第1話

文字数 3,550文字

サブイボに生えた耳が引きちぎられるように冷たい風の中、電車は走る。早朝、西国分寺を出発した中央線特快は、おおむねの人々の目的地である八王子を通過し、枯れ木の中を進む。二〇二三年初の登山。都心から登りくる朝日を武蔵野の辺土から眺めた頃合い、すでに約束した時間が経過していることを知った。空調が効いた車内、心地よい揺れ眠りから相棒から着信を知らせる振動で目を覚ます。ディスプレイには集合時間についての認識の違いを喚起するように、着信回数を示す数字が示されていた。

予定集合時間から 約一時間遅れて到達する。 彼女は辛抱強い性格だがさすがにこの氷点下近い 気温には耐えられなかったのだろう。 自分をおいて、先に出発する旨を示したテキストが送られていた。 改めての謝罪と了解したという内容を返信する。ピークまでは長旅だが、一時間のビハインドを埋めることができるだろうか。

窓が開けられた車内、ひたすら座っていた自分の体温を守ってくれていた衣類を脱ぐ。フリースとダウンベスト。 靴の紐を結び直し、到着から五分もしないうちに歩きはじめた。
駅前から山の方向に向かう。 一度下り 見事な渓谷織りなす 河川に行き着くと、国の重要文化財だか県の重要文化財とかであり、一風変わった構造の橋がかかっていた。 ちょっとした観光地であるようだ。 橋のたもとにはお土産屋が数件ある。その橋に関連した お饅頭やらキーホルダーやらが店頭を賑わせているのだろう。ただ新年早々だからか朝が早いからか、店は閉まっている。 もしや、この観光地においては、 商売意欲を失ってしまうに十分な廃れが押し寄せているのかもしれない。

橋を渡ると いよいよ登りに差しかかった。山に登っているというより川から遠ざかっている、という程度の傾斜だったが、 寒い冬の日、吐く息を白くさせるには申し分ない。 乾いた空気は喉の奥へと紛れ込んで寒さを染み込ませる。 先に行ってしまったといえ、しばらくはこんな寒さの中待たせてしまった相方に対して 改めて申し訳ない気持ちを抱く。 早く追いつかなければ。普段より余計に股をひらき、脛で鋭く冷気を割いた。運動不足ではない筈だが脹脛が縮こまり、踵やくるぶしにかけて突っ張りを感じる。勾配は鋭くなり、草木の乾いた香りは漂えど、なかなか消え去らないアスファルトに額が接触するような勢いで進むと、彼女の後ろ姿を捉えた。

「世界中の冷蔵庫が開けっ放しになっているようだったわ」
「国道沿いにコンビニがあったろう」
「そこで待っていれば良かったといいたいの?」
絡み口調ではあったが、そのコンビニで購入したホットドリンクを手渡すと、わかりやすく、こわばりを解いた。
遅れたのが彼女だったら自分はどうしたろう。用心深い彼女のことだから、まず遅刻しないだろうし、遅れたとしても移動中の電車から謝罪とともに打開策を送信してくる。そして、彼女の示す選択肢がいかなるものであれ、自分は駅で待った。電車の着時間がわかれば、半径一〇キロ圏内では唯一のコンビニで冷気を避け、頃合いをみながら駅舎へと戻る。

そのイメージはいつか見た景色。見た、わけではないかも知れない。夏休み最終日にでっち上げた絵日記のようで、実際の出来事なのかどうなのかは問題でない。実際であるかのような雰囲気を漂わせ、それが実在するかどうかについて、周到に疑念をかわす。わかりやすい線とぼやけた配色で描かれる、一年で一番ビビットな季節の日常。だれもが自分の世界としてシェアできる当たり障りのないイメージを彼女は自分を含む視界の中に思い描くことができるのだろう。

我々は登りの四分目くらいで合流し、しがない会話を交わしながら、ついに頂上に到着する。標高はそれほどでもない山だったが、良い場所にあり、視界を遮る稜線から三分目を顕にした富士山がみえた。
「あれからどれくらい経ったかしら」
彼女はおそらく、その視線の先にある富士山に登った過去について語っている。一〇年前、だったか。自信はない。
「いいのよ、学生時代とは違い、エンドレスで間延びした社会人になっちゃったんだから」
エンドはあるだろ、定年とか。とは言わない。自分の自信のなさを気遣ってくれているのだから。
「知らん間に三十過ぎてたからな」
「若いわね、そして前向き、私なんかこう思ってる、もう四十路まで七年しかない」
「年齢なあ」

