこちらも大変だから・・・。それから、海の家に冷蔵庫があるから、そこにビールがあるから飲みたければ、飲んでもいいよ。お金はいらないから、ただ飲み過ぎないように・・。」
と、言い海の家から出ていってしまった。
彼は、慣れた手つきでバイクのライトを頼りにテントを張るとすぐに荷物の整理をした。そして、いつもは打たないペグをしっかりと打ち付け、海の家に歩いていった。暗くてよくわから無かったが、冷蔵庫らしき物があった。あけてみると、確かにビールはあった。彼は、一本だけとるとすぐにテントの所に戻った。風でとばされてはいないかと心配だったのだ。彼は、ビールを飲むとすぐにシュラフに入った。その夜は、台風の影響でテントは、一晩中揺れていた。しかし彼は、台風ぐらいでは動じる男ではなかった。台風の中でのキャンプを何度も経験しているからだった。

メモ ビール二百四十円 入場料五百円 高速三百円 ガソリン二千円

八月一八日(木)雨の永平寺
台風の影響なのか、朝から雨だった。彼は、着慣れた雨具と長靴を身につけ、雨の中へとバイクを走らせた。彼は、福井から永平寺へと向かった。どうせ雨が降っているのだったら、バイクを降りて見学できるところがよいと思ったのだった。それも、永平寺は屋根付きだ。永平寺はすぐに分かった。彼は、バイクを駐車場に止め、雨具をとると入場券があるところまで歩いた。入場券は、自動販売機だった。その横には、大きな説明書きがあった。「日本最初の入場券の自動販売機」と書いてあった。彼は、自動販売機で入場券を買うと、中に入った。観光客は誰もいなかった。彼一人だけが観光客だったのだ。午前九時の雨の中である、それも仕方ないことだった。彼は雨の中を走りたくないので、ゆっくりと見学していた。そして、次の目的地も考えた。
永平寺の見学が終わると、彼はさらに敦賀へとバイクを走らせた。相変わらず、雨は降っていた。美浜に来ると、彼は偶然キャンプ場があるのに気が付いた。彼は、もう雨の中を走りたくないと考えたのか、美浜にあるキャンプ場へバイクを止め、そこにテントを張った。近くにテントは、一張りしか張ってなかった。彼はテントを張ると、すぐに荷物の整理をした。
荷物の整理をして休んでいると
「スパゲッティが余っているんですけれど、食べますか?」
と、若い女の人の声がした。彼は、あわててテントをあけ
「すいません、いただきます。」
と言い、スパゲティをたくさんもらった。彼はすぐに紅茶をわかし、そのスパゲッティを食べた。とてもおいしかった。彼が町に買い出しに行こうと思い、テントから出ると偶然先ほどのカップルと会った。彼は、
「先ほどはどうもごちそうさまでした。」
と、頭を下げながら礼を言った。そして、小雨が降る中をバイクで町に買い出しに行った。彼は、必要なものを買うと、再びキャンプ場に戻った。
彼はテントにはいると、再びシュラフに入った。そして、体を休めた。夕方彼は、少し早いなと思いながらも、夕食の準備に取りかかった。相変わらず、小雨は続いていた。彼は、夕食を撮るとラジオを聴きながら眠りにつくのだった。           

メモ おかず三千円

八月一九日(金)雨の美浜キャンプ場
朝から、相変わらず雨が降っていた。ずっと雨の中を走っていたので、彼は雨が止むまで待っていることにした。雨はいっこうに止む気配はなかった。彼は、買っておいた葉書を出し、手紙を書き始めた。そして、今までたまっていたフィルムやパンフレットを整理した。そうこうしているうちに、昼食の時間になってしまった。彼は、昼食の準備を始めた。
 すると、一匹の野良犬が彼のテントの所に近寄ってきた。その子犬は、白くてかわいらしかった。たぶん、おなかがすいたのだろうと思い、炊いたばかりのご飯を彼はさしだした。本当なら、あの若いカップルのテントに行けばよいのだろうが、カップルは昨日テントを撤収すると帰宅してしまって、今は彼のテントだけになってしまっていた。
彼は、その子犬が何となくそのままにしておけなくなってしまったのか、できたらそのままバイクで子犬と一緒に旅をしたらいいなあと思い始めた。彼は、たぶん、人恋しくなってしまったんだろう。あるいは、その子犬に自分の旅の姿を見たような気がしたのかもしれない。彼は昼食を食べ終えると、再びシュラフにもぐった。外は、まだ雨が強く降っていた。彼は、再びシュラフに入ると、いろいろな旅の思い出が浮かんできた。すると、又手紙が書きたくなってきたのか、シュラフから出るとハガキに向かって書き始めた。彼は、旅の思い出を誰かに話したかったのだった。しかし、今一人旅である彼に、語りかける者はいなかった。唯一、手紙を書くことだけが、彼の心をいやしてくれるのだった。
 彼は、雨が強くなったり小降りになったりしているうちに、あたりが薄暗くなってしまったので、ここにもう一泊することを決意するのだった。彼は、もう一泊することが決まると急に気持ちが楽になり、再びシュラフに入ろうとした。すると、先ほどカップルがテントを張っていた場所がにぎやかになってきた。彼は、誰か新しいグループがテントを張っているのだなと思いながらも、シュラフの中に入っていた。
「ねえ、このバイク見てよ土浦ナンバーよ・・。」
と女の子の声がしたかと思うと
「土浦って言えば、茨城県じゃないのか・・・。」
と言う声がした。そして、その声は宴会の声に変わった。すると
「せっかくだから、このバイクの持ち主にも仲間に入ってもらおうか・・・。」
と言う声が聞こえた。彼は、北海道のことを思い出し、ちょっと不安になった。
「休んでいるんだから・・・、いいんじゃないの・・。」
と言う声がしたので、彼は再び安心した。そして、彼のテントには誰も呼びに来なかった。彼がシュラフの中で会話を聞いている限りでは、社員旅行であると言うことと、京都から来たこと、そして海に潜りに来たことと言うことが分かった。
彼がトイレに行こうとテントから出ると、外はもう真っ暗だった。唯一明かりがあるのは宴会の席だけだった。彼は、黙ってトイレに行った。そして、トイレから戻ろうとすると
「一緒に飲みませんか?」
と、若い男の子に誘われた。その男の人の声とともに
「かなり料理もアルコールもあまっているので、どうですか?」
と、女の人にも声をかけられたので
「じゃ少しいただきます。」
と、彼は返事した。たき火を囲んで久々にアルコールを飲んだ。北海道を出ると、キャンプ場ではほとんど交流が無かったので、彼も本当はうれしかったのだった。飲んでいてさらに分かったのは、バイクできた者が一名いると言うこと、それからただ潜るだけでなく写真を撮るのが目的で来たと言うことだった。
「やっぱりニコノスが一番だな・・。」
と、カメラを持って撮るふりをした青年が言った。彼の持っているカメラもニコンなので、そこから又カメラの話が盛り上がってきた。彼もカメラが好きなので遅くまでみんなと話していた。そして、いつの間にか雨もあがっていた。彼は、明日のこともあるので、お礼を言ってテントに戻った。

