霧の中のお伽噺
文字数 1,999文字
「俺っち、小説家になりたいんっス」
「またそんな世迷い言を。一本でも書き上げてから言いなさいよ」
「書きましたよ、ガチのミステリー。賞にも応募しちゃいました」
「おや、それは失礼した。しかし応募ったって儂らは……」
「その点は上手い事やりましたっス」
とある中堅出版社、文藝誌の編集室。
雑然と積み上がる紙類の中で、若手社員Wが、一束の原稿用紙を睨み付けている。
「まだチェックしてるのか? 午後には下読みが取りに来るんだから、早く仕分けちまえ」
班長のSが、両手にコーヒーの紙カップを持って現れる。
「あ、先輩、それが……」
Wは会釈してコーヒーを受け取りながら、机の上の大判封筒を指した。
「げ、何だそりゃ」
Sが声を上げるのは無理もなく、賞の宛先が書かれた封筒の下半分が茶色い飛沫で汚れている。乾いてはいるが、表面が波打ってデコボコだ。
「お前、応募原稿は雑に扱うなと……」
「僕じゃないですよ。中の原稿に染みていないし」
見ると封筒の表書きは飛沫を避けて上半分に書かれている。
「その封筒で応募して来たのか。貧乏なのか、無頓着なのか」
それにしてもやたらカクカクして違和感のある文字だ。
「入っていたのがこの原稿です」
Wの膝の紙束を見て、Sはまた口をポカンと開く。
一応規定で許されている手書きの四百字詰め原稿用紙なのだが、全体的に黄ばみ、古い紙特有の劣化やアバタが散見される。触ると痒くなりそうだ。おまけに……
「何だよこの文字」
封筒と同じ、子供の書き取りみたいにカクカクの文字。しかし子供特有の歪みはない。何ともの違和感。長年文字を見慣れているSだって初めて感じる気味悪さだった。
「大人が鉛筆をわざとちゃんと持たないで、グーで握って書いたみたいな文字でしょ」
「ああ、そうかもな」
SはWの観察眼にちょっと感心した。
「何だかアレな原稿だし、下読みに回す前に点検しておこうと。そしたらこれ、存外に面白いんですよ」
「ほぉ」
「今回の募集はミステリーですが、結構ホラー寄りで。今、主人公が樹海で追い詰められるクライマックスで、めっちゃゾクゾク来てます」
「ふむ、そうか」
Sは得心した顔で手を打った。
「応募作品の中で目立ちたかったんだろう。たまにいるよ、ピンクの封筒で応募して来る奴とか。今回ミステリーだし、不気味さを演出したかったんじゃないか?」
「ああ、なるほど」
Wも納得した様子で、手元のカップからマドラーを抜いて封筒に一滴垂らした。
「同じ色だ。やっぱりコーヒーでしょ、これ」
「ビビってた癖に」
「ビビってませんよ」
ホッと肩を下ろしたSも、Wの読み終わった原稿を手に取った。確かに文字はアレだが、ムダに達筆な手書きより読みやすい。作法も整っている。
だが公募で悪フザケをするのはどうかな。編集者によってはマイナスに働くだろうに。
そんな事を考えているSの背後から、バイトのJ嬢が近付いた。
「あの、Wさん、先程頼まれた件なんですが」
「ああ、サンキュ」
Wは顔を上げ、Sに説明をする。
「賞の結果はさておき、この作者は注目しておこうかと。ネットでの活動を調べて貰っていたんです」
ふむ順当だなと、Sも頷いて彼女の報告を聞く。
「小説投稿サイトには見掛けませんでした。でも名前は検索で沢山ヒットしたんです。住所からして当人だろうと……」
Jは固い表情で手元のタブレットを見つめている。
二人は少しだけザワついた。
「その方、もう亡くなっています」
「え」
硬直したWが原稿を取り落としそうになるのを、Sが慌てて受け止めた。
「遺稿って事だろ、粗末に扱うな」
「いえ、亡くなったのは半年前、公募をかける前で」
Jは声は震わせながら続ける。
こ、これも演出のつもりなら悪質だ、悪フザケなんて物では……
「警察は服毒自殺って断定したけれど、本人は何かから逃げている感じで、薬を飲むのに使ったコーヒーの缶も見付からないから、ネットで色々囁かれてて……」
言いながらJは、机の封筒を見て更に青ざめた。
「青木ヶ原樹海で……あのそれ、鳴沢村の消印ですよね……」
男二人は叫んで原稿を放り出した。
マッハでオカルト部門に泣き付き、然るべき所で焚き上げして貰って、読みかけの内容は必死で脳内から消し去った。
「しかし、赤の他人名義で応募したんじゃ意味なかろ? 苦労して廃屋を漁って、封筒や原稿用紙やチビた鉛筆を集めたんだろうに」
「いいんスよ。取り敢えず応募するのに人間の名前が必要だっただけっスから。拾った免許証の主が、賞金目当てに成り済ましてくれりゃ儲け物ですが。ま、プロの編集に読んで貰えるだけでも満足っス」
「そういうモンかね」
「にしても、あんなにビビッてコーヒー缶を投げ付けなくてもいいのに。折角見付けた封筒が汚れちまったじゃねぇか。ペン立ての缶が欲しかったから丁度よかったっスけど」
