第一和
文字数 2,301文字
夏休みを返上して俺はとある和食店の従業員募集に応募した。
「初めまして、チーフの廣瀬です」
出勤初日、ガチガチに緊張していた俺の前に現れたその人は、なせか突然俺の手を掴んだ。
「あっ、あのっ」俺の心臓がものすごい勢いで拍動した。
「爪は切ってきてるわね」
「あ、はい」
「ならいいわ。切ってなかったら帰らせてたけど。命拾いしたわね」
何事もなかったように奥の厨房に戻った。ぽかんとしていると別のほんわかした感じの女子が話しかけてきた。
「あれ、いつもやるのよ。君、命拾いしたね」
「店長でもないのにそんな権限もってないだろ」
とはいえ、俺はその人──真紀さんの下で働かせてもらえることになった。
真紀さんはスパルタで、皮向きの仕方一つ取っても何度もやり直された。
その他にも、掃除や接客を先に教えられ、料理に関しては何も教えてもらえなかった。
夜になり、帰ろうとすると真紀さんに呼び止められた。
「新人くん、これあげるわ」
渡されたのは料理の本だった。
俺はそれを受け取った。
「どうも」
「ふーん」
真紀さんは少し不満げだった。聞くのも怖いのでその時は聞かなかった。
二日目、ようやく料理を教えてくれると言われた。
「じゃあ昨日のレシピからね」と真紀さんは同じ本を持ち出して言った。
「まさか読んでないとはいわないわよね」
言わせない剣幕だったので頷くと、後ろに立って言った。「じゃあ作って」
俺は予めおかれていた食材を手に取った。昨日教えてもらったことを実践し、食らいつく。
「なんだ、ちゃんと読んでたのね」
「うす」
「こら、返事ははいよ」
後ろから背中を小突かれた。
危うく手元が狂ってしまうところだった。
完成した料理を見て真紀さんは頷いた。
「見た目はなかなかね。君、本当に素人?」
「母親の手伝いくらいです」
「ふーん」と呟いて真紀さんは匙を傾けた。数秒咀嚼して飲み込むと、ゆっくりと箸を置いた。
「おいしくない」
「はい」
「君、ちゃんとレシピ見て作ったの?」
「レシピ見ないで作れって言ったの真紀さんじゃないですか」
そう言うと真紀さんも反論できないのか口を尖らせた。
「俺はちゃんとレシピ通りに作りましたよ」
「じゃあなんでこんな美味しくないのよ」
「さあ、隠し味でも入ってたんですかね。入れた覚えはないんですけど」
真紀さんは数秒沈黙した。そして立ち上がると、肩に手を置いて言った。
「君、今日は厨房立たなくていいよ。レシピ通りに作れないどころか、客に食べされるものとしてあれは酷すぎる」
俺は、何も答えなかった。答える気になれなかった。
その日は本当に何もさせてもらえなかった。
夕方頃、客がはけてくると真紀さんは俺を厨房に呼び出した。
「これ、わかる?」
「俺が作ったのと同じものですね」
「そう、見た目は一緒。不思議よね、味は全然違うのに」
真紀さんは俺に箸を持たせた。「食べてみなさい」
俺は箸で一口つかんで口に入れた。
塩の分量も醤油とみその配合も完璧。模倣、完全再現、そんな言葉では言い表せない気持ちが込められている気がした。
「これ、私が一番好きなレシピなのよ。わかるでしょ、それをあんな味に変えられたらどんな気持ちになるか」
「俺の好きな味付けですね」
「そんな上等な舌もってるわけないでしょ。自惚れないで」
「本当に忘れてしまったんだな」
俺はゆっくりと箸を舌に下ろした。
「いつか、両親がずっと家にいなかったとき、カップラーメンばっか食ってた頃、近所にいた世話焼きなお姉さんが飯を作ってくれたことがあった。
その人の母親がよく作ってくれる料理だって言うから、期待して待ってたんだ。