八月二〇日(土) 墓地のキャンプ場
晴れているとは言えない天気だったが、彼は再びテントを撤収するとバイクに乗った。そして、再び国道八号線を南下した。すぐに三方五湖の有料道路が見えたが、彼は料金のことを考えそこは素通りした。そして、舞鶴へとバイクを走らせた。そして、舞鶴市に着いた。さらに彼は、天橋立へとバイクを走らすのだった。彼はここで、丹後半島を海岸沿いに走るべきか、それとも久美浜を通り、そのまま鳥取にはいるか考えた。彼は、時間的に海岸沿いを走ることは無駄が多いと考え、久美浜を通ることにした。ここは、山間部を抜ける道路だった。そして、久美浜から鳥取へと向かった。日本海を走る単調な道路だった。
雨は、再び日本海側に出ると降ってきた。彼は、雨具を着用すると日本海側をさらに南下した。そして、日が暮れると誰もいないキャンプ場にテントを張った。そのキャンプ場は時期が終わったのか、それとも雨のためなのか誰もいなかった。そして、キャンプ場の奥には墓地があった。彼は、バイクのライトを頼りに、いつものように慣れた手つきでテントを張ると、荷物の整理をして夕食の準備をした。キャンプ場から国道までは、歩いて十分ほどの所だった。彼は、美浜で買った米を炊き、夕食の準備をした。彼は落ち着くと、あらめて墓地の所にテントを張ってしまったことを後悔した。考えてみたらおかずがないことに気がつき、彼はおかずを買いに国道に出た。テントを出ると雨が降っていたので、傘をさして歩いた。そして缶詰とビールを一本買った。彼は、人通りの少ない道をキャンプ場へと向かった。そして、墓地のあるキャンプ場に着くと、テントの中に入った。そして、すぐに缶ビールを飲み始めた。そして、ビールを飲みほすと夕食をとった。食後、少し横になった。すると、なぜか北海道での出来事が思い出された。北海道を抜け、日本海を南下してからと言う者、旅人との交流は少なくなってしまった。それに、キャンプ場でも一人で泊まることが多くなってしまった。そして、降り続く雨、ちょっぴりホームシックになってしまったのか、誰もいないこの墓地の所にあるキャンプ場で、彼はいろいろなことを考えてしまった。ここから、九州へ渡って茨城まで戻ることを考えると、彼は後十日間しか残っていないことに気が付いた。九月一日は、始業式である。とにかく九月一日の朝には出勤しなくてはいけない。彼はそんなことを考えながらシュラフの中で寝た。

八月二一日(日) 萩へ
雨は上がっていたが、良い天気とは言えなかった。彼はテントをいつものように撤収すると、有ることに気がついた。テントの中に、異常なほどの蠅の群があったことだった。彼は、あわててテントからなるべく蠅が出やすいような工夫をした。そして、テントを撤収した。彼はバイクに荷物をくくりつけると、いつものように国道を南下した。彼は、あらためて国道の場所を地図で確認した。ここは、鳥取ではなく兵庫の浜坂と言うところだった。このキャンプ場から鳥取砂丘はすぐだった。彼は、鳥取について、すぐに景色の変化に気が付いた。国道の両側にある畑には、スプリンクラーが設置されていた。彼は思わずバイクを止めて畑の所に近寄ってみた。畑は、砂土だった。
鳥取砂丘の看板を見ながら、砂丘に行ってみた。朝早くから、天気も悪いのに観光客はいた。彼は、初めてみる砂丘を、創造していたものより大きく感じた。そして、砂丘を歩いてみて、改めて「鳥取砂丘」という実感がわいてきた。彼は、砂丘を登って砂丘の上から日本海を見た。日本海の空は、どんよりと曇っていた。これが晴れていれば、又違った景色が見られるのだろうと思った。しかし、来て良かったとも思った。
鳥取砂丘から、再び南下した。そして、米子、宍道湖、出雲とバイクを快調に走らせた。米子では松江歴史博物館へ、そして出雲では出雲大社へよった。浜田を過ぎると、左側の斜面が所々崩れているところが見えた。彼は、島根県で起きた土砂崩れのニュースを何回かテレビで見ているので、あの土砂崩れがそうなのかなと思いながら走った。場所によっては、国道が大きく陥没しているところが何カ所かあった。             
 彼は快調にバイクを走らせ、ついに念願の「萩」まで来てしまった。彼は、前々から吉田松陰に興味があったので、いつかは「萩」へと思っていた。彼は、萩に着くと、萩市内を見て回った。そして、青梅にキャンプ場を求めた。萩市内を離れた青梅であれば、キャンプ場もあるだろうと思っていたら、一つのテントが張ってあるのに気が付いた。彼は、
「キャンプ場ですか?」
と、テントを張ったライダーに聞いた。テントの側には、一台の赤いXLがとまっていた。ライダーは、
「キャンプ場みたい何ですけれど、よくわからないですね・・・、私も・・・。」
とXLは、答えた。XLは、横浜から来ていると言うことだった。現在日本一周中の学生と言うことだった。彼も、北海道を回り現在九州を目指していると言うことを話した。二人は、久しぶりに旅の話に夢中になり一晩を過ごした。