そんな事を話しながら二匹のムジナは、樹海の霧へ消えて行った。
「またそんな世迷い言を。一本でも書き上げてから言いなさいよ」
「書きましたよ、ガチのミステリー。賞にも応募しちゃいました」
「おや、それは失礼した。しかし応募ったって儂らは……」
「その点は上手い事やりましたっス」
とある中堅出版社、文藝誌の編集室。
雑然と積み上がる紙類の中で、若手社員Wが、一束の原稿用紙を睨み付けている。
「まだチェックしてるのか? 午後には下読みが取りに来るんだから、早く仕分けちまえ」
班長のSが、両手にコーヒーの紙カップを持って現れる。
「あ、先輩、それが……」
Wは会釈してコーヒーを受け取りながら、机の上の大判封筒を指した。
「げ、何だそりゃ」
Sが声を上げるのは無理もなく、賞の宛先が書かれた封筒の下半分が茶色い飛沫で汚れている。乾いてはいるが、表面が波打ってデコボコだ。
「お前、応募原稿は雑に扱うなと……」
「僕じゃないですよ。中の原稿に染みていないし」
見ると封筒の表書きは飛沫を避けて上半分に書かれている。
「その封筒で応募して来たのか。貧乏なのか、無頓着なのか」
それにしてもやたらカクカクして違和感のある文字だ。
「入っていたのがこの原稿です」
Wの膝の紙束を見て、Sはまた口をポカンと開く。
一応規定で許されている手書きの四百字詰め原稿用紙なのだが、全体的に黄ばみ、古い紙特有の劣化やアバタが散見される。触ると痒くなりそうだ。おまけに……
「何だよこの文字」
封筒と同じ、子供の書き取りみたいにカクカクの文字。しかし子供特有の歪みはない。何ともの違和感。長年文字を見慣れているSだって初めて感じる気味悪さだった。
「大人が鉛筆をわざとちゃんと持たないで、グーで握って書いたみたいな文字でしょ」
「ああ、そうかもな」
SはWの観察眼にちょっと感心した。
「何だかアレな原稿だし、下読みに回す前に点検しておこうと。そしたらこれ、存外に面白いんですよ」
「ほぉ」
「今回の募集はミステリーですが、結構ホラー寄りで。今、主人公が樹海で追い詰められるクライマックスで、めっちゃゾクゾク来てます」
「ふむ、そうか」
Sは得心した顔で手を打った。
「応募作品の中で目立ちたかったんだろう。たまにいるよ、ピンクの封筒で応募して来る奴とか。今回ミステリーだし、不気味さを演出したかったんじゃないか?」
「ああ、なるほど」
Wも納得した様子で、手元のカップからマドラーを抜いて封筒に一滴垂らした。
「同じ色だ。やっぱりコーヒーでしょ、これ」
「ビビってた癖に」
「ビビってませんよ」
ホッと肩を下ろしたSも、Wの読み終わった原稿を手に取った。確かに文字はアレだが、ムダに達筆な手書きより読みやすい。作法も整っている。
だが公募で悪フザケをするのはどうかな。編集者によってはマイナスに働くだろうに。
そんな事を考えているSの背後から、バイトのJ嬢が近付いた。
「あの、Wさん、先程頼まれた件なんですが」
「ああ、サンキュ」
Wは顔を上げ、Sに説明をする。
「賞の結果はさておき、この作者は注目しておこうかと。ネットでの活動を調べて貰っていたんです」
ふむ順当だなと、Sも頷いて彼女の報告を聞く。
「小説投稿サイトには見掛けませんでした。でも名前は検索で沢山ヒットしたんです。住所からして当人だろうと……」
Jは固い表情で手元のタブレットを見つめている。
二人は少しだけザワついた。
「その方、もう亡くなっています」
「え」
硬直したWが原稿を取り落としそうになるのを、Sが慌てて受け止めた。
「遺稿って事だろ、粗末に扱うな」
「いえ、亡くなったのは半年前、公募をかける前で」
Jは声は震わせながら続ける。
こ、これも演出のつもりなら悪質だ、悪フザケなんて物では……
「警察は服毒自殺って断定したけれど、本人は何かから逃げている感じで、薬を飲むのに使ったコーヒーの缶も見付からないから、ネットで色々囁かれてて……」
言いながらJは、机の封筒を見て更に青ざめた。
「青木ヶ原樹海で……あのそれ、鳴沢村の消印ですよね……」
男二人は叫んで原稿を放り出した。
マッハでオカルト部門に泣き付き、然るべき所で焚き上げして貰って、読みかけの内容は必死で脳内から消し去った。
「しかし、赤の他人名義で応募したんじゃ意味なかろ? 苦労して廃屋を漁って、封筒や原稿用紙やチビた鉛筆を集めたんだろうに」
「いいんスよ。取り敢えず応募するのに人間の名前が必要だっただけっスから。拾った免許証の主が、賞金目当てに成り済ましてくれりゃ儲け物ですが。ま、プロの編集に読んで貰えるだけでも満足っス」
「そういうモンかね」
「にしても、あんなにビビッてコーヒー缶を投げ付けなくてもいいのに。折角見付けた封筒が汚れちまったじゃねぇか。ペン立ての缶が欲しかったから丁度よかったっスけど」
そんな事を話しながら二匹のムジナは、樹海の霧へ消えて行った。