朝帰りする猫

文字数 2,908文字

 パンパンと手を叩くとどこからともなく全速力でやってくる。車で出かける時などお留守番だよと言って出かけ帰ってくると車の音を聞きつけて門のところへノコノコと出迎えに来る。イチゴが好きでつぶしてやるとペチャペチャと食べ、庭のイチゴ畑で勝手に食べられては困るなぁと思ったが果汁が出ていないせいか食べないので助かった。(シチ)は可愛くて賢い猫だった。

 七はサクランボの花が咲く三月半ばのころ突然我が家にやってきた。裏庭の方で子猫が鳴いていると妻が言うので見に行くと生後一か月位の子猫がいた。真っ白でシャムネコの血が入っているのか目が青くて可愛い。オオ、ドーシタノ?としゃがみこむと肩にぴょんと飛び乗ってきた。初めて会うのに肩に飛び乗ってくる猫なんて初めてだ。
 どこかの飼い猫が迷い込んできたのではないかと隣近所を聞いて回ったが違うとのこと。天から降って湧いたような現れ方、しっぽの先が折れ曲がっているために捨てられたのだろうか。どうしょうかと迷っていると妻が飼うことにしようと言った。瞬間、遠出がしにくくなるなぁという思いが頭をよぎった。
 七という名をつけた。二、三十年前子供たちが小さかったころに飼った最初の犬がゴロでその次に来た犬がロク、今度はシチである。居間に接したウッドデッキに小皿を置いてキャットフードを入れておいた。ふと見るとそのキャットフードを野良猫が食べている。ここら辺は野良猫が多く庭先を平気で闊歩している。子猫の七では野良に対抗できなく食べ物は全部取られてしまう、ここは一つ驚かせて二度と来ないようにしなきゃと思いスリッパ片手に硝子戸を開けて勢いよくウッドデッキに飛び出し投げつけた。猫はびっくりして一目散に逃げ出したが途中で方向転換するときに足を滑らせた。や、逃げながら猫が滑った、なにか可笑しいなぁと思っていたら、自分も滑っていてウッドデッキから仰向けの恰好で土間に落ち、ウッドデッキの縁で脇腹を強く打ちウッと唸ってしまった。起き上がろうとしても胸が締め付けられた感じで身動きがとれなく息も十分吸えない。このウッドデッキは二、三日前に完成したばかりで大工さんが合成樹脂でよく滑りますからと言っていたのを思い出した。妻を呼んでやっとの思いでウッドデッキに腰掛け、すぐ医者に行った。レントゲンで見ると肋骨が二本折れているとのこと。胸全体を厚手のフェルト地で固定するだけであとは何の処置もしない。三十年ぐらい前にスキーで肋骨を折ったときは胸に厚手のボール紙を巻いてその上にグルグル包帯を巻いて胸を固定した。ボール紙が厚手のフェルト地になっただけ、医学も進歩してないなと思った。
 寝起きに難渋した。今まで気が付かなかったが布団から起き上がるには体を捩じるらしく、折れた肋骨が痛くて起き上がれない。やむなく寝室の柱の天井近くにロープを固定し他端を枕元に置き、そのロープをたぐり寄せて上半身を起こすと痛みを感じないで起きられることが分かった。直るのに約三か月かかった。

 昼間は七を屋外で遊ばせ夜は室内に入れた。我々が庭に出てゆくと遊び相手が来たと思うのか庭を全速力で走りぬけ、力余って木の幹を二、三メートル駆け昇ったりする。高さ四メートルぐらいの庭のさくらんぼの木に梯子をかけてサクランボを取っていると、七も木に登ってきて何をやっているんだいとでも言うように近くの枝から覗き込む。
 庭を歩いていると突然後ろからきて足にわざと触れながらサッとそばを通り抜けるので思わず踏みつけそうになりびっくりしてしまう。これがどうも一緒に遊ぼうという合図らしく、こちらの顔を振り返りながら先に歩いて行く。そこで芝生のところへ行き細竹の先のひもを回して遊ぶことになる。
 ある時七が帰ってきたら背中から脇腹にかけて長さ二十五センチ、幅八センチぐらい毛がつるりとむしりとられ、ピンク色した地肌が見える。聞いてもしゃべらないので何故そうなったか分からない。狸が出没して農作物を食い荒らすので罠を作って二、三匹捕まえたと隣の人が言っていたがそんな罠にでも引っかかったのだろうか。七は二、三日間餌も食べずにもっぱらジットして体力の回復を待ち、四日目あたりから少し食欲も出てきた。やがて地肌から短い毛が生えてきたが真っ黒な毛なので驚いた。黒い島模様がそこにできるのかと思って見ているとその部分の毛は伸びるにつれてだんだんと色が薄くなり、周辺の毛と同じ長さくらいになったら同じ白になった。不思議な現象だ。子供が以前怪我をした鳥の雛を拾ってきたことがある。羽が真っ黒で何の鳥か分からなかったが、大きくなって羽の色が変わりキジバトになった。この猫も最初は真っ黒で生まれてきたのだろうか。
 ある日夜になっても七が家に戻ってこないことがあった。近くの溝にでもはまっていないかと妻と二人で暗闇の中をシチーと呼んで探したが出てこなかった。朝になって妻が右隣の家の納屋に閉じ込められたのではないかと思い納屋を開けてもらい、シチーと呼ぶとニャーといって高いところから降りてきた。これが第一回目の朝帰りである。
 二回目の時は隣の納屋ではなかったが昼ごろにどこからともなく帰ってきた。
 三回目、夜になってもまた帰って来ないねーと二人で話していて、二回目の時のようにそのうち帰ってくるだろうと思っていた。ところが朝になって左隣の奥さんから七に似た猫が道端に倒れているとの電話、これはえらいことだと思った。妻は毛布を片手に二人してすぐ駆け付けた。七は路肩の雑草の上に固くなって横たわっていた。毛布にくるんで抱きかかえたとき、何てことだ七が死んでしまった・・・、頭がどうかなりそうに感じた。体のどこにも血は出ていなかったが七はカッと(くう)をにらむように眼を見開いていて、何回か瞼をなでおろしたらようやく目を閉じた。その農道は車の往来が多く、撥ねられたのだろうか。

 庭仕事をしていても七がいないと面白くないと妻が言う。畠仕事の時ふと気が付くと七がそばでうずくまっていて妻をビックリさせたり、野菜畑を耕すと柔らかくなった土の上におしっこをしたり、その七がもう居ないのだ。
 七が死んで一週間ぐらいたった頃だろうかパソコンを見ていたら七の写真を入れたホルダーが目に付いた。七の写真を見る?と妻に聞いたら、見る気になれないと言う。ア、妻の悲しみは僕よりもずっと深いんだと思った。
 夕食後我々はいつもソファーに腰掛けてテレビを見る。二人がソファーに腰掛けると七が待ってましたとばかりに妻のひざ掛けの上に飛び乗ってきて丸くなる。たまにどうしたことかまず僕の膝の上に来てうずくまろうかどうしょうかと一,二秒迷ってから、やーめたと妻の膝の方へ移動してゆく。僕は座っていてもじっとしていないので七には居心地が悪いようである。その点妻は動かないのでやがて七はウツラウツラと目を閉じて眠りにつくのが習慣になっていた。
 何のこととも感じないで七と我々は三年間一緒に暮らしてきたが、七が居なくなって初めて七が心に占めていた大きさが分かった。

 そよ風とともにやって来た七はつむじ風に連れ去られて行ってしまった。

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