八月二二日(月)阿蘇へ
 彼は、朝早く荷物をバイクにくくりつけると、再び萩に戻った。まだ見ていないところがあったのであった。それは、吉田松陰記念館だった。だから、萩に到着すると、すぐに松蔭記念館に行った。彼は、改めて松蔭の偉大さと、そして若くして死んでいったことを思い知った。松蔭記念館の前にバイクを止めた彼は、
「土浦から来たの?すごいな・・・。」
と、何人かの観光客に聞かれた。天気が良かったので、今まで雨の中ばかり走ってきたから、よけいバイクが汚く見えたのだろう・・・。彼は、旅人という風格が漂っていた。考えてみたら、家を出てから一ヶ月近くがたつのだった。それなりに、一ヶ月間の旅の臭いが漂っていてもおかしくはない。 彼は、萩を後にさらに南下して、長門から秋吉台に入った。彼は、残りの日数のことを考え、秋吉台を通り、高速道路で一気に九州まで行くことがよいと考えたのだった。久々の快晴だった。彼は、秋吉台に続くワィンディングロードを、アクセル前回で走り抜けた。何日ぶりの快晴だろうか・・・、そう考えながら走るのだった。とても気持ちがよかった。かれは、高速に入り下関パーキングで休息をとった。初めて九州に行ったのは、十九の時だった。そのときは、ひたすら国道を走り続けていた。今は、高速道路を走り、そのまま下関海峡を渡ろうとしている。あのときとは違った気持ちで九州に渡ろうとしている自分に気が付いた。
一つの区切りをつけるために旅に出たのかもしれないと思った。もしかしたら、自分の過去にこだわっていたから・・・・。彼は、関門海峡を見ながらそう考えてしまった。彼は、再びバイクにのると関門橋を渡るのだった。大学時代は、関門トンネルを通って渡り、今は関門橋を通っている。おかしなものだと考えてしまった。橋の途中から「福岡県」という看板が見えた。そして、そのまま高速道路を走り続けた。彼は途中のパーキングで、いったい九州のどこまで行くのがよいかと又考え込んでしまった。日数から考えたら、このまま九州、四国と回り、関東に帰るのがベストと考えた彼は、とにかくフェリーで四国に渡れるところに出るのがいいのかなと思った。でもせっかく来たのだから・・・。彼は、とにかく阿蘇に行ってみたいと思った。初めて九州に来たときは、九州を一周したが、阿蘇にはよらなかった。そのことを考えたら「阿蘇」がベストと考えた。そして、高速道路をさらに南下して、熊本へとバイクを走らせるのだった。
八幡から福岡へとバイクを快適に走らせる。天気も良く、今までの日本海での雨は嘘のような天気だった。彼はさらに、太宰府へとバイクを走らせた。彼は途中でさらに又悩んでしまったことがあった。それは、鳥栖ジャンクションで大分自動車道にはいるのか、それとも九州自動車道をさらにこのまま進んだ方がよいのか、さらに長崎自動車道へ行った方がいいのか・・・。彼は、長崎自動車道へ行くことは日数的に不利と考え、大分自動車道か九州自動車道をこのまま走り、阿蘇に行くことにするのがよいと考え、彼は、このまま熊本まで走り、そこから阿蘇へはいることにした。
熊本インターを降りると、彼は通行券を料金所で渡した。料金は、三九〇〇円だった。ちょっとお金がかかり過ぎかなと思いながら、彼は料金を支払った。そして、阿蘇を目指して彼はアクセルを開けた。九州に来てちょっと気になったのは、高速の出口のところで何カ所かスピードの取り締まりをやっていたことだった。彼は、北海道に渡り捕まっているので、これ以上の減点はさけたいと思っていた。国道五七号線は、熊本市内を過ぎると、車両も少なく、快適な道路だった。彼は、阿蘇町にはいると、標識に従って右折した。右折すると、そこからはカーブが続いた。            快適なワィンディングロードが続いた。しかし、彼は時間から言ってそろそろキャンプ場を探さなければいけないと思っていた。彼の時計は、すでに午後五時を過ぎていたのだった。そんなことを考えながら走っていると、右側にキャンプ場が見えた。彼は、右折するとキャンプ場の受付の所まで行った。そして                              
「すいません、一人なんですけれどいくらですか?」
と、いつものように料金を尋ねた。すると
「右側の看板に書いてありますから見て下さい。」
と言われた。彼は、言われるままに看板を見た。そして、料金を見ながら、ここにテントを張ることにした。キャンプ場にはいると、すでに何台かのバイクが止まっていた。彼は、そのバイクの所に自分のバイクを止めると、荷物をバイクから降ろしてテントを張り始めた。彼はテントを張ると、すぐに温泉に入った。このキャンプ場には、温泉があったのだった。「湯ノ谷温泉」という看板がかかっていた。そこで温泉に入っていると、学生の集団が入ってきた。どうやらその集団は、バイク集団のようだった。彼は、会話の内容から、間違いないと確信した。
彼が風呂から出ると、すでに彼のバイクの脇に数台のバイクが並んでいた。先ほど入って来た集団のバイクのようだった。彼がテントに入っている間に、その集団もテントを張り始めた。バイクは、CBX、VFR、XJ、ガンマの四台だった。彼等も、彼のバイクに気が付いたのか彼を意識していた。テントを張り終えると、学生の集団は再び温泉に入った。彼も、それを見て何回入っても同じ料金なのだからと思い、再び温泉に入った。彼が温泉にはいると
「RZの方ですか?」
と、聞かれた。彼は、
「はい、九州は二度目なんですけど・・・、阿蘇は初めてなもんで・・・、いいところですね・・。」
と、答えた。彼等は、東京から来た学生だった。フェリーで川崎から宮崎まで来たと言うことだった。彼等は、九州は初めてと言うことだった。温泉にはいるとさらに話が盛り上がった。彼は、北海道から九州を回り、さらに四国に渡ることを話した。すると学生は、
「仕事は何をしているんですか?」
と彼に聞いた。彼は、
「無職」
と一言で答えた。そして、温泉から上がった後も、さらにキャンプ場で話は盛り上がった。