意図して設計されたように、頂上は木々が徹底的に伐採されている。短く刈り取られた草に覆われ、富士山が見えようが見えまいが、いかなる方向にも遮るものがない。その、だだっ広い空間に家族連れや老夫婦、長身おじいさんと中年女子数名から成る謎のハーレム集団やらがいた。我々はどんな間柄にみられているのだろうか。

「そんなこと誰も気にしないわよ」
たしかに。反応した後に気づく。彼女は口に出していない疑問にリアクションした。
「そりゃ、それだけ周りをジロジロみていればわかるわよ、特にあのハーレム集団をさもしく眺めていた」
「そんなことはない」
「どっちがないの、みてたこと?それともさもしいこと?」
「どっちも」
‥‥ある。

彼女はミレーのバックパックから巾着に格納されたコンロを取り出した。アルマイトのパンを乗せ、プラスチックのボトルから水を注ぎ点火。ほぼ無風にも関わらず神妙に炎を見つめる彼女をそれとなく眺める。放心は沸騰まで続き、湧きあがるあぶくに弾かれるように火を止め、紙コップに簡易的にドリップできる使い捨てのフィルターをセットした。すでに挽かれ小分けされたコーヒー豆をピルケースから取り出し、フィルターに入れお湯を注いだ。

「作ったコーヒーをポットに入れてくればいいのに」お湯を沸かしている間に口走らなくて良かった。乾いた冬空の下で味わうにはやや酸味が強いが、その甘さと決別したアロマは鼻孔を乱暴に挑発した後、肺胞の内側で結露するように染みいった。

「いいでしょ?」
「悪くない」
君としては上出来だ。
「いつか、いい男を捕まえてやりたかったのよ、これ」
「わるかったな色男じゃなくて」
加えてそんな間柄でもない。
「仕方ないわね、私達の血筋なのかも知れないわ、半分諦めている、ちなみに色男ではなく、いい男ね」
「まだ四〇までには七年もある」
「そういうあなたはどうなのよ?」
やはり血筋なのだろうか。

再びお湯を沸かし、カップ麺のパッケージを破いた刹那、「止そう」と彼女は言った。従兄弟同士とはいえ、いい年した男女が壮観な眺望を前に即席麺を啜るのは不健康だという。
かくして我々は絶景を前に、寒さでプリプリ感が増したソーセージや、ぱさついた固形携行食品を食した。ふと通り過ぎた寒風に口元が緩む。重力に絡め取られた固形携行食品の残骸が舞い、枯れ草に覆われたスロープを降りていった。

遅刻して最寄り駅に到着した時刻には、遅刻したにも関わらず、陽光はそびえる山肌で遮られていた。登るにつれ、バックパックを背負った背中越しに朝日を感じ、振り向くと光明は自らの息遣いに結露したまつげに閃光を散らした。そしていま、仰ぎ見る太陽は頼もしく空に燦々と、圧倒的な純白をまとった富士の山を見下ろすように空中に鎮座している。

「そこにある」
彼女はまるで自分の脳裏を流れるスクリプションが憑依したようにつぶやいた。或いわ、そことは、この視界の外かも知れない。
「どこだよ」
下世話なリアクションを後悔し、黙殺する彼女に安堵する。我々の発する言葉に本来深い意味などないのだろう。
「そこにあるのは雰囲気のみ、われわれは言葉ではなくそれを共有する」
「そうかも知れない」
いつものように不可解なやり取りの後、我々はゆっくりと山を下った。

常緑を喪失した灌木の山道を八分目下った頃だろうか、彼女は突然、ナルミの名前を口にした。
「学生時代に付き合っていたあの娘、どうなの?」
「どうなのって、ただのバイト仲間だよ」
「ただのバイト仲間」
まあ我々もただの従兄弟同士だが。
「いい娘だったじゃない、ちょっと世話焼きが過ぎる感じだったけど、あなたにはそれくらいがいいのよ」
彼女にナルミを紹介したことがあっただろうか。
「せっかくだから、また会ってみたら、別に結婚しろってわけじゃない、私だっていつまでも君とずるずる付きあってはいられないし」
「呼び出すのはいつも…」
振り向くと彼女は真摯な顔つきで見据えていた。はっとし、口をつぐむ。

「寒いときは体を温めたほうがいいわ、できれば内側から、女の子はね、特に」
シャープな顎は母方の叔母に似たのだろう。子供の頃、同級生のからかいを誘発し自分を悩ませた肌の白さは、冷気に晒される彼女のパーツおのおのにも漲っている。

そして彼女は、ここからそう遠くない湖畔のカフェについてぽつぽつと語りはじめた。









ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み