その人は料理が好きだったみたいだから、俺みたいな奴でも、初めて人に料理を食べてもらえるのが嬉しいって喜んでたよ。味は、決してうまいって言えたもんじゃなかったけどな。塩の分量を間違えて、みその箱の中に醤油を入れて『節約!』とか言ってたんだから馬鹿でもわかる。
けどあの味が今でも一番舌が覚えてるんだ。分量をちゃんとすればめちゃくちゃうまい料理になるって気づいても、自分で食うときはあの味付けになる」
「塩・・・すきなだけ、みそと醤油・・・とりあえず全部」
「【最高の肉じゃが。一度食べたら忘れられない失敗バージョン】ああ、そんなタイトルだった。購入特典でもう一品頼まれたとき、真っ先に思い浮かんだんだ。もしもあの時のお姉さんがこの本を買ってくれたら、気づいてくれるかもしれないって」
「ふざけた料理名だと思ったわ。その割に見た目だけちゃんとしてるから、それにも腹が立ったもの」
「編集に止められたんだよ。せめて食べるまではわからないようにしてくれって」
「そう、じゃあ本当なのね。あなたがあの【TAKAZU KITCHEN】のタクヤだって」
「うん、隠し味はもうわかった? 真紀姉ちゃん」
本のレシピには、あの肉じゃが劇的に旨くなる隠し味があると書いていた。
ほとんどの人は、嘲笑し、あるいはSNSなんかで酷評してきた。
けど、俺が本当にあのレシピを届けたかったのは、たった一人だけだった。
「うん」
真紀さんは頷いて、奥から箸箱を持ってきた。
「みんな来て。ちょっと早いけど今日はもう閉めてみんなでどこか食べに行きましょう」
するとほんわかした感じの女子が訊ねた。
「え、いいんですか? 」
「出世祝いよ」
「やったー! ウィスキー飲んでもいいですか?」
「ほとりちゃん、やめときなさい」
二人の会話を聞いていると、あの当時に戻ったような気分になる。
刻みついた記憶は、味と共に思い出される。
そしてまた、今日も忘れられない味が生まれる。そんな予感がした。
「初めまして、チーフの廣瀬です」
出勤初日、ガチガチに緊張していた俺の前に現れたその人は、なせか突然俺の手を掴んだ。
「あっ、あのっ」俺の心臓がものすごい勢いで拍動した。
「爪は切ってきてるわね」
「あ、はい」
「ならいいわ。切ってなかったら帰らせてたけど。命拾いしたわね」
何事もなかったように奥の厨房に戻った。ぽかんとしていると別のほんわかした感じの女子が話しかけてきた。
「あれ、いつもやるのよ。君、命拾いしたね」
「店長でもないのにそんな権限もってないだろ」
とはいえ、俺はその人──真紀さんの下で働かせてもらえることになった。
真紀さんはスパルタで、皮向きの仕方一つ取っても何度もやり直された。
その他にも、掃除や接客を先に教えられ、料理に関しては何も教えてもらえなかった。
夜になり、帰ろうとすると真紀さんに呼び止められた。
「新人くん、これあげるわ」
渡されたのは料理の本だった。
俺はそれを受け取った。
「どうも」
「ふーん」
真紀さんは少し不満げだった。聞くのも怖いのでその時は聞かなかった。
二日目、ようやく料理を教えてくれると言われた。
「じゃあ昨日のレシピからね」と真紀さんは同じ本を持ち出して言った。
「まさか読んでないとはいわないわよね」
言わせない剣幕だったので頷くと、後ろに立って言った。「じゃあ作って」
俺は予めおかれていた食材を手に取った。昨日教えてもらったことを実践し、食らいつく。
「なんだ、ちゃんと読んでたのね」
「うす」
「こら、返事ははいよ」
後ろから背中を小突かれた。
危うく手元が狂ってしまうところだった。
完成した料理を見て真紀さんは頷いた。
「見た目はなかなかね。君、本当に素人?」
「母親の手伝いくらいです」