八月二三日(火) やまなみハイウェイ
朝から天気が良かった。彼は再び温泉にはいると、テントを撤収して出発の準備をした。学生達も同じように、出発の準備を進めた。学生達も阿蘇まで行くと言うので、彼も一緒に行くことにした。
それぞれがバイクのエンジンをかけた。彼が最初にスタートした。すると彼は、大きな声で
「俺は、学校の先生や、驚いたか!」
と言うと、思いっきりアクセルをあけスタートした。そして、学生達も次々にそれに続いてスタートした。
 阿蘇まで続くワィンディングロードを、彼はタコメーターを見ながら走った。そして、次々に続くくコーナーをクリヤした。そして、景色の良い場所に着くとバイクを止めた。
「本当に学校の先生なんですか?」
と、学生は、彼の脇にバイクを止めると、ヘルメットもとらず彼に聞いた。彼がヘルメットをとると、学生達もヘルメットをとった。そして、彼が教師であると言うことを知ると、本当なのかという驚きの顔で彼を見た。彼は、教師は教師でも期限付きの教師であることを説明し、現在は無職であり、九月から再び勤務することを説明した。再びバイクを走らせると、学生達の一台であるヤマハのXJが突然止まってしまった。彼は、
「どうしたの?」
とXJに聞いた。学生達は、工業大学だから心配ないから先に行っててくれるように、彼に話した。彼も先を急いでいたので、彼等と別れて阿蘇を目指した。
 一気に走ると「草千里」に着いた。彼は、その大草原の美しさに感動した。頭に描いていた「阿蘇」というのは、噴火口がある火山のイメージだった。しかし、目の前に広がる景色は、彼の今までのイメージを完全に変えた。阿蘇は、豊かな草原があったのだった。彼は、草千里の豊かな景色を満喫しながら、走った。とても、草原の馬達が印象に残った。そして、草原の中にある湖にも・・・。
彼は、学生達がもしかしたら追いついてくるかもしれないと思い、草千里のところで小休止することにした。しかし、学生達は来ることはなかった。彼は、先を急ぎ再びバイクにまたがった。そして、ロープウェーのところで再び立ち止まった。彼は、迷った末にロープウェーで火口の所まで行くことにした。ロープウェーは八〇〇円と高かった。しかし、いつ又これるか分からないと思った彼は、ロープウェーで火口まで行った。そして、すぐにバイクの所に戻ってきた。彼は、再びバイクで走り出した。しかし、すぐに「有料道路」があることに気が付いた。どうもその有料道路は火口まで続いているようだった。彼は、有料道路を走った。すると、先ほど乗ったロープウェーの駅の所に着いた。やはり、火口まで続いていたのだった。彼は、ロープウェーに乗ったことを後悔した。
 草千里を過ぎると道路は、長い下りに入り、途中で十字路になっていた。彼は、その十字路のところで地図を出すと、行くべき道を確認した。彼の予定は、九州を出ることだった。それを考えるとこれ以上南下するのはまずいと考え、彼は、大分に向かった。国道二六五号線を北に向かって走り続けづけると「一の宮」についた。そして、そこからさらに北に向かうと「山なみハイウェイ」に出た。 彼は、草原の中に一本のワィンディングロードを見つけた。それが「山なみハイウェイ」であった。彼は、そのワィンディングロードを攻めた。彼の二サイクルエンジンは、ここぞとばかりにレッドゾーンまで回った。彼のバイクは、水を得た魚のように動いた。彼は今まで走ってきたいくつかのロードの中でもこの「山なみハイウェイ」を一番と思った。それほど、バイクで走って楽しいロードだった。しかし、難点もあった。料金所が何カ所もあるので、そのたびに止まって料金を支払わなくてはいけないことだった。
城山展望所、牧戸峠、長者原、飯田高原、朝日台、山下湖、水分峠そして、国道二一〇号線に出ると、「山なみハイウェイ」は終わりだった。国道に出て右折すると「湯布院」だった。そして、フェリー乗り場である大分港を目指した。彼は大分港に着くと、受付で乗船券を買った。もちろん四国に渡るためであった。彼は、フェリーの乗船時刻までまだ時間があったので「大分銀行」でお金をおろした。松山までは、フェリーで約四時間ほどで着く予定であった。
 松山には、彼の大学時代の後輩が住んでいた。彼は、あらかじめその電話番号をメモしておいたので、大分から電話した。
「おい藤田、元気か・・・。悪いが今晩泊めてくれないか・・・、実は今大分に来ているんだ。」
彼が言うと
「先輩、本当に来たんですか・・・、大丈夫ですけれど・・、僕仕事がありますから来るんだったら六時頃がいいですね・・、僕も一緒に道後温泉に行きますから、先輩一緒に行きましょう。」
と、彼の後輩は言った。彼は、それを聞きその時間に合わせて松山に到着するようにしていた。
彼は松山に着くと、後輩に電話をした。
「藤田か、俺今ついたから・・・、どうすればいい・・・、分かった。」
と言い、彼は公衆電話から出ると待ち合わせ場所に向かった。その場所は、バイクで行けば数分の所だった。行ってみると、もう後輩は先に着いていた。
「よう、藤田悪いな、突然。」
と彼が言うと
「そんなこと無いですよ、先輩も相変わらず元気ですね。バイクで日本一周だなんて・・・。」
と後輩が答えた。二人は夕食をとると、そのまま道後温泉に向かった。後輩の先導のもとに、後輩のすすめる温泉に入った。そこは、大きな温泉だった。そして、中に入ってさらに驚いた。入り口は一緒なのに、料金がまちまちなのであった。彼は、初めてのことなので後輩の進める料金の温泉に入った。料金表を見ると、一番高いのは五千円で、一番安いのは八百円だった。後輩は、千二百円の料金を彼に勧めた。彼は、後輩の言われるまま千二百円の温泉に入った。
彼は、温泉に入りながら
「藤田さあ・・・、なぜ料金がこんなに違うんだ・・・。」
と、彼が後輩に尋ねると
「先輩、この料金は複雑ですけれど、たとえば一番安い料金の場合は、ただ温泉にはいるだけなんですよ。でも、一番高い料金の場合は、浴衣も出るし、休息室もあるし、軽くビールとおつまみまで出るんですよ・・。」
と、後輩が言った。彼は、その後輩の話を聞き、納得した顔をするのだった。
二人は温泉から出ると、休息所で少し休み、後輩の家に行った。彼は、後輩の家に泊めてもらうのに何か買った方がいいかなとも考えたが、どうもそれは彼に似合わない気がしたので、彼は何も買うことはしなかった。後輩が独りで住んでいるので有ればあまり気を使わなくてよいのだが、両親と一緒に住んでいるので彼もちょっと遠慮がちだった。後輩の家に着くと、彼は後輩の後からついていき玄関のところで
「今晩わ」
と、挨拶をしながら入った。すると
「どうも遠いところお疲れでしょう。和久の母親です。今日はゆっくり休んで下さい。」
と、母親が丁寧に頭を下げながら彼に挨拶した。彼は、母親の顔を見て、なるほど藤田に似ているなと思った。彼はその夜、久しぶりに布団で熟睡した。

