短編『レトロ・シネマ・パラダイス』

文字数 5,761文字

レトロ・シネマ・パラダイス

「家でゴロゴロしてるぐらいなら映画でも見に行ってくれば?」

 ソファーで飼い犬のシロを撫でている私に妻が放った一言が切っ掛けだった。

「ああ、それも良いな」

 私は寝間着から焦げ茶色のスラックスとポロシャツに着替えると、財布を手に家を出た。
 定年してから半年が経った。最初のうちこそ溜まっていた本を読んだり、昔なじみや会社の同期と酒を酌み交わしたりと思い描いていた通りの生活だったが、長くは続かなかった。本はすぐに読み尽くし、友人たちもそれぞれ趣味や家族との時間を過ごすようになっていった。新しい習い事にチャレンジしようかと、いくつか通信講座を調べたがパンフレットを注文した段階で時間の無駄に思えてしまった。残り二〇年の余生で英語が話せるようになっても仕方ないと気づいたのだ。

 それよりも家族との絆を育んだほうが人間らしい余生の過ごし方だろう。そう思い、となり町で暮らす息子夫婦の孫の世話をかって出たのだが、なんのかんのと理由をつけられ断られてしまった。代わりに、長年苦労をかけた妻にサービスしようと料理や掃除を手伝おうとしたのだが、「邪魔」の一言で一蹴されてしまった。
 私にできることは、以前と変わらず飼い犬のシロの世話だけだった。
 老犬のシロは余り動こうとしない。一日の大半を夢現で過ごしているようだ。必然的に私もソファーで日がな一日、シロの薄くなった毛を撫でながらテレビを見ているばかりになっていた。

 だから、妻に映画を勧められたことは私にとって玉光だったと言える。
 学生時代は少ないお金をやりくりして、よく映画館に行ったものだ。そう言えば、妻との初めてのデートも映画館だった。
 私達は初夏の駅前で待ち合わせをした。デートの一時間前についた私は、今日のために買ったハンカチで汗を拭いながら妻を待っていた。妻は白いワンピース姿で現れた。約束の三〇分前なのに彼女は私の姿を見つけて小走りになっていた。私はその時、この人と結婚すると直感した。

 あれから四〇年と少し。妻の体重は二倍になり、韓流スターの変なTシャツを着ている。私のことは邪魔な信楽焼のたぬきぐらいにしか思っていないようだ。こんな未来までは直感に含まれていなかった。
 電車に揺られ、私は街に出た。学生時代を過ごした街だが、会社に務めるようになってからは乗り換えだけで降りることがほとんどなかった駅だ。
 綺麗になった駅ビルを尻目に、薄汚れた地下道を進み昔ながらの繁華街に向かう。すえた匂いが薄れると、明るい地上出口が待っていた。

 私の記憶の中の繁華街は雑然とした熱気が渦巻く場所だった。朝から酔っぱらいが座り込み、開いた店先から地方競馬の中継が聞こえる。そんな場所だった。
 それらは全て、真新しいマンションになっていた。薬屋はドラッグストアに、薄汚れた本屋はチェーン展開する大型レンタルビデオ店に、記憶と一致するのは地下道出口の横にある細長く気味の悪い銅像だけだった。

 私は小奇麗になった道を落ち着かない足取りで進んだ。町並みは変わっても、通い慣れた映画館への道は身体が覚えていた。
 ひっそりと建っていた映画館は、ジャラジャラとうるさいパチンコ屋になっていた。
 私はきた道を大股で戻っていく。どうしても映画を見なければならないという使命感に駆られていた。
 駅前の交番で映画館の所在を尋ねると、なんと駅のすぐ隣りのビルの中にあるという。別の駅まで行かないですむのはありがたい。何より、映画という文化がこの街に残っていたことに安堵できた。

 映画館はビルの六階にあった。平日ということで、エレベーターを降りたすぐにある受付ホールも人が閑散としていた。
 壁には上映中の映画のポスターが貼られ、チラシが自由に取れるようになっていた。その種類は二十本近い。どうやって一日でそんなに上映するのかと思ったら、幾つもスクリーンで同時に上映しているらしい。なるほど、シネコンというやつだ。

 さて、これほど映画があるとどれを見たら良いのかまるで分からない。上映スケジュールを見ると、三十分以内に始まるのが三本あった。どこかで食事をして時間を潰したり、出直したりする気分ではないので、この三本から選ぶことにした。
 一本は恋愛映画だ。テレビでCMを見たことがある。人気アイドルがヒロインを演じているらしい。『本当の愛を知っていますか?』なんて、見るからに下らなそうなキャッチコピーがついているので真っ先に除外した。
 残りはアクション映画とドキュメンタリー映画だ。アクション映画のポスターには全米一位やらの宣伝がところ狭しと並んでいる。名前の知っている俳優も出ているようだ。ドキュメンタリー映画は、バレエダンサーの話しらしい。