「ふーん」と呟いて真紀さんは匙を傾けた。数秒咀嚼して飲み込むと、ゆっくりと箸を置いた。
「おいしくない」
「はい」
「君、ちゃんとレシピ見て作ったの?」
「レシピ見ないで作れって言ったの真紀さんじゃないですか」
そう言うと真紀さんも反論できないのか口を尖らせた。
「俺はちゃんとレシピ通りに作りましたよ」
「じゃあなんでこんな美味しくないのよ」
「さあ、隠し味でも入ってたんですかね。入れた覚えはないんですけど」
真紀さんは数秒沈黙した。そして立ち上がると、肩に手を置いて言った。
「君、今日は厨房立たなくていいよ。レシピ通りに作れないどころか、客に食べされるものとしてあれは酷すぎる」
俺は、何も答えなかった。答える気になれなかった。
その日は本当に何もさせてもらえなかった。
夕方頃、客がはけてくると真紀さんは俺を厨房に呼び出した。
「これ、わかる?」
「俺が作ったのと同じものですね」
「そう、見た目は一緒。不思議よね、味は全然違うのに」
真紀さんは俺に箸を持たせた。「食べてみなさい」
俺は箸で一口つかんで口に入れた。
塩の分量も醤油とみその配合も完璧。模倣、完全再現、そんな言葉では言い表せない気持ちが込められている気がした。
「これ、私が一番好きなレシピなのよ。わかるでしょ、それをあんな味に変えられたらどんな気持ちになるか」
「俺の好きな味付けですね」
「そんな上等な舌もってるわけないでしょ。自惚れないで」
「本当に忘れてしまったんだな」
俺はゆっくりと箸を舌に下ろした。
「いつか、両親がずっと家にいなかったとき、カップラーメンばっか食ってた頃、近所にいた世話焼きなお姉さんが飯を作ってくれたことがあった。
その人の母親がよく作ってくれる料理だって言うから、期待して待ってたんだ。
その人は料理が好きだったみたいだから、俺みたいな奴でも、初めて人に料理を食べてもらえるのが嬉しいって喜んでたよ。味は、決してうまいって言えたもんじゃなかったけどな。塩の分量を間違えて、みその箱の中に醤油を入れて『節約!』とか言ってたんだから馬鹿でもわかる。
けどあの味が今でも一番舌が覚えてるんだ。分量をちゃんとすればめちゃくちゃうまい料理になるって気づいても、自分で食うときはあの味付けになる」
「塩・・・すきなだけ、みそと醤油・・・とりあえず全部」
「【最高の肉じゃが。一度食べたら忘れられない失敗バージョン】ああ、そんなタイトルだった。購入特典でもう一品頼まれたとき、真っ先に思い浮かんだんだ。もしもあの時のお姉さんがこの本を買ってくれたら、気づいてくれるかもしれないって」
「ふざけた料理名だと思ったわ。その割に見た目だけちゃんとしてるから、それにも腹が立ったもの」
「編集に止められたんだよ。せめて食べるまではわからないようにしてくれって」
「そう、じゃあ本当なのね。あなたがあの【TAKAZU KITCHEN】のタクヤだって」
「うん、隠し味はもうわかった? 真紀姉ちゃん」
本のレシピには、あの肉じゃが劇的に旨くなる隠し味があると書いていた。
ほとんどの人は、嘲笑し、あるいはSNSなんかで酷評してきた。
けど、俺が本当にあのレシピを届けたかったのは、たった一人だけだった。
「うん」
真紀さんは頷いて、奥から箸箱を持ってきた。
「みんな来て。ちょっと早いけど今日はもう閉めてみんなでどこか食べに行きましょう」
するとほんわかした感じの女子が訊ねた。
「え、いいんですか? 」
「出世祝いよ」
「やったー! ウィスキー飲んでもいいですか?」
「ほとりちゃん、やめときなさい」
二人の会話を聞いていると、あの当時に戻ったような気分になる。
刻みついた記憶は、味と共に思い出される。
そしてまた、今日も忘れられない味が生まれる。そんな予感がした。