八月二四日(水) 磯部焼き
朝起きると彼は、朝食をとった。彼の後輩が

「先輩、自分は今日出勤なので、夕方なるべく早く帰ってきますから・・・・。」
と彼に向かって話しかけた。彼は、
「ところでおまえ何やっているんだ・・・。」
と聞いた。すると後輩が
「銀行員です」
と言った。それを聞いて彼は笑ってしまった。彼は、後輩の大学時代をよく知っているので、銀行員という職業が、後輩には似合わないと思ったのであった。後輩もそれを察知したのか
「先輩も同じじゃないですか・・。」
と、笑いながら言った。彼は、そのあと後輩に、日数が残り少ないのでこのまま四国を回ることを告げ、彼は後輩の家を後輩と一緒に出た。
彼は、昨夜四国に着いたので、改めて回りの景色を見ながらバイクで走った。よく見れば、社会の教科書にあるように、段々畑が多く、「愛媛みかん」がたくさんなっているではないかと思った。彼は、その愛媛みかんと一緒に、ある看板をじっと見ていた。それは、焼き物の看板であった。信号が赤になったので、偶然彼の目にとまったのであった。「砥部焼き」と書いてあった。彼は信号が青になるとスタートしたが、再び「砥部焼き」の看板の所に戻ってきた。
彼はふと、焼き物がしたくなったのであった。なぜなのかはよく分からないが、じっくりと物事を考えながら作業をこの旅の中でしただろうか・・・。彼はふと、そんなことを考え始めたのだった。ただバイクで走るだけではいけないと思ったのだ。立ち止まって「焼き物」をするのもいいではないか・・・・。彼は、そう考えたらその焼き物屋に入っていた。
「すいません。やってますか・・・。」
彼は、静まり返った店内で申し訳なさそうに言った。すると
「やってますよ・・・。焼き物と絵付けがありますが・・・。」
店の主人らしい人が答えた。彼は
「時間のかからない物がいいんですけれど・・・。」
と尋ねた。主人らしい人は
「でしたら・・、こちらにある絵つけがいいと思いますが・・。」
と、いくつかの焼き物を指していった。彼は、
「じゃ、これと・・・、これと・・・、これにします。」
と言って、小さな焼き物を指した。彼は、お金がかかる物と、大きな物は頭に入れていなかった。なので、「コーヒーカップ」と「ぐのみ」を選んだのだった。静かな店内で、彼は筆をとって絵付けを始めた。
彼以外に客はいなかったので、彼は絵付けに集中できた。特に「ぐのみ」には「日本一周」と書いた。そして日付も・・・、誰に送る物かは決まってはいなかったが、何となく楽しめた。そして、いろんな事が頭に浮かんできた。特に彼は、自分のクラスのことが気にはなっていたので、途中でクラスの子全員に葉書を出しておいた。しかし、それでも彼は気になっていることがいくつかあった。しかし、臨時採用の身である彼にとっては、この夏休みは、「教師ではないのだ」と自分に言い聞かせて行動する以外にはなかったのだ。本当なら、そのまま出勤していてもいいのだが、行政が彼をそうさせたのだから、彼は彼で自分の働く場所を探さなくてはいけなかったのだ。彼は、急に旅をしている自分の「宙ぶらりん」な行動を評価し始めた。九月になれば彼の手元に「教員採用試験の結果」が来るわけだ。今までずっと「不合格」の通知だけが彼の手元に届いていたが・・・、それはそれで彼にとって別の新しいチャンスが舞い込んでくるきっかけにもなっていた。なので、彼は「不合格」に対してショックは受けていなかった。しかし、三十までには「合格」の通知がほしいとは思っていた。何となく彼は、そう考えていた。そんなことを考えていると、いつの間にか絵付けは終わってしまった。彼は、
「すいません・・・、終わってしまったのですけれど・・。」
と言った。主人らしい人は、
「じゃこの伝票に必要なことを記入して下さい。後で送りますから・・・。それから代金は全部で・二一四〇円お願いします。」
と言った。彼は、言われたとおりの手続きをすると、「砥部焼き」を後にして「宇和島」へと向かった。
磯辺焼きを終えた彼は、再びバイクに乗り宇和島目指して走り出した。「佐多岬」にも行きたかったのだが、日程のことを考えると無理と判断し宇和島目指すのだった。大洲から宇和島は、すぐだった。宇和島の「闘牛」のことにも興味があったが、残念ながら闘牛の催し物は行われていなかった。
宇和島から更に海岸線を南下し、土佐清水に向かった。大きな鰹の看板を見て、この町は「土佐清水」であるということが分かった。土佐清水と言えば、「鰹の一本釣り」で有名なところであるからだった。その大きな看板を右に見ながら、彼は更に南下し「足摺岬」に向かうのだった。足摺岬までは人家の少ない国道だったが、すぐに到着することが出来た。ここで記念撮影すると、再び土佐清水から高知へと向かうのだった。海岸線にはいくつかの海水浴場があったが、お盆を過ぎているのでどの海の家も閉鎖されていた。今日中に高知にたどり着くのは無理と考え、海岸線にテントを張ることを考えた。日本海を南下したときにも、海岸線の海水浴場にテントを張りビールをもらった経験から、何かいいことがあるかも知れないと考えた彼は、海岸線のテントの張りやすい場所を探しながら走行した。
テントを張ることを考えながら走行していると、それらしい場所が目に付いた。彼はバイクを止め、テントを張れるかどうかの確認を行った。海の家は閉鎖され、サーファーだけが海岸を利用していた。人が少なくなるまでテントを張ることを避け、夕方までこの海岸で泳ぐことに決めた。彼は何気なく
「サーフィンは、難しいんですか?」
と、サーファーに尋ねた。サーファーは、
「やってみますか?」
と、逆に彼に尋ねてきた。彼は興味津々に
「じゃ、ちょっとやらせてもらいますか・・・。すいません・・・。」
と言い、サーファーのアドバイスに従いながらサーフボードに乗った。それから三十分間ほど、サーファー達と共に遊んだ。
海からあがると、トイレ脇の水場で体を洗い、買い出しに言った。それから夕方になるとテントを張った。海岸線にテントを張る者は、誰もいなかった。彼はテントを設営すると、夕食の準備に取りかかった。のどかな海岸線での準備中、彼はラジオを聞いていた。その後夕食を取り終えると、一人静かにシュラフにはいるのだった。