 バレエには興味が無いので、アクション映画を見ることにした。
 チケットの購入は受付ではなく、その横にあるタッチパネル式の券売機からだった。タイトルと上映時間を選び、座席の番号を押し、料金を支払う。便利で効率的かもしれないがなんとも味気ない。機械操作だからか、いちいち『払い戻しはできません』やら『これでよろしいですか?』などの確認が出てきて少し不快だ。便利さを求めて、他のものを犠牲にしているようでならない。
 上映まではまだ一〇分ほどある。そう言えば、朝から何も食べていない。私は売店で何か買うことにした。

「いらっしゃいませ、ご注文は何に致しますか?」

 若い女店員がハキハキとした口調で言った。
 私はカウンターに貼り付けてあるメニューに目を落とした。コーラに烏龍茶、コーヒーにビールと普通の喫茶店よりも豊富な飲み物が揃っている。食べ物もポップコーンだけでなく、ホットドッグや唐揚げなど昔からは考えられない充実ぶりだ。

「ホットコーヒーとホットドッグ」

 この店員ぐらい若ければ、ポップコーンとコーラを注文しただろう。しかし、あいにくと私の身体は高血圧に悩まされている。過剰な塩分は厳禁だ。

「申し訳ありません、当店ではアイスコーヒーのみの提供となります」

 申し訳無さそうに店員が頭を下げるが、私は納得できなかった。

「馬鹿にしているのか? そこの機械にはホットと書いてあるではないか」
「はい、以前はホットコーヒーを提供していたのですが、他のお客様から匂いの苦情がありまして、現在は中止させて頂いています」

 店員の説明に私は驚いた。コーヒーのあの芳しい匂いに文句を垂れる人間がいるなど信じられなかった。しかし、改めてメニューを確認すると、コーヒーの横の『HOT』の文字が黒線で塗りつぶされていた。

「仕方ない、アイスコーヒーで」
「はい、畏まりました。ご注文は以上でしょうか?」
「ああ」
「では、アレルギー物質の方を確認させていただきます」

 店員は聞きなれない言葉に続き、メニューとは別の一覧をカウンターに出した。

「まずはホットドッグですが、原材料に小麦、大豆、豚肉――」
「ちょっと待て、アレルギーだ? そんなものは必要ない。上映が始まってしまうから早くしてくれ」

 私は困惑しながら店員の面倒な説明を遮った。

「申し訳ありません。アレルギーの説明をしてからでなければ売ってはいけない規則になっています」
「ふざけた規則だ。私はアレルギーが無いからそんな説明は不要だ」
「いえ、規則ですから」

 店員は頑として譲らなかった。時計を確認すると上映開始まであと五分だ。なんとか間に合うだろう。

「分かった。聞くから早くしてくれ」
「納得して頂き、ありがとうございます。繰り返しになりますがホットドッグは原材料に――」

 ホットドッグとアイスコーヒーの原材料と、アレルギーやカフェインの過敏性についての注意を聞き流しながら、私は財布から料金ピッタリ分の硬貨を準備していた。
 そして説明が終わり、アイスコーヒーとホットドッグを受け取る頃には上映時間を回っていた。焦らされた私は叩きつけるように料金を支払うと、トレーを手にシアター入り口に向かった。
 ペラペラのチケットをもぎりに見せチェックを受けると、私は絨毯敷きの廊下を小走りして三番シアターへ入場した。

 シアター内の照明が落ちていく中、私は非常灯の灯りを頼りに自分の座席を探した。観客は私の他には中年の男と若いカップルが一組だけで、場内は閑散としていた。
 見つけ出した席につくと荷物を隣の空席に置き、とりあえずアイスコーヒーを一口飲んだ。砂糖もミルクも別だったので、酷く苦かった。期待せず齧ったホットドッグはなかなかのもので、妻の作る朝食より美味かった。

 スクリーンでは新作映画の宣伝が延々と流れている。意味深なカット繋げたサスペンス映画、現実と見紛うばかりのCGで作られた宇宙ステーションを舞台にしたSF映画、馬鹿な女が騒いでいるだけにしか見えない恋愛映画、それに内容のまるで伝わってこないアニメ映画。興味を惹かれたのは、第二次世界大戦の戦車戦を描いた映画ぐらいだった。
 続いてスクリーンには、カメラ頭のスーツ男が現れダンスを始めた。何の宣伝かと思っていると、映画の啓発映像のようだ。カメラで撮るなだの、違法ダウンロードをするななど、アレルギーと一緒で私にはまるで関係のない話だった。