八月二十五日 桂浜
朝の荷造りが終えると、高知に向かった。高知に向かう理由は一つ、「坂本龍馬」が好きだからだ。司馬遼太郎の「龍馬が行く」を読み、坂本龍馬に大変興味を持った。それから「桂浜」にも、大変興味を持った。彼は高知市内を抜け、真っ先に「桂浜」に向かった。桂浜は、とてもきれいなところだった。桂浜で、龍馬の像を見ることが出来た。龍馬は、海を見ていた。その像を見て、ますます坂本龍馬が好きになった。ジッと海を見つめている龍馬の像は、坂本龍馬の器を表しているようだった。桂浜も、想像していた海岸よりすばらしかった。彼は、そのすばらしい海岸をゆっくりと歩いた。歩きながら、当時の歴史を思い起こすのだった。
彼は高知を後に、ひたすら高松を目指した。途中「大歩危小歩危」から「祖谷渓」へと足を運んだ。それから香川県にはいると、金比羅に向かった。高松にはいると日が暮れてきたので、キャンプ場を探した。キャンプ場探しの前に銀行によると、キャッシュカードが使えなかった。いくつかの銀行を回って見たが、どの銀行もおろすことが出来なかった。とりあえず残金を確認したら「三百円」だった。午後六時になってもおろすことが出来なかったので、おろすことを諦めた。
海岸線にあるキャンプ場に向かった。寺の境内?とにかく、寺の敷地内にあることは確かだった。彼は目的地に到着するとバイクを止め
「今晩は、・・・。誰か居ませんか?」
と、玄関先で怒鳴った。奥から
「はい、今開けますから・・・・。待って下さい。」
と、返事があった。返事と共に、玄関の戸が開いた。彼は
「すいません。ここがキャンプ場と聞き、やってきたのですが、テントを張っても大丈夫ですか?」
と、尋ねると
「ええ、大丈夫ですよ。」
と、返事が返ってきた。彼は更に
「料金なのですけれど、実は銀行のキッシュカードが何回やってもおろせなくて・・、現在の所持金が三百円ほどなのですが・・・、それでもいいですか?」
と、尋ねた。すると
「ええ、結構ですよ。」
という返事が返ってきた。彼はそれを聞いて、安心して寺の裏にテントを張った。

 八月二十六日 小豆島
朝起きてみると、お寺の裏は海だった。彼はテントを撤収すると、「小豆島」に向かった。本当は淡路島から紀伊半島に渡ることも考えたのだが、急に「壷井栄」の「二十四の瞳」の舞台となった分校が見たくなって、「小豆島」に渡ることを考えた。彼はフェリーに乗って島に渡るため、ターミナルへと急いだ。途中「栗林公園」という看板が多くなってきたので、栗林公園に向かう。彼は「くりばやし」と呼んでいたが、途中で「りつりん」と読むことに気が付いた。
栗林公園からフェリー乗り場に行き、小豆島に渡ることが出来た彼は、初めて「オリーブ」が特産物であることを知った。ターミナルの売店には、特産物であるオリーブ関連の商品がたくさん並べてあった。また、島内にはオリーブの木も多く植えられていた。彼は、とりあえず分校だけに的を絞って走行した。
「岬の分校」と言う看板が、道路沿いに立てられていた。分校には、すぐに到着することが出来た。現在は、学校として使われていないということだったが近くの小学生の描いた絵が何点も飾ってあった。教室内には、古いオルガンも置いてあった。彼は、この木造の校舎がとても気に入った。何枚かの写真を撮ると、再びバイクに乗り島内を回った。途中の海岸で、地元の小学生と一緒に泳いだ。
泳ぎ疲れると、ターミナルに向かいフェリーで大阪に向かった。高速道路を使用して、そのまま茨城まで帰ることも考えていた。大阪港に到着するまで、様々なルートを考えていた。彼はとりあえず大阪港に到着すると、公衆電話で奈良県に電話をした。
「もしもし、北海道の稚内公園で一緒だったRZですが、・・覚えていますか?実は今大阪に居るんです。出来たら今晩止めてほしいんですが?」
彼が公衆電話から頼み込むと
「ええ、大丈夫ですよ。」
という声が、受話器の向こうでした。彼はその懐かしい声を聞き、高速道で奈良県へと向かった。
阪神高速は乗り慣れていなかったが、言われたルートで高速道を走行し、言われてインターを降りることが出来た。彼は適当な場所で公衆電話を探し、再び電話をした。
「もしもし、RZですが、今インターを降りて・・・。」
と、彼が公衆電話で話すと
「分かりました。じゃ、その場所まで行きますから、そこを動かないで下さいよ・・。」と、返事が返ってきた。彼は言われたとおり、その場所を動かずに待っていた。時計を見ると、夜の九時を過ぎていた。十分ほどして、一台のダックスが彼の所に近寄ってきた。ダックスの持ち主が、
「今晩は、待ちました?」
と、彼に話しかけてきた。彼も
「今晩は、本当に突然すいません。まさか本当に泊まりに来るなんて思っても居なかったでしょう?一晩だけお願いします。」
と、返事をした。彼女が走り出すと、彼はダックスの後を付いて、走った。彼女のダックスは、静かな住宅街へと入っていった。それから、灰色の建物の前で停まった。
「ここです。バイクはそこに止めて下さい。」
と彼女が言うと、彼は彼女の指定した場所にバイクを止めた。止めた後、彼女の案内で玄関に入った。玄関では、あのときの旦那が迎えてくれた。彼は
「すいません、突然押しかけてしまって・・・。」
と、旦那に挨拶をした。その夜は、三人で酒を飲んだ。話題はあのときの稚内公園でのジンギスカンに集中した。それから、稚内公園で別れてからの行動についても・・・。

 八月二十七日 鳥羽へ
朝、彼女は出勤と言うことで、朝食の用意をするとすぐに学校に行ってしまった。彼も朝食を取ると、鳥羽へと向かった。高速道で茨城まで帰宅することをせず、鳥羽から伊良湖岬に渡るルートを選んだ。北海道出直したはずのブレーキが、ここに来て甘利調子よくないので、バイクショップで修理することにする。たまたまヤマハオートセンターがあったので、そこで修理してもらう。
「すいません。ディスクブレーキの調子が悪いのですが・・・。北海道で一度修理してもらったのですが・・。」
彼は、北海道での修理を店員に話した。話を聞いた店員は、
「これじゃだめですよ・・・。ディスクパッドが減って、ディスク板にあたっている。だから、ディスク板が減ってきています。手で触って見てもらえば分かると思いますが・。」彼はその話を聞き、手でパッドを触ってみた。なるほど、減っているのが分かった。この先高速を利用するのが多くなるので、ここで修理することにした。
「すいません。ここで修理していきたいのですけれど、今日本一周の帰りで所持金があまり無いのですが、どれくらい掛かりますか?」
店員に尋ねると、店員は、
「ディスクバッドを交換するだけなので、そんなにかからないですよ。あまり大きな声じゃ言えませんけれど・・・、僕も今月で店をやめることにしているんですよ・・・。実はバイクで日本一周を計画していて・・、だから料金は・・・。」
と、店員は日本一周の話をし始めた。結果、料金は・・・と言うことになった。彼は
「いろいろありがとうございました。もし茨城に寄ることがあったら、言って下さい。このお返しは必ずしますから・・・。」
彼はそういうと、フェリーに乗るために鳥羽港へと向かった。
彼は、この鳥羽と伊良湖を何度か往復しているので、このフェリーには愛着があった。ターミナルでチケットを購入した。バイクと人を合わせて一六五〇円だった。彼の他にも乗船するライダーは多かった。乗船してしまうと、一時間ほどで伊良湖に到着した。彼は国道一号線を北上した。途中スタンドでタンクを満タンにすると
「今、みかんのキャンペーンをやっているのですけれど、お持ち帰りになりますか?」
と、店員に尋ねられた。彼は喜んで、みかんをサイドバックに詰め込んだ。詰め込んだ後、浜松から、磐田に住む先輩に電話をした。
「石渡先輩・・、元気ですか?」
大学時代の先輩に電話をすると、そのまま先輩の家に宿泊するのだった。浜松から磐田までは、すぐだった。この先輩の家には、何度か泊まったことがあった。だから家族とも何度か顔を合わせているので、気が楽だった。

 八月二十八日 国道一号線
先輩は、警備保障のガードマンとして仕事をしていた。先輩の出勤に合わせ、彼も先輩の家を出た。日程と高速料金のことを考え、国道一号線をひたすら北上した。「静岡」「富士」「御殿場」「厚木」と国道一号線を走行していると、頭の中をいろいろな思い出が巡るのだった。この国道一号線を何度走ったことか・・・。この国道一号線を走行して、何度京都まで行ったことか・・。その思い出が、彼を今回の旅に誘ったのかも知れない。だからこうして、再び国道一号線を走行している。