 カメラ頭の男が消えると場内は暗闇包まれ、非常灯の灯りが目に突き刺さる。昔の映画館はあんなに目立つところに非常灯を設置していなかった気がする。非常に目障りだった。
 スクリーンに文字が映し出される。タイトルバックかと思ったら、これも注意書きだった。

『この物語はフィクションであり、登場する団体や人物などの名称はすべて架空のものです』

『作中に登場する歌や楽曲などはすべて権利団体の許可を得て使用されています』

『映像内の俳優、エキストラなどはすべて肖像権の使用契約を結んでいます』

『本映画は日本国内の法規に則り撮影、制作、販売されています。許可無く国外に持ち出すことを禁じます』

『映像の一部でフラッシュによく似た画面効果が存在します。過去に映像作品で倒れたことのある方は直ちに鑑賞を中止し、劇場の外に出て下さい』

『鑑賞中に気分が悪くなったりした場合は直ちに鑑賞を中止し、劇場の外に出て下さい』

『作中には暴力表現があります。類似のPTSDを患っている場合は直ちに鑑賞を中止し、劇場の外に出て下さい』

『冒頭で主人公が相方を拳銃で撃ち殺すシーンがありますが、撮影は空砲で行われたため俳優に怪我はありません。また一部の血や欠損表現はCGによるものです。殺人は法令で禁止されているので、決して真似をしないで下さい』

『作中の銃器は全てモデルガンです。また無許可の銃器の所持・使用は犯罪です。必要な場合は警察や自治体に許可を取ってから使用して下さい』

『主人公を陥れようとするテロ組織は劇中の表現です。構成員のテロリストは全て俳優が扮しているものです』

『テロリズムは犯罪です。公衆等脅迫目的の犯罪行為のための資金の提供等の処罰に関する法律などで裁かれることになります。決して真似をしないで下さい』

『劇中における爆弾の製造過程は偽物ですが、現実における爆弾の製造は犯罪です。決して真似をしないで下さい』

『劇中におけるハッキングシーンはキーボードをデタラメに叩いているだけで、CGなど特殊効果で雰囲気を再現しています。実際のハッキング方法とは異なります。ハッキング行為は犯罪ですので、決して真似をしないで下さい』

『カーチェイスは全て撮影所の敷地内でされています。また安全性を考慮し、アクションシーンは俳優に変装したスタントマンが全て行っています。また法定速度は守りましょう』

『テロリストの兵器工場に侵入した主人公が爆発に巻き込まれ死亡したと勘違いしたヒロインが寂しさを紛らわすために、黒幕である主人公の親友とキスをしますが、本映画は不倫関係を推奨するものではありません』

『満身創痍の主人公が闇医者に助けられますが、無許可の医療行為は違法です。決して真似をしないで下さい。またやむ終えない場合でも保険の対象外となることに注意して下さい』

『テロリストが素手で核爆弾を扱っていますが、これは模型のため被曝の心配はありません。実際に放射性物質を扱う場合は許可を取りましょう。また他人を被曝させた場合、放射線を発散させて人の生命等に危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律に抵触する可能性があります』

『作中で主人公と親友の決戦は核爆弾を積んだ飛行機の中ですが、これはセットなので実際の墜落の心配はありません。窓ガラスが割れたり、機体に穴が開くシーンもありますが全て特殊効果です』

『最後に飛行機から親友が落下するシーンがありますが、前述のとおりスタントマンです。CG処理で消してありますがパラシュートを背負っているのでご安心ください』

『墜落しそうな飛行機を主人公が操作し、海に不時着させますが、これも作中の表現です。飛行機の操縦にはライセンスが必要です。また飛行には届け出が必要です。無資格、無許可の場合は決して真似をしないで下さい』

『主人公はヒロインとベッドで愛し合いますが、ヒロインは18歳以上です』

『男女の恋愛を描いていますが、同性愛やその他の性的指向を否定する意図はありません』

『撮影中に実際の動物を傷つけていません』

 そして映画は二時間ほどで終わった。
 エンドロールの途中で立ち上がり、退場していく無作法なカップルを睨みつつ私は映画の評価を考えていた。

 つまらなくはなかったが、傑作という程でもない。ただ問題があるとすれば爆弾テロのシーンだ。いくら映画とはいえ、子供が死ぬのは非常によろしくない。PG15と年齢制限されているが、あんな残酷なシーンを子供が見て良いはずがない。

 今日もこの後、特にすることがあるわけではない。

 私は手紙を買って帰り、配給会社に意見書を送ることにした。
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