おわりに
この日本一周が「朝日新聞茨城版トピックス」に掲載され、それを読んだ保護者が朝日新聞に投稿した。たまたま投稿された文章が、再び朝日新聞に掲載された。この保護者の投稿を読んだ読者が、当時の茨城県教職員二課に電話や手紙を送った。内容的には、苦情ではなくて、「これほど児童を思いやる講師の先生が、教員採用試験で何度も落とされるのはおかしい、是非今年の採用試験で・・・。」ということらしい。
私は、この年に教員採用試験をバスすることが出来た。正直に書かせてもらうと、「正式採用されて嬉しかった自分」と、「正式採用されて、がっかりした自分」がいた。正式採用は組織に縛られると言うことであり、講師でいると言うことはフリーであると言うことだ。それを考えると、+-0だった。
最終的には、なかなか正式採用されなかったのに退職は早かったと言うことだ。早期退職も、同じように+-〇だ。まさか、還暦を迎えながらもツーリングを続けているとは自分でも思ってもいなかったが?                           アフリカツインはエンジンをばらさないと修理できないので、二十五万円はかかると思うが・・・、かといって新車を買う気にもならないし・・・・。若者ライダーが減少傾向にあり、中年ライダーが増加傾向にあるこのごろだが・・・。定年退職を迎えてバイクの免許を取得し、ライダーになる者やリターンライダー・・・。私はそれに逆行するように、これからバイクライフからは離れていく?
最後に、「ピースサイン」と「椎間板ヘルニア」を読んで、私の永遠のテーマである「何故走るのか?」を考えて下さい。
 その一 「ピースサイン」
私は、ツーリングが大好きです。風まかせにぶらりと旅に出る。いつものように、単車にテントとシュラフとウィスキーの入ったザックをくくりつけて、旅に出る。
途中で雨が降ったり、雪が降ったり、風にあったり、単車がパンクしたり、いろいろなことがある。冬の季節は寒くて特につらい。でも、なぜか単車に乗って、ぶらりと旅に出たくなるのです。それは、旅の途中でいろいろな人に出会ったり、いろいろなことがあるからです。
九州の日南海岸で出会った、五〇㏄のバイクで日本一周をしていた五十五歳のおじさん。単車の後ろに子供を乗せていた、奥多摩のお姉さん。日本海を見ながら一緒に走った高校生。上高地でパンクしたとき泊めてくれたおじさん。博多から姫路まで雨の中一緒に走り続け、私を泊めてくれた大学生。京都に行くとき、いつも「若いんだからガンバッテね!」と、私たちを励ましてくれた、鈴鹿峠の食堂のお姉さん。みんな親切な人たちばかりでした。私たちライダーは、みんな仲間なのです。
私たちはお互いに知らなくても、ライダーに出会ったなら、「ピースサイン」を出します。それは、私たちだけのものです。雨の降る日や冬の寒い日は「ピースサイン」は、「がんばれよ!」「元気出せよ!」と言っているみたいに、ライダーの心に暖かみを与えてくれます。時には安全を祈り、励まし合う。それが「ピースサイン」です。旅が長ければ長いほど「ピースサイン」は、ライダーにとって、うれしいものです。
最後に、三年生の皆さん、これからもいろいろなことがあると思います。友達に裏切られたり、恋をしたり、いろいろなことにつまづくことと思います。私は、これからの皆さんの長い旅に「ピースサイン」を送ります。ピース
昭和五十七年三月三十一日卒業文集より(一九八二年)
 その二「椎間板ヘルニア」
月日が経ち、二〇〇〇年にこのアフリカツインを買ってすぐに冬の九州へと旅立った。この冬の九州へのツーリングがきっかけで、私はこのアフリカツインに愛着を感じ始めた。買った次の日、「失敗したかな?」と思ってしまった私だったが、乗れば乗るほどにこのバイクの魅力にとりつかれ、一年で二万キロを超えてしまった。
アフリカツインはその後走行距離を伸ばし、十九万キロメートル走行した。特にすごかったのは、購入して約五年で十万キロを走行してしまったことだった。オドメーターが十万キロを指し示すときに走行していたのは、「美幌峠」った。今でもその時の写真は大事に持っている。
このアフリカツインというバイクは、旅するバイクだった。購入した後、いろいろと改造を重ね、全国を飛び回った。このバイクを購入してからと言うもの、高速道を走行してのツーリングが多くなり、荷物もたくさん積むことが可能になったので、カメラを持って行くことが多くなった。特に熱中したのは、「日本棚田百選」だ。棚田の多くは道幅が狭いところが多かったので、機動力のあるバイクが力を発揮した。また、「日本の古い町並み」にも興味を持ち、全国の「町並み保存地区」は訪れた。特に日本の四季を織り交ぜて撮影するために、同じ場所を何度も訪れた。「さくら」や「あじさい」などの「花」のある風景を求めて全国を旅したこともあた。
山岳部出身なので、ほぼ野宿だった。雨が降っても台風が来ても野宿・・・。かなり無理もした。そんなことが続いたのか、四十代後半になり「椎間板ヘルニア」になってしまった。そんな体になってしまったとき、医者から
「いいですか・・・、この模型で言うと・・・、こんな具合なんです。場合によっては手術しなければならないときもありますが、倉持さんの年齢を考えると・・・・。」
と言われたとき、私は思わず大きな声で、
「バイクは、これからも乗れますか?」
と、質問してしまった。半年間の通院で痛みは治まったが、冬場のツーリングはそれからはなくなってしまった。(これがなければもっと走行距離が伸びていたかも